第二話 幻惑の草原都市「パガン」

第五日目(ヤンゴンからパガンへ)晴れ


一昨日、迎えくることになっているアイさんから、「5時15分にロビーですよ」と何度も念を押されていた。昨夜ホテルの部屋から アイさんに電話をして、もう一度迎えのことを確認した。寝る前にはロビーに翌朝4時半のモーニングコールを頼んで寝た。いままでの旅でも、 こんなに朝早く起きてチェックアウトするなど、経験がないことだった。洗顔のためのものを除き、荷物は夜のうちにまとめておいた。
翌朝未明、フロントからの自動電話のモーニングコールが定時に鳴った。さすがに眠たい。
チェックアウトを済ませ、約束の5時15分にロビーでアイさんとマーさんを待った。外はまだ真っ暗である。ドアマンの老人が優しい笑顔をこちらに向けて、話しかけてくる。
「エアポートに行くんですか」
「ええ、そうです」
「たいへんですね。どうやって行かれますか」
「友だちがクルマで迎えに来ることになってるんです」
「これからどちらまで」
「ニャンウー(パガン)です」
老人の微笑が印象的だ。
レストランは6時30分からだけど、料理人はもう起きているから「フードボックス」を頼んであげようと彼は言って、まだ灯かりのついていないカフェの奥に入っていった。しばらくして女性が紙の箱に入ったパンとバターを提げてロビーにいる私のところまでもってきた。
老人はまた言った。
「ニャンウーに行くときにはぜひ気をつけてください。寺院や遺跡めぐりをしてホテルの部屋に戻ったら、まずからだを休めて水をたっぷり飲むといいですよ。決してすぐにシャワーを浴びてはいけません。外の気温は大変高いのですが、部屋の温度は低いから、すぐシャワーを浴びると温度差でかならず風邪をひいてしまいます。特に日本人には熱を出す人が多いですから」
これはありがたい助言だった。わざわざ念を押すくらいだから、パガンの暑さは相当なものなのだろう。

アイさんたちはいっこうに現れなかった。時計を見るともう5時20分になっている。そして5時30分になっても現れる気配はなかった。飛行機の出発時刻は6時30分だった。老人も一緒になって心配している。40分になって、さすがに私も老人も何とかしなければと思い始めた。当てにならない迎えのクルマより、道でタクシーを拾った方が確実だと考えた。というより、もうそれしか時間がなかった。空港までは最低20分はかかる。老人はホテルのアプローチを下って大通りに面した場所に立った。

あいにく流しのタクシーをつかまえにくい時間帯だった。ようやくつかまえたタクシーの運転手となにやら話しているが、そのままタクシーは去っていった。空港までは行けないということだろう。自分の家に帰宅途中か、車庫にクルマを戻さなければいけないのか、とにかくタクシーはつかまらない。老人はついに道の反対側に立ち始めた、逆方向ならつかえやすいと思ったのかもしれない。時刻はもう5時50分を過ぎている。老人は必死になっている。しばらくしてまた元の側にもどりクルマがくる方向をじっと見ている。
ついにつかまえたのか、白みかけた路肩で老人がロビーにいる私に激しく手招きしている。それはタクシーではなかった。老人の機転で一般のワゴン車に「アルバイト」を持ちかけたのだった。運良く運転手はそのアルバイトに乗ったのだ。

「運転手に800チャット払ってください。言っておきましたからOKです。ではお気をつけて」
私は老人の親切に心から感謝し別れ際に1ドル紙幣を握らせ、クルマに飛び乗った。もう時間がない。急いでいることも老人はきちんと伝えていたようだった。ワゴン車は猛スピードで空港に向かった。朝があっという間に明けていく。

それにしても何と後味の悪い思いだろう。昨日まであれほど親切にしてくれたふたりだった。そのおかげで素晴らしい思い出ばかりを持ち帰ることができると思っていたのに、とんだことになってしまった。あれほど念を押され、昨夜も確認の電話をしたはずだった。事故が起こったとは思いにくい。故意だとしたら、これほどの悪意はあるだろうか。「無神経」や「のん気」など、考えもしなかった言葉が頭の中で渦巻いている。ミャンマー人の価値観というものを見落としているのだろうか。もし、突発的に何かが起こったのだとしたら、私がホテルのロビーで待っていることを知っているのだからフロントに電話をかけるなりの対処をしてくれるはずだ、というのが、私の考えを悲観的なほうに導く最大の根拠だった。ふたりもいるのだから、どちらか一方が対応できるはずで、別々な場所に住んでいるふたり同時に事故に巻き込まれたということは考えにくい。どんどん悪い方に考えが走っていく。

しかし、そのうちだんだん気持ちが静まっていった。ラオスを除く東南アジアの国々のほとんどを歩いて、そのたびに人を頼らずにやってきた。自分の基本方針は自立と自助である。特に旅先ではそう心がけている。今回は東京の知人の紹介があって、過度に世話になりすぎているきらいがあった。旅先でよくは知らない人に頼り切ることのリスクは、考えてみれば当然のことだった。自分が甘いなと思った。ホテルの老人にも大変な世話になってしまったけれど、初めからクルマを予約したりして自分で空港まで行こうと思えばできることだった。私はひとつの教訓を得たと考え、そうすると心が穏やかになっていった。

空港へは15分あまりで着いた。運転手に約束の800チャットを手渡して、ロビーの入り口に突進した。ゲートには早朝だというのに軍服を着た人々の人だかりがしている。誰か政府の要人の出入りがあるのかと思ったが、これはいつものことらしい。空港中に人があふれ返っている。軍服姿を見ると、旅行者は一瞬緊張するが、応対のときの人当たりはやわらかである。館内に入るときに航空券を提示した記憶がある。

ロビーに入るとなぜか私をずっと前から待っていたかのような顔つきをして男がひとり近づいてくる。これが世話係である。荷物を持ち、航空券に応じた航空会社のチェックインカウンターに誘導、パスポートや航空券をあずかり、チェックインを代行する。それから税関審査、荷物検査、ボディチェックなどを経て搭乗ゲートまで先導する。しかし、この世話係が何なのかいまだによく分からない。他人にパスポートや搭乗券を預ける習慣のない私は、この男が何か悪事をはたらくのではないかと気が気ではなかった。彼が持っている自分のパスポートから目を離すことができなかった。そもそも、たいした手荷物もなかったのだから、世話係など不必要だった。「ノーサンキュー」と言えるものかどうかわからないまま、彼の後ろをついていった。

