足元に血だまりが広がっている――その中には、血塗れの死体が一つ転がっている。
 暗く人気の無い、狭い裏路地である。
 死体には顔には恐怖が張り付き、死の瞬間発した絶叫はまだ喉に張り付いている。その死体には、左腕が無かった。
「……」
 黒い空には月が浮かんでいる。
 ――ごほっ。
 その名を呼ぼうとして、鉄くささに、鉄の味に、息が詰まる。つっと口から顎まで伝う。少年はわずかに微笑んだ。
 少年にもまた、左腕は無い。
「まだ、足りない」
 左肩から先の空間に、黒い靄がわだかまり、やがて消える。少年はそれを見、
「……」
 詠うように、もう一度その名を呟いて。
 少年は血だまりの中に座り込む。さらに何か呟こうと口を開いたが、そこから声が発せられることは無かった。
 空には月が浮かんでいる。




オセロ




 彼の『飼育』を命ぜられたのは、俺が十九の時だった。
 腰まで伸びた緑色の髪。おおよそ自然にありうるとは思えない髪の色をした少年は、俺よりもずっと年上と言うことだった。十五、六に見えるが、それは見た目でしかないそうで。
「初めまして炎獣サラマンダ
 僕が、……だよ」
 両頬に走る黒い『印』に触れながら言う彼は、見た目以上に幼く見えたのだが。
「よろしくお願いします」
 俺は少年が浮かべる笑みになんとなく照れて、深く頭を下げる。
「?」
 頭を上げ、これから自分が一日の大半を過ごす部屋を観察しながら、俺は思わず眉を寄せた。
 狭い部屋の中にはベッドしかない。窓も無く白い壁度床と天井は息苦しいとすら感じる。出入り口は一つのみで、そこにも外側からロックがしてあった。しかしそんなものはどうでもいい。
 俺の目に留まったのは、部屋の壁や床に付着した黒っぽい染みである。点々と所々に付いたそれはまるで――
「……血ですか? これは」
「そうだよ」
 聞く俺に、少年は頷いた。それ以上問う気はしなかったので俺が黙ると、今度は彼が口を開いた。
「ねぇ――前の人はどうしたの?」
「死にました」
 こともなげに答える俺に、彼も大して反応はしない。ふぅん、とか、気のない相槌を打つぐらいだ。
 これも聞いていた通りである。
 前の人……以前彼のことを世話していた人間が死んだことも、彼は知らされていない。それ以前に、死ぬということをちゃんと理解していないのだろう。重くも考えない。生まれたときからそういう風に躾けられているのだ。
 ……全く研究所も、酷いことをする。
 俺がわずかに顔をしかめる。
 それに気づいてか、それとも全く気にしてもいないのか、
「あ、そうだ」
 彼はいきなり思いついたように呟いて、ベッドの上に乗ったまま、ベッドの下に手を伸ばした。
「――あった!」
 緑の盤を宝物のように取り出して、そしてこちらに差し出しながら、
「オセロをしようよ、炎獣サラマンダ
 おとといから、ずっと一人でつまんなくてさ――」
 言ってくる彼は本当に嬉しそうに笑っていた。
 ……彼は恐らく自分の罪に一生気づくことは無い。
 俺はそう思いながら――それが救いなのか不幸なのか解らずに――彼に向かってわずかに頷いてみせた。
 彼はオセロが強く、俺は一勝もできなかったが。




 それは獣の印と呼ばれている。
 身体の一部に浮かび上がる刺青のようなそれを持つ者は、浮かぶ場所を変えることができた。或いは発火能力を持つ火蜥蜴(サラマンダ)の鱗に。或いは地を割るほどの力を持った獣の腕に。或いは、……彼らが現れはじめて数年、政府は彼らを各地から集め始めた。
 研究のため、もしくは軍事利用の為に。
 多くの者は親から厄介払い同然に政府に売られていった。生きている者は人体実験を繰り返され、死体は解剖され、徹底的に研究された。
 そのうちに、『印』持ちには種類があることが解ってきた。研究者はそれらに名前をつけていった。炎獣サラマンダ吸血鬼ヴァンパイア砂鬼ザントマン九首蛇ヒドラ巨獣ベヘモス――挙げていけば限りが無い。
 そしてやがて研究者たちはあるモノを作り出すことに成功した。
 ……それは、こう呼ばれた。マーク…――




 連続殺人、これで犠牲者三人か

 ――そんな見出しに、俺はため息をついた。青年から話を聞いてはいたのだが――それでも憂鬱なことに変わりはない。そういえば、彼はこの新聞の記事を書いていると言っていた。もしかしたらこの記事のことかも知れない――見出しから、紙面に目を走らせる。
『――駅近くの裏路地で他殺死体が発見された。死体の状態から、先月の二件と同一犯として警察は捜査を進めている。
 当局は、先月の二十日に起こった第一研究所の火災にも関係しているのではないかと見ているが、政府は一切ノーコメントを押し通している――』
「死体の状態か……」
 ……発見された死体には左腕が無かったのだろう。恐らく、前の二人も。
 紙質の悪い新聞紙を折りたたみ、ベッドの上に放り投げる。青年のおかげで喋ることは出来るようになったものの――もっともそれは仮病に近かったのだが――傷の方はまだ治っていなかった。青白い服の下には、神経質なほどに包帯が巻かれている。
 俺はベッドに腰掛けたまま、ごろりと寝転がる。看護士に此処を見られたら、ちゃんと寝ろと怒鳴られるところだが。
「……オセロ」
 口の中だけで呟いて、胸を押さえる。傷はようやく治りはじめた、といったところだ。あの青年は、こちらが怪我人だからと言って手加減をするようなことはしなかったが。
『君がそうやって逃げていても、あのひとを止めることはできないよ』
「……俺には無理だよ」
 その権利はない。
 記憶の中の青年に対して首を横に振り、俺は目を閉じた。
 逃げている……といえばそうなのかも知れない。
 だが、俺に止める権利は無いのだ。俺は――




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