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ベトナム/カンボジア旅行記

第5話 幽玄の町ホイアン

すばらしい町フエを離れる。ホテルの朝食は、バイキング料理。おいしいフルーツなど食べきれないほどのメニュー。朝早いというのにヨーロッパ人の団体観光客で食堂はにぎわっていた。食事の後、ホテルの裏、フォン川(香川)のほとりに回り、写真を撮った。正面に回ると、もう通りにはシクロの運転手なのか土産物屋なのかわからないが、しきりに声をかけてくる。門から中へは入れないらしい。庭には、公安なのか警察なのか、ホテルには不似合いな制服を着た男が何人かいる。こちらには、やさしい視線を投げてくる。

チー君は、運転手を連れて早々と8時前にホテルのロビーに来ていた。今日は国道1号線を南下して、ダナンを経てホイアンに向う。きのうの夕食のレストランと、カラオケクラブがどんなところだったか知りたくて、まずその前を通ってもらうことにした。レストランは、昨夜の静けさとは違って、朝食をとる地元の客でごったがえしていた。私が正面からカメラを向けると、中の男性がこちらに気づいて、手をふった。カラオケクラブは、静まり返っていた。

国道1号線を約3時間のドライブ。途中で運転手が、屋根の着いた小屋のような場所にクルマを停め、何やら男と話している。「仕業点検屋?」でタイヤに空気を入れてもらっているのだ。1号線の一部は有料道路になっているのか、料金所のようなところがあり、12,000ドン取られた。チー君は高すぎるといった。フエのあたりの勤め人の平均月給は5,000円くらいだというから、120円は高いだろう。

道の両側の光景は、私を楽しませてくれた。ベトナムの田舎の風景や大衆の暮らしぶりが、面白いほどよく分かる。町を離れれれば離れるほど、家は貧しくなるし、バイクが少なくなり、自転車もまばらになり、歩く人々が多くなる。ノンという三角錐上の笠をかぶる女性が増え、天秤棒をかついで重い荷物を運ぶ光景が目立つ。いま自分は、ベトナムにいるのだと実感させられる。

家々は、平屋が多いのは、この地方が台風の通り道に当たっているからだという。民家は、朽ち果て倒壊しかかっているようなものも多い。どの家も、道に面したところに薄汚れた簡単なガラスのショーケースのようなものをしつらえて、飲み物やシャンプーなどの日用品を売っている。ほんとうに、田舎のぽつんとした一軒家でさえ、暗い奥を覗き込むと、何かを売っている。誰がこんなところで買うのだろうか。自分の家の食料の備品をショーケースに並べているのかもしれない。誰かが買うとは思えない。万が一にも、買う人がいるかもしれない。だから売る態勢を整えているというのだろうか。

道の端に、貧しい身なりの男がぽつんと立っている。足元を見ると、誇りにまみれたシャンプーや食器洗剤が4、5本並んでいる。しばらく行くと、同じように、道に立って果物のようなものを売っている。必死なようだが目は空ろだ。(何のために、この人々はこれほど商うことに執着するのだろう)。ベトナムの人々の商魂を、私は絶望的な思いでクルマの窓から眺めていた。

途中人気のない場所で列車の通過をまつためにクルマは踏み切りの前で停車した。するとどこからか中年の女性がさっと表れて窓を叩く。飲み物を売ろうとしているのだ。観ると後続の2、3台のクルマにも同じように、誰かがものを売りこんでいる。

国道一号線のフエからダナンに向うあたりは、舗装が行き届いていない。あちらこちらで水溜まりやでこぼこ道がめだつ。うっかりタイヤがはまり込むとサスペンションを傷める危険がある。ドライバーは真剣な顔をして、慎重な運転を続ける。オートマチック車は、操作性に信頼がないということでベトナムでははやらない。マニュアル車が主流だ。

前方に大きな繭の形をした竹の網篭を満載したトラックが、苦しそうに走っている。竹篭の中にはなにか白っぽくまた薄いピンク状のものが入っている。トラックの横をすれ違うと、篭の中身はすべて生きた豚だった。ホーチミンに運ばれ、いずれ料理の食材となるのだ。

