ガラスの器7

 

泰継は先ほどから文机の上に置いた泰明の書を開くことはせず、ただじっと見つめていた。

その表に書かれた流麗な文字…それはまぎれもなく泰明の手蹟…

この中には泰明自身によって書かれた言の葉が綴られているという。

何よりも知りたいと熱望していたものがすぐそこにある。それなのに、いざそれを前にすると

さすがの泰継にもとまどうものがあった。

ただの書でありながら泰継をも圧倒するような確かな存在感がそれにはある。

 

――私などが触れてはならぬのかもしれぬ。だが、これを開かなければ泰明のことを知る

  ことはできぬ。

 

この世に生を受けて一年と数ヶ月。何でも合理的に処理してきた泰継には“とまどい”

などという感情が自分の中にあるなどとは思いもよらなかった。

そして、そんな自分自身にもまた…とまどった。

 

 

泰明の書と向かい合ってから、どれほど時が経ったであろうか。

やがて、泰継は意を決すると表紙に手をかけた。

表紙を開くと、まるでそれを待っていたかのようにふわっとほのかな香りがたちのぼった。

それは泰明が好んで身にまとっていた菊花の香…

 

――好ましい香りだ…

 

その香りにそれまでの緊張が少しほぐれたのか、泰継は再び書に目を移した…

 

世が乱れ、末法の世来たる時、異世界よりひとりの神子降り来たる。

そは、龍神に選ばれし聖なる神子。すなわち龍神の神子なり。

神子に仕え守る者、その者たちを八葉と云う。龍の宝玉、八葉を選ぶ。

八葉とはすなわち巽、震、離、坤、乾、兌、坎、艮の八卦に属する者。

それぞれ龍の宝玉をいただき、その身に宿す。八葉は神子の盾となり

剣となり神子を守ることを使命とす…

 

坦々と一切の無駄もなく綴られて行く泰明の言の葉…

泰継はそれもたいへん好ましく感じた。

そして、やがてその書の中に没頭して行った…

 

 

 

 

「おい、泰継!」

泰継は突然自分の名を呼ばれ、驚いて振り向いた。

そこには、吉昌が立って、不思議そうな目で泰継のことを見ていた。

 

――全く気配に気がつかなかった…

 

それほどに泰継は泰明の書に没頭していたのである。

「珍しいな、おまえが声をかけるまで気がつかないなんて。」

吉昌は笑いながらそう言った。そして、泰継の手元を見ると

「何を読んでいたのだ?」

と聞いた。

「泰明の記した書だ」

泰継は簡潔に答えた。

「泰明の書? いったいそんなものどこで見つけた?」

吉昌は不思議そうに聞いた。晴明の息子である吉昌にもそんなものがあるとは

初耳である。

「永泉にもらった。」

「えいせん? えいせん…えいせん… ! 永泉様か!?」

吉昌は驚いて聞き返した。

「永泉様は先々帝の弟宮にして先帝のおじ上にあたられる方だぞ。それを呼び捨てに

 するなど…」

「永泉は僧だ。出家した者に身分が関係あるのか?」

泰継は坦々と聞き返した。

「それはそうだが…。ああ、おまえにこういう話をしてもわかんないだろうな…」

「ならば、最初から話すな。」

泰継はそう言うと、再び書に目を戻した。

 

吉昌は泰継が読んでいる書が気になり、後ろから覗き込んだ。そこには、確かに

見覚えがある文字が書き連ねられている。

「へえ、これが泰明の書か。何が書いてあるのだ?」

そう言って吉昌がその書に触れようとした時である。

 

「!」

 

その途端、吉昌は雷を受けたような激しい衝撃を手に受け、あわててその手を引っ

込めた。

 

――結界?

 

それを見て、泰継は複雑な表情を浮かべた。

 

――結界が張ってあることなど私はまったく気が付かなかった。

  それほどまでに泰明の力は大きいということか…

 

「泰明めーっ!!」

しびれた手をもう片方の手でさすりながら吉昌がうめいた。

「この私まで、排除するように呪いをかけたのか? なんてやつだ!!」

 

――なぜ、私は結界にはじかれなかったのだろうか…

 

泰継は考えた。そして、

 

――そうか、私は泰明と同じ“もの”だからな。ただそれだけだ。

 

自分でそういう結論に達し、また書へと目を戻した。

 

「おい、泰継!!」

吉昌が再び声をかけたが、再び書に没頭し始めた泰継には全くその声は届かなかった。

「ったく、しょうがないな。」

吉昌は小さくため息をつくと持ってきたみやげ物の川魚だけを置いて、庵を出て行った。

吉昌が去った後も、泰継は書から目を離すことはなかった…

 

 

 

 

数日後、泰継は永泉をたずねた。

「よくいらっしゃいましたね、泰継殿。お待ちしておりました。」

にこやかに笑みを浮かべながら永泉が自ら迎えに出た。

「永泉、聞きたいことがある。」

挨拶も飾りもない、単刀直入の物言いに、知り合ったばかりのころの泰明を重ねて、

永泉は少し懐かしさを覚えた。

「それでは、こちらへ。」

永泉は前に訪ねたときと同じ部屋へ泰継を案内した。

 

