ガラスの器11

 

「龍神の神子?」

紅牙沙が聞き返した。

「そうだ。知っていることを何でもいい、話してくれ。」

「龍神の神子か…懐かしいのう。」

紅牙沙は目を細めてそう言った。

「おまえは、龍神の神子に会ったことがあるのか?」

泰継は身を乗り出して、紅牙沙に問うた。

「ああ。どうしても一度神子に会ってみたくての。泰明に北山まで連れて来てもらった

 のじゃよ。」

そう言うと、紅牙沙は

「ふぉふぉふぉ」

と見た目とは似つかわしくない笑いを漏らした。

「して、龍神の神子は?」

「龍神の神子は…」

泰継は息を呑んで紅牙沙の次の言葉を待った。

「かわいかったのう。それにとっても気立てがいい娘じゃった。泰明にはもったいない

 ようないい娘じゃ。」

「かわいい? もったいない?」

泰継は訝しげに紅牙沙の言葉を繰り返した。

 

――わからぬ…どういう意味なのだ?

 

「ふぉふぉふぉ。おまえにはわからんだろうよ。」

泰継はちょっとムッとしたような表情を浮かべた。

常人から見ればわからないような微妙な変化なのだが、紅牙沙はそのほんの小さな表情

の変化も見逃さなかった。

 

――ほんにようここまで成長してくれたものじゃ…

 

「それから?」

泰継は先を促した。

「それだけじゃ。」

紅牙沙は小さな羽根をバタつかせて、涼しい顔でそう言った。

「それだけ?」

「あとはな〜んも知らん!!」

「おまえは直に神子に会ったことがあるのだろう? ならば封印のことや龍神の力の

 ことなど神子自身に関することを聞いてはおらぬのか?」

泰継は少し紅牙沙に詰め寄った。

「わしは龍神の神子に直接関わらぬゆえ、ちょっとばかり世間話をしただけじゃ。

 それゆえな〜んも知らんのじゃ。直接話をしたのも後にも先にもその一度だけじゃし

 な。ふぉふぉふぉ。」

泰継には紅牙沙が本当のことを言っているのか、それともわざと何かを隠すためこのよ

うに言っているのか、皆目見当がつかなかった…

だが、彼がそれ以上語ってはくれないであろうことは容易に感じ取ることができた。

泰継は一つ大きなため息をついた。

「仕方ない…」

泰継はそうつぶやくと、紅牙沙をこれ以上追求することをあきらめた…

 

――人間もわからぬが、天狗もよくわからぬ…

 

泰継はまた一つため息をついた…

 

 

 

「晴明の予言した鬼の復活まであと10年か…」

紅牙沙は庵からの帰り道、あの時の晴明の言葉を思い出していた。

「京の危機…か。果たして本当に次の龍神の神子は降臨するのだろうか?」

紅牙沙はいつになく真剣な眼差しでひと言そうつぶやくと山奥へと消えて行った…

 

 

 

それから2年後…

その日、泰継が文机の前に座り、いつものように泰明の書に目を通していると、庵の戸

を叩く者があった。

先ほどから複数の人間がこの北山に入って来た気配は感じていたのだが、まさかその者

たちが自分を訪ねて来ようとは、泰継はまったく予想だにしていなかったのである。

 

戸の前にあるのは見知った気だ。泰継は静かに戸口に近づくと、その戸を開けた。

「有行か、何用だ? いつもは式を飛ばして来るのに、おまえが直々に出向いて来ると

 は…何かあったのか?」

泰継は無表情にそう聞いた。

「今日は特別の用でな。このお方のことで…」

有行は、自分の後ろの方に目をやった。

泰継がその方向を見やると三つの輿が静かに下ろされるところであった。

 

中から出てきたのは、いかにも高級貴族という風体の男とその北の方らしき女人、そし

てもう一人、年のころは15ぐらいであろうか。うぐいす色の髪をした少年が一人…

この貴族は見たことがある。確か今を時めく藤原氏の大臣…確か内裏の穢れを祓う時に

何度か顔を見たことはある。

帝と相対している院の側の人間ということで、直に話したことはないが…

 

