+ 魂の鎖 +
〜ノワール・ウィッチ〜
空の楼閣は 獣の檻 囚われた人の子は 己が道を知らず 見えない足枷を弄び 居場所を求め あがらう蝶 |
カ イ ン |
薄暗い部屋だった。 「まだ早すぎるな」 薄暗い部屋の古びた安楽椅子の上、1人の青年が呟いた。 木製の椅子はゆっくりと前後に揺れて、その度に軋んで音をたてる。 声の悪い鳥が啼くような音な不協和音が大きく部屋中に響いた。 その音に混じって、衣の擦れる音がする。 「何かございまして?」 彼に戯れていた女が顔を寄せた。 細い 首に絡められていた指が動きを止め、長い爪が皮膚を掻く。 白磁の肌に浮かび上がる赤い稜線。 滴り落ちた赤い雫を女は舌ですくいあげた。 そのまま傷口まで丹念に舐めとる。 むず痒い感触に青年がクスクスと笑った。 つられたように女の黒い髪がサワサワと音をたてた。 「もう十分だろう。華月」 青年が女に囁きかける。 けれども、華月と呼ばれた女は彼の首に顔を埋めたままだった。 黒髪の帳の内から微かに白い咽が覗く。 コクリコクリと継続的な音がもれる。 華月は一向に離れる気配がない。 青年の眼差しが邪険なものになる。 穏やかな春の日射しが一転して絶対零度へと変化した。 「離れろ。華月」 感情を含まない声が告げる。 ようやく、女は顔を上げた。 銀色の瞳を青年に向け婉然と微笑む。 「甘い」 赤く濡れた唇が華月の笑みに異様な凄みを与えていた。 「もっと?」 「必要以上は毒になる。さっさとこの部屋から出ていけ」 華月の言葉をほとんど聞かずに青年は言った。 女の表情に不満が現れる。 媚びと欲望の入り交じった瞳が青年を映し出す。 逡巡、華月はうなづいた。 「御意」 ゆったりとした動作で安楽椅子から降ていく。 「ああ、ついでに九曜に狩りだと伝えてくれ」 青年は元の気配に戻って命じた。 椅子から降り立った華月が彼を見下ろす。 僅かに首を傾げながら問うた。 「どちらまで?」 「南のランカスターだ。クローフがいるんだ」 「出来損ないですのね」 華月の声が低くなった それが可笑しくて青年はわざと繰り返す。 「そう、僕の失敗作だよ」 それは華月の言葉の肯定だった。 華月の視線が青年から反らされる。 銀色の瞳が宙を見据えて細められた。 安楽椅子が小さく音をたてる。 「それで、わざわざ九曜が行く必要がありますの?」 「城の守りなら君がいるだろう。嫌かい?」 華月は即座に首をふった。 顔に憂いをうかべ、胸に手を当てて青年ににじり寄る。 「いいえ、めっそうもない!! そうですわね。私さえいれば良いだけのことですわ」 華月は再び青年に視線を向けて微笑んだ。 大輪の薔薇が咲くような笑みであった。 その視線に答えることなく、青年は告げた。 「だったら行きなさい」 頷くと、華月は早々に部屋から出ていった。 衣擦れの音が無くなった部屋に安楽椅子の軋む音だけが響いた。
「かわいらしいねぇ」 部屋の奥から面白そうに言う声が1つ。 青年ではない。 彼は瞳を閉じたまま静かに安楽椅子に揺られている。 声が聞こえたのか、聞こえないのか。 青年の様子は華月が出ていった時となんら変わるものではなかった。 安楽椅子が木の歪む小さな音をたてる。 他に部屋には誰も居ない。 あるのは生き物の剥製や様々な色の液体の詰まった硝子瓶、 茶色く変色した髑髏に血痕の染み付いた小さな機器。 全て声のない物達ばかりだった。 青年は相変わらず無言で椅子に揺られている。 「実にわかりやすいよなぁ」 再び声が響く。 声がしたのは奥の暖炉だった。 否、暖炉ではなく その上にからだ。 そこには窓をかたどった鏡が曇った鉛色の光を発していた。 表面で白い人影が動く。 影は次第にはっきりとした輪郭を象り、白髪の男を写し出した。 声はその鏡の向こう側から響いていた。 世界の果てまでも一瞬にして映すことのできる幻楼鏡である。 世界の至宝ともいえる魔力を持った鏡は、 持ち主の居ない今もその命を忠実に果たしていた。 「どの位で戻って来れる?」 安楽椅子に揺られていた青年が突然、尋ねた。 「しばらく動いてないから身体が鈍ってるんですよ。最低3日って所ですね」 鏡の向こう側から答えが届く。 「わかった。2日で来い」 「カイン様、どういう計算ですか」 「僕が来いと言ってるんだよ。だったら、お前は帰ってくるだろう。 急いで持って帰って欲しい物があるんだ。いいね、英玲」 「そりゃ、呼ばれれば行きますけどね…」 声は力なく答えた。 「帰ってきたときの華月が見物だな。一体どんな顔でお前を出迎えるやら」 「そっちが目的ですか。邪魔者が居なくなって好き放題やってるでしょうね。 俺が呪い殺されたらどうしてくれるんですか」 「華月程度の力でどうこうされてやるつもりか?」 白髪の男は唇の端で声なく笑った そのまま輪郭がおぼろになってゆく。 青年は安楽椅子から降りると映像の消えてゆく鏡へ近付いた。 まだぼんやりと映し出されている映像を愛おしそうに眺める。 英玲の背後にある長方形の箱。 鏡を通してでも伝わってくる強い気配。 それは厳かであり、神聖であり、光りであった。 それは、棺だった。 彼のための、彼のためだけの棺だった。 「まだ眠り続けるの?」 翼のない右肩に手を回して カインは尋ねる。 答える声を記憶の底で聞きながら。 鏡の中の映像は薄れてゆく 答える声は、未だ返らない。 |
「ノワール・ウィッチ」プロローグです。そう、前置きなのですよ。長すぎです(反省) 登場予定のなかった白い頭の誰かさんのせいです。よくしゃべる。(しかも、エピローグにも乱入しはじめています。) メインストーリーがこんなに長くならないことを祈ります。さて、次はとうとう「魔法使い」の登場です。 |