「あれ?」
手塚の部屋から歌が聞こえてきて、通りかかった菊丸はその珍しさに足を止めた。伸びやかな女性歌手の歌声。手塚の部屋から、クラシック以外の音楽が聞こえてくるとは思ってもみなくて、その意外さについドアのノブを掴む。
「手塚?」
ひょこっと顔を出して覗くと、手塚は机の椅子に座って、上を向いていた。天井を見るためではなく、下を向かないために、顔を仰け反らせていた。その頬を静かに、雫が伝い落ちていく。
部屋にあるのは、ケンウッドのCDMDプレーヤー。クラシックを主に聴く手塚が選んだだけあって、スピーカーの性能はハイレベルだ。そのスピーカーから流れてくるのは、一青窈の『ハナミズキ』だった。
「…英二?」
不意に、背後から声がかかる。手塚の部屋を廊下から覗き込んだまま微動にしない菊丸を、外出から帰ってきた大石が見つけたのだ。
振り返った菊丸が、慌てて「しぃっ!」と人差し指を唇に当てる。怪訝そうに眉を顰めた大石は、足早に近寄るとそっと部屋を覗き、納得したように頷くとそっとドアを閉めた。
「大石?」
手招きされて、大石の部屋に入る。大石は椅子に座って、組んだ両手に額を押し付け、深々とため息をついた。
「英二。あの歌、どういう歌だか知ってるか?」
「……んにゃ? サビの『100年続きますように』っていうとこは、なんかけなげで可愛くて好きだけど」
ぼすんとしりもちをつくようにベッドに座った菊丸が、きょとんと大石に目を向ける。
「あれね、片想いの相手が別の人を好きなのを知って、その子の恋のために身を引く歌なんだよ」
「……………………うそ」
自分は気付かなかった歌詞の意味に、菊丸の口から呟きがポロリと落ちる。そんな菊丸に、大石は寂しそうに微笑んだ。
「ほんと。僕の気持ちは重荷になるだけだから、僕の気持ちには気付かなくていい。僕は我慢して、いつかは君への気持ちを止めるから、だから君は君の好きな人と幸せになりなさい。そういう歌詞なんだよ。そして最後に歌うんだ。『君と好きな人が、100年続きますように』」
「100年て……そういう100年……」
予想だにしなかった衝撃に呆然と、菊丸がつぶやく。
「俺は、永遠の恋なんてないことは知ってる、だけどせめて100年は不変でありますようにって、そういうニュアンスなんだとばっかり……」
「うん。そこだけ聴くと、そんな印象もあるけどね。歌詞カード読むと、片想いなんだよ」
誰かに似てるね? 言外に示唆される、可能性。気付いた菊丸は、ぱっと顔を上げる。
「もしかして手塚、重ねてる? この家に来る前の自分と、ダブらせてる?」
「たぶんね。ダブらせてる、っていうよりは、ダブっちゃったんだろうね。どこかでたまたま耳にして、歌詞聴いて共感して。あんな気持ちがまだ手塚に残ってるんだとしたら、寂しいことだけど……でも、ウチに来る前の手塚には、日常的な感情だったんだよ、きっと」
笑って、片想いの相手の恋を応援できる。そんな人が、いったいどれほどいる? 曲全体に流れる果てしない優しさが心地よくて、耳に入ってくるふとした歌詞がけなげで、可愛くて、切なくて、それだけで気に入っていた自分は、なんと浅はかだったことか。大石が好きで好きで仕方なくて、彼のいない生活なんてもう想像すらつかなくなってしまっているから、だからこそ歌詞に溢れる底なしの優しさが苦しい。もし自分がその立場だったなら……。
うなだれてしまった菊丸の頭に、大石はぽんと手を置いた。見上げる菊丸の、訴えるような潤んだ瞳に、大石は包み込むように頷く。
「大丈夫だから。だって、手塚はもう片想いじゃない。それに…」
大石が取り出したのは、1枚のCDアルバム。
「この曲を聴いたら、きっと手塚も気がつくよ」
大石が指差したトラックのタイトルは、さだまさしの『奇跡』。大石が今日買ってきたばかりのそれは、まだ外装のセロファンさえ剥かれていない。大石がどこかで聴いて気に入って探してきたもののようだった。
「俺も英二も、ただ手塚の傍にいるだけじゃない。手塚の傍に、手塚じゃなくちゃ嫌だから一緒にいる。そうだろ?」
問いかける言葉に懸命に頷く菊丸を、大石は力強く見つめ返す。
「歌には歌で勝負さ。特に、歌に感動している相手にはね」
そう言うと、菊丸の見送りを受けて、大石は部屋を出た。
数分後、手塚の部屋に流れ始めたのは、かすれ気味の、けれど優しい高い声が歌う、たった一人に捧げる無限の愛の歌。
「はじめて聴いたときはビックリしたよ。この歌は、俺が作ったんでも俺が知ってる人が作ったんでもないのに、どうしてこんなに俺の気持ちそのままの歌詞なんだろうって」
間奏の間に、涙で赤くなった目の手塚に視線を合わせた大石はまっすぐ手塚を見据える。
「自分が独りだと感じたなら、この曲を思い出して。この曲を聴いて。この曲はいつだって、俺の偽りない気持ちとちょっとも違わない。だから、手塚はもうこんな風に泣いたりしないでほしい」
「大石…」
乾いた涙がべとつく瞼を瞬かせて、手塚が大石に抱きつく。よろめくこともなくそれを受け止めた大石は、手塚の眼鏡をそっと外して、溜まっていた涙を舐め取った。
夕食後、『奇跡』にすっかり感動してしまった手塚が居間でスピーカーと向かい合って聴いていると、横で菊丸が口を尖らせた。
「手塚、さっきからこればっか。俺もこの曲いいと思うけど、ちょっとは違うのも聴かない? アルバムの意味ないじゃん」
そんな菊丸に、手塚は不満そうな目を向ける。
「そうかもしれないが、俺は今はこれを聞いていたいんだ。なんなら、あとで貸してやるから、そのとき全部聴いてみればいいだろう」
大石が買ってきたCDは、いつの間にか手塚の私物の扱いになっている。
「やだ、今がいい。これ聴いてみたいんだ、『関白宣言』ってやつ」
菊丸が言い出したら退かないのは、今に始まったことではない。手塚は、仕方なくリモコンをコンポに向ける。
「1回だけだからな」
流れてきたのは、軽快なフォークギターの出だしに、コミカルなメロディ。手紙を読むような歌詞。
「……なんていうか……、ちょっと時代錯誤って言うか……」
「「なに言ってるんだ!」」
歌詞カードに目を通した大石が、愕然とつぶやく。その大石に、手塚と菊丸はきっと目を向けた。
「確かにちょっと古いけど、こんなに奥さん愛してる歌、なかなかないよ!」
「おまえには、亭主関白にかこつけた愛情表現がわからないのか?」
「そ…、そうなのか?」
「「そうなんだ!」」
息もぴったりに言い切る二人に、大石はこくこくと頷いた。
俺より先に寝るなとか、俺より後に起きてもいけないとか、そんなむちゃくちゃな言いつけのどこが愛なんだろうか…。
わ……わからない………。
幸か不幸か、真剣に考え込んでしまった大石は、手塚と菊丸が「それに悩んでいるうちはまだまだだ」と息巻いていることに、まだ気付いていなかった。