印喰。
『それ』を作り出した研究者たちは『それ』をそう呼んだ。
印持ちを喰らうことで、その力を自分の物にすることのできる怪物。年を重ねることもなく、傷の修復能力が異常に高い。切り落とされた一部の再生能力さえも持っていた。『印』持ちを殺すためだけに生まれてきた生き物――まさにそれだった。
印持ちの力を恐れた人間たちが作ったモノ。
印喰の名の通りの。
それは極秘に造られ、研究所に閉じ込められ、空も知らず――しかし
印喰は、いつしか造った政府にとっても邪魔な存在になっていた。
よく考えなくても解ったことだ――そんなものは必要なかったのだ。殺すことしか出来ない存在は、下手に波風を立てるだけのものにしかならない。世に知られてはならない――絶対に!
だから『国』は。
……研究者たちはこう考えた。
それは、何よりおぞましい考えだった。
オセロ
広いが簡素な部屋。そこにはデスクがあり、そこには男が座っている。
俺は扉の前に立って、男の言葉を待っていた。
「
印喰――
〇〇は、どうなっている?」
「順調です。精神に不安定はありませんし、体調も特に異常なし――」
いつもどおりの質問にいつもどおりの報告を返す――が。
その日は違った。男は、俺の言葉を手で遮り、
「もういい。
奴は始末しろ。今日中だ」
――そう、言った。
「え……?」
ファイルを見ていた顔を上げ、俺は男を見る。『チーフ』と呼ばれるその男は、無表情にこちらを見返してきていた。
「そんな……何故です!」
「データは取り尽くした。後は消すだけだ。
他の
〇一から
〇四も既に始末している。後は君の
〇〇だけだ」
……解っていたことだ。
俺は頭の中だけで呟いた。
……
印喰は、印持ちを殺すためだけに造られたもの……データを取り終わってしまえば、後は消すだけでいい。
……しかし、それで納得できるようなものでもない。
「ですが、あんな子供を――」
「あれは君よりも年上だ。見た目が子供だとしても。
それに――忘れたのか? あれは既に我々の仲間を何人も喰らっている」
『チーフ』の言葉に、ぐらりと意識が揺らぐ。
――血の跡の付くシーツや壁。
彼の前の世話係は死んだのだ。機密保持の為に、彼に喰われて。……そいつもまた、印持ちだった。
――俺は彼がずっとあのまま生きていくように思っていた。他人を殺していることを罪とも思わず、思えず、ずっと……
「『チーフ』……俺はッ」
「言っておくが、君が殺せないと言うならば」
言いながら、『チーフ』はこちらに手をかざした。黒い印の浮かぶ右腕――印持ちの証。
「私は今ここで君を殺し、別の者にあれを殺させるだけだ」
「――」
言いかける俺に『チーフ』が釘を刺すように言った。
「……失礼します」
そんなことは解っている!
言いかけて、だが出たのは別の言葉だった。
俺は踵を返して扉を出る。
……頭の中がぐるぐると回っていて収拾がつかない。
俺は一体どうするべきなのか。
……五年も彼と一緒にいたのだ。
そんなに長くいたようには思わなかった、それほど 飛ぶように過ぎていった時間だった……そして今、終わろうとしている。
「お。久しぶりだな、
炎獣。
おい、あの坊主は元気か?」
知った声に振り返りたくなくて、俺は足を速める。
後ろから引きとめる声が聞こえたが、声を返す気は無かった。
……脳裏に何千回と彼と繰り返したオセロの勝負の様子が浮かぶ。
白から黒に。黒から白に、パタパタと色を変えていく石……初戦の時は酷かった。
俺は黒を持っていたのに、彼ときたら容赦なしに盤一面を真っ白に染めてしまったのだ――無機質な廊下で俺は立ち止まった。
荒くなる息を抑える。俺は――どうするべきだ?
震えながら視線を横に動かすと、素っ気も味も無い扉が立ちふさがっていた。
……彼の部屋だ。
冷えた何かが首筋に当てられたような気分になる。
俺は扉横の数字盤にナンバーを入れ、最後にカードを通した。
……これも何千回と繰り返してきた動きである。
扉が開く。一歩入りかけ、止まる。
「あ。
炎獣?」
嬉しそうな声を上げ、ベッドの上に寝転がっていた彼は微笑んで起き上がった。
「今日は報告の日だったんだっけ? もうお昼だよねえ?」
部屋に窓は無い。彼はこの部屋にずっといて、空も知らず……空という言葉すらも知らないで。
「……
炎獣?」
俺はまだ決められていない。
「どうしたの、
炎獣、怖い顔をして……?」
俺は、どうするべきだ?
