「あしたのジョー」実写版はスゴい!

 何が、スゴい! かって、もう笑っちゃう位、スゴい!  それは、役者が本気で演技すればする程、喜劇に見える――そういうスゴさなのだ。そう言えば、 「ルパン三世」の実写版も、同じ様にスゴかった。「アタックNO.1」実写版の岡田可愛も、やはり スゴかった。同じ日にアニメ版「あしたのジョー」の劇場版もTV放映されていて、つい見比べる事に なってしまって、逆に面白い発見があった。と言うか、当たり前と言えば当たり前な発見なのだが、(えら く勿体を付けるが)つまり、アニメーションというのは、実に、まんがを映像化する のに最適な手法だった、という事なのだ。「そんなの当たり前ジャン!」と言われそうだが、 今まで、当たり前過ぎて、アニメを見ながらその事に思いを馳せる事が無かった、という事に気づいたのだ。
 例えば、小説が原作の映画や、小説のアニメ化。違和感を感じた事は多々あった。勿論、まんがのアニメ 化でも、それが皆無かと言えばそんな事は無い。絵が違うよ! とか、原作の(まんがの)イメージが壊れ た! とかいうアニメだって多い。しかし、まんがを実写映画にする、とか、小説をアニメにする、という 事とはまったく次元が違う処に、まんがをアニメにするというシチュエーションはあるのだ、という 事に気が付いたのだ。「ったり前ジャン!」と言わないでネ! (あっ! 石投げないでっ!)
 そして、これは、多分、日本のアニメーションが築き上げた技術なのだ。アニメーションの始まりを 何処に置くかは、意見の異なる処だろうが、取りあえず、現代アニメーションの出発はディズニーと考えて もいいだろう。そして、ディズニーのアニメーションはまんがのアニメ化では無かったのではないか?  もしかしたら、ミッキーマウスやドナルドダックのまんがが先にあったかも知れない。(詳しくご存知の 方がいらっしゃれば ご教示下さい。)けれど、ディズニーのアニメーションはアニメーションの為の アニメーションなのだ。処が、日本のアニメーションは、それも、初期の東映の劇場用アニメーション (『白蛇伝』など傑作だったな〜)ではなく、今や巨大産業に成長したTVアニメーションこそ、 まんがをアニメーションにする為のアニメーションなのだ、と思えてならない。 その事を、実写版「あしたのジョー」とアニメ版「あしたのジョー」を見比べながら実感したのだった。 (あ、ご存知だとは思うけれど、アニメ版「あしたのジョー」劇場版は、TV版の総集編だからネ。)
 そして、いみじくも、日本の現代まんがの出発点たる手塚治虫の試みは、ディズニーのアニメーションへ の憧れを紙の上に定着させる処から始まったのだ。そしてさらに、日本のTVアニメーションの出発こそ、 この手塚まんがのアニメ化だったのである。
 とまあ、大袈裟な話は置いといて、実写版「あしたのジョー」とアニメ版「あしたのジョー」を見比べな がら、アニメってまんがを見るように見ているのだな〜と実感したという話でした。(勿論、映画を見るよ うに見てしまうアニメーションもあるけれど。)

 余談をひとつ。実写版「あしたのジョー」で、白木葉子が力石を「力石さん」と呼ぶのだ。監督 も俳優もちゃんと原作を読めよな〜!!

テキスト:実写版「あしたのジョー」(1970年・新国劇映画、日活)
     アニメ版「あしたのジョー」劇場版(1980年・三協映画、富士映画、ヘラルドエンタープライズ)

(2001.08.06)


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