乾君の失敗 01

 手塚国光は困っていた。

 昨日まで何の変哲もない日常を過ごして、昨夜は何の変哲もなく眠り、目がさめれば何の変哲もない朝を迎えているはずだった。

 なのに、なぜ?

 考えたところで、答えが出てくる当てはない。

 時計の針は刻一刻と進み、容赦なく手塚に決断を迫る。

 観念した手塚は、重いため息をひとつつくと、朝の身だしなみのために部屋を出た。



「うそ、てづか……どーしたの、それ…? 新手のジョーダン…?」

 身支度を整えて降りてきた手塚に、菊丸は手にしたしゃもじを取り落とした。茶碗を落とさなかったのは、さすがと言うべきか。しかし、テーブルで朝食を摂っていた大石は、ごっとん! と音を立てて茶碗を落とした。不幸中の幸いは、その茶碗が空だったことか。

「手塚に、生き別れの双子がいたなんて聞いたことなかったぞ……。いつのまに、入れ替わったんだ…?」

「いや………、認めたくないが本人だ」

 大石の発言があまりにもベタでお約束だったせいか、手塚は力なく首を振るとテーブルに着く。自然、やや上から見下ろせる位置に来たそこに、大石と菊丸の目が向けられる。つまり、手塚の胸元に。

 成熟した男性ほどではないにしろ、直線的で厚みと硬さを感じさせていたはずのそこは、なぜか一夜にして、ふんわりとこんもりと、柔らかそうな曲線を描いていて。

 付け加えれば、あの威圧的な長身は少なく見積もっても10センチは縮み、朗々とした低音の声はあどけないトーンを残しながらも耳に優しいアルトに変化している。

「「……………なんで??」」

「俺こそ知りたい」

 サイズの合う服がなくて、仕方なくジャージを着て余った裾を折っているその姿は、紛れもなく、少女そのものだった。




 その朝の部室は、異様な雰囲気に包まれていた。あまりに異様過ぎて、レギュラー以外の部員はちょっと足を踏み入れるのを躊躇ってしまうほどだ。観念した荒井が部室の外で着替え始めたのを皮切りに、一般部員たちは結局、部室の外で着替えを終える。やがて、桃城が顔を出し、「今日は自主練だってさ」とだけ言って再びドアを閉めた。

 部室の中では、レギュラー陣は憮然と椅子に座った手塚と不二の周りに集まっていた。

 そう、集合して初めて知ったのだが、災難は不二の身にも起きていたのだ。もともと然程背が高いわけではなかった不二は、いまや越前と対して違わない身長になっている。

「朝起きたら、こうなっていたのか?」

 ノートにせわしなくシャープペンを走らせながら、乾が問う。手塚はうなずくと、もはや何度目かも判らないため息をついた。

「眠っている間も、特に何もなかった。夜中に目が覚めたりもしなかったしな。戻れるものなら、さっさと戻りたい」

「最大限に努力するよ。…で、昨日は本当に何も、特別なことはしなかったのか?」

「特別には何も……」

「普段どおりに練習して、いつも通りに乾の汁飲んで、いつも通りに家に帰って……」

 手塚と不二は、困惑しきって顔を見合わせる。

「! ちょっと待った! 乾、昨日おまえの汁を飲んだのは誰だ?」

「昨日か? 確か、越前、海堂、不二、手塚……っ、そうか!」

 大石の問いにノートを確認しながら答えた乾は、次の瞬間、ものすごい勢いで昨日の乾汁のレシピを確認し始めた。

「乾汁が原因ってこと? なら、なんで僕と手塚だけなの?」

「それは、乾の分析待ちだけど……たぶん、確実に原因はそれだよ」

「早くもとに戻って欲しいよ…。俺、今朝不二迎えに行って、心臓飛び出しそうなくらい驚いたんだから」

 当惑しきった河村を、不二はふと見上げて首を傾げる。

「タカ、僕可愛くない?」

「え?」

「こんな僕、嫌? 変だから?」

 困ったように眉を寄せて見上げられて、河村がときめかないはずはない。

「ちが…っ、そうじゃなくて! 不二はすっごい可愛いけど、でも…」

「そう。よかった。嫌われちゃってたらどうしようかと思った」

 わたわたと弁解する河村に、不二は嬉しそうににっこりと微笑む。それだけで河村はフリーズし、周囲は「不二、恐るべし」と内心で合掌した。なにしろ、どう見ても女性の外見になった不二は、もともと中性的だったのに加えて、顔立ちも全体的に女性らしく変化し、今や可憐な美少女街道まっしぐらなのだ。確信犯行為は、当社比30%UPの効果を挙げている。

「…てかさ。部長、胸そこそこ大きいね。ちゃんとブラしてる?」

 手塚の前に立ち、その胸元を凝視していた越前がぼそっとつぶやいた。聞きつけた菊丸や桃城が「ひぃぃ!!」という表情で凍りつく。もちろん、手塚とて例外ではない。

「……Cくらい? ブラしとかないと、揺れて痛いってさ」

 手塚の胸を手のひらで持ち上げるように掴んだ越前が、無表情に言うのを、手塚はどこか遠い国からの国際電話を聞いているような気分で聞いていた。

 なんでこいつは、触っただけでサイズが判るんだ…?

 手塚があまりの衝撃に茫然自失なのをよいことに、越前はついでにむにむにとその感触を堪能する。

「えっ、越前! おまえ、なんて羨ましいことを……じゃなかった、部長に何してるんだ!」

 がたがたがた!!