泰継が輿から降りる三人を見ていると、その北の方らしき人物が泰継の方を見た。

そして、次の瞬間、その女人は泰継の方に真っ直ぐと駆け寄って来たのである。

そして、泰継の手を強く握り締めると、その女人は言った。

「安倍の泰継殿ですね。私たちはぜひあなた様にお願いしたいことがあるのです。」

身分の高い女人のこの意外な行動には、さすがの世間に疎い泰継さえもいささか驚いた。

もちろん表情に出すほどではなかったが…

いくら輿に乗ってとはいえ、大貴族の北の方が直接このような山奥の庵に出向いて来る

ことも異例であれば、ましてや見知らぬ者の手を握り、直接話しかけることなど異例中

の異例だ。

泰継は有行の方を振り向き、たずねた。

「これはいったい何事だ?」

有行は

「すまぬ、泰継。順を追って話す。」

と答えた。

「そうしてくれ。」

泰継はすぐにそう答えた。

「まずは、この方々を中へ。ここで立ち話というわけにも行かぬので…」

「わかった。」

「ささっ、大臣様方、取りあえずは中へお入りください。話はそこで…」

藤原の大臣は

「うむ。」

と頷くとその北の方と少年を促して、庵に入って行った。

 

有行は輿を担いできた人足どもに、いったん山を降り、また夕刻ごろにここへ迎えに来

るよう言いつけた。そして、人足どもが去ったのを確かめると自分もまた庵の中へと

入った。

 

小さな庵ゆえ5人もの人が入ると本当に人一人立つ隙間もない。

「大臣様、すみませぬ。このようなところに出向いていただきまして。」

有行が言った。

「いや、構わぬ。それよりこの者で大丈夫なのだな?」

「はい。この泰継が一番適任かと思われます。安倍家の者の中でこの者ほど力のある者

 は他におりませんから。」

「まったく話が見えぬ。」

少ししびれを切らせた泰継が口を開いた。

「すみませぬ、大臣様。この者の口の利き方には少々問題がありまして…」

「気にするな、有行。この者の働きは内裏で見せてもらったことがある。そして、いく

 つかの噂も。口の利き方など別に構わぬよ。それよりこの者に今日ここに赴いた用向

 きを教えてやってくれ。」

それを聞いて、有行は深々と大臣に頭を下げると、泰継の方へ向き直って話し始めた。

「泰継、おまえに“記憶封じ”の呪いをかけてもらいたいのだ。」

「“記憶封じ”の呪い?」

泰継は聞き返した。

「そうだ。このお子に。」

有行は二人の間にいる少年を掌で丁寧に指し示した。

「なぜ、そのような必要がある。この者の何を封じる必要があるのだ。」

泰継は聞き返した。

「そのわけは今から大臣様が話してくださる。念を押しておくが、これから話すことは

 一切他言無用だ。」

「他の者になど話すわけもないものを。なぜ念を押す?」

泰継は有行にそう言った。有行は苦笑しながら

「そうだな、お前には念押しなど無用だったな。」

そう言うと、大臣に話を促した。

そして、藤原の大臣は語り始めた…

 

 

 

 

ある日、大臣が神泉苑を散策していると急に目の前に一人の少年が姿を現した。

あまりの出来事に大臣は驚いたが、そこはさすがに宮の重責を担うだけの人物である。

冷静にその様子を見ていた。

その少年の出で立ちは今までに見たこともないような面妖なもの。物の怪かとも思った

がどうやらそういうわけでもなさそうである。

少年は驚いたような目で辺りを見ていたが、次の瞬間には、その場に崩れるように倒れ

落ちた…

 

