手塚君のミッドナイトコール

 深夜11時。しんと静まり返った家の中、大石は自室に篭って、新しい練習メニューを作ろうと四苦八苦していた。菊丸には、待たないで寝ろと言ってあった。全国大会も目前の今、いっそうハードになった練習を乗り切るには、充分な睡眠は不可欠だ。

 没アイデアのページを破いて丸めては投げ捨てた山の中、思考に行き詰まり、コツコツ、とシャープペンの先で机をたたく。いつまでも同じメニューをしていては成長が止まる。かといって、これ以上の名案が思い浮かぶわけでもない。この先をどう進めていくか、迷ったときに無意識で出るその仕草は、九州にいるカリスマ鬼部長の思案中のそれとまったく同じだった。大石さえも気付いていない、それは深層心理でのシンパシー。

 手塚なら、こういうときどうするのかな…。

 二言目には特製汁を持ち出すブレインの助言を仰ぐという発想はさらさらなく、思い出すのはただ強固な信念を持って迷いなく部を導いていた、彼の横顔。いつだって、道に迷ったとき、思い浮かぶ彼の視線の先を辿れば、いつしか答を見つけていた。

 ぎっと音を立てて、椅子の背凭れに体重をかける。遠い九州の彼に相談するつもりで、瞼を閉じて……不意に鳴った携帯電話の着信音に驚いて、目を開けた。

「誰だ?」

 非常識な時間の電話に、けれど慌てもせずに端末を取ると、サブディスプレイに表示された名前はちょうど思い浮かべていた、まさにその人のもの。

「手塚?」

 通話ボタンを押すと同時に訊ねると、受話スピーカーから潜めた声が「ああ」と短く答えた。

「びっくりした。こんな夜中に、電話していていいのか?」

 たしか、病院の消灯は9時だったはず。規則正しい生活を好む手塚が、その規則に従わないはずはないのに。

「いや…」

 うろたえる大石に、手塚も困惑したような声を出す。潜めた声が、周囲は寝ているのだと言外に知らせる。

「もう消灯は過ぎた。本当はいけないんだが、談話室のテラスにこっそり出ている」

 手塚らしくもない、規則違反。けれど、彼だって人形ではないのだから、そんな日もある。特に、いろいろなことを考えてしまいがちな夜には。

 眠れなくなったのか、と大石は苦笑を漏らす。手塚はもともと寝つきがあまりよくなくて、とりわけ、2ヶ月に一回くらいの割合で、眠いのにタイミングを逃して眠れなくなってしまうことがある。それでか、と頷く大石にかまわず、手塚の声は続けた。

「その………、どうしても、お前の声が聞きたくて」

 瞬間、びきっ! と、音を立てて大石は凍りついた。顔も見られない、抱きしめることも出来ないこんなときに、どうしてこんな、一緒にいたときにはただの一言だって言ってはくれなかった可愛いことを言うのか!!

「最近、どうしている? 練習で何か、変わったことはあったか? 越前はどうしている? 不二たちは? …そうそう、菊丸は元気か? 立海大戦では、頭にボールがぶつかったと聞いたが、大丈夫なのか? メールや竜崎先生からの電話では聞いていたが、やはりお前から直接聞かないと、どうも心配だ」

 不意打ちに意表をつかれてうんともすんとも言えなくなってしまった大石の様子を知ってか知らずか、手塚は嬉しそうに大石に次々と話を強請る。その声に促されるようにして、大石はつっかえつっかえ言葉を返していく。みんな元気だよ。越前は相変わらずだ。乾はまた新しい汁を開発したよ。英二も心配ない。元気に練習してるよ。



 他愛のない近況のやり取りが続き、話題がふと尽きた頃、大石はずっと気になっていた一言を口にした。

「手塚、何があったんだ? ただ眠れなくなってただけじゃないんだろ?」

 それは、手塚が触れまい触れまいと、さりげなく、けれど必死に避けてきた話題だった。もう訊かれることはないかと安心していた矢先にさらりと訊ねられて、手塚が電話の向こうで絶句したのが伝わってくる。

「怒らないよ。言ってごらん?」

 わざわざ電話してくるほどのこと。声を聞いただけで治まるような、そんな生易しいものではないはず。大石は包み込むような声で、手塚の背中をぽんと押す。

「………夕方」

 散々迷って、けれど大石に話してしまうという誘惑に抗いきれなくて、手塚が重たい口を開く。

「グラウンドでのリハビリの帰りに、すれ違った人がいて。身長も、体つきも、すこしもお前には似ていないし、顔だって見なかったくらいの人だったのに。なぜだか、妙にその人が、その……格好よく思えて……そうしたら、訳もなくお前が思い浮かんで、無性に会いたくなって仕方がなくて………」

 てっきり何かの悩み事かとばかり思っていた大石は、手塚の言葉にみるみるうちに赤くなっていく。頬が熱いのが、自分でも判るくらいだ。頬ばかりか、耳さえも熱を持ち始めて。

「手塚…」

「会いたい、大石。声だけでは足りない。お前に会って、触れたい。もう離れ離れは嫌だ……」

 何週間か振りの、手塚の本音。かすかに鼻にかかった声は、涙ぐんでいるからなのか。けれど、そうなのだとしても、大石にはその涙を拭ってやることさえできない。

「うん……。俺だって寂しいよ。手塚、早く帰って来いよ…。せっかく、全国の切符、手に入れたんだぞ。手塚がいなくちゃ、青学じゃないじゃないか」

「ああ………そうだったな……」

 それきり途切れる声。聞こえるのはお互いの息遣いと、時計の秒針の音。体温を感じることもできないのに、呼吸が聞こえるだけで隣にいるような気持ちがする。それが手放せなくて、電話が切れない。



 どのくらいそうしていたのか、耳元で小さくなったチャイムの音で、大石は我に返った。耳に当てていた携帯電話の電源が、電池切れで切れていた。

 きっと、手塚の方でも同じことにになっているのだろう。急いで緊急バッテリーを繋いだけれど、電話はもうかかってはこなかった。病院に寝起きする相手に、自分からかけるわけにもいかない。

 ため息をひとつこぼして、大石は手際よくノートを片付けると、机のスタンドを消し、部屋を出た。明かりの消えた寝室で、ベッドに入るとサイドテーブルの充電器に携帯電話を差し込む。

 次に声を聞けるのはいつだろう。できれば、そのときは帰宅の知らせだといい。

 そのときまで、今夜のあの甘い声が耳から離れてしまわないように、祈りながら大石は眠りに着いた。


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