荷物検査が終わったところで、女性の係官がなにやらミャンマー語で話しかけてきた。それを聞いた世話係が「ユア・フレンド・カム・ヒア」と言った。そして、せっかく諸検査を終えて搭乗ゲートの手前まできたのに、彼は「俺について来い」という合図をしてどんどん元に引き返していく。一般人と搭乗者を仕切るドアの入り口のところから、アイさんがちょこんと顔を出して「ごめんなさい。寝坊してしまって。ほんとうにごめんなさい」と繰り返し謝っている。起きがけの半分眠った顔をしている。「だいじょうぶ。気にしないで下さい。マンダレーから帰るときにはまたお世話になります」そういって笑顔を返し、荷物検査の場所にもう一度戻った。アイさんには、なんのわだかまりももうなかった。きっと彼女の方も大失態を演じてしまい、後悔しているに違いないのだから。パガンとマンダレーに行ったあと、帰国直前にもう一度ヤンゴンに一泊するつもりである。そのときにはまたお世話にならなければならない。気持ちよく再会するためにも、今朝のできごとは忘れてしまわなければと思った。

世話係がまだいた。心配になって「私のパスポートは?」と確認すると、かれは尻のポケットをポンポンと叩いてだいじょうぶと合図した。搭乗ゲートの前には、もうニャンウー(パガン)に行く旅行者が大勢待機していた。世話係が空いている席を見つけてくれ、ここに座れとばかりに背負っていた荷物をおろし、パスポートと航空券、搭乗券を仰々しいしぐさで返してくれた。US1ドル紙幣を手渡すと、さっと姿を消した。ホテルなどでは簡単なことに対しては100チャット、何か特別な頼みごとをしたら200チャットのチップが大体の目安といわれる。
しかし、欧米人はチップに1ドル紙幣をあげることに「馴れている」。日本円でいえば100円程度なのだ。このサービスの対価としては100チャットが妥当か200チャットが妥当かなどと悩んでいるよりは、さっと1ドルあげたほうが心安い。ところが、貰う方からすれば1ドルは約350チャット相当分だから、「チャット」より「ドル」を歓迎するのだ。

飛行場にくるまではあんなにハラハラしたというのに、ニャンウー行きの飛行機は「ディレー(遅れ)」だという。機種は双発機のATR72。約80人乗りの双発プロペラ機である。今年1月にカンボジアのプノンペンからベトナムのホーチミンに行く際に乗ったものと同じ型だった。
待合室で待つあいだ、足元がやけに軽かった。服装はいつもとまったく同じだったが、足元だけは裸足にサンダル履きへと変わっていた。この国にずっと打ち解けた気分になっていた。

遺跡都市「パガン」に降り立つ

パガンの空港に着陸した。乗客は機体後部の短いタラップを降り、歩いてイミグレーションのある建物に向かった。縁日の屋台のような小さなカウンターでパスポートチェックを終えると、すぐ隣りのカウンターで「パガン都市入場税」をひとりUS10ドル支払う。これですべての手続きはおわり、ものの5分もたたない。建物を出て左に向かって土ぼこりのする道を少し歩くと、農場の板囲いが一部破損して口をあけたようなゲートがある。これが飛行場の内と外を隔てる境界である。一般人はこのゲートから中へは入れない。その空いた口のあたりに、浅黒い顔をした男たちが群がっていて、旅行者に向かって「タクシー!タクシー!」と手招きをしながら呼び込んでいる。どこの国のどの空港周辺にもある風景だが、殺風景な空き地に自家用車や馬車が数台停めてあるだけで、頭上に標識をつけたタクシーを想像してはいけない。あたりの景色に町らしき物は見当たらない。もうこの人たちと交渉して、とりあえずホテルにたどり着くしかない。

「どこのホテル?」
運転手らしき男が声をかけてきた。
「ルビー・トゥルー。いくらだい」
「1000チャット」
高いなあという顔をしたが、勝手が分からない町だ。とりあえず郷に入らば郷に従えだ。一台のタクシーに乗り込んだ。パガンという町は地図で見ると「イラワジ川」の東岸に沿った広大な平原に、それぞれ離れて固まる三つのエリアで構成されている。北からニャンウー、オールド・パガン、そしてニュー・パガンだ。それぞれは市というよりさびれた町または村、ないしは集落といったおもむきである。

北のはずれから南のはずれまでは約18キロメートルある。飛行場はどちらかといえばニャンウーに近く、しかし川岸のニャンウーからは5キロメートルほど内陸に位置している。宿泊先の「ルビー・トゥルー・ホテル」はニュー・パガンの南のはずれにあるので、空港から見れば町で一番遠いホテルということになる。1000チャットというのは、やむを得ないのだろう。

クルマが走り出すとすぐ、草原の不思議な光景が広がりだした。 四周には背の低い南国特有の潅木が疎らに生えている。正確に言えば違うのかもしれないがTVで見たサバンナの光景を連想させる。その木々の緑の間に、遊牧民のテントのように無数のパゴダや仏塔が空に向かって建っている。あるものは小さく墓石のように、あるものは巨大で、赤茶けた素焼きのレンガを組み上げたようなものがあるかと思えば、黄金に輝く仏塔もある。あるものはまた、厚い壁で囲われたりもする。この光景は、私の過去の経験のどこを掘り返しても連想の手がかりはなく、ただただ「不思議な光景」というよりほかはない。