大臣は目の前で倒れた少年を見て、どうしたものかと考えた。このままここに置いてお

けば、きっと検非違使にでも見つかり、この出で立ちではどんな目に遭わされるかわか

らない。大臣は何だか目の前の少年が不憫に思えて来た。

大臣は少年に近づくと、おのれが着ていた直衣を脱ぎ、その少年に着せ掛けた。そして、

自らその華奢な少年を担ぎ上げると、自分の牛車に乗せ、屋敷まで連れ帰ったのである。

迎えに出た北の方は大臣が自ら担いで来た少年を見て、大いに驚いた。大臣は屋敷の者

に見られることを恐れ、自らの手で少年をこの北の対まで運んで来たのである。

「殿、どうしたのですか、これはいったい?」

北の方は仰天して、大臣にたずねた。

「ああ。私が神泉苑に出向いた時、急に私の目の前にこの者が現れてな、しばらく眺め

 ていると不意にこの者が倒れたのだ。だから、連れて来た。」

「だから連れて来たって、殿!?」

大臣は真剣な目で北の方に言った。

「この者が目を覚ますまで、ここに置いてやってはくれぬか?」

「ここに…でございますか?」

「ああ、そうだ。この者は会った時、妙な服を着ていてな、今はあまり人目にさらした

 くないのだよ。」

北の方は一瞬考えたが、すぐに

「わかりましたわ。殿がお望みになるのでしたら、その意のままにいたしましょう。」

そう答えた。

「おまえならきっとそう言ってくれるだろうと思ったよ。」

大臣はそう言うと、北の方に笑顔を向けた。

「では、よろしく頼む。」

「どこにいらっしゃるのですか?」

「この者のことが他に知れていないか、少し調べに行く。また、後で様子を見に来るよ.

「承知いたしました。この者のことは私にお任せください。いってらっしゃいませ。」

北の方はそう言って、大臣を送り出した。

 

残された北の方はすぐに古参の信用できる女房を呼び出して、少年の服を変えさせた。

女房は心得たもので、何も言わずに手早く支度を整え、少年を褥に横たえた。

女房がたたんでいる少年の服を見て、

「確かに面妖な… 異国の服であろうか?」

と北の方はつぶやいた。

 

北の方は少年が寝ている間、ジッと少年の顔を見ていた。もう元服をすませてもいいぐ

らいの年頃に見えるのだが、どこかまだ幼さを残す寝顔にジッと見入っていた。

「私にもこのようなお子がいれば…」

北の方は自らの手でその額の汗をぬぐってやりながら、そう思った。

 

夜半、大臣が戻って来た。

「どうだ? あの者は…」

「はい。まだ眠ったままでございます。」

「そうか…」

大臣はそう言って少年の方を見やった。

「そちらはどうでしたの?」

北の方が聞いた。

「どうやらあの者の出現を見た者は誰もおらぬようだ。おそらくこの者のことを知って

 いるのはわしだけだろう。」

「まあ、そうですの。」

「あとどれぐらいで目を覚ますか知らぬが、今夜はこのままここに置いてやろう。」

「はい。かしこまりました、殿。」

奥方は微笑みながらそう答えた…

 

