2.ダブル




「……処分されたはずだったんですよ。二年前にね」
 楡月にれつきは言い、ちらりとこちらに視線をくれた。
 後部座席に炎獣サラマンダ巨獣ベヘモスが、助手席に楡月が座っている。
 巨獣は楡月の話を聞きながら、横目で炎獣を見た。暗い車内では表情はよく見えないが、手を組み俯いて、眉を寄せて苦い顔を作っていた。
 あの後、楡月の案内でこの車まで歩いた。乗ってから十数分は経っただろうか。街から外れ、郊外の方へと車は走って行く。
 炎獣は、あれからずっと黙り込んでいた。
「――でも、残っていた。そういうことです」
「何故だ? だって、処分されたんだろう?」
 楡月は少し笑んだようだった。
「……印持ちの死体は、研究所に山ほど存在した。その事実は、貴方や炎獣の方がよく知っているのでは?」
 言われ、巨獣は沈黙する。
 ……印持ちには死体にも研究価値がある。
 ただし、それは珍しい種類ならばの話だ。巨獣や炎獣のような比較的数の多い種類は殆ど研究され尽くしていて、所内に置いておいてもそう意味はない。社会に適応できると判断されたものは外へ出され、所内で死んだものはまとめて焼却される……確かにそう言う死体を使えば、印喰の屍を作ることなど容易だろう。
「だけどそんなのは見た目だけだろう。すぐにバレるはずだ」
「もともとはその仕掛けが露見する前に、〇一ゼロイチを逃がす算段だったようですね」
 時間稼ぎ、と言うことか。だが、それならば逃げた、と解るはずである。それが死んだことになっている、と言うことは…… 
「……その計画が、どこかで狂ったと?」
「と言うよりは、よりスムーズにいった、と言うことでしょうか。結果だけ見ればの話ですが」
 楡月は言って、俯いたままの炎獣を見た。
 つられてそちらを見、あ、と巨獣は声を上げる。
〇〇ダブル・オーか」
 ――黄緑色の長髪、紅い目、頬や腕、身体の至る所に浮かぶ印。
 二年前。
 あの時〇〇は傷を負い、傷の修復の為に印持ちを喰っていた。「喰う」ことで傷を修復し、能力を奪い、自身の能力ものとする。外見上は年を重ねることはない。子供の姿のまま、痛みを知らず、人間の身体能力を遥かに凌駕し、印持ちを喰わなければ生きて行けない。
 人間が印持ちの力を化物のものだと恐れるなら、印持ちが化け物だと言うのならば、人間が作り出した、その人間をも躊躇いなく殺す印喰は一体何なのか。
「そこの炎獣が〇〇を殺し損ねたために、死体は詳細な検査をする前に灰になり、〇一は死亡したことになった――ただしその代わり、貴方のご友人は亡くなられた」
「……この二年間、印持ちの変死はなかったはずだけれど」
「失踪ならありましたよ」
 楡月は視線を炎獣の方へ向けた。外から差し込む弱い光の中、楡月が皮肉っぽく笑っているのが何となく解る。
「この二年で七件。それでも全てが全て〇一の仕業ではないでしょうが。
 負傷でもしない限り、印喰はそう養分の摂取を必要としませんから……おや」
 着きましたよ、と言う楡月の呟きとほとんど同時に車は止まった。
 着いた、と言っても、車道の端に車を停めただけだ。辺りに建物はなく、道の脇には畑が広がるばかりである。点々と電灯が続いているが、心許ないものでしかない。
「ここから少し歩きます。着いてきて下さい」
 長髪が風に吹かれるのを押さえながら、楡月は歩き出した。




 ――いつも一緒だった。
 その男と彼は、会ってからずっと、ほとんどの時間を共に過ごした。食事を取るときも睡眠時も排泄の時もそれ以外の時も。大抵ずっと、男は彼の傍にいた。離れたことはほとんどなかった。
 男は彼の飼育係で監視役だった。彼の様子を見守り、事細かにメモを取り、会話を映像も含めて記録したりもした。血液などを採取するのも男が行った。彼はその部屋から出ることがなく、その部屋には彼と男しかいなかったから、男以外のものと顔を合わせることはほとんどなかった。
 よく話す男だった。くだらないこと面白いこと、何でも話した。彼は男の言葉から部屋の外を知り、部屋の外の外を知った。
 男に会ったその瞬間から男は彼の世界であり、それは男が死んだ今もあまり変わっていない。




