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〜君がための王国〜

  君がための王国に歌おう

君がため永久なる歌を残そう

いつか全てが朽ち果てて

僕らの軌跡が途切れても

残された大地に

彼の王国の傷跡が

久遠に刻みつけらるよう

 

 

シルヴィアは息を潜めてうずくまっていた。

黴と燻った灰の匂いが鼻腔を満たす。

微粒子が咽に流れこんでくる。

幾つもの見えない手がザラリと咽の奥を撫でた。

思わず咳き込みそうになって、慌てて口を覆った。

耳を澄ます。

そう遠くない場所から声が聞こえてきた。

「ちくしょう。あの小娘、どこへ逃げ込んだ」

「どこへ逃げても無駄さ。この館からは逃げられやしない」

「わかってるさ。

 だか、さっさとみつけないと華月がしびれをきらすぞ」

「ああ、代わりに俺達が目玉を刳り貫かれるな」

「華月ならやりかねん。

 まったく、何だって華月はあの小娘を毛嫌いするんだ?」

「俺達だって気に入らないさ。

 だいたい人間がここにいること自体が気に食わない」

「仕方なかろう。カイン様が拾ってこられたんだからな。腹立たしいことだが」

「しっ。こっちだ。この辺りから人間の臭いがする」

声はシルヴィアのすぐ側で止まった。

シルヴィアは身体を硬くした。

そこは暖炉だった。

窪みの暗がりにシルヴィアは隠れていた。

骨と皮ばかりの痩せっぽちの腕をつかむ。

小さく、小さくなって暖炉の壁に張り付いた。

「残念だったな」

揶揄を含んだ濁声がした。

同時に右腕に激痛が走って、シルヴィアは暖炉から引きずり出された。

細長い棒のような物が腕に食い込んでいた。

そこから流れた赤い雫が絨毯の上に赤黒い血痕となって広がっていく。

「さっさと目玉を刳り貫かれるんだな。

 華月も今日の所はそれで勘弁してくれるさ。

 カイン様のお人形さんよ!」

腕に食い込んでいたのは爪だった。

シルヴィアはその先に続く姿を見上げた。

灰色の骨、牛の顔、人の体にライオンの尻尾。

不恰好なパーツを幾つも繋げたような下品な身体をした生き物だった。

他にも何体か同じような生き物がいた。

どの生き物も目だけが爛々と光っていた。

シルヴィアはその目を思いきり睨み付けた。

「誰がお前たちの好きな用になるもんか」

相手が殺気立つのがわかった。

自分が不利になるのはわかっていたけれど、相手を喜ばせてやる義理もなかった。

「くっ!」

右腕に刺さっていた爪が更に深く突き立てられた。

そのまま掻き毟られた。

苦痛に顔が歪む。

額に油汗が浮かんできていた。

「この小娘が。人間の分際で」

「そこで何をしている!」

遠くから別の声がした。

痛みに霞んできた視界を巡らすと、部屋の入り口に人影があった。

黒い漆黒の人影。

部屋に居た誰もが息を飲んだ。

室温が一気に5度ほど下がった気がした。

「いや、俺たちはその…、そう、この小娘を華月が…」

灰色の生き物たちはどもりながら答えた。

あちこちに視線をさ迷わせる。

その様子を見下して声の主は冷たく言い放った。

「さっさと出て行くんだな。ここが誰の部屋か知っているのだろう?」

「いや、だけど、華月が」

「華月には僕から言っておくよ。お前たちはお下がり」

影の背後から別の声がした。

やや高く澄んだ、けれどもその場の誰もを凍りつかせる声だった。

机の上の硝子瓶がガタガタと音を立てた。

灰色の生き物たちが言葉もなく震え出したのだ。

もはやシルヴィアを気にかける余裕もないようだった。

その証拠にシルヴィアの右腕は痛みから開放されていた。

「ほら、ほら。僕の気が変わる前にさっさとお行き。

 それとも僕に何か用があるんなら別だけど」

部屋に居た者たちが一斉に首を横に振った。

「し、失礼しました…」

灰色の生き物たちは駆け出すと、振り返りもせずに部屋から転がり出ていった。

シルヴィアは1人でその部屋に取り残された。

動くことができなかった。

本当は逃げ出したいのに足が竦んでしまって動けないでいた。

手足の血が凍りついたように冷たくなっていた。

灰色の生き物たちが遠くへ行ってしまうのを見送って、声の主たちが部屋へと入って来た。

暖炉の傍らで固まっているシルヴィアに笑いかける。

「おかしな連中だね」

金色の髪に緑の瞳をした青年である。

左側の背にある白い翼が一際目を惹く。

笑ってはいたけれど、瞳は意地悪い光りを漂わせていた。

彼が介入したことで、シルヴィアが華月に更に手酷い扱いを受けるのを楽しんでいるのである。

シルヴィアはその顔を張り倒してやりたい衝動にかられた。

けれど、それが実行されることはなかった。

シルヴィアの側に漆黒の男が近づき、その腕を背中へと捩じ上げたからである。

シルヴィアは窒息しそうになった。

男は無言のままシルヴィアの腕を引き千切らんばかりに引っ張っていく。

「いいよ、九曜。かまわないからそのまま放っておけ」

青年の声で男はシルヴィアの腕を離した。

一気に肺に空気が流れ込んでいく。

血の気のない腕に赤く男の手の跡が残った。

シルヴィアは唇を噛んで俯いた。

悔しかった。

何もできない自分が惨めだった。

引っぱたいてやると思いながらも、実際には竦んで動けなかった。

こんな化け物だらけの館で、ちっぽけで無力な自分が恨めしかった。

あの灰色の生き物より、腕を捩じ上げた男より、目の前の青年より、何よりも。

「力があったなら、こんな場所は出ていってやるのに」

思いが言葉となって口から零れた。

青年が耳ざとく、その言葉を聞きつけた。

「へぇ、出ていって、一体何処へいくんだい?」

興味深そうに青年が問う。

シルヴィアはその緑の瞳を睨み付けた。

「何処へでも。あんたや魔獣の居ない場所なら何処だって行くわ」

「僕の手が届かない場所がこの世界にあると思うの?