翌日、昼頃になって少年は目を覚ました。

しばらくは自分が今、どうしてこんなところにいるのか全くわかっていないようであっ

た。しかし、夜着を着せられていること、そして、褥に寝かされていたことに気づき、

少年は二人に丁重に挨拶し、礼を述べた。

その礼儀正しさを大臣も北の方も好ましく思った。

「おまえの名は?」

大臣が聞いた。

「幸鷹と申します。苗字は…」

少年は言いかけて、

「すみません。思い出せません。」

そう言った。

「では、おまえはどこから来たのだ?」

大臣がまた聞いた。

「どこから…」

少年は頭を抱えて苦しそうな表情をした。それを見た北の方が口を挟んだ。

「殿、まだ気がついたばかりなのですよ。立て続けに質問をしたらかわいそうでは

 ありませんか!」

「ま…まだ、名とどこから来たかしか聞いておらぬが…」

大臣は北の方の剣幕にしどろもどろしながらそう答えた。北の方は

「さあ、幸鷹殿。もう一度横になった方がよろしいですわ。」

そう言って、自ら幸鷹を促した。

「ありがとうございます。」

幸鷹はそう言って、北の方に言われるまま褥に横たわった。そして、大臣に

「すみません。今は記憶が混乱していて…。せっかく助けてくださった方に上手く説明

 できませんで…。」

と詫びた。大臣も

「いや、いいのだ。もう少し落ち着いてからたずねることにする。今は休みなさい。」

と言った。

「お言葉に甘えてそうさせていただきます。お世話になってばかりで本当に申しわけご

 ざいません。」

少年はそう言うと、また、眠りの中に落ちて行った…

 

数日後、大分意識のしっかりしてきた幸鷹と名乗る少年が話した内容はこうである。

自分はどこから来たのかわからない。記憶もところどころ欠損していて、自分がどうい

う人間であるか定かではない。自分が確かな記憶として持っているのは、“幸鷹”とい

う名前と15という年だけであると。

だが、幸鷹の話の節々に見られる言葉の中に大臣はこの者が全くの異世界から来た人間

であるということを感じ取っていた。聞けば、前の龍神の神子も異世界から来たお方と

聞く。神子が異世界から来たのなら、おのこが異世界から来ることもあるかも知れぬと。

着ていた着物といい、話の節々に現れる見知らぬ言葉といい、そうでなければ説明がつ

かない。

 

やがて、幸鷹の身体の方も大分回復してきた。

「このままいつまでもこちらでお世話になっているわけにも行きませんね。」

そう思った幸鷹はある日、大臣と北の方にこの家を出て行くことを申し出た。自分のよ

うな者がいつまでもここにいるわけにはいかないと。幸鷹の言葉を聞いて、二人はたい

そう驚き、必死に幸鷹を引き留めた。何日間か幸鷹を見て来た二人はその礼儀正しさ、

やさしさ、そして聡明さをすっかり気に入っていたのだから…

 

幸鷹が部屋を辞した後、北の方は大臣にとんでもないことを言い始めた。

「殿、私はあの幸鷹を自分の子として引き取りたいと思います。」

「何と!」

これにはさすがの大臣も驚いた。

「私は長いこと子に恵まれませんでした。そして、これから先も子を持てるかどうか

 わかりませぬ。ぜひあの幸鷹を実子として育てとうございます。」

北の方のこの必死な訴えを聞いて、大臣はしばし考え込んでいたが、やがて

「いいだろう。我らの子として引き取ることにしよう。」

と重い口を開いた。大臣とてこの幸鷹をとても気に入っていたのだから。

 

北の方は大いに喜んで、すぐに幸鷹にそのことを告げに行った。

その話を聞いた幸鷹は

「とんでもございません。大臣様とお方様のご好意はたいへん嬉しいのですが、私は

 どんな素性の者かもわかりません。まして、今までの記憶がない私など、おそばに

 置いておくのは、お二人のご迷惑になります。」

それを聞いて、北の方は幸鷹を抱きしめて、言った。

「いいのです、幸鷹殿。私たちがあなたを守ります。私たちは…私はぜひあなたに

 私たちの子どもになってほしいのです!」

「お方様…」

少し遅れて入って来た大臣も幸鷹に言った。

「そうだ、幸鷹。我らはそれを望んでいる。もし、おまえが嫌でなかったら我らの

 わがままを聞いていただけないだろうか?」

「そんな…わがままだなどと…でも、本当にいいのですか? こんな私でも…」

「そなただからいいのです。そなただからこそ我らのもとにいてほしいのです。

 それとも私たちの子どもになるのはそんなに嫌なのでしょうか?」

「そんなことはありません。本当に大臣様とお方様が私のような者をお望みになるの

 でしたら、私に何の異存がありましょうか。こちらこそよろしくお願いいたします。」

その幸鷹の答えを聞いて二人は安堵した。そして、幸鷹は二人の子になることになった。

 