部屋へ落ち着くと、永泉は聞いた。

「それで、私に聞きたいこととは?」

「龍の宝玉とは何だ? 身に宿すとは?」

“ああ”と頷くと永泉は語り始めた。

「龍の宝玉…懐かしい響きですね。宝玉とは八葉の印。神子がこの京に現れた時、宝玉も

 また力を取り戻し、八葉を選びました。そして八個の宝玉はそれぞれの八葉の身体に

 吸い込まれて行ったのです。私も…」

そう言うと、永泉は懐かしそうに左の掌をもう片方の手でやさしくなでながら続けた。

「ここに埋まっていたのですよ、紫色の小さな宝玉が。頼久は左耳に、天真殿は左肩に、

 イノリ殿は額に、詩紋殿は右手の甲に、鷹通殿は右の首筋に、友雅殿は鎖骨の間に、

 そして泰明殿は右目の下にそれぞれ埋まっておりました。」

「人の身体の中に玉が埋まっているのか!?」

泰継は少し驚いた顔で聞き返した。

「ええ。ですが、全く痛みはありません。目がそこにあるように、鼻がそこにあるように

 それは私たちと一体化して、自然に存在するものでしたから。」

泰継はそれを聞いて少し考えこんでいたが、また口を開いた。

「そして、次に…」

泰継が次の言葉を続けようとした時、急に泰継のもとに一羽の小鳥が舞い込んで来た。

それを見て、泰継は言った。

「安倍家の式か…。何用だ?」

泰継はその小鳥と何やら言葉を交わすと、永泉に言った。

「すまぬ、永泉。今日はこれで失礼する。」

「何かあったのですか?」

「帝に呪詛をかけた者がいるらしい。今向かっている陰陽師だけでは心もとないので、

 私に来てほしいと要請があった。すぐ行かねばならぬ。」

「帝に!? わかりました。私も一緒にまいります!」

力強い口調で永泉が言った。

「おまえも一緒に?」

「私も元八葉。少しはお役に立てましょう。お供いたします。」

永泉は手元に置いてあった笛を手にするとそう言った。

「では、行くぞ。」

そう言うと、泰継は永泉と共に御室を後にした。

 

 

「これか…」

大内裏に着いた泰継はあまりにも禍々しい気に、一瞬眉をひそめた。近ごろ封印してきた

ような小物とは明らかに違う。

泰継は近くで震えている情けない陰陽生に声をかけた。

「吉平と吉昌は?」

「近江の方で怪異があったとかで、今朝早くから調査に行ったままで、まだ戻られては…」

泰継は陰陽生がまだ言い終わらないうちに再び内裏へと向かって走り出した。

 

――吉平と吉昌を遠ざけてから事に及んだのか…用意周到だな…

 

内裏には目に見えるほどの黒雲が立ち込めている。

 

――一刻の猶予もない。ふたりの帰りを待つわけにはいかぬ。

 

泰継を見つけると、黒雲の中の一つが生き物のように蠢きながら襲い掛かって来た。

泰継はそれを呪符でもって退けると、走り続けた。

 

内裏に着くと、さらにその姿のすさまじさが見て取れた。すでに到着していた陰陽師たちは

何とか印を結んで呪いを唱えてはいるものの、すでに恐れのため、集中力をなくし、まったく

効力は失せていた。

 

――こんな者しかいないのか…ならば

 

泰継は内裏の前庭の中央に立つと、印を結び呪いを唱え始めた。するとたちまち泰継の

身体から光の柱が立ち上り、黒雲を包んで行った。

 

「むっ…」

 

泰継は一瞬顔をしかめた。黒雲の勢いはあまりにもすさまじく、光を押し返そうと

暴れまわっていた。その力を身に受けた泰継が、

 

――やはり私ひとりの力では封印は無理なのか?

 

そう思った時である。どこからともなく清らかな笛の音が聞こえてきた。

 

――笛の音?

 

清らかなその旋律はやがて光の螺旋を描き、光の柱とともに天へと舞い上がって行った。

泰継は自分自身の身にもまた今までにない温かな力が満ちてくるのを感じた。

 

――これなら行ける!!

 

そして…

「臨 兵 闘 者 皆 陣 烈 在 前 急々如律令 呪符退魔!」

呪符を手に持ち、泰継がそう叫ぶと、たちまち呪符が赤く燃え上がり、それと同時に、

黒雲は不気味な断末魔の悲鳴を上げ、そして霧散した。

 

チリン小さく鈴の音がなった

 

 

呪詛の消滅を見て取り、永泉はそっと笛から唇を離し、ゆっくりと視線を泰継に向けた。

そして…  

「えっ!?」

小さく声を上げた。

泰継の右目の下に輝く玉を見たから。

 

――あれは…宝珠?

 

だが、もう一度見た時にはそれは消えていた…

 

――私の見間違いでしょうか…

 

視線に気づき、泰継は永泉のもとに近づいて来た。

「あの笛はおまえが吹いていたのか?」

永泉の手に握られている竜笛を見ながら、泰継が聞いた。

「はい。私にできるのは笛を吹くことだけですから…」

「おまえのおかげで助かった。礼を言う。」

そう言うと、泰継は踵を返して歩き出した。

「えっ…泰継殿!? お待ちください!」

永泉は後から泰継を追いかけた…

 

――八葉とはあのように大きな力を持つものなのか…宝玉を失ってもなおあれほどの

  力を宿しているとは…それでは、泰明も…

 

ふと泰継の胸にまた泰明の影がよぎった…

 

《つづく》

 

Rui Kannagi『銀の月』
http://www5d.biglobe.ne.jp/~gintuki/

 

 

[あとがき]

はぁ〜、やっと第7話をUPできました。前のUPから

すでに一ヶ月以上…ちゃんと話つながっているかな…

ちょっち心配〜。永泉様再び登場です。今回は出番は前

話よりは少ないですが、ちょっぴり元八葉の力を発揮し

ていただきました。きっとこの調子で次のお話にも登場

しますよ。「ガラスの器」まだまだ続きます。

 

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