しばらくすると、ようやく左手に海が見えた。まるか遠くに水平線が霞んでみえる、と思ったら海ではないという。膝のあたりまで水没した水田だときかされ驚いてしまった。樹木での立っていればそれと分かるだろうが、一本もない。どう見ても宮城県の気仙沼沖の松島湾の風景に似ている。ただただ広い。山道に入り工事現場がいたるところにある。一本道だから向かいの車を先に通すため停車したら、こんな山道の工事現場でも子供がさっと寄ってきてチューインガムなどを売りつける。いったい誰を目当てに商売しようというのか、それにしても誰がこんな山の中まで連れてきて子供に売り子をやらせているのだろうか。

途中ダナンの町に入る。今日はこのまま素通りして、いったんホイアンまで行き、明日の朝ここに戻ってくる予定だ。ホアインには空港も鉄道の駅もない。ホイアンに行く人々は、たいていダナンからバスやタクシーを利用する。

ダナンに近づくと、道いく人々の服装も店の構えも少し垢抜けてみえる。都会に来たという感じがする。人の服装や店とか家屋のようす、バイクや自転車の台数などで、考えるまでもなく豊かさが測れる。

ダナンの港のそばを通った。かつてこの地方はチャンパと呼ばれていた。遠く中国、日本とヨーロッパ諸国とを結ぶ交易の中継基地として賑わったアジア最大級の港だった。目の前に係留している船を見ながら、この町が当時国際色豊かに賑わっていたさまをあれこれ想像してみた。船の形も、ずんぐりして舳先がつんと天をさして尖がっている。なんだか教科書にあった昔の貿易船の面影がいまの船にも残っているように見えた。

いよいよホイアンに着いた。ホイアン・ホテルにチェックイン。すぐに市場やトゥボーン川の方に歩いて行ってみる。誰もが向う定番のルートだ。ホテルの前にはシクロの運転手がいて、声をかけてくるが、しつっこさがない。しかし、小さな町だから誰も彼もホテルで旅装を解いたら散歩気分で歩きまわるのが普通だ。通りで4、5本、観光エリアは約300メートル四方に囲まれた部分にある。車を走らせる道はないといっていい。

川沿いに軒を並べているベトナムレストランで昼食を摂ることにする。黒く渋い光沢のある門構えの洒落た店があったので入ってみようということになった。川沿いのレストランは、どれもこれも洗練されたつくりで、ここがベトナムかと思えるほど洒落た店が多い。客のほとんどがヨーロッパからきている外国人だ。ベトナム中部が大好きなのはフランス人。長期滞在者も多いらしい。ホイアンを基点に、ダナンやミー・ソン遺跡などに足を伸ばすのだ。

野菜とスープが好きなガイドのチー君に、いつものようにメニューの注文を任せる。レストランの前が川沿いの道だから、その向うはいうまでもなく川だ。視界の奥に島があり、そこと往来する船が見える。岸からすぐのところにかつて交易が盛んだった頃の船を改造したものだろうか、素敵な船上レストランが浮かんでいる。岸からすぐのところなのに、わざわざ小舟で渡る演出だ。川に浮かぶレストランは二軒ある。それから、船上生活者や物売りの小舟も見える。

ホイアンは、いわば「政府直轄地」だ。みごとに舗装された道路をみれば、それがわかる。ベトナムで最も治安のいい町として知られている。町の人々のなかには金持ちも多いらしいが、大仰な建物を建てることを政府は許さない。古い街並みを保存するためだ。だから、1999年11月28日から12月2日にかけて襲った洪水の被害のあとでも、新しく改造することを許されない。もともと古風な町だったが、薄汚れてしまったことが、この町の悩みだ。洪水は約2メートル近くまで達したらしい。もともと小柄なこの地方の住民、店の主人がここまで水かさがましたと、あいたテーブルの椅子の上に登って薄ピンクの壁の上の方を指差して見せた。洪水は約100年ほど前に一度あったらしいが、それ以来の大災害だった。

昼食のあとで、歩いて通称「日本橋(来遠橋)」と呼ばれる橋に向う。入場料が必要な施設だ。全長約10メートルほどだろうか、重厚な屋根に覆われている。片側のほとんどは開口部分だが、反対側は壁になっている。その壁側の真ん中部分に祠がある。かつて皇帝が、この橋の一方を中国人の地域。反対側を日本人の地域と決めたという。ホイアンは、もともと日本人と中国人の町だった。日本人の方が進出の歴史は古いという。

