地球温暖化によって水没した世界――大方の人々は、空中に浮かぶ大陸に、その住処を求めた。
だが――世の中には少数の物好きもいるのである。
彼らは……かつて人口の約九十パーセントを飲み込んだ『母なる』海の底に都市を作った。
現在ではその数も増え、重要な観光ポイントになっていたりもするわけだが……
魔術師
「海に行かないか?」
いつもは、近所に住んでいるというのに全く顔を見ないため、もしかして自分の知らないうちに家の中で変死しているのではないかと心配になる程疎遠な相棒が――嫌な表現かもしれないが、本当に心配になる――ともあれそんな相棒が、家に押しかけてきて開口一番、彼に向かってそう言った。
ひどく珍しいことであるのは、既にお分かりいただけただろうと思う……
「……海?」
彼は眉を寄せながら呟いて、言葉の意味をよく考えてから、己が相棒を見返す。
黒く長い髪、端整で人形のような――要するに表情の全く浮かんでいない――顔立ち。とっくに退役したのに軍服を着ているのは、もはや習慣としかいえないかもしれない――かくいう自分もポロシャツに綿パンで、人のことは全く言えないのだが。
さて――
人類の科学技術の発展により大陸が水没してから、既に数世紀が経っている。西暦を使わなくなって久しく、人々は人口の大陸を空中に浮かべて住んでいた。
相棒の言葉はつまり――『下』に降りよう、ということである。
「カンヴァー……今の季節をよく考えてみて、それから言え……」
オールバックにした金の髪、そこそこに整った顔立ちに、青い瞳がついている。少し生えた髭のお陰で、その顔も台無しといえたが――それが彼の大体である。
その彼がドアを閉めかけると、相棒――カンヴァーはドアを押さえて、
「スズキが食べたいんだ」
スズキ。
大きくなるにつれて名前が変わる出世魚です。刺身にしたりバター焼きにしたりしても旨いですが、ムニエルが美味しいです。
「って……魚目当てかい……」
つらつらと思考の中でスズキについての説明を終え、呟いたその瞬間、過去の出来事がフラッシュバックする。
確か今年の夏にも『元』大佐――元上司に、魚につられて――もとい、無理矢理連れていかれて海、もとい『下』に行き、散々な目に……
「…………………………」
彼はそこで考えるのをやめた。思い出したくもない。
苦笑いを浮かべ、カンヴァーの肩を数度叩き、
「えーと……そう。マリアの奴と行けよ。あいつ喜ぶと思うぜ?」
「お前じゃないとダメなんだ」
よく解らない台詞を言う。
「そりゃまた――どうして」
「警部は釣りが下手だから」
「あのなぁ……」
呆れたようにこめかみに人差し指をやり、顔をしかめる。長年の相棒に、道具扱いされるとさすがに哀しい。
「エド。いいだろう?」
「そうだな……」
彼はしばし首をかしげ――やがてふと微笑んだ。
「――大佐が来ないなら」
エド――エドガーの言葉に、カンヴァーは嬉しそうに、目をうっすらと細めて見せた。
待ち合わせの日、相棒と一緒に立つ、見覚えのある赤い髪の女性に、エドガーはため息をついた――ただし、女性の方も同じようにため息をついている。
「マリア……やっぱりお前も一緒に来るのか――そりゃ男二人で海に行くってのも悲しすぎるけどよ……」
「ああ、やっぱりあんたも一緒なのね――ま、カンヴァーさんと二人きりっていう環境も、それはそれで怖すぎるけど……」
顔を見合わせた二人は、お互いに五十歩百歩の台詞を呟いた。顔を見合わせて、もう一度同時にため息。その後は苦笑いだった。
マリア=マーブル。ターレン警察署の女警部で、エドガーやカンヴァーとは仕事でよく一緒になっている女性である。エドガーとやたらと仲が悪い。
「――何か思い切りけなされたような気がするが……
ま、いいか。それじゃあ早く行こう」
いそいそと歩いていくカンヴァーに、
「な、何かカンヴァーさんいつもと違わない? すごく怖いんだけど……」