道はクルマが走る幹線道路を除けば、ほとんどが土ぼこりのする田舎の農道のようなもので、見渡す限りさえぎるものもなく、ただ潅木と「パゴダを植えた農場」をひた走るだけである。走るたびにクルマは渇ききった道から煙幕のような土ぼこりを巻上げた。道には中央分離帯もそれらしきラインもない。路肩には雑草が生えたままで、ただクルマが踏みしめた分だけ道幅ができているのである。その道を、ときどきロンジーをはき、頭上に重い荷を載せた女たちがすれ違う。自転車や馬車もすれ違う。男も女も、顔にはタナカのおしろいを厚く塗っている。空港からホテルまでの近道をたどり、クルマは先ほどから馬車道を走っているのである。パゴダ以外に建物らしきものはまったく見当たらない。やがて高床式の民家のようなものが数軒身を寄せ合うように建っているのは「ビレッジ(村)」にさしかかったからである。すぐにまた「パゴダを植えた農場」が開ける。

サスペンスドラマのような「ルビー・トゥルー・ホテル」

ホテルはオアシスのような濃い緑の中にあった。やはり観光で成り立っている「都市」なのだろう。ホテルと名がつく建物が多かったが、どれもフラット(平屋)である。
まだ午前八時を少し回ったばかりで「アーリー・チェックイン」が出来るのかどうか不安がある。タクシーが正面玄関前に到着すると、待ちかねたように白いブラウスに黒いズボン姿の若い男女が数人外に飛び出してきた。構えは日本のリゾート地によく見かけるペンションに似ている。応対は一生懸命なのだが、どこかこなれた感じがしない。旅行者の訪れるピークを過ぎ、やっと確保したわずかばかりの宿泊客をてぐすね引いて待っている風だった。小さなロビーだが、チェックインするあいだ、冷たいおしぼりを差し出す人や、「外交辞令」を連発する人や、ただじっとこちらを見詰めている人など、総勢6,7人が私の一挙手一投足を息苦しくなるほど注目している。ロビーの奥にレストランがあったが、朝食を摂る人影らしきものはない。

キーをもらい部屋に案内される。部屋番号は205。このあたりには多い平屋のコテージ式のホテルで、ロビーとレストランのある管理棟の裏手に5棟ほどの木造のフラットがあり、その中に屋外に玄関が面して20室ほどの客室が寄り集まっている。キーをもって部屋に入ろうとすると、ぞろぞろと若い男女3人ほどの従業員があとをついてくる。部屋に入るとひんやりした。エアコンがブンブンうなるように効きまくっている。従業員があれこれ部屋の設備を説明し始めた。ひととおりのものは全部そろっている。浴室もバスタブ、シャワー、ビデ、新しい石鹸、シャンプー、すべて申し分がない。冷蔵庫も無料のミネラルウォーターと一緒にドリンクが詰まっている。正直ってエアコンのうなり声以外は完璧だった。
従業員がなかなか去ろうとしないので、少し多めにチップをあげて(200チャット)引き上げてもらった。ホテルの宿泊客が起き出す時刻よりも早く到着するという、こんな極端なアーリーチェックインは初めてだったが、意外にもこれほど過剰なサービスに取り囲まれて少々閉口した。それはそれとして、「親切」はこの国の美徳なのだから、良しとしておこうと思った。それからも、従業員の「注目」と「過剰サービス」は止むことがなかった。

少し休養してから「市内観光」に出ることに決め、どんな足を利用すればよいかを考えた。結局ホテルに相談することにした。フロントを呼び出して電話で済まそうとしたら、「これから部屋のほうに行きます」という返事だった。部屋にはまたまたハウスキーピング担当が三人も現れた。

この町には「流しのタクシー」がない。流すような町も道路もないし、だいいち流しのタクシーを拾う観光客が道をうろうろしているということがない。なにしろ広大な草原にあるものは潅木とパゴダだけで、途中信号もなければガソリンスタンドもない。喫茶店どころか、店そのものがない。せいぜい突起すべきものといえば熱暑をさえぎる大きな木立の下に木の板を組んだ縁台のような「涼み台」があるだけで、それも地元の誰かがマグロのように占拠して眠っているだけである。町から町を歩いて渡る観光客など実際にはいない。それは無謀な行為である。

三つの町のごく限られた一角、たとえばニャンウー市場のはずれなどに、わずかにタクシー駐車場があるだけである。つまり、タクシーとは一般的には「ハイヤー」なのである。ホテルなどに頼んで「全日」か「半日」チャーターするシステムである。地元民に対しては違うシステムが適用されるのかもしれないが、少なくとも地元民がタクシーを足代わりに利用するとは考えられない。

タクシーと同じシステムでチャーターするもうひとつの乗り物が「馬車」である。タクシーよりは安いが、当然時間がかかる。だからのんびり田園の景色を眺めるのにはいいが、急いで効率よく拠点を巡り歩くにはタクシーにまさるものはない。私は決めた。今日はクルマで主要な観光スポットを駆け足で一巡りし、気に入った場所を記憶しておき、明日もう一度そこを選んで馬車で行ってみようということだった。これは二泊三日コースの歩き方としては、ベストな選択だと思った。

部屋を訪れた従業員に聞いた。
「タクシーのチャージはどうなってるの」
「ちょっと待ってください、フロントに確認してみますから」
「えっ、確認しないとわかんないの?」
それから従業員はフロントに電話してなにやら話しこんでいる。確認するだけなのに何をもたもたしているのかと不思議に思った。こんなふうに、客が何かを確認するたびに、従業員が誰かと相談をするという「奇妙な行動」は、それからも何度か続いた。

電話を切ってから、今度はそばにいる女性の従業員たちとなにやら話し合っている。(おいおい、話し合うようなことじゃネーだろー)と、ぶち切れそうになったが、どうやら「結論」は出たようだった。
「全日で6000チャットです」
そういわれても、経緯が怪しいので、結論はあとで出すことにして、ひとまず帰ってもらうことにした。
何なんだろうこの合議制は?従業員どおし寄ってたかって「商売」しようっていう魂胆か、という疑いをもってしまった。心はタクシーをチャーターすることにほぼ決めていた。そこで、フロントに行って最終申し込みをしようと、部屋を出た。

私が部屋からロビーのある管理棟に続く舗道を歩いていると、先ほどタクシー料金を問い合わせた男がどこからともなく現れ、こちらに愛想を振り撒きながら行く手に立っている。見ると庭の別な場所にもハウスキーピングの少女がいる。それから何度も、私が管理棟に行こうとしたり、外出しようとするとこの人々はどこからともなく行く手に姿を現す。つまり、私がいつも彼らにどこからか監視されていることになる。この従業員たちはフロントの人々とは違って、いわば部屋係のようだった。親切心から、まとわりついているのだろうが、どうも不気味に思えて仕方がない。

