ガラスの器9

 

別れは突然やって来る。

 

三月の眠りの後、泰継が目覚めると、吉昌が亡くなったと告げられた。

すでに亡くなってから二月になるとのこと。

殺しても死ななそうだったあの吉昌は不思議なほどあっけなく突然この世を去った

と言う…

泰継は吉昌の墓所を訪れてみたが、そこには吉昌の気はまったく感じられなかった。

潔い吉昌のことである。きっと迷うことなくまっすぐに次の世に向かったのだろう。

「さまようことなく逝ったか…よいことだ。」

泰継はそうつぶやくと墓所を後にした。

 

そして、また年月が流れ、今度は吉平が…

 

泰継の秘密は安倍宗家、すなわち吉平の直系にのみ伝えられた。

吉平の子、時親へ、そして時親の子、有行へと…

時親も有行も吉平同様、厳格に秘密を守り、その生涯の間決して広言することは

なかったと言う…

 

 

 

そしてその数年後、三つ目の別れが訪れた…

 

その日、三月の眠りから目覚めた泰継は何やら感じるものがあって、まっすぐ

御室へと向かった。

御室へ着くと、何やら慌しく人々が行き来している。いつも静かなこの寺では

珍しい光景だった。

 

「永泉に会いに来た。」

そう泰継が告げると、寺には似つかわしくない宮仕えの出で立ちのひとりの男が

出て来て、きっぱりこう言った。

「永泉様にはお会いできません。お引取りください。」

「何故だ?」

泰継が聞くと、その男は言った。

「永泉様は出家したとはいえ、宮筋のお方。このような時に無位のお方などお通し

 することはできませぬ。お引取りを。」

すると

「お通ししてください。」

そう言って、ひとりの老僧が出て来た。

「ですが、御坊…」

「この方はいつも永泉様がご訪問を心待ちにして、お出でになると自ら出迎えて

 おられたお方…会わせてさしあげてください。」

老僧の声には静かだが有無を言わさない強い意志が表れていた。

老僧にそう言われると、仕方なくその男はしぶしぶ承知して泰継を中へ案内した。

部屋へ向かう途中の部屋からは護摩を焚く煙と一緒にものものしい祈祷の声が

響いて来る。

その様子を横目で見ながら、泰継は永泉の部屋へと向かった。

 

――気が…

 

横たわる永泉を見て、泰継は思った。

 

――気が消えかけている…

 

永泉は泰継が部屋に入って来たことに気づくと、横たわったまま泰継の方に顔を

向けて微笑み、弱々しい声で言った。

「泰継殿、いらしてくださったのですね。もうお会いできないかと思っておりました。」

「永泉どうしたのだ?」

自分の中ですでにその答えはわかりきっているのに、そのような言の葉が泰継の口から

ついて出た。

「人には寿命というものがあります。私にもそれがおとずれただけです。」

永泉は静かにそう言った。

泰継は何も言葉を発することができなかった。それは正しい理…

言うべき言葉など何もない。それに陰陽師の泰継にはそれが事実であることが十分過ぎる

ほどわかっていた。

「泰継殿、そばにいらしていただけませんか?」

永泉の言葉に応じるように泰継は無言で永泉の元へ行き、そばに腰を下ろした。

 

覗き込む泰継の右頬に永泉はふるえるその手を添えた。

泰継は黙ったままされるがままにされていた。

 

――ああ、あの時のあれは見間違いではなかったのですね。

  今ならはっきりと見えます。あなたの右目の下に輝く宝珠が…

  きっとあなたはいつか八葉に選ばれるのですね。私たちと同じように…

 

永泉は嬉しそうに微笑んだ。

その様子を泰継は黙って見ていた。

 

泰継の頬からなごり惜しそうにゆっくりと手を離すと、永泉は言った。

「泰継殿、頼みがあります。」

そう言うと、永泉は枕もとに手を伸ばし、そこに置いてあった愛用の笛を手に取った。

「いつか泰明殿にお会いすることがありましたら、これを渡してほしいのです。」

「だが、泰明は…」

「お願いいたします!」

永泉は弱々しい声ではあるものの強い意志を持った語調でそう言った。

 