かつての日本町を散策する。中ほどにおきなお寺がある。このお寺も入場料が必要だ。ちなみに入場料が必要な施設は、「日本橋」と「お寺」と「古い日本の商家」の三ヶ所で、市場の近くの券売所でチケットを予め買う。施設を訪れるたびに、入り口でチケットの該当部分をはさみで切り取ってくれる。

日本町は、正直いってどこがそうなのかにわかにはわかりにくい。中国風にも見えるし、よくわからないがベトナム風にも見える。家の中に吹き抜けや中庭があり、それを囲むように二階の廊下があったりするのだ。日本人からベトナム人や中国人が家を譲り受け、長い時間をかけてこのように文化が折衷、混交していったのだろうか。

いったんホテルに引き揚げることにした。それにしても散策している人々のほとんどが欧米人だ。オーストラリアから来る人も多いと聞いた。ホイアン・ホテルに着くと、さまざまなステッカーを貼った泥まみれのクルマが、中庭に整然と無数に並んでいる。スズキの4WDのラリーの宿泊者が到着したのだ。日が落ちるまで、私たちはホテルで休憩した。

ホイアンの町は観光地にありがちな歓楽的施設がいっさいない。夜は観光客は、もう一度町の中に出て自由に歩き回る以外にない。サウナもカラオケも、ナイトクラブもないし、ショーを見せる施設もない。ただ思いのままにウィンドウショッピングをしたり小さなレストランで食事を楽しむのだ。

しかし、日が落ちてからのホイアンは、まるで夢幻の世界のようだった。同じ町の表情を、二度楽しめるのだ。そもそもこの町を訪れる人は、ホイアンの町全体が不思議な「もてなし」の雰囲気を漂わせていることに気づく。夜の日本町。巨大なぶどうの房が垂れ下がるように、色とりどりのちょうちんが店の前に点る。もちろん街灯はないし、店の中も薄明かりがあるだけだから、日本町を見渡すと暗がりのなかにちょうちんの明かりだけがはるか向うまで蛍のように美しく点るのだ。この無数のちょうちんが、町全体を不思議な空間に変えてしまう。暗がりの中に、ちょうちんの群だけが明かりのすべてという町を、世界中のどこにも知らない。これは、なんとういう芸術的な趣向なのだろう。フランス人もドイツ人も、イギリス人も、ちょうちんの明かりを頼りに、十分安全にウィンドウ・ショッピングを楽しんでいる。通りのいたるところには、これがベトナムかと思えるくらい、インターネット・ショップがたくさんある。欧米人の需要を発見したのだろう。絵葉書ではなくいま彼らは、電子メールで知人に近況を知らせているのである。56Kの高速モデムを装備したパソコンを数台設置したいわばそれは「電子郵便局」なのである。フエでは無理だったが、ホアインでは日本語のアクセスも可能だ。私も試しに、自分のホームページをホアインのインターネット・ショップで覗いてみようとチャレンジし、成功した。

うす暗がりの中で、カフェテリア風のレストランで夕食を摂った。カフェテリアといってもフランス風でなくベトナム風だから簡易テーブルを店の前に出して、プラスチックの椅子を置いただけのものだ。道いく人々と声を掛け合いながら、チー君の好きな鍋をこの日もふたりで突っついた。鍋はおいしそうに見えるらしく、隣りのテーブルの客が「それなんていう料理?」と聞いてきた。メニューの中から見つけるのが難しいようだ。「ラオ・・・」、よく聞き取れなかったがチー君が教えている。バナナの皮で蒸した魚も、聞かれた。ふたりで、こんな贅沢をしてしめて800円あまりだった。

うす暗がりと道いく人々の光景をうっとりと眺めながら、何ともいえず贅沢な時間を満喫していた。すると突然、神様は私たちに最高の贈り物を届けてくれた。ベトナム特有の「停電」が襲ったのだ。2000年1月20日午後6時20分。町全体が一瞬真っ暗になった。チー君と私は子どものように大はしゃぎした。停電はけっこうしぶとい。レストランの従業員は、客のいるテーブルにろうそくを点してもってきた。最高のディナーだ。鍋の真鋳の渋い光沢が、浮かび上がった。やがて、自家発電機を備えた店から、点々と明かりが点りはじめた。それから、私たちはホイアンの町の不思議な魅力に酔いながら、歩いてホテルに帰った。


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