 我に返った桃城が叫ぶのとほぼ同時に、大石と菊丸が手塚の後ろ左右から腕を伸ばして手塚を抱き寄せ、越前から引き離す。

「なにをするんだ、越前!」

 女性になったことで驚くほど線の細くなった手塚に庇護欲40%増の大石が、珍しく声を張り上げる。

「なにって…胸揉んだだけ。感触、本物だったね。やっぱりほんとに女になっちゃったんだ。すごいね」

 越前の事も無げな物言いに、なんと言い返したらよいかわからなくなってしまった手塚は、次の瞬間、ぼたぼたと涙をこぼし始めた。

「うわっ、手塚!?」

「そんなに嫌だったの? 未然に防げなくてごめんな!」

 慌てた大石と菊丸が、おろおろと慰めの言葉をかける。手塚はただ、なにも言葉にできずにしゃくりあげた。

 どうやら、メンタルリズムまで女性ホルモンの影響下に置かれているらしい。

 そんな3人にかまわず、不二は河村にかばうように抱きしめられながら越前に声をかけた。

「で、僕はどのくらいな感じ?」

「胸のこと?」

「うん。触らないで答えてね」

「………AかB。はっきり見てないから、正確には判んないっすよ」

 女性に変化しても、不二の笑顔が振りまく暗黒オーラは健在だ。気圧されながら、越前がようやく答えると、不二は小さく舌打ちした。

「不二?」

「手塚に負けた」

 ……そういう問題かい。

 反射的に(だが怖いから内心で)つっこむレギュラー陣(当事者除く)。

「そうか、判ったぞ!」

 そこへ、その場の空気を知ってか知らずか、乾が叫んでホワイトボードを引き出してきた。

「不二、手塚。ふたりとも、昨夜ウナギを食べなかったか?」

 なにやら複雑な化学式を書きなぐりながら、乾が訊ねる。

「なんで判るの?」

「確かに、昨夜は実家でうな茶を食べたが……」

 いつの間にやらちゃっかり河村のひざの上に陣取った不二と、大石に涙を拭ってもらってようやく落ち着いた手塚が、そろって怪訝な声を上げる。

「うん。ここに書き出したのは、昨日の野菜汁の構成栄養素の化学式なんだが、こことここが何らかの形で影響しあって………(中略)………というわけで、この結合条件を満たすすべての要素を含んでいるのがウナギだったというわけだ」

「……乾先輩って、化学得意だったんすか?」

「いや、確か乾は化学3のはずだよ」

「意外だったっす。理屈捏ねくりまわす科目なら、なんでもできると思ってました」

「うん、物の運動関係とか、単純に数字をいじるだけのはかなりそうなんだけど、乾、物事の構成成分とか構成要素の話になると、てきめんにダメなんだよ。だから、理系でいいのは物理と数学で、化学と生物は人並みって感じかな」

「……なんか納得」

「そこ!! 説明中の私語は厳禁だ!」

 乾の説明も聞かず、ぼそぼそぼそぼそ情報をやりとりしていた桃城・河村・海堂・不二・越前は、乾にびしぃっ! と教鞭で指される。

「まったく、俺の説明を聞いてなかっただろう?」

「聞いてたよ。とどのつまり、結局は、乾ががんばって解除薬を調合しないと戻れないんだろ?」

 不二にすぱんと言い切られて、解ったような解らないような説明で皆を煙に巻いて責任の所在を有耶無耶にしようとしていた乾は、がっくりとうなだれた。

 そう、今回のことは、その後の食べ合わせ次第では未曾有の事態をも引き起こすような乾汁を作った乾に全責任がある。

「…ってか、いまちょっと思ったんすけど。俺的に、英二先輩だったら巨乳っぽそうなイメージなんすけど、実際どうなんでしょうね?」

「巨乳の菊丸先輩っすか。俺、部長以外にはあんまり興味ないけど、ロリ顔巨乳はちょっとイイっすね」

 唐突に、菊丸の胸元を注視してつぶやく桃城に、同じ場所を見つめて越前がうなずく。

「「先輩、今日オゴるんで、一緒にメシ喰いに行きましょう」」

「おまえら、ウナギ屋に行くつもりだろ」

「「もちろん」」

 嫌な予感をばっちり返されて、菊丸は慌てて大石の後ろに隠れる。これが本物の猫だったら、しっぽがバヒバヒにふくれていたことだろう。

「………。海堂。俺たちも今日………」

「寝言は寝てるときに言ってください」

 すべてを言い切る前にぴしゃりと返された乾は、ちょっと落ち込んだ。

「……どうしてもダメか? もしウナギと乾汁を一緒に食べてくれるなら、豪華下着セットをプレゼントするが」

「あんたはアホですか。ぜってぇ恥ずかしくてタンスに入れるのも嫌なくらいのヤツ寄こすに決まってるのを知ってて、言うこと聞くわけねぇじゃねぇですか」

「どうして判った?」

「あんたの考えることはバレバレなんすよ」

「……。そうか。じゃあ、理解があるところでひとつ……」

 乾、めげない。

「だから、ぜってぇしねぇっつってるでしょーが!!」

 そこへ、手塚の無慈悲な通達が下される。

「よし。乾は今日から練習に出なくてもいい。解除薬の開発を最優先事項として行動してくれ」

 練習を外されるくらいなら、グラウンド100周の方がまだマシなような気がしたが、もはや乾に選択権はなかったのだった。


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