「気にするな。アレはアレで楽しみにしてるんだ」
「……ふぅん」
エドガーに言われ、マリアは思わず納得した。
カンヴァーは『魔術師』の能力と引き換えに、表情を失っている――彼が魔術師になった経緯を彼女は知らないが、感情を顔に表せないというのは、何となく辛いような気がする――要するに、あれが彼なりの喜び方なのだろう。
「さて、俺たちもさっさと行かにゃあ置いていかれるぞ」
「ん。そうね」
頷いて、さして多くもない荷物を持ち、すたすたと歩き始める。それなりに人通りの多い駅前である。駅から『下』に下りるのだ。
「――あ」
と。
突然エドガーが立ち止まり、マリアを振り返った。突然思い出したかのように、
「そう言えばお前、ちゃんと切符持ってんのか?」
「ええ。
でも――よく考えたらこの切符買ったお金だけで今月生きていけたわ――」
「……そうか」
トレーディングカード大の大きさをした『切符』を、親の敵のように睨めつけるマリアに少々引きながらも、エドガーはとりあえず相づちを打つ。
「ま、でも、せっかくの機会だし、カンヴァーさんが半分お金出してくれたしね」
「……そんなに警部って言うのは薄給なのか……?」
切符の値段は確かに確かに高いが――まぁ、一般人に何とか手が届くぐらいの値段である。たとえ話になるが、二十世紀前後の通貨単位と照らし合わせて見れば、せいぜい少々遠い海外旅行に行くぐらいの値段なのだ。その半分となると、当然一人暮らしの人間が一ヶ月生き抜いていけるだけの金額には及ばない。
「え? ああ。あたしさぁ、ついこの前失敗しちゃって、今月お金ないのよ」
「何かやらかしたのか?」
「教えてあげない」
「……まぁ、お前のことだし、ろくでもないことだけは確かだな」
「ムカつく言い草ね……」
事実だろうが――
そう言いかけて。
「エド! 警部! 遅いぞ!」
カンヴァーの、世にも珍しい大きな声に遮られ、二人は歩調を早くした。
……程なく、『駅』の中に着く。
温室のような――ガラスの天井からは、蒼い空が透けて見える。人々が互いを邪魔とばかりに押しのけるように歩いている――はぐれないのが不思議だ。駅の中にはファーストフード店や服屋なども入っているようで、旅行ついでに、と買い物をしていくものも多いようである。
大勢の人に辟易しながら、ふとエドガーはマリアを振り返る。
「……何だ。そのカメラは」
「見覚えのある顔のカップルがいたら、写真を撮ってやろうかと」
エドガーは、直ちにマリアからカメラを没収した。
――改札を出て、エレベーターで地下四十階まで降りる――これは空中大陸の下まで突き出ていて、そこから『艇』に乗るのだ。
『艇』は、簡単にいうと――飛行機と潜水艦と船、その三つの乗物の役割を果たすもので、これを使って『下』まで降りる。そこからさらに海中に潜り、海中の都市――小さな町ぐらいの規模なのだが――で降りる。そこからは各自の自由、となるわけだ。
「カンヴァー――俺たちの乗るのは?」
切符はカンヴァーに預けてある。というより、カンヴァーが二枚とも買ったのだが。
無表情な相棒は二枚の切符と、マリアが持っている切符を見比べると、
「ああ――私たちとマリアは別便だな――私たちが乗るのは八十九便だ」
「あたしは九十二便。それじゃ、カンヴァーさん、エド。後でね♪」
言ってマリアは駆け足気味に去ってゆく。
後には男二人が残るのみ。
「……行くか。」
「ああ」
憂鬱なエドガーの台詞に――
いやに楽しげに、カンヴァーは頷いた。
水中都市、『グリーン・シティ』――
『
緑色の』等という名前が付けられているが、当然緑色な訳ではない。意味としては『
青々とした』が正しい。
水が、青く透けた天井を通し、太陽の光によって都市には蒼い光が届く――それだけである。
「……何度来ても、夢の中のような町だな」
蒼く透明な天井を通して届く太陽の光に目を細めて呟くカンヴァーに、彼は肩をすくめる。
「ま、