 人間に危害を加えず、また人間を守る。
 それに反しない限り人間の命令に従う。
 そしてそれ以外の場合にはできうる限り自分の身を守り、自身を維持する。
 人間が印喰に求めたのは、そう言う、SF作家が思い描いたロボットのような存在だった。
 人間の命令に従う印持ち。それがどこで印持ちを食う化物マーク・イーターとなっていったのかは定かではない。計画自体は五十年以上前から進行していた。当時から関わっていた研究者は、今はもうほとんどがこの世にない。
「――初めは印持ちをベースにして作ろうとしたようです」
 連れて来られたのは、楡月の事務所らしき場所だった。言い切れないのは特に説明を受けなかったからだが、恐らく間違いはない。一階建ての古い建築物である。
「……例えば、洗脳や、薬物投与。これは失敗しました」
 十一畳ぐらいの部屋に、来客用らしきソファが二脚、向かい合って置いてある、その片方に腰かけて、俯いたまま炎獣は話していた。声は小さいが、妙に流暢で聞き取り難くはない。
 巨獣は炎獣の隣に腰を下ろし、楡月はその向かいで足を組んで座っていた。
「能力を失ったり、身体が麻痺したり、記憶障害が出たり……とにかく、うまくは行かなかった」
「……能力を失った?」
「えぇ、印が消えるそうです。信じがたい話ですが」
 言われ、巨獣は思わず自分の右腕を見る。浮かび上がった黒い印――これが消えるなどということがありうるのか。この印があることで得をした、と言う記憶は全くないが、印が消える、なくなる、と言うのは、少し想像がつかなかった。
「その時の失敗作は、数体のサンプルを残して後は殺されました」
 足を組み直し、楡月が炎獣の話を継ぐ。淡々としているが、表情は暗い。確かに胸の悪くなる話だが。
「そのサンプルも完成体マーク・イーターが五体作られた時点で用済み、やはりこれも処分されたようです」
「――死体だらけってわけか」
 その印喰も二年前に処分が決定し、殺され損なった〇〇によって多くの人間と印持ちが死んだ。その〇〇もそこの炎獣によって殺され――今では恐らく、〇一を残すのみである。五十年以上もかけて、よくもここまで不毛なことをしたものだ。
「今さらですけどね。死体だけなら今でも山積みですから。――人間の研究によって」
 楡月は渋面を作り、そう吐き捨てた。
 ……そう言う楡月も人間だ、と巨獣はふと思う。
 人間の研究によって、今まで沢山の印持ちが死んできた。それは事実だ。しかし、楡月の口調はまるで……
「まるで自分が印持ちみたいに言うんだな」
 楡月は、人間の側に立っていない。
 非道な研究を、自分が人間の代表のようにこちらに詫びる様子も、悔いることも、憤ることもしない。
 楡月は首を傾げ、あぁ、と声を上げて口を覆う。
「私の妹が印持ちだったので、それでついね」
 ――二年前、彼の妹さんにご不幸が。
 昼間、病院で。炎獣は確かにそう言った。その後すぐに、これ以上の話はできないと。
「妹さん……が、印持ちだった、と言うのは……」
「死んだんです。二年前に、印喰に殺された」
 巨獣は思わず横に座る炎獣を見た。俯いたままの炎獣は何も言わず沈黙したままである。
 ……成る程。そう言うことか。
「それで……こいつはあんたの使い走りをしているわけか」
「彼は印喰を知る、数少ないものの一人ですから」
 楡月は無表情だ。口調を荒げることもない。妹の死の原因を、間接的にとは言え作った男を前にして、これ程平静でいられるものだろうか。
 この男は――どこか、変だ。
「……気が知れないな」
「はい?」
 部屋の中は静かだ。どれだけ小さな呟きだろうと、大きく聞こえる。今の言葉とて囁き程度だったのだが、楡月の耳にはしっかりと届いたらしい。
 それでもよく聞こえなかったのか、それとも聞き取った上でか、楡月は問い返してきた。巨獣は何とはなしに不機嫌になり、顔を歪めて相手を睨む。
「あんたの妹が死んだのは、こいつが〇〇を殺し損ねたせいだろう。何とも思わないのか?」
「同じ問いを貴方にもお返しできますよ。貴方の親友が死んだのはそこの彼が〇〇を殺し損ねたから――何故、そう平然と隣に腰掛けていられるのかと」
「……それは」
「もっとも私と貴方では少し違うかも知れません。
 貴方と貴方のご友人はとても仲がよかったそうですが、私と妹は――」
 言葉を切り、楡月は息を吐く。
 ――そこまで言われて、巨獣はやっと思い至った。楡月は人間……その妹が印持ちなら、二人は会ったこともないはずだ。
「私は正直、妹が死んだと言われても実感が湧かないんですよ。その上に、直接妹を殺したわけでもない炎獣を憎めと言われても困る」
 もっとも、と続けて、楡月は炎獣を見やり、
「〇一は、私や巨獣のようにはいかないですよ。炎獣」
「……はい」
 言葉に、俯いたまま炎獣は頷いた。その陰鬱な表情に眉をひそめ、巨獣が口を開く前に、楡月はこちらを向く。
「とてもいい方だったんでしょうね。貴方のご友人は――」
「……何?」
 不意を突かれ、巨獣は思わず聞き返した。楡月はにこりともせず、
「〇一は炎獣を探しています。恐らくは――殺すために」
 あっさりそう言った。