このなじみの老僧の最期の願いをむげに断ることもできず、泰継は黙ってその笛を

受け取った。

それを見て、安心した永泉は静かに目を閉じた。そして

「頼みます。」

そうひと言言った。

 

泰継は頷いた。

 

永泉から「もうお立ち去りください。最期の姿をあなたに見られたくないのです。」

そういう意志を感じ取った泰継は、立ち上がり、その部屋を後にした…

 

 

 

泰継が部屋を出て行ったのを感じ取ると、永泉は目を開け、見慣れた天井を見つめた。

 

永泉の目の前にかつての仲間たちの顔が次々と浮かび、そして消えて行った。

 

――私は十分過ぎるほど生きました。

  八葉に選ばれ、あなた方と出会い、幸せとは何かということを知りました。

  そして、最後にあの泰継殿と出会うことができた…

  私の人生はとても満ち足りたものでした。

 

天井が薄れ始めた時、最後に泰明の顔が浮かび、その後、かつての龍神の神子、

あかねの顔が浮かんだ。

 

――あなた方にもう一度お会いしたい…

 

死して魂となったらあなた方のもとへ行けるのでしょうか…

神子…あなたのもとに…

 

  ああ、光が見えます、神子…あなたの微笑みが…

 

再び目を閉じた永泉は二度と再び目を開けることはなかった…

うっすらと笑みを浮かべたまま、ひとつの魂の灯火は静かに消えて行った…

 

 

 

仁和寺の表門を出ようしていた泰継は突然足を止めた。

馴染み深い老僧の気が消滅したのを感じ取ると

「逝ったか…」

そう小さくつぶやいた。

 

――永泉…

 

泰継は永泉から預かった笛をぐっと握り締めた…

 

 

 

人がひとりいなくなったとて、世の中は何も変わらない。

いつもと同じ時間がいつもと同じように流れて行く。

まるで何事もなかったかのように…

ただ今までそこにあったものがひとつなくなった…それだけのこと。

やがて時間とともにその記憶も薄れ、その空間もやがて埋もれて行くことだろう…

たとえ宮筋の法親王永泉だとて例外ではない。

一通りの弔事が済み、時が流れるにつれ、この数奇な運命を歩んだひとりの法親王の

ことも人々の記憶から徐々に遠ざかって行った…

 

泰継にとってもただいつも通っていた先がひとつなくなった…ただそれだけのことで

あるはずだった。

だが、忘却ということを知らない泰継はいつまでも永泉の最期の顔を記憶していた。

鮮明に甦って来るその映像…笛を渡した時の永泉の何かを託すような物言いたげな瞳…

それがいつまでも目に焼き付いて離れない…。

なぜそれがこうも自分の記憶に強く残るのか…その時の泰継には知るすべはなかった…

 

 

その後も、時は静かに流れ、三月の眠りと三月の目覚めが繰り返されて行った…

 

 

ある月の綺麗な宵のこと、泰継はふと、きらきらと輝く光に気づき、その光の元の

方へと目をやった。

その先にあるのはひとつの高坏。細く差し込む月の光がその高坏に反射して不思議な輝きを

放っている。美しいということを感じることのない泰継にも何か感じるものはあった。

泰継はその高坏をもらい受けた時のことを思い出していた…

 

 

 

 