空中に浮かぶ大陸ってのも、十分非現実じみているとは思うがね――」
「まぁな――それで、警部はどこだ?」
問いに、エドガーは電光板を見ると、かすかに眉を寄せた。
「九十二便は、まだ着いてないみたいだな……」
「――同時に出たのにか?」
カンヴァーは眉をひそめ、問う。彼は一つ頷いて、
「ああ――案外ハイジャックとかされてたりして」
「そんなわけ……」
冗談交じりのエドガーに言い返しかけ、思わず沈黙。
『……ありうる……』
二人の言葉が――偶然にもハモった。
トラブル体質、とゆーものが、時に人間には備わっている。
そういう人間は、いつだろうと、どこだろうと、何かと目の前で厄介ごとが起こることになり……さらにその人間自身やたらと好奇心が旺盛なため、その厄介ごとに首を突っ込むわけだ。
マリアは……間違いなくトラブル体質の素質がある。警部という仕事上も、プライベートにおいても、彼女と一緒にいるとよく妙な事に首をツッコむ羽目になる――今回は厄介ごとに巻き込まれたのは彼女だけだと思われるので、彼らにとってはそれなりに運がよかったのかもしれない。
……そして――
九十二便に何らかのトラブルがあったと伝えられたのは、そのわずか五分後のことである。
さて、その九十二便――
(ああぁぁぁもう、あたしって本当にツいてない……)
首にレーザーガンを突きつけられいる状態で、マリアは頭を抱えたくなった。
一生の不覚、というやつだ。
『艇』には、乗る時に個室が与えられる――といっても、一人一部屋ではなく二人一部屋で、ハイジャックを始めたのはマリアと同じ部屋になった男、というわけだ。
顔色悪いし挙動不審だし、今日が非番でなかったら職務質問をしたくなるような男なのだが――まさか『艇』をハイジャックするような大馬鹿だったとは。
彼女は大きくため息をつき、目だけで男を見た。
「――投降するなら今のうちよ。武器を捨てなさい」
まさか人質に、投降しろ、といわれるとは思っていなかったのだろう、男は一瞬ぽかん、とした表情をして――途端、それが馬鹿にしたような笑みに変わる。
「お前こそ、命乞いをするなら今のうちだぞ」
高圧的な口調で言われ、彼女は顔をしかめる――気に入らない。
彼女は馬鹿にされるのが嫌いである。好きな人間というのも滅多にはいまいが、彼女はそれに……いわゆる一般人より過剰反応するきらいがあった。
すぅと息を吸い込んで、男を睨みつける。
「うるっさいわねッ! こちとらあんたごときにくれてやるような命なんざぁ持っちゃいないのよッ!」
「このアマ……ッ」
見え透いた挑発に引っかかり、男が叫びかけ――それがあっという間にうめきに変わる。
鳩尾に一発、肘鉄を叩き込み、うずくまった男に向かってマリアはにんまりと笑みを浮かべた。
「もう一度言うわ。
投降するなら今のうち。そうじゃなきゃ――」
ごりっ、と、いつの間にやら男から奪ったレーザーガンを、男の肩に押し付け、
「ちょっと痛い目見ることになるんだけど」
「くッ……解った……」
男は両手を上げ、『参った』、のポーズをする。
だが、その表情が少し奇妙なことに彼女は気がついた。あまり表情が悔しそうでも切迫してもいないのだ……
「……あんた……」
マリアがもしや、と思って呟くと、男はそれに気がつかなかったかのように、ふと、視線を移した。
「……俺がたった一人で、こんなもんの乗っ取りをすると思うか?」
「しま……ッ!?」
――
音のない銃声。殺意を持って放たれた光線が、マリアの頬を掠めて、壁に当たる。
つぅ――っと頬から血が流れるのが解った。
「……あら。射撃はあまり上手じゃないみたいね」
だが彼女は自信たっぷりに、嘲りを込めて言う。男をぐいっと引っ張って、くるりと振り向き、男をちょうど盾にした格好になった。
(まさか、仲間がいたとはね……)
内心の焦りは、何とか顔には出さない。
(でもそもそも、こういうのは、エドガーの役目でしょうが……ッ! 何であっちに行かなかったのよッ!)