このホテルの従業員はみな20代の顔をしていて若く見える。しかし、ロビーにはマネージャーらしき年配の中国系の男性がいる。彼の愛想は、日本人にも抵抗なくみえる。そこで、彼にもう一度聞いた。
「タクシーを全日でお願いしたいんだけど、いくら?」
「5000チャットです」
この男は、相場を知っていて即座に答えた。「えっ?」といいたかったが、「してやったり」という気もあった。やっぱりあの若僧の従業員たちは、いくらリベートを取るのかを相談していたのに違いなかった。
「5000チャットですか。じゃあお願いします。9時30分には出発したいので」
わたしはすぐに予約を入れた。料金は最後にホテルに帰ったときでいいという話だった。マネージャーの横に英語の流暢な好青年がいた。彼が聞いた。
「昼食と夕食はどうなさいますか」
昼食のことは全く考えていなかった。食欲はまるでなかった。お腹がすいたらどこか町なかのレストランで軽いものでも食べようと思っていた。夕食は、こんなうら寂しい場所に建つペンション風ホテルのレストランで摂るのも芸がないかなと思った。もし疲れがたまっていたら、他の宿泊客と一緒に食事ということもやむを得ないかと考えた。
「どこか民族舞踊やパペットショーを見せてくれるレストランはないの?」
好青年はニヤリとして、
「パペットショーならここのレストランでも楽しめます。ちょっとこちらにおいでください」
レストランの中に私を招き入れた。ちょうどロビーから死角になって見えなかったけれど、レストランの片隅に人形劇用の舞台がちゃんとあるではないか。私は、感心した。
「もし、ご希望でしたら、ここで今夜ショーをお見せできますが」
「民族舞踊もいんだけどね」
遠まわしに遠慮してみた。
「もし、ご覧になりたければ、ここで・・・・・・ちょっと待ってください」
いいかけて、彼はフロントのほうに歩み寄り、中の女性とまた何事か相談している。しばらくして、
「舞踊は明日の夜でしたらご覧いただけます。今夜でしたらパペットショーになります」
「でもね、もし食事を摂るったってライト・ディナー(簡単なもの)だよ?それなのにわざわざ私のためにやってくれるというんですか」
「もちろんです、お客様のためなら何でも」
「わざわざ舞踊のチームを呼んでもらうというのも申し訳ないしなあ」
「だいじょうぶです。ここの従業員たちがお客様のために精一杯踊ります」
「従業員が?」
なにやら、不思議なホテルだった。みんな「手作り」でお客さまの満足を最大化しようとしている。まるで、放っておくことが罪だとでも感じているように。恐らく食事の仕込などの都合があるのだろうから、夕食をどうするかは夕方までに返事をするということにした。

いったん部屋に戻るとき、例の部屋係の男の姿は見えなかった。どこからか、こちらのようすをうかがっているのに違いない。タクシーがくる時間になって、ふたたびロビーに向かったとき、案の定、男は影のようにどこからともなく私の視界のなかに現れた。男はばつの悪そうな顔をして、微妙な距離から私をじっと見つめていた。
庭にはほかに人影らしきものはない。
それにしても、気味が悪くなるほどのどかなホテルだ。

炎天下でのパゴダめぐり

9時半、タクシーに乗ってパゴダめぐりを始めた。
最初に訪れたのは、ミンカバー村の中心に建つ「マヌーハ寺院」。例によって入り口で裸足にさせられ、いきなり近隣の子供たちに囲まれ、「ライスボール」と呼ばれる大きな甕状のものがある場所に誘導された。上に上がって甕の中を覗いてみろという。はしごを昇りおそるおそる甕底をのぞくとチャットの紙幣がたくさんあった。つまり「寄付をしろ」ということだったのだ。ワットの中には寝釈迦仏が安置されている。それを四周から眺める。ガイドブックなどにはかならず載っている有名なパゴダだ。

それから私は、ドライバーのなすがままにいくつかの寺院やパゴダを巡り歩いた。パゴダとパゴダをつなぐ道の両側にまばらな潅木が生えている以外に、なにひとつ語るべき対象がない。荒涼とした原野の赤い土くれがむき出しているばかりだ。ドライバーが私を案内したパゴダは、記録をたよりにあとで確認したら、次のようなものだった。個々のパゴダの解説は、ガイドブックなどを見るのがより参考になろう。

@Manuha Temple
AThatpyinnyu Temple
BAnanda Temple
CDhammayangyi Temple
DSulamani Temple
EShwezigon Pagoda
FHtilominlo Temple
GBupaya Pagoda
HMingalazedi Pagoda
INagayon Temple

どれもパガンでは見落とせない代表的な寺院やパゴダばかりだ。この小さな町に何千ものパゴダがあるというから、限られた時間の観光客が手早く回るには上記のリストが参考になるであろう。残念ながら、どのパゴダの回りにも内部にも、しつこい物売りや乞食然としたやからがいてけっこう悩ましい。これを規制する手はないようだ。特に産業がない地元民の収入源といえば、こうして観光客にたかる以外にないのかも知れない。

それから、気がつくことは、有名パゴダに近づいても、その施設を解説する案内板などが整備されていないので、運がよければ事前に調べたことを確認するしかできないのだ。特に予備知識が全くない観光客は、たとえ世界的に有名な施設だからと連れてこられても、ただの薄汚れた壁画やのっぺりした仏像が自堕落に横になっている建物にしか見えない。少なくとも歴史を解説する案内板や、パンフレットを整備したり、そこにガイドを置き有料でひとめぐりするなどの配慮が期待されるのだが、そういうことは一切ない。ただ世界遺産級の建物が放置されているだけで、自生的にたかりの「産業」が生まれている状況は嘆かわしい。