「ねぇ、どうしたの?」
……俺は――
震える手で、懐に入れていた銃を構える。
彼の動きが止まった。きょとんとした顔で、黒い銃身を見つめている。
俺はまだ決められていない――なのに。
息をつく。
……引き金は信じられないほどに軽かった。
「君は馬鹿か」
いきなり出された青年の言葉に、俺は虚をつかれ……多分間の抜けた顔をした。
青年は今にも殴りかかってきそうな形相でこちらを見つめ、そして実際に――俺の額に軽く拳をぶつけた。
「君は彼を助けたいし、止めたいんだろ?」
「?」
「なら簡単なことじゃないか。止めに行けばいい。君はそれだけの力がある。
自分で立つ力もない赤ん坊じゃないんだからな」
「でも俺には、そんな権利は」
「権利なんか知ったことじゃないだろう。必要も無い。
……それでもその権利とやらが欲しいのなら、あえて聞くがな。
君の傷はどうやって付いたんだ?」
俺は予想していなかった問いに押し黙った。この男には話してはいないはずだが。
「君の傷は弾痕だろう。奴は拳銃なんか使わない。だとしたら、どうやって付いた傷だ?」
黙っている俺に嫌気が差したのか、さらに二度三度、青年はごつごつと拳をぶつけてきた。
心なしか、力が強くなってきている。
「君は何をした。どうしてそんな傷を受けた?」
……どうやら、しらばっくれるのは不可能のようである。
誰かに、似ている。
「俺は」
思いながら、口を開く。
……この青年は誰に似ていたのだろう。
この青年の知り合い、あの
巨獣か。
――あるいは。
広い部屋。男はデスクに頬杖をついていた。『チーフ』と呼ばれる男――印持ち。肩書きならばいくらでもある。
『そんな……何故です!』
『ですが、あんな子供を――』
炎獣といったか。まだ若い印持ちの声を思い出して、男は憂鬱な気分になっていた。
……あの青年は
印喰が印持ちを喰うところを見たことが無いのだ。
だから、あんなことが言える。
「自ら下した措置とはいえ、な……」
呟く。男としてはあの青年が〇〇(ダブル・オー)を殺せようが殺せまいが如何でもよかった。どちらにせよ消えてもらうことになるのだから……
印喰という存在には。
元々飼育係に
印喰が食事をするところを見せないように指示したのは男自身だった。青年の前や、その前の飼育係はそれを見ていた。だから、耐えられなかった――当然だ。自分の同族を食う化物と、どうやって生活できるものか。
だから飼育係はそう長く持たなかった。そういうものたちはみな
印喰の餌食になっていたわけだが……いい加減そう何人も殺させるわけには行かない。だからそういう手段をとった。いくらそういうものだと聞かされていたとしても、実際に見ないことには現実感が湧かず――直接の恐怖にはつながらない。
……しかし、逆に情が湧いてしまうとは。
予想外のことだった。
あんなものを一度でも見れば、あの青年も先程のようなセリフは決して言えないだろうに……
ため息をつきかけて。
視界が赤く染まって、男は弾かれたように顔を上げた。
「何……ッ」
口の中で呟き、程なく響きだした警報に耳を押さえる。そして。
がっ!
サイレンに勝る馬鹿でかい音に、男は立ち上がった。ロックで閉じられているはずの扉がいとも簡単に蹴破られる。
人間には、不可能なことだった。
「しくじったか……
炎獣!」
男の小さい叫びに呼応するように、扉の向こうから、少年が現れる。
左腕を失った少年は、小さい唸り声を上げ、獣の目で男を見つめた。
男は右腕を振り上げ――その時少年が、その形を模しただけのバケモノが、小さく動いたような気がした……それはこう言っていた。
……遅い。
瞬間走った激痛に、男は絶叫した。
彼は何も言わずに、俺の横をすり抜けて言った。
銃弾は彼の肩に当たり――彼の左腕を吹っ飛ばしていた。それは今、白いベッドを紅く染めながら、その上に転がっている。
――後ろで、扉が閉まる音がして、そこでようやく俺は我に返った。
「ッ――オセロ!」
彼の名を呼びながら、慌てて踵を返し、扉を出――ようとして、閉じられた扉に阻まれる。
内側からは開かない扉。彼が外に出ないための措置だ。
もっとも、『印』の力の前には鉄の扉は無力なので、破壊された際に警報が鳴るぐらいなのだが。今のこの状況では、警報は鳴らしてしまったほうがいいだろう。
俺は息を吐いて、左腕を前に突き出した。
意識する。
ただそれだけで左腕が変化した。黒い印の刻まれた人間の腕から、紅い鱗に覆われた火蜥蜴(サラマンダ)の腕に。
小さく息を吐く。左腕をかざし、振り上げ――振り下ろし。
轟っ!