「泰継殿、どうされたのですか?」

何も言葉を発さない泰継に永泉が問い掛けた。

泰継の視線の先には見慣れぬ高坏のようなものがあった。

いつでも好奇心いっぱいの泰継は先ほどからじっとそれを見つめているのである。

「ああ、これですね。」

永泉はにこやかにそう言うと、その高坏のような物体を持ってきて、泰継に手渡した。

泰継はその高坏をじっと見た。見た目よりも手にずっしりと来る重さがある。

そして、何よりも不思議だったのはその物体を通して、その高坏の下にある自分の手が

透けて見えることである。まるで手に水を汲んだ時のように。

「それは、“がらす”というものだそうです。」

「がらす?」

「遠く西方の国より運ばれて来たものだと聞いています。」

「西方の国?」

「ええ、この国の他にも遠く西方にはたくさんの国があるそうです。私の読む経典なども

 そのような国から来たというものも多いのですよ。」

そう言うと、永泉はふいに

「泰継殿、それはどれぐらい前に作られたものだと思いますか?」

と聞いた。

泰継は手の中の高坏に再び目をやった。それは腐食もしていなければ、まったく朽ちても

いない。見た限りではそれほど古いものには思えなかった。

「まだ作られたばかりのものではないのか?」

「いいえ。それは数百年も前に作られたものだそうです。」

「数百年…これが? 信じられぬ。」

泰継は再び高坏に目をやった。その手の中の物体はとてもそれほど年月を経たもののよう

には思えなかった。

「“がらす”というものはその姿のままいつまでも存在するのだそうです。

 それでいて、落としてしまえば、すぐ壊れるもろいものでもあると言います。」

「もろい? これが?」

手の中のそれはとても頑丈そうでもろいなどとは到底思えない。

「ええ。それゆえの美しさのなのでしょうね。」

泰継はその高坏を永泉に返そうとした。しかし、永泉は言った。

「泰継殿、それをあなたに差し上げましょう。」

「これを私に?」

「はい。帝よりいただいたものでありますが、僧の私が持っていても仕方ないものです

 から。あなたに持っていていただく方が私としても嬉しいです。」

「嬉しい?」

「ええ。」

“嬉しい”という感情がどういうものであるか、泰継には皆目わからなかったが、

ただ永泉の笑顔を見ていると、受け取らなくてはならない…そういう気がした。

「わかった。」

泰継はそういうと、その高坏を受け取った…

 

 

 

 

 

――これをくれた主はもういないというに…おまえは変わらずそこにあるのだな…

 

泰継はその高坏を手に取り、じっと見つめた。

 

――いつまでもその姿が続く、だが、いつ壊れるかわからないもろい存在。

  まるで私のようだ。

 

泰継の唇からふと嘲笑が漏れた。本人の自覚はまったくなかったが…

 

 

――私はいつまで壊れずにあるのだろう…

  私は壊れたいのだろうか、それとも存在し続けたいのだろうか…

 

 

その高坏に重なってふと永泉の顔が浮かんだ。そして、吉平と吉昌の顔も…

やがて泰継はふいに今まで考えもしなかったひとつの答えに行き着いた。

 

 

――私は“人”になりたいのだ。おそらく…

泰明のように…人に…

 

人として生き、老いて、死ぬ…

そんな当たり前の理の中に私はいない…

人としての形を取りながら、私は理をはずれた存在だ。

 

  人に…泰明は人になったと聞いた。

方法はわからぬが、神子が泰明を人にしたと…

 

  だが、ここには神子はおらぬ。

 

  それに…

 

  私は八葉ではない…

 

 

そこに誰か他の人間がいたならば、その時の泰継の目はとても淋しそうな

今にも泣きそうな目であったというであろう。

だが、それに気づかぬまま泰継はその高坏を棚に戻した…

 

 

そんな泰継の思いを知ってか知らずか、時は無情にも流れて行った…

 

《つづく》

 

Rui Kannagi『銀の月』
http://www5d.biglobe.ne.jp/~gintuki/

 

 

[あとがき]

今回のお話はみなさんの予想通りでした。そしてこれが

『決戦の朝−泰継』の「長い長い年月、たったひとりで

生きてきた。私の周りにいた者どももみんな私を残して

老いて、そして死んで行った…」という言葉につながっ

て行くのです。いやーっ、奥深いですね〜。

(→自分で言ってどうする!)

私は父を亡くしているのですが、その時、思ったことが

この中に書かれていることです。今までその人が使って

いたものもみんなそのままなのに、ただその人だけがそ

こにいないという違和感。“死んだ”というより“消え

た”という表現がふさわしいようなその不可思議な感覚

そして人一人がいなくなっても変わらず何事もなく動い

て行く時間…うまく言葉にできませんが、そんな感覚が

皆さんに共有していただけたらと思います。でも、人は

忘却があるから悲しみを和らげることができるのです。

でも、忘却を知らない泰継は…つらいですよね…

そして、連載9回目にしてやっとタイトルの『ガラス』

が登場いたしました。最後まで出てこなかったらどう収

拾をつけようかと思っておりましたよ。ふぅ〜

長かった『ガラスの器』も徐々に終盤へと向かっており

ます。次回はこの物語では懐かしいあのお方が登場する

予定。お楽しみに!

 

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