がしゃんっ
自販機で買った缶コーヒーを取り出しながら、未だ寒い夜の空を見上げる。
……青年は、
巨獣と呼ばれる印をその腕に持っていた。灰色の毛に覆われた獣の腕に変わる腕……青年も、かつて政府の研究所に所属していた。
彼は研究対象から外れることのできた印持ちの一人である。人間として社会に適応できると判断された者は、研究所から抜けることができた。それは研究対象としての価値がなくなった、という意味が強いが、抜けられる側にしてみれば同じようなものだ。
『俺、第一研究所に行くことになったんだ。
すごい栄転だろ――?』
……浮かんだのは嬉しそうな親友の顔である。少し前の表情だ。
彼と共にヒトの社会へと出た――いや、奴は研究所に残り、『中』での印持ちの扱いの改善に努めるなどと言っていた――男。今はもう見ることのできない顔。
缶を開け、一口中身を飲み下す。缶コーヒー特有の嫌に甘ったるい、しかし苦い味が口の中に広がった。
「……
一四二〇」
既に失われた名前だ。そんなものが名前と言えるかどうか解らないが。
『第一研究所が、壊滅……?』
次に蘇ってきたのは馬鹿らしいほどに呆然とした自分の声だった。
先月の二十日に起こった惨殺事件。国営の第一研究所の人間と印持ちが、重傷の一人だけを残して全て殺された一件である。青年もそれで、親友を失っていた。
印持ちによるテロだのなんだのと言われているが、しかし彼は知っている。
その事件を誰が、何が起こしたのかを。
だがそれを記事にしてももみ消されるのがオチだ。その記事は自分と一緒に消えてなくなることだろう。だから。
「だからお前に立ち直ってもらわなきゃあ困るんだよ、
炎獣」
青年は呟いて、コーヒーに暖められた白い息を吐き出した。
オセロ
「美味しそうだねえ」
言いながら彼が見ているのは、別段食べ物と言うわけではなく、何のことは無い ただの俺の左腕だった。
黒い印が浮き出た左腕。やたら筋肉質と言うわけでもないし、細いわけでもない。
そこに触れるか触れないかの距離で指を這わせながら、彼は首を傾げて目を瞬かせている。
……別に冗談を言っているようには見えない。
というか、本気の目である。
「駄目ですよ。喰べちゃあ」
思わず身を引いて、俺は言った。彼の場合本当に喰べてしまう可能性があるので、一応注意しておかなければならない。
「ちょっとだけ」
「駄目です」
「かじるだけでも」
「駄目です」
……やっぱり本気だった。
「ちょっとだけでいいからさッ!」
「駄目ですって……うおッ!?」
視界が回転する。
どさっ
「本当にちょっとだけでいいんだって」
言う彼の目には、無邪気以外の何物でもない光がともっている。
「やッ、止めて下さいよ! ちょっと!」
ベッドに押し倒され、押さえつけられ――というよりは上に乗っかられ、慌てて俺はもがいた。が、体重も俺より軽く、体格も一回り小さい彼から、なぜか逃れることは出来ない。
「じっとしててよ? すぐ終わるから」
「すぐ終わるも何もじっとしていられるわけがないじゃ……痛ッ!」
「え!?」
俺の悲鳴に、驚いて彼は飛びのいた――どうやら膝がみぞおちに入ったようである。
「あぁ、大丈夫ですよ」
小さく咳き込みながら笑う――が、何故か彼は、こちらが大げさと思うほどに表情を硬くしていた。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫です」
「本当に?」
さらに聞いてくる彼に、俺は一瞬きょとんとした顔をして――すぐに納得した。彼は痛いということが解らないのだ。
「大丈夫ですから、心配しないで下さいよ」
ぽんぽんと頭を叩いてやりながら、俺は苦笑した。これなら普通の子供と変わりない。
「とにかく、喰べるのは止めて下さいね。
――そうだ。オセロでもしましょうか?」
「
炎獣弱いんだもん」
頬を膨らませる彼に、俺はにやりと笑ってみせる。
「度は勝つかも知れませんよ?」
「いいや、きっと今度も僕の勝ちさ」
彼もまた笑みを取り戻し、ベッドの下からオセロ盤を取り出した。
印持ちたちには名前が無い。
親に名前もつけられないうちに、彼らは研究所に引き渡された。そして印の持つ特性の名で呼ばれることになる。
