それは、手塚が九州に旅立って数日経った、ある日のことだった。
「うにゃ~~~!」
PS2を接続してテレビに向かっていた菊丸が、何度目かのリセットの後、ぷつんとスイッチを切ってわめいた。そのままごろんと転がった菊丸を、ソファで先ほどから何枚もスケッチブックになにやら描いていた大石が手を止めて「どうした英二?」と問いたげな目で見る。
「手塚が帰ってこない!!」
「…………英二」
菊丸の叫びにため息をひとつつき、大石はふたたびくるくるとクレヨンを使い出す。
「手塚は先週の初めに行ったばっかりだよ。そんなに早く帰ってくるわけないだろ」
「だって! 手塚がこんなに長く家を空けたこと、なかったよ。そりゃぁ、1ヶ月や2ヶ月はかかったっておかしくないって、今どんな状況なのかって、手塚は何一つ隠さないで説明してくれたけど、それでもさびしいものはさびしいよ。手塚が一緒にご飯食べてたり、宿題教えてくれたり、抱きつくとビックリするけど、でも避けようとしなかったり、お風呂入ってるとき襲撃すると怒ったり、眉間にしわ寄せてお酢飲んで柔軟してたり、寝るとき隣にいなかったりするのなんて、もう嫌だよ!!」
「英二」
感情のままに叫ぶ菊丸を、大石の困り果てた声が呼ぶ。その肩に手をかけようと、腕を伸ばして。
「ヤだ……手塚がいないのなんて、もう嫌だ……」
大石の声など聞こえていないかのようにうつむいてぽつりとつぶやく菊丸に、びくりと大石は手を止める。
「帰ってきてよ…。手塚のテニスが見られないのはすごく嫌だけど、手塚がいないのも同じくらい嫌だよ……」
学校にいるときには決して言わなかった本音を、菊丸はべそをかきながら口にしていた。「手塚がいなくても頑張れる」そう言って普段以上の気迫で練習に挑んでいた部員たちの、それは決して偽りでも虚勢でもなかったけれど、支えたる存在がいるかいないかがここまで大きな影響を生むものだとは、正直、留守を預かる覚悟を決めた大石でさえ、予測していなかった。手塚の存在が、どれだけ大きかったのか。大石は、それを実感せずにはいられない。
「それに、九州だよ……。手塚がどこかに行っちゃうよ……」
予想を超えた現実に二の句が告げない大石に、菊丸はさらに言を継ぐ。その唐突な意味不明さに、大石はふと我に返って首をひねった。
九州にいる手塚が、どこかに行く? って、これ以上どこに行くと言うんだ?
どんどん溜まっていく涙を、それでも堪えようとする菊丸と、首を傾げても菊丸の真意をつかめなくて困り果てる大石。先ほどまでと打って変わった静寂が部屋に訪れる。そこへ、その静けさを壊すようなよく通る女性アナウンサーの声が、先ほどからつきっぱなしのテレビから流れ始めた。
「…強い勢力を持った大型の台風14号は、現在、沖縄を暴風圏に巻き込みながら東シナ海を時速約80キロで北東へ進んでおり、明日早朝には九州全域で暴風や大雨、高波、高潮への警戒が必要と………」
はっとテレビを振り返った大石が、瞬時に悟る。英二の心配の原因は、これか!! そのブラウン管には、風で飛ばされる看板や、波に嬲られる漁船、今にも折れてしまいそうな街路樹などが写っていた。
「え…っ、英二、いくらなんでも、手塚が台風で飛ばされたりなんか……」
うろたえた口調で、それでも菊丸をなだめようと口を開くと、テレビの画面が中継に切り替わり、風に傘を吹き飛ばされまいとしながらも踏ん張りきれずに押されていく通行人の姿が映る。言葉どおり飛ばされることはないかもしれなくても、風にあおられて前に進めなくなってしまっている手塚の姿が容易に想像できてしまい、大石は言葉を続けられなくなってしまった。
「手塚のことだから、きっとこの風の中でも、傘を諦めて合羽着るってことに頭回んなくて、ずぶ濡れになりながら傘の柄持って頑張ってるに決まってるんだよ。こんな中で、傘持ってるほうがよっぽど危ないかもしれないのに」
菊丸のとても現実味のある推測に、いくらなんでも、手塚はそこまでアホじゃないぞ…。と思いつつも、言葉にして否定できない自分がいて、大石はがっくりと肩を落とす。
「手塚、大丈夫かな。川に落ちたりとか、高波に攫われたりとか、危ないおじさんに連れていかれたりとか、してないかな?」
大石に縋るように畳み掛ける菊丸に、内心では「英二、最後のやつは台風のときでなくても心配なことだよ」などと思いつつ、大石はとにかく微笑んで見せた。
「きっと大丈夫だよ。手塚だって独り暮らししてるわけじゃないし、向こうは台風が多いから、対策だってこっちよりもしっかりしてるはずだよ。今日はもう夜も遅いから、明日、手塚に電話してみよう。きっと元気でいるから」
「………あ…、そっか。電話してみればいいんだったな」
大石の(菊丸から見たら)とても落ち着いた提案に、菊丸がようやくほっとした表情を見せた。
昨日からの台風情報に独りで不安がっていたのだと思うと、その優しさがたまらなく嬉しくて、大石は反射的にぎゅっと菊丸を抱きしめた。
「大石…?」
突然の抱擁に面食らう菊丸にかまわず、その腕を緩めずに。
大石は、とても幸せそうに微笑んで、菊丸を抱きしめていた。
翌朝、九州で電話が通じなくなることを、ふたりともまだ知らない。