普通なら養子にするのが妥当であるのだが、北の方のたっての希望で幸鷹は二人の実子

として引き取られることになった。身体が弱く、ずっと田舎の別荘で育てたことにして…

そういったことは貴族にはよく見られるので、それを聞いても誰も不思議には思わなかっ

たのである。

だが、幸鷹の15年分の記憶だけはどうにもならなかった。そして、時折、幸鷹の口か

ら発せられる異世界の記憶の断片…

このままでは、出仕させることもままならない。

そこで、思い余った大臣は最も力があり、信用できる安倍宗家の有行にそのことを相談

したのである。相談を受けた有行は大臣の熱心な訴えに負けて、幸鷹の記憶の封印と京

人としての新しい記憶の植付けを引き受けることにしたのだ。

 

そして、今日、有行が3人を連れてここ北山の泰継の庵を訪ねることとなったのである。

 

 

 

 

「だが…」

話をすべて聞き終えた泰継が口を開いた。

「“記憶封じ”の術など所詮まやかしだ。いかな私とて人の記憶を完全に取り去って

 しまうことはできぬ。記憶の封印など、いつ何時、解けるかわからぬぞ。」

「それでもよろしゅうございます。例え一時であろうともこの子のためになるのなら。」

北の方は迷いのない目でそう言い放った。

泰継にはとうていこの北の方の思いは理解できなかったが、大臣とその北の方がこれほど

望み、安倍家がその仕事を受けたのなら、別に反対する理由は思い当たらなかった。

あとはおのれの分としてその仕事を引き受けるまで。

「では、その依頼、確かに私が引き受けよう。」

泰継は4人にそう言った。

北の方は涙を流しながら「ありがとうございます。」と何度も何度も繰り返した。

大臣もその横で嬉しそうに頷いていた。

 

――たかが、依頼を受けるというだけで、このように涙まで流すなど…やはり人の考える

  ことは私にはわからぬ…

 

泰継は呪いが終わるまで、幸鷹を預かることになった。

夕刻になって再び輿が迎えに来た。

庵を出る前に大臣は

「これを…」

と言って、泰継に包みを一つ手渡した。

「この子が着ていた服じゃ。そなたの手で処分してもらった方がいいと思ってな。」

「心得た。」

泰継はその包みを受け取りながら、そう答えた。そして、幸鷹の方に目をやると

「あのガラスは?」

と幸鷹の目を覆っている何やら変わった形の透明な目隠しのようなものを示した。

「そなた、よくガラスを知っておったな。我々でもなかなかお目にかかれぬ貴重なもので

 あるのに。あれはそのままにしてやってくれ。どうやらあれがないと物が見えぬらしい

 のだ。」

「…わかった。」

泰継はそう答えた。

 

「一人で大丈夫か? 私も手伝った方がよいか?」

庵を出る時、有行がそう言った。

「いや、大丈夫だ。問題ない。」

「そうか… なら、頼むぞ。」

有行はそう言うと、大臣たちとともに北山を下りて行った。

 

 

 

二人きりになると泰継は幸鷹に聞いた。

「本当によいのだな。」

「はい。大臣様とお方様は見ず知らずの私を心から歓迎し、今日まで親身になってあれこれ

 お世話してくださったやさしい方々です。お二人が喜ばれるのでしたら、私は喜んで。」

「…わかった。」

そう言うと、泰継は小さな薬の瓶を持って来て、幸鷹に手渡した。

「これを飲め。そして、そこに横になれ。」

「はい。」

幸鷹はそう短く答えると、何の躊躇もなくその瓶に入った液体をすべて飲み干し、言われ

た通り、粗末な褥に横になった。そして、

「よろしくお願いいたします。」

そう言うとゆっくりと目を閉じた。

 

やがて幸鷹が眠りに入ったのを確認すると泰継は低い声で呪いを唱え始めた…

 