重複する能力を持つものが近しい関係にあるならば――そんなことは滅多に無いほど印の能力は様々だったが――彼らは自分たちをナンバーで呼び合った。研究される際につけられた数字。三桁、四桁五桁と、同じ年齢のものでも、桁はまちまちだった。それは、それほど多くの子どもたちが、研究所にやってくる証でもあったのだ。
死んだ後の数字は新しく入ってきたものたちで埋められた。数の割りにナンバーが少ないのはその所為である。研究され、死んでいく者など大勢いたのだから。
……そして。
作られたものであるそれにも、その数字はついていた。
「やぁ、もうすぐ退院だってね、
炎獣」
「……また来たんですか?」
「おや、喋れるようになったのかい?」
俺に向かって青年は馬鹿にしたように言ってくる。俺はそれに苦笑いを返しかけ、止めて、途中で顔をしかめた。
「また、彼のことですか?」
「彼、ねぇ。
『あのひと』じゃなくて?」
「茶化さないで下さいよ」
言う俺に、青年はこちらに新聞と書類の束を差し出してきた。
「これで五人目さ。昨日一昨日と犠牲者が出てるから、三日連続ってことだね。
僕も現場に言ってみたけど、やっぱり左腕がないようだよ」
それをベッドに寝転がったままを受け取り、その詳細さに、ほぅ、と吐息を漏らす。目だけで青年を見上げ、
「一介の
新聞記者が……随分と熱心なようで」
「憎まれ口も叩けるようになったってわけか。
……僕は第一研究所に知り合いがいたんだよ」
青年の言葉には、俺への恨みや怒りも篭っているように思えた――実際そうなのだろう。実際、心当たりがあった。
「……
巨獣、ですか?」
「知ってたのか?」
驚いたように青年が言う。頷いて、俺は新聞と書類を返しながら、
「よく話してもらいましたよ――新聞記者になった親友がいるって」
青年は聞いて、ため息を付いた。
こちらを睨みつけながら、躊躇するように口を開く。
「奴は……
一四二〇は、どんな風に死んだ」
問いに応えるように頭に蘇ってくるのは、身体の一部を失い無機質な廊下に転がった躯の数々だった。青年の友人もまた、その中にいたはずだ。
「意識する暇はありませんでした――ただ」
「ただ?」
「……あの人は、とてもいい人でしたよ。
俺にとても親切にしてくれた。……彼にも」
俺は言いながら、思い出していた。
あの
巨獣は、俺よりもオセロが下手くそで――そのくせ楽しそうに、彼と勝負をしていたものだった……いつも負けてばかりだったが、それでも。
「――やめろよ。お前がそんなこと言うな」
青年は俺から目を逸らして、ぼそりと呟き……俯いて。
「止めろよ」
「え?」
予想外のくぐもった声に、俺は問い返し。
がっ、と、襟首を掴まれる。
「――奴を止めろ! 彼だろうが何だろうがとにかく何でもいい!
あいつを止めないと、まだ僕らの仲間が死ぬんだぞ!」
――そこからは涙が。
「お前だけなんだよ! お前しかいないんだ! あいつを止められるのはッ!」
涙が零れていた。
俺はそこから目を逸らし、首を横に振る。
「俺には出来ませんよ、そんなこと……」
「逃げていたって駄目なんだよッ!」
ぱ た ん
言葉に――青年の言葉に、脳裏に小さな音を立てて裏返されるオセロの石が浮かぶ。
プラスチックの、安っぽい石。白に、黒に。また白に、裏返される……今の俺はまさにそれだ。
俺は一体……何がしたかったのか。
「――オセロが好きな子だったんですよ」
「何?」
俺の呟きに青年は怪訝な顔をした。
襟首を掴んだ手を離され、俺は軽い音を立ててベッドの上に落ちる。脱力し、俺は続けた。
「彼は……彼はね、オセロがとても強くて、俺は滅多に勝てなかったんだ」
「……何が言いたいんだ」
目を拭いながら言う青年に、俺はまた視線を合わせる。俺にだってそんなことは解らない。ただ――
「ただ彼はそれだけじゃすまなかった。
俺はやがて、彼を殺すように言われました」
「……」
「俺は彼を殺せなかった――でも、かといって生かすこともできない。
この腕ならば、いくらでもやれるけれど――」
「……
炎獣」
俺は一体何がしたかったのか。
目を閉じ、俺はもう一度ため息をついた。
病室に沈黙が落ち、青年はただ立っている――
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