+ ソラトブユメ +
空を飛んでいた。 遮る物は何もない。 透明度の高い青だけが、視界に広がっていた。 ふわふわと、風が手足を揺らした。 空気の浮力が心地よい。 落下するようで、上昇するような不可思議な感触。 試しに手足を動かしてみた。 以外にも抵抗力は少ない。 (水の中を泳ぐのに似てるな) そんなことを考えた。 |
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しばらく空中遊泳を楽しんだ後で、目を閉じた。 手足も動かすのをやめた。 太陽の光りを目指して、仰向けに寝てしまった。 それでも身体は風に運ばれていった。 ただ流れてゆくだけの自分。 何も見えず、何も聞こえず、心地よいだけだった。 今、真っ青な空間にただ1つ、 ちっぽけな私の身体が浮いている。 それはとても愛しいことに思えた。 何もかもがどうでもよくて、何もかもがとても大切に思えた。 |
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「100年は早いぞ」 しわ枯れた声が静けさを破った。 目を開くと数メートル上空に老人がいた。 平泳ぎをしていた。 「美月君、眠っちまうには100年早いぞ そら、わしより早く泳いでみろ」 そういうと老人は猛スピードで泳いでいった。 どこかで見た気がする老人だった。 それから、不意に気づく。 「先生!!! 原稿!!!」 しかし老人は遥か空の点とかした後だった。 |
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老人を追いかけようと空を泳いだ。 必死に手足をバタバタと動かした。 けれど、老人の影すら見えてこなかった。 そのうちに疲れてきた。 意識が朦朧としていた。 ガツン! ふいに目の前が真っ暗になった。 頭が痛かった。 涙が出るほど痛かった。 その痛みで私は我に返った。 私はテーブルに頭をぶつけたのだった。 どうやら居眠りをしていたらしい。 私は慌てて突っ伏していた身体を起こした。 見覚えのある家具が目に入った。 そこはある作家の家の居間だった。 |
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目覚めた私は半分寝ぼけていた。 ゆっくりと記憶をたどる。 どうしてこんな場所にいるのだろうか。 やがて意識がはっきりしてくるにつれ、私は愕然とした。 私は仕事中だったのである。 ここで先生の原稿を待っていたのだ。 私はそっと辺りを見まわした。 誰も居ない。 ホッと息をついたその時、襖が開いた。 |
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「待たせたな。いやいや、よく寝たよ」 そう言って現れたのは、夢で私を追い越していった老人だった。 彼は私の担当する作家の1人である。 同時に最後の作家になる予定であった。 私はこの老作家の原稿と一緒に辞表を出すつもりでいた。 「先生、原稿を頂きにまいりました。」 私はいつものように用件を告げた。 「ああ、ほれこの通り。ちゃんと書きあがっとるから安心せい」 老人はカラカラと笑って、私に紙の束を渡した。 ズシリと思い質感が腕に伝わった。 いつもより重たい気がした。 |
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1枚目の原稿には「ソラトブユメ」とだけ書かれていた。 タイトルだろうか? 私はページを捲った。 空を飛んでいた。 遮る物は何もない。 透明度の高い青だけが、視界に広がっていた。 何処かで聞いたような始まりだった。 さらに読み進めた。 ふわふわと、風が手足を揺らした。 空気の浮力が心地よい。 落下するようで、上昇するような不可思議な感触。 試しに手足を動かしてみた。 私は硬直した。 何処かで聞いたどころではなかった。 それは私がさっき見ていた夢そのものだった。 |
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「ワシからの餞別じゃよ」 言葉のない私に老作家が言った。 「門出祝いには丁度よかろう。 まぁ、これからは寝てる暇なんぞなかろうがな」 私は混乱した。 はたして、この老人は何処まで知っているのだろうか? 仕事を辞めることは誰にも言っていなかった。 だが、どう言う訳か、彼はそれを知っているようだった。 そして、この『ソラトブユメ』。 眠っていたことは知られていてもおかしくない。 けれど、みていた夢の内容までも知っているのは…。 「意外とワシは何でも知っているのじゃよ」 老人は再びカラカラと笑った。 |
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カラカラ、カラカラ。 笑う声が頭に響く。 カラカラ、カタンカタン、カラカラ、カタンカタン、…。 カタンカタン? 「あれ?」 私は辺りを見まわした。 見なれた緑の座席にピンとくる。 私が通勤に使っている電車だ。 毎日会社へ通う電車だから、見間違うはずがない。 いつの間に電車に乗ったのだろう? 第一、私は老作家と話しの最中ではなかったか? 私は訳がわからなくなった。 カタンカタン。 電車は規則正しい音を立てながら走っていた。 アナウンスが会社のある駅を告げた。 |
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ホームに降り立つと陽射しが傾いていた。 時計を見れば午後5時を過ぎている。 会社を出たのは午前11時だった。 半日が経過していた。 夢をみたのだろうか? 私は不安になって鞄の中を覗き込んだ。 そこには茶色い封筒がきちんとしまわれていた。 いつも原稿をしまう封筒である。 恐る恐る取り出して中身を確認する。 慣れ親しんだ紙の手触りがして原稿用紙の束が出てきた。 『ソラトブユメ』 筆で書かれたタイトルが目に入る。 夢じゃなかったのか。 私は安心すると同時に落胆もした。 謎は謎のままであった。 「空飛ぶ夢は吉兆の印だそうだぞ」 唐突に、思考を遮って、老作家の声が聞こえた。 |
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私は危うく原稿用紙を取り落とすところだった。 声は、そこから、聞こえてきたのだ。 『ソラトブユメ』の書かれた原稿用紙から。 間違えなく彼の声だった。 びっくりした。 びっくりしたけれど、不思議と心は慌てなかった。 あり得そうなことだと思えた。 空を泳いだり、秘密を知っていたり、 以外と彼は何でもできるらしい。 「意外とワシは何でもできるのだよ」 老作家の口調を真似して言ってみた。 なんだか可笑しくなった。 そして、思った。 もしかしたら、−可能性はとても小さかったが− 私も以外と何でもできるのかもしれない。 やってみるか、やってみないか。 違いはそれだけかもしれない。 「意外と私は何でもできるのよ」 言葉に出して言ってみた。 なんとなくホントっぽく聞こえた。 私は原稿をしまうと歩き出した。 1歩、1歩、前に向かって。 駅長が列車の到着を告げる声が聞こえる。 ホームには次の電車が入ってこようとしていた。 |
メルマガに掲載。毎回、とても苦労して書いてました。 書く度に思いつきで書いていた気がします。 働く女の人を書こうという気になったのが後半に入ってから。 なんとなく前向きな物語になってるとよいです。 |