その声を夢うつつで聞いていた幸鷹の目にはいろいろな景色、いろいろな人物が浮かんで

は消えて行った。それらはやがて少しずつ薄れて行き、そして、いつしか完全に消え去った…

それと入れ替わりに大波のごとく押し寄せて来る新しい記憶…

幸鷹の内はその記憶に徐々に塗り替えられて行った。

それは決して不快なものではない。

むしろ、まるで自分を癒してくれるかのごとく、自然に自分の内へと満ちて行った…

記憶の奥底へと…

 

呪いがすべて終わると、泰継は安倍家に式を飛ばし、幸鷹を迎えに来るよう伝えた。

幸鷹を迎えに来た有行は眠ったままの幸鷹を見て、言った。

「まだ、眠ったままではないか。これで大丈夫なのか?」

「問題ない。大臣の家へ着いてから目を覚ますよう呪いをかけてある。」

「そうか。おまえがそう言うのであれば、大丈夫なのだろう。それでは、大臣の家まで

 私が送り届けよう。」

「そうしてくれ。では、後は頼む。」

 

有行が幸鷹を連れて去ると、泰継はすぐに庵に入った。

泰継は大臣から受け取った包みを開いた。中から出て来たのは見たこともない異世界の服。

短い表着には変わった形の襟が付いていて、外側には何やら袋状のものが二つ縫い付けら

れている。袖もこれで腕が通せるのかと思うほど細い。そして、合わせの部分にはこれま

た珍しい金属製のものが三つ縫い付けられていた。袖の先にも同じようなものが縫い付け

られている。表布も裏布も今まで目にしたことのない素材だ。それに同じ布で作られた細

い袴が一つ。こちらも足がやっと通るぐらいの細さである。そして、その表着と似た形の

白い着物。長めの足袋のようなもの。最後に金属製の留め具がついた革で作られた面妖な

形の紐と変わった形状の沓…どれも物珍しいものばかりだ。いつでも好奇心いっぱいの泰

継はそれらを熱心に眺めていた。

 

――これが異世界の着物か…

 

だが、これをこのままここに置いておくわけにも行かぬので、泰継はそれらを清め、焼き

払うことにした。

 

塩で五星を描き、その中央にその着物を置いた。

そして、呪符を一枚取り出すと、その着物の上に投げ、呪いを唱えた。

するとその着物はたちまちのうちに炎に包まれた。

 

泰継はその炎をジッと見つめていた。

するとその炎の中に何やら一つの像がうっすらと浮かんで来た。

 

――何だ?

 

泰継はその像を凝視した。

その像は最初はゆがんでいたが、徐々に形を取り始め、やがて一人の女人の姿になった。

怨霊かとも思ったが、その像からは何もまがまがしい気は感じられない。

なぜ女人だと思ったのか、自分でも不思議だった。

その像は女人らしからぬまるでおのこのような短い髪をしていたから…

その見知らぬ女人は泰継の方を見て、こぼれるような笑顔で微笑んだ。

 

それを目にした泰継の胸がトクンと一つ鳴った…

 

――何だ?

 

泰継は初めておのが内に生じた説明不可能な不可思議な感覚にとまどった。

 

――いったい何なのだ、これは…

 

泰継が自問自答をしているうちにやがて炎は勢いを弱め、それと同時にその像はゆがみ、

そして炎とともに消えて行った…

 

チリン…小さく鈴の音が一つ鳴った…

 

泰継は炎が消えた後もその灰を見つめたまま、ただそこにひとり、いつまでも立ち尽く

していた…

 

《つづく》

 

Rui Kannagi『銀の月』
http://www5d.biglobe.ne.jp/~gintuki/

 

 

[あとがき]

幸鷹の第3・第4段階で出て来るエピソードをからめてみ

ました。そして、最後に炎の中に出てきた一人の女人…も

う皆さまは誰だかおわかりですね。私の『歌声』というお

話の中では、すでに幸鷹と花梨は現代で一度出会っている

ことになっていますので。(気になる人はそちらも読んで

みよう!→ちょっとだけCM!)

そして、長かった『ガラスの器』も次回がいよいよ最終

話となります。あと一話。最後まで頑張ります!

みなさん、応援よろしくお願いします!!

 

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