ところで、9時過ぎの太陽はうだる暑さだ。正直いって、日本人には慣れないほどの強烈な日差しだから、行動する時間帯について慎重に考える必要もあるだろう。のんびりするのがもったいないという意識で早朝から深夜までせかせかと行動しがちだといわれる日本人観光客に、この地の危険なほどの日差しの強さは想像できないかもしれない。
だから、「全日」で行動するという場合にも、「途中何度かの休憩を含む全日」と考えるのがいい。休憩の際も、そこいらのレストランやカフェでいつでもできるなどと考えてはいけない。そういう店はいっさいないからだ。だから、思い切っていったんホテルに戻って補水することも念頭においておいたほうが良い。観光客が相当数訪れるはずなのに、それをこの地を豊かにする「好機」と捉える発想が乏しく、観光のインフラが整備されていないばかりか、観光客を迎えるがわのビジネス意識そのものが乏しいようにみえる。

せっかく名刹と呼ばれるパゴダを訪れ感慨にふけっても、物売りか物乞いか見分けがつかぬ子供たちに始終つきまとわれてはほんとうにがっかりする。世界遺産もこれでは泣かされる。カンボジアのアンコールトム周辺でも同じ経験をしたことがある。こちらの顔を見るとすぐ「オニイサン。一ドル」などといいながら、漆塗りの器のようなものを差し出して声をかけてくる。パゴダの中の仏像をひとめぐりするあいだじゅう付きまとう。

あるパゴダでは、上から見下ろすと眺めがいいとドライバーに勧められるので、ムリをして石段を塔の上まで登った。数人が既に上に登っていたので、絶景を楽しんでいるのかと思いきや、彼らは上で観光客を待ち構える物売りだった。明らかに偽物とわかる紙に包んだ「ルビー」をちらちら見せながら売りつけにかかるのだ。見回すと、母親と煤けた顔つきの幼児が何人かいる。子供の居場所としては、塔の上は危険だろうにと心配した。こうした家族と、ドライバーはどうも知り合いのようだった。どちらも、地元の住人にかわりがない。グルになっているとは思いたくないが、どこにいけばどんな物売りがいるのかは知っているようだった。ときどき物売りと親しげに話している光景を何度か見かけた。しかし、ドライバーも、「ここにはこういう物売りがいるから気をつけて、決して買わないようにしてください」とは言えないのだろう。彼は客の私には親切で、どこに行くにも熱心さが感じられた。英語は片言の単語をやり取りするだけで、ほとんど通じないといっていい。見どころに関してはドライバーまかせになるが、ポイントを見逃すことはなさそうだった。

午後になり日差しはますます強くなった。パゴダの境内に入る前にはいつも儀式のように裸足になるのだが、足の裏がジリジリと焼けつくような思いだ。史跡の案内がないことは前にもいった。素人が見ても区別のつかないパゴダをただ見て回るだけの行動にしだいに嫌気がさしてくる。どこを見渡しても、ただただパゴダと寺院があるだけの草原の町。
私は予習を怠った生徒が、歴史の授業に置き去りになったような心境で、うだるような暑さの中、このままどこかに逃げ出したいと思っていた。こういう史跡を巡るときには、事前にしっかり勉強をし、仏像や壁画のディテールを学習しておき、現地でじっくり時間をかけて鑑賞するのが本当なのだろう。パリのエッフェル塔やロンドンの時計塔を見るような気分でここにきてはいけないなとつくづく反省した。
壁画に触れたついでに言うが、どこかのガイドブックに「壁画を見るために懐中電灯を用意するといい」と書いてあった。実際に行ってみて適格な助言だと思った。観光開発が不十分なこの国では、勝手の知らない旅行者の立場で何もかもがしつらえられているのではない。壁画を旅行者に見せるために常時ライトアップされガイドが常駐しているなど、まったく期待できないことである。もし余裕があれば、懐中電灯の携帯を私もお勧めしたい。

昼食はこの地では有名な「リバー・ヴュー・レストラン」で摂った。眼下に悠然と流れるイラワジ川を眺めながら、食事を楽しめる屋根つきの屋外レストランだ。メニューは中華風とミャンマー風があり、ごく一般的なサービスだ。日本料理はない。メニューの数がかなり限られているので、日本での一流レストランのごちそうを期待するわけにはいかない。リゾート地のコテージかペンションのごちそう程度といったらイメージがわくだろうか。素朴ながらしかし、味は良かった。

食事中のサービスは相変わらず「ご当地風」で、まわりに常に何人かはべっていて、そのうちのひとりがしきりに話しかけてくる。屋外で、ハエなども飛んでくるので、ウチワであおぐ係りもいる。「黙って、おしゃべりしないで早く食べなさい!」と小さい頃しつけられてきて、大人になっても無口で黙々と食事をすることに馴れきっている日本人には、少々居心地の悪さも感じるしだいではあるが、「郷に入らば郷に従え」だ。我慢するしかない。

昼食のあと午後一時過ぎにいったんホテルに帰り、シャワーを浴びて仮眠することにした。ロビー前に着くと、またぞろ従業員が現れ、私の周りに集まってきた。キーを早めに受け取って、部屋に戻ろうとすると、例の男がどこからともなくたち現れた。私は彼の胸先をかすめるようにして無言で部屋の方に向かった。なんだかTVのサスペンスドラマのような緊張感だ。部屋に入りシャワーを浴びる前に、ヤンゴンのホテルを去る前にドアマンのおじいさんが忠告してくれた言葉を思い出した。
「パガンでは外から帰ったら、決してすぐにシャワーを浴びないように。まず体を少し休め、水をたっぷり飲むように」。
私はその助言どおりにした。

シャワーを浴びてから、私は疲労から心地よく解放されたからだをベッドの上に投げ出しながら、このパガンという町の不思議さについてもう一度思いをめぐらせていた。「不思議さ」は、どうも独特の「人との距離感」からくるのではないかと思った。

朝方ホテルの周りの道を歩いていたら、5,6歳ほどの年恰好の少年が近づいてきて日本語で「こんにちわ」と話しかけてきた。立ち止まらずに歩く私の横を走るようにしてついてくる。少年は「こんにちわ」を繰り返しながら、小さな腕を伸ばして何かを指差している。その方角を見やると、道に通じる小路を30メートルほど離れた場所の民家の板塀の横に女性が立っていて、大きく手を振りながら私を手招きしている。私が行こうとする方角とはかなりずれているのだが、「家に寄っていきなさい」と明らかに誘っているのだ。少年はお母さんのおつかいでわざわざ私を呼びにきたのだろう。