無茶なことを考えるのも、内心の恐怖を紛らわすため。
彼女は、実をいえばあまり実戦慣れはしていない――警察の人間が実戦なれしていても、それはそれで困るのだが。
銃を撃ったのは、少年、といってもいいような年齢だった。ブラウンの髪と目は、何やら生意気そうでカンに障る。彼女は思わず顔をしかめた。
「わざと外したんだよ」
笑みを浮かべたまま言ってくる少年に、彼女もまた微笑を浮かべ、
「そうかしら?」
「――挑発しようと思っているのならやめたほうがいいね。
銃を捨てな」
「あんた、馬鹿じゃないの? こっちには人質が――」
光線が、走った。
どさりっ――眉間を貫かれた男が、血を噴き出しながら倒れ伏す。男は仲間が着たことを『勝ち誇る』表情をしたまま床に落ちる。即死だった。
室内が血で染まり、彼女もやはり鮮血をかぶる。元々赤い髪が、血を吸ったように赤みを増し……マリアは血の臭いに眉を寄せると、少年を睨みつけた。
「あんた……」
「命が惜しければ、大人しくしていな」
「こンのクソガキッ……」
マリアはレーザーガンを、こちらを見下しきった少年の肩にポイントする。
だがそれより早く、彼女のレーザーガンが貫かれた。
「――ちぃッ!」
「こっちの忠告が聞けないみたいなら、死んでもら……」
瞳にかすかな狂気を宿し、少年が言いかけて――
がうんっ。
……それより先に、低い銃声が響いた。
「こっちの方が、やっぱり得意だわ」
マリアは笑って、職権乱用して持ち込んだ拳銃を、得意げにかざして見せた。
肩を撃たれた少年は、うずくまり、うめいている。
「自業自得ってやつよ。我慢しなさいな」
「警部ッ! 大丈夫ですか……って、血まみれじゃないですかッ?!」
「ええ、でも大丈夫――あたしの血じゃないから」
ようやく来た警備員に、彼女は疲れた声で言った。
「さて! 予定外の些細なトラブルもあったけど、ようやく着いたわねッ!」
大きく伸びをして、マリアは叫ぶ。合流したエドガーは、それを聞いて呆れた声で、
「ハイジャックを『些細なトラブル』で片付けるか。お前は……ていうか、死人も出たんだろ?」
「犯人のクソガキが、あたしが人質に使ってた男の眉間を一発――まさか殺すとは思わなかったわ」
マリアはため息混じりに言う。血は洗い流したものの、まだ鉄の臭いが残っていた。自分に銃を突きつけた男に同情する気はさらさらないが――憂鬱な気分になったのは確かである。
「……で、カンヴァーさんは?」
「待ちきれずに海面に釣りしに行ったぞ」
「ああ、やっぱしそうなのね……」
「優先順位は魚以下だな。マリア」
「うるさいッ!」
彼女は思わず叫んで、エドガーを蹴飛ばした。
「…………」
無言でカンヴァーは釣り竿を引く。
釣れたのは、残念ながらスズキでなく、ウミタナゴ。
彼はふぅ、とため息をついて、空に浮かぶ大陸を見上げた。
太陽が海に沈みかけ、海が綺麗な茜色に染まっている。
『グリーンシティ』も、きっと綺麗な夕日の色に、染まっていることだろう――
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