 君はこの世界をどれほど知っているっていうのさ。

 自分の生まれた場所すら知らないのに」

青年はますます意地悪い顔になって言った。

シルヴィアは答えられなかった。

赤ん坊の時に彼に拾ってこられたシルヴィアには答えられない質問だった。

しばらくの沈黙の後、シルヴィアは苦し紛れに言った。

「そんなこと、どうだっていいわ。何処だっていいんですもの」

「そうか。それなら、これから見るものもお前には関係ないんだね」

青年はシルヴィアの背後の暖炉へ近寄った。

暖炉の上には布を掛けられた大きな鏡があった。

青年はその布を持ち上げた。

鈍く光る鏡面が姿を現した。

窓を象った鏡は、けれど、形とは裏腹に外へと繋がってはおらず、

暗い部屋の中の様子を映し出していた。

青年はその鏡に向かって何やら囁きかけた。

シルヴィアの目の前で鏡が淡く発光した。

そして鏡面に眩しい風景が映し出された。

青年は小さな笑みを浮かべるとシルヴィアを傍らへと促した。

シルヴィアは誘われるように鏡へと近づいた。

庭園は春を迎えていた。

いくつもの花が咲き誇り、緑の小さな芽があちらこちらに顔をのぞかせる。

鮮やかな色彩は生命力に満ち、生物たちが忙しなく動き回る。

暖かな陽射しが優しくそれらを包んでいた。

歓喜と希望に満ちた命の姿だった。

アーニャは眩しい光りの中を庭の中央へと向かった。

「お母様、そこにいらっしゃるの?」

アーニャは相手の姿をみつける前に声をあげた。

暖かな春の陽射しがアーニャを不安にさせた。

ここは自分に相応しい場所ではない気がした。

先方から静かに水が流れる音がした。

大きな落葉樹の葉をかきわけて進むと、中央に小さな噴水があった。

その淵に1人の女性が腰掛けていた。

アーニャに向かって微笑んでいる。

「どうしたの?私の可愛い子」

「お母様、もうすぐ昼食の時間だって。皆が呼んでるの」

「それだけ?」

女性はアーニャの顔を穴があきそうなほど見つめた。

白く細い指で手招きする。

アーニャは誘われるように女性の側へ寄った。

女性がアーニャの手をとる。

その小さな手は切り傷や擦り傷でいっぱいだった。

転んで出来るような傷ではなかった。

中には数十センチあるものや、深すぎて傷跡が消えないものもあった。

「こんなになって。可哀想に…。また誰かに苛められたの?」

アーニャは答えなかった。

本当のことを言ったら彼女が傷つくと思った。

でも、彼女に嘘はつきたくなかった。

だからアーニャは黙っていた。

2人の間に沈黙の時が流れた。

女性は辛抱強くアーニャが答えるのを待っているようだった。

近くの梢から小鳥が羽ばたいて空へと帰っていった。

先に根負けしたのはアーニャだった。

「だって、私は取替え子だから」

噴水の音にかき消されそうな声でアーニャは言った。

「アーネストたちがそう言ったの?」

想像した通り女性の声は悲しそうだった。

アーニャは何も言えなくて黙ることしかできなかった。

女性は小さくため息をついた。

「貴方は私の子よ。誰か何を言おうと私がそう言うのだから間違いないわ」

力強くそういうとアーニャを抱きしめた。

「でも、ミーファ母様は今でもシルヴィアを愛してるのでしょ」

「ええ、もちろん」

「じゃ、私のことはやっぱり嫌いなんじゃないの?