見知らぬ旅行者を家に誘うこのひとなつっこさはいったい何なのだろうか。私は不思議に思った。「見知らぬ人に決して声をかけてはいけない」と強迫的に教え込む日本の社会とはまったく正反対の現象に、私はそれからも何度か遭遇し、そのたびに戸惑いをおぼえた。結局この親子の誘いには応じなかったが、もし応じていたら、家の中でどんなことが行われたのだろうかと好奇心がくすぐられもした。

考えられることがひとつある。日本人の旅行者が、パガンの庶民の暮らしに興味をもち、いつかお願いをして民家をたずね写真を撮らせてもらった。そのとき、お礼に金銭を与えた。産業に乏しく、現金収入の道がないパガンの住民は、旅行者を見るたびに写真を撮らせてチップをねだることをおぼえてしまった…。

これは「仮説」だけれど、多分当たっているだろう。
先進国の旅行者が、東南アジアの辺境の地を訪れそこの風土病に罹るというようなことをよく口にするが、逆に旅行者が持ち込んだ病原がもとで、その辺境のコミュニティが完全に破壊されてしまうこともある。私を手招きしたパガンの親子を見て、もしかしたらこれも先進国が持ち込んだ「病原菌」のひとつかもしれないと思った。そうではなく、もし「純粋に」外来者をもてなそうとしたのであれば、この地球上にはまだまだ「無菌状態の」社会が残っているということなのだろう。それはそれで、興味が尽きない。

3時半。タクシーの運転手が再び迎えにきた。パゴダはもう見飽きたので、私は「街に興味がある」ことを伝え、マーケットに行きたいと言った。彼は了解した。タクシーは、ホテルの前の道を北上し、「フェニックス・ホテル」の角を左折、イラワジ川の方向に向かった。ニュー・パガンの「モーニング・マーケット(朝市)」とエア・マンダレーのオフィスの前を通り中心街を抜け、南北に伸びる幹線道路と交差するロータリーに絡みつくように回り、クルマは一気に北上した。

ニュー・パガンのすぐ北隣りの「ミンカバ村(Myinkaba village)」に入ると、左手に午前中最初に訪れた寝釈迦仏のある「マヌーハ寺院(Manuha Temple)」が見えた。その前を猛スピードで通過すると、ドライバーは威勢良くクラクションを何度も鳴らした。振り返る通行人や家の前にいる人々が、笑顔をみせたり手を振ったりしている。回りの村人全員が彼を知っているようだった。
「君って有名なんだね」
おだてたら、バックミラー越しに彼の顔がほころんだ。
「僕の村なんです」
そういうことだったのか。しかし、村人の反応からしてそれだけではなさそうだった。もしかしたら、クルマを乗り回す彼は、この村のナイスガイでアイドルだったのかもしれない。

やがて、クルマはオールド・パガンに入り、それから右折して城門をくぐり舗装された「アノラータ通り(Anawratha Rd.)」を突っ走った。そして北のはずれにある「ニャンウー市場」に到着した。あいにく満月の宗教的行事で、この日のマーケットは閉店だった。明日また来ようと決めて私は再びニュー・パガンの方に向かって南下した。途中いくつかのパゴダに立ち寄った。相変わらず物売りにつきまとわれたが、それにもめげず塔の上のほうに登ったり、写真を撮ったりした。しだいしだいに物売りを無視したりやり過ごしたりするコツのようなものが身についていた。

北のはずれのマーケットから、南のはずれまで一気に戻ったのは、そこにある「ローカナンダ・パゴダ(Lawkananda Pagoda)」の周辺でお祭りが行われていると聞いたからだった。ドライバーは、気前よくつきあってクルマを走らせてくれた。途中あいかわらずクラクションを鳴らしまくる。そのたびに、人々はまるで憧れのスターにでも出会ったように目をみはり手を振った。

目当てのパゴダは、イラワジ川のほとりにあった。日本でも、縁日になると神社の境内に立ち並ぶそんな風情で、土ぼこりの舞うパゴダ参道には、露店や物売りの仮設テントが並んでいる。見るとTシャツや玩具、雑貨商などだった。見世物小屋のようなものもあったが、中で何が行われているのかわからない。写真を撮り始めたら、ゾロゾロと子供たちがあとをついてきた。

ミンカバ村でのできごと

日が西に傾いて、エアコンの効くタクシーの中かホテルの部屋に避難したい心境になってきた。
「さて、どこに行きますか」
おもな観光拠点はすべて行き尽くして、ドライバーもこれ以上当てがないといいたげに苦笑している。
「どこに行こうかね」
私もうだるような返事を返した。
「よし、じゃあ僕の兄貴のところに行こう。漆塗りの職人だけど、心配ないよ、行こう」
私は、彼の提案に従った。
兄貴の漆器工房というのは、ミンカバ村のマヌーハ寺院のすぐはす向かいにあった。案内されるままに、中をおそるおそる覗いていると、ドライバーの兄だという人物が現れた。

話を聞いたところ、この人は大変な人物であることがあとでわかった。1999年10月に、漆塗り作家としてミャンマーを代表し、日本の文化庁の招きで東京を訪れ、さらに韓国からも招待されていることがわかった。そのときの国際シンポジウムのカタログを見せてくれた。この世界に不案内な私は、居並ぶ人物たちがどれほど著名な人々かはわからないが、写真の位置などから判断して、目の前の人物がその技術を国際的に知られた著名な作家であることがうかがえた。

「あいにく、今日は工房の職人たちがほとんど祭りの出店のほうに出払っていまして、残念です」
親しみを込めた笑顔をこちらに向けた。口の中が真っ赤に染まっている。「ビンロウ」を噛んでいるのだった。この習慣を見のあたりにすると「ああここも東南アジアなんだな」と妙に安心する。