 裏切られた。
 事実を、苦々しく少年は噛み締めた。
 夜だと言うのに辺りは明るい。空は街の明りに照らされて黒とも蒼とも言えない色を見せていた。喧騒はやや遠い。ビルの間、どこからも死角になる人通りのない袋小路で身体を丸め、少年は下唇を噛む。
 群青色の髪に紅い目。年の頃は十五、六か。眉の上と頬から鼻の頭、そして身体のそこかしこに、刺青のような黒い印が走っている。
 裏切られた。何度も心の中で呟きながら少年は目を閉じた。信じた自分が馬鹿だったのか。それとも――いや。
 ……あの男。あの男ども・・
 彼の大切なものを二つも奪った。もう決して取り戻せないそれを、彼から奪っておきながら、のうのうと生き延びているあの男。兄と、兄に殺された巨獣。全てはあの男が、あの男のせいだ。……だから少年は、話に乗ったのだ。
 印持ちがどうなろうと知ったことではなかった。いや、少年は印持ちを喰わなければ生きてはいけないのだから、本当にどうでもいいと言うことはないだろうが……それでも、どうでもよかった。少年がその提案に頷いたのは、あの男を、炎獣をうまく殺せると思ったからだ。その話に乗れば、炎獣を見つけられると思ったからである。それなのに……どうして。

 どうしてあの人間は炎獣と一緒にいるのだ。

 少年の復讐を肯定し、それが自分の役に立つなら別にいいと言った。その人間が、炎獣の場所を知っていながら教えずに自分の傍に置いていた。炎獣に自分を襲わせた。裏切られた。そう言わずして何と言うのか。
「――誰だ」
 誰何の声を上げて少年は顔を上げる。聞いてからおかしな気持ちになった。相手が何者か、確かめたところで何だと言うのか。どうせ殺すのだ。姿を見られた相手を生かしておくわけにはいかない。自分は死んだことになっている。噂が立てば人間たちは自分を狩り立てるだろう。そうなれば逃げ切れない。だから――
 ……かつん、と、足音が響いた。
 街灯の類がなくとも、街の明りが差し込んでくる袋小路はそれなりに明るい。
 そこに、すっと一つ影が落ちている。光を背に受けて、それは少年をじっと見下ろしていた。
「――随分と落ち込んでいるようですね? 印喰マーク・イーター
 声に。
「……お前……!」
 少年は立ち上がり、険しい表情で叫ぶ。
 長い黒髪に鋭い黒瞳、女のような顔をした若い男である。年齢は二十くらいか、それよりも少し若いか――そいつは。
 少年の視線を受けて、逆光の中でにこりと微笑んだ。




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