 私とシルヴィアが取り替えられなければ今もシルヴィアはここに居たのに」

そう言った瞬間、アーニャは力強く抱きしめられた。

「ばかなことは言わないで。

 愛しているわ。貴方もあの子も。どちらも大切な私の子供たち」

女性は優しくアーニャの髪をなでた。

心地良い暖かさが伝わってくる。

アーニャはたまらなくなって目を閉じた。

涙がでそうだった。

この人から子供を奪ったのは自分だ。

本当はこの手は知らない誰かの物なのに…。

それなのに、自分はこの手を手放せないでいる。

なんて、浅ましい獣なんだろう。

アーニャの小さな手が震えた。

精一杯閉じた目から涙が数滴零れ落ちた。

瞳を閉じたまま声を殺して泣く子供を抱いて、ミーファは乾いた笑みを浮かべた。

先ほどまでの暖かな微笑みではなかった。

表情には少なからず絶望の色があった。

「なんて残酷なのかしら、ねぇ。貴方も私も」

腕に振動が伝わってきた。

アーニャの嗚咽である。

こんな子供が己の存在に苦悶し泣いているというのに…。

それでもミーファはたった1つの望みを捨てられずにいた。

誰を苦しめても、全世界を敵に回しても、諦めきれない。

それはミーファにとって存在の全てだった。

「会わせてくれるのでしょう」

ミーファは空を見上げて言った。

視線の先に約束を交わした相手の姿があった。

柔らかな陽射しの空中に緩く揺らめく幻。

灰色の煉瓦と銀のカーテンに覆われた暗い窓辺。

現実には繋がらない窓を通して、1人の青年が自分を見下ろしていた。

金の髪に緑の瞳。透き通るような白い肌。長く細い腕。そして、白い翼。

約束を交わした時の子供の姿ではなかったし、背中にあった翼は片方しかなくなっていた。

それでも、彼だとわかった。

青年は何事もないように自分を見下ろした。

ミーファはその視線を真正面から受け止める。

青年の傍らに髪の長い少女が見えた。

小さな少女だった。

華奢という言葉ですませてしまうには、あまりにか細い少女だ。

ミーファの中で何かが教えた。

「…シルヴィア?」

今は遠くへ行ってしまった自分の娘の名を呼ぶ。

「あぁ、シルヴィアなのね。貴方はそこに居たのね」

ミーファは彼女に笑いかけた。

例の乾いた笑みではなく、いつもの太陽のような微笑で。

少女が驚いたように自分をみつめていた。

ミーファは微笑んだまま歌い出した。


歌は遠く、遠く、場所を超え、時を越え何処までも届くだろうか?

私の愛しい者達へ。

誰よりも残酷で誰よりも優しい、私の祈りを届けてくれるだろうか?

愛してるわ、貴方も、あの人も。

愛してるわ、永久に。

だから精一杯生きなさい。

貴方のための王国が今も貴方を待っているのだから。

穏やかな陽射しの中、緑溢れる庭園にミーファの歌声はいつまでも流れ続けた。

 

「魂の鎖」シリーズ第1話。このシリーズは取り替え子のシルヴィアとアーニャを核に話が進みます。

カインとミーファ、シルヴィアとカイン、アーニャとミーファ、アーニャとカイン、シルヴィアとミーファ。

それぞれの間にそれぞれの思惑が絡んで、魂の鎖は2つの魂を繋ぎ続けるのです。

 

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