工房を出て、隣りの民家の庭先で豚が歩き回っていた。面白がって私がカメラを向けていると、ロンジーを腰に巻いたひとりの女性が現れ「例の」手招きをする。躊躇し、遠慮していると、その腕の振りが大きくなった。「いいから、お入りなさい」と真に迫る表情だ。思わず飲み込まれるように敷地に足を踏み入れてしまった。女性は、庭の隅で座って手作業をしていたのである。ゴザの上に再び腰を下ろして器用な手つきで仕事を続けた。見ると葉巻を一本一本手作りしている。その横に幼児がひとりちょこんと土偶のように無表情で座っている。両の頬いっぱいにタナカが白く塗られている。幼児のあどけないやわらかな表情が乾いたタナカの奥にしまいこまれて見えない。土偶のように見えるのはそのためだった。

女性の手つきが敏捷になった。フィルターのような吸い口の一端をタバコの葉の縁に置き、はみ出した部分をていねいに切る。フィルターの横からタバコのきざみを海苔まきの具のように置き、全体を同じ太さにして円柱状に巻く。要所要所で、女性は手許から目を離し私の顔を上目遣いに覗き込む。しかし、手は巧みに動いたままだ。「早く写真を撮れ」と促されているようにも思われる。自信にあふれた手さばきから、彼女はすっかり被写体になりきっている。私は思わず自動シャッターを何度か切った。女性は作りたての葉巻を一本私に差し出した。「ありがとう」と礼をいった。
「うちのひとり息子です」
女性はしきりに私の関心をその子に向けようとする。その子の写真も何枚か撮った。
「どうもありがとう」
そう言って立ち去ろうとしたとき、彼女はすぐ右隣りの子供を指差して言った。
「????マネー、???マネー???」
聞き取れない言葉の中で、「マネー」という単語だけがグサリと耳に残った。
私は、彼女にうなづいて、それから土くれのようにじっと座っている子供の手にポケットから取り出した皺くちゃの100チャットを握らせた。

修道僧院での思いがけぬ歓待

「さてこれからどうしましょうか」
ドライバーは再び言った。どうするかというのは「日没まで」という意味が込められている。観光のハイライトであるミンガラーゼディ・パゴダに登って見るサンセット・シーンの見物まで、まだだいぶ時間が残っていたのだった。行くべきところはもう行きつくしていた。
「このあたりにモナステリー(修道僧院)はないの」
私のとっさの質問に、ドライバーは驚いたようすだった。「そういえば見落としていたな」という気づきもあったろうが、何よりも「何でそんなものに興味をもつんだ}という驚きがあったようだった。
「OK!」
俺にまかせろといわんばかりの表情をした。

クルマは道をまたいだばかりのところにある閑静な敷地の門をくぐった。マヌーハ寺院のすぐ隣りにあたる場所だった。庭に赤黒い木綿の僧衣をまとった男が立っていた。ドライバーはクルマを降りると、うやうやしく男に近づきふたことみこと話をした。僧はとたんに表情をやわらげ、大仰な身振りで「OK!OK!」といいながら、僧院の階段を登るよう下から促した。高床式の細長い僧院には、白くペンキが塗られた階段が日本かかっていた。

中に入ると、薄暗くだだっ広い板の間の部屋がひとつあり、その片隅にベッドが置いてある。東側にもうひとつ小部屋があり、そこは居住空間のみすぼらしさとはまるで違って、立派な仏像をいただいた黄金と極彩色の祭壇がしつらえられていた。ヒトのいい田舎の住民が客人を招くように、その祭壇のある部屋に「さあさあ、ここにお座んなさい」と背中を押すようにして招き入れられる。板の間に座布団大の花ゴザが敷いてあり、そこに僧侶が祭壇を背にして、私と運転手が祭壇に向き合うように座った。

はじめ正座していたら、すぐに「足をくずしなさい」と気遣ってくれた。ドライバーは、顔見知りのようだった。しかし、どこか遠慮がちで、親しき中にも礼儀を失せぬよう慎重に振舞っているのがわかった。遠来の客を招くとき誰もがするように、僧侶は居間の奥の方に声をかけ誰かに命じてお茶と茶菓子を持って来るようにいった。年のころ4,5歳だろうか、身なりはシャツに半ズボンの普段着姿だが、頭だけは丸坊主の小僧がふたり、おぼつかない手つきでお茶を入れてくれた。小僧の上半身大もある重いポットから、板の間に置いた小さな湯のみ茶碗に茶を注ぐのは難しそうだった。ポットが小刻みに揺れ、湯のみ茶碗から何度も茶がこぼれそうになった。茶菓子は境内で採れたマカダミアナッツで、砂糖で固めたようなものだった。ひと粒口にほうばったら、甘すぎて飲み込むのに難儀した。ドライバーは食べなかった。このナッツは帰りぎわに一袋みやげにもらった。

それから僧侶は親しくいろんな話をした。どこからか幾葉も出してきて、ひとつひとつ説明をしはじめた。この場所で観光客が一緒に撮った写真を送ってきたものらしかった。その中に日本人が何人かいた。私も衝動に駆られて僧侶と祭壇にカメラを向けた。ドライバーが気を利かせて僧侶の郵便の宛先を教えてくれるよう頼んだ。

REV:UTHON DARA
MIN KYALING
MYINKABAR VILLAGE,BAGAN,MYANMAR

最初の一行は名前らしかった。それを確認もせず、私は200チャットのお布施を差し上げて僧院の階段を下りた。庭には近隣の他の子供たちが数名いて、すぐにはその場を立ち去りがたいものがあった。
「あれは何?」
庭の片隅の小さな高床式の小屋の中に奇妙なものが収まっているのを発見しそれを指差すと、僧侶は子供に命じて出して見せるよういった。子供たちは張り切って小屋に這い登り、中にあった大きな物体をひきずりおろしてきた。「張り子の馬」だった。子供たちが妙に興奮しだした。そのうち「張り子の鶏」も出てきた。誰かが「巨大うなぎ」も引っ張り出してきた。そのうち「太鼓」と「かね」があらわれた。僧院の庭は騒然とカーニバルになった。ひょうきんな僧侶と庭に居合わせたおとなたちが、わいわいと囃子たて子供たちの気分を乗せていく。元来祭り好きで、素直な子供たちは、自分たちがからかわれていることに疑いももたず、客人に最大のサービスを演じて見せようとする。二人ががりで巨大うなぎの張り子をかぶり左右にあるいは前後に囃子にあわせてくねくねと揺する。しまいには「ハーハーフーフー」いいながら「まだ?」と音を上げそうになりかぶりものの下から坊主頭をのぞかせる。
「近所の子供たちですか」私は誉め言葉のかわりにきいた。
「みなし子たちです」ドライバーがこたえた。
「親のいないこの子たちをお坊さんが面倒みているんです」
子供たちのパフォーマンスに50チャットのチップを手渡して、私はタクシーに乗り込んだ。小遣い目当てに一生懸命パフォーマンスしたわけではなかったろう。その熱演に、その金額が適切だったのかはわからない。