炎が扉を舐めた。俺自身も、高温にじりじりと汗が滲む……元々、こんな狭いところで使うモノではない。
程なくして扉は完全に溶けて穴が開き、視界が真っ赤に染まった。
緊急用のレッド・ランプだと思う前にけたたましいサイレンが鳴り出す。俺は溶けた鉄の上を飛び越えて、紅い廊下を走り出し……
つまずいて、俺は二、三歩よろめいた。何かと振り向いて――息を呑む。
――死体。
知った顔だった。……いや、顔は無かった。
それが誰かわかったのは、胸につく、写真とナンバーのついたプレートのために過ぎない……その躯には首が無かったのだ。
喰われたのだ。
「ッ……!」
彼がやったのは明白だった。こいつは吸血鬼(ヴァンパイア)だった――確か口の近くに印を持っていた……首ごと、喰われたか。
辺りを見回すが彼の姿はない。既にどこかに移動したのだろう――何処に行ったかは解らないが、とにかく俺は走り出した。
してはならないことをした。最悪だ――第一研究所(ここ)は消える!
「くそっ!」
毒づきながら走る。けたたましいサイレン、目の中を全て紅に染める光。
目に付く人間、あるいは印持ちは全て死体だった……印持ちは当然のように、身体のどこか一部が無くなっている――手首から先が、あるいは腕を丸ごと、脚部。臭いと、レッド・ランプによってどす黒く見える血だまりに吐き気を抑えながら、俺はとにかく、走った。
第一研究室、放送室、隣り合う第三、第四研究室――食堂、宿舎。
どこにも死体ばかりで、彼はいない。
だが。
そこにたどり着き、俺は小さな眩暈を覚えた。
た ぁ ん っ
板張りの空間――体育館に、足音が響き渡る。
――彼は此処に、運動能力の検査のためとかで、たびたびやってきていたはずだ。
予想通り、広い場所に一人少年が立っていた。
緑色の髪を紅く染め、目をわずかに細め、血塗れで、立ちすくみながら。
じっと、こちらを見つめている。
「オセロ――!」
「来ないでよ」
静かに彼は言い放った。くぐもった声に混じって、口からぼとりと赤黒い筋が垂れる。
「……来ないでよ!
何でっ……何で僕を殺そうとするのさッ!? 死なせようとするんだッ……」
「オセロ」
近寄ろうとする俺を睨みつけ、わずかに後退り、拒むように首を横に振る。
「
炎獣は僕が嫌いなのッ!?」
「違います、そんなわけじゃッ!」
「じゃあ、何で!」
「……それは」
俺は思わず口ごもる。
本当に……俺は、どういうつもりで彼を撃ったのだろう。
――自分でも解らないというのが俺の答えだった。
命が惜しかったと言うわけではないと思う。
……他の者に殺されるぐらいなら、と言う執着のような感じともまた違う。俺が殺そうが誰が殺そうが、彼が死ぬことに変わりはない。
「俺は……」
言いかけ。
気配に、足音に、振り向く。
体育館。入り口から少し離れ、男が立っていた。血塗れの、右腕を失った。
――『チーフ』と呼ばれていた男。
「
印……
喰ァアア!」
無い右腕ではなく、在る左腕を構え、男が吠える。
手に握られているのは、――
「やめ――っ……」
叫びかけ、男に走り寄る――その前に、男は手に持ったそれ、拳銃の引き金を引いていた。
――銃声と、胸に走る痛みと。
視界が回る。血が舞う。
「
炎獣!?」
彼の声が聞こえる。それに次ぐ男の絶叫と――足音と、何かが倒れる音と。
……俺は目を閉じてそれを聞いていた。意識を失うのにそう時間はかからなかった。
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