私たちは、いよいよ最後の目的地ミンガラーゼディ・パゴダに向かった。日はもう西にだいぶ沈みかけていた。パゴダは僧院から近かった。20人ほどの陽気な西洋人が、パゴダの中ほどにせり出したテラスの東側に腰かけて、西日に映し出される東の風景に目を凝らしていた。レンガの急な階段を慎重に登る。手すりなどはなく一段一段が薄いので、足元がかなり危険だ。テラスから見晴るかすパガンの遠景はみごとだ。地球上にこういう場所があることが不思議だ。さえぎるもののない大平原に、チェスの駒のように点々とパゴダが置かれている。かつてのこの王国の支配者は、何を思ってこのような偉業をなしとげたのだろうか。人間とはまことにはかりしれぬ生き物である。

私は日が落ちきる前にその場を離れた。落日はいったん西の雲海のなかに隠れる。そしてその雲の下に再び姿を現し地平線に沈むまでのわずかな時間が、東方の風景を黄金色に燃やす。パゴダがまばゆい光を一身に浴びて、炎のように浮かび上がるのである。私はそれを目のあたりにした。

ホテルに帰り、5000チャットをドライバーに渡した。夕食はホテルのレストランで摂ることにし、ロビーで予約して部屋に戻った。このとき初めて、ほかに宿泊客がいないことを知らされた。従業員以外に人影がないことがこれでわかった。既に日が落ちて暗いホテルの敷地を歩いていると、薄気味の悪さがはい上がってくるようだった。

うす気味の悪い「ひとりディナー」


「ルビー・トゥルー・ホテル」は、パガンの数あるホテルの中で最も南に位置するホテルだった。特に町の中心というものがないこの町では、日中の観光を終えたあとには宿泊施設をどこに求めようとも、変わりがないといえるのだが、そうであっても現地の事情を多少なりとも知っていたら、こんなロケーションのホテルを予約することはなかっただろう。パガンの夜には賑わいがまるでない。ましてや歓楽街などは皆無で、ホテルのレストランで静かにビールを飲むぐらいであろう。賑わいといえば、ほかに観光客がいてその話し声が聞こえるくらいである。

ホテルの薄暗いレストランの夕食時に、ひとりの客しかいない光景を想像してみてほしい。なんとわびしい気の毒な客だろうか。それがいまの私だった。注文を取りにきたボーイとウェイトレスが、なぜかしきりに「ワンタンスープ」を勧める。もともと嫌いではないので、勧めにしたがった。それなのに、注文したら、できあがるまでに少々時間がかかるという。薄暗さ。従業員の多さ。客の少なさ。応対のうやうやしさ。いつもそばにぴたりといる居心地の悪さ。そして、妙な静けさ。なにもかもちぐはぐで、なぜ自分がこんなところにいるのかわからなかった。

中華料理の簡単な数品を注文し、食前にミャンマービールを頼んだ。食事をし始めるとすぐ、小さな人形劇用のステージのライトが点灯し、私ひとりのために「パペット・ショー」が始まった。伝説や民話を題材にしたものだろう。人形は意外にしっかりと作られていた。操り手も技能もなかなかなものだった。

食事のあいだじゅう、英語を話す好青年がぴたりとそばに立っている。聞けばこのホテルの従業員は35人いるという。それが、今夜はたったひとりの客をもてなしているのだった。青年はパガンとマンダレーの中間地域の大学に進学するための学費をかせぐ目的で、ホテルに住み込みで働いているという。従業員は、ホテルの近くに寮のようなものがあり、そこに寝泊りしていることを知った。労働人口があり余っているせいなのか、何か頼みごとをすると4人も5人も現れるし、わからないことがあると集団で相談している。その光景は、なれない者には奇妙に映る。

レストランの片隅にTVがあり、そこからNHKの海外向け日本語放送が流れている。おかげで浦島太郎にならずにすんだ。台風やニュースなどの情報が日本とリアルタイムで受け取ることができた。そういえば、日中庭をうろついているとき、管理棟の裏に巨大なパラボラアンテナが空に向かって口を空けていたのが見えた。

気になることがあり、ボーイに聞いた。
「なんでメニューに価格表示がないの?ホテルのレストランでしょ」
好青年が申し訳なさそうにいった。
「野菜や肉の値段がいつもかわるのでチャットで表示ができないのです」
なるほどそうだったのか。インフレが猛スピードで進行するので、値段は時価に近いものにならざるをえないのだという。確かにミャンマーでは、その後もメニューに値段がないレストランに何度か入った。青年の説明が本当なら、「ぼろう」と思えばできないこともないと思った。しかし、チャーハンがひと皿500チャット(約180円)。ミャンマービール大瓶も同じく500チャットなのである。

タクシーも馬車も値段をそのつどロビーの同僚と相談をして決めているのも、別に会社に確認しているわけではないし、御者に連絡を取っているのでもない。「どうしようか」と相場を話し合っている風なのだ。当然自分たちの手数料も計算に入れているのだろうが、その結果結論として提示してくる「モノの値段」はタカが知れている。もしかしたらホテルの従業員には給料というものがなく、あってもわずかで余剰の収入に支えられているのかも知れない。

パペットショーが終わった。どちらかといえば「早メシ」を食って部屋に戻って眠りたかったが、従業員の親切が痛いほどわかったので、私のほうが彼等のパフォーマンスに付きあってあげたようなものだった。
部屋に引き上げてからも、この奇妙なホテルの存在が気にかかり、すぐには寝つかれなかった。

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