ミャンマー三都市の交通手段の比較
昨夜寝しなに、気にかかってあれこれ思いを巡らせたことについて書いておきたい。ミャンマーの交通手段についてである。
ヤンゴン、パガン、マンダレー、それぞれの町の成り立ちに起因して、主要な交通手段のあり方が微妙に違っているように思える。
●ヤンゴン
最も便利な交通手段は「流しのタクシー」。これは日本のタクシーの感覚に非常に近い。中古の普通乗用車の頭に黄色の長四角形のプレートがある、
赤い文字で「TAXI」と書いてある。手を上げて右側通行で走ってくるタクシーに合図すると、空車の場合に停車する。「空車」表示はないので、夜など分かりにくいが、クラクションをけたたましく鳴らすか、停車するのでわかる。空車は、反対車線のものでも道の向こう側で停まり、Uターンしてくる。
タクシーが停まったら、右ハンドルの運転手の横に来て、場所と料金を聞く。場所を言った後こちらから「これで行ってくれ」と言い値を示すことでもいい。多分運転手は多少高めにいうはずだから、きっぱり「ノー」といって再度「200」などと数字をいう。もちろん相場をホテルのドアボーイなどに聞いておくのがよい。
たいていの運転手は二三度やりとりをして相場に近づけばすぐ「OK、GO」といって後ろの席を指差すので交渉が成立次第乗り込む。雰囲気として高い料金に固執している風があったら、かならず「ノー,サンキュー」といって運転手から離れ、次のタクシーを探すふりをしよう。このとき、たいていの運転手は「悲しそうな顔をする」。ここでたいていの運転手は妥協する。そうでなければ、やはり次のタクシーだ。流しのタクシーはあり余るほどある。
ヤンゴンのタクシーの相場は200Kから300Kの間だが、私が交渉した結果で言えば200Kから250Kで済んできた。一度タクシーに乗ってしまえば、あとから料金を吊り上げられることはない。料金メーターはついていない。降りる直前または、降りてからドライバーにさっと料金を渡す。
タクシーは主要な場所には付け待ちもしている。ただし、ドライバーは降りて近くのカフェなどにたむろしている場合も多い。タクシーの回りをうろうろしていると、どこからともなくドライバーが姿を現す。
サイカーはダウンタウン内の近距離移動には便利だが、雨季には突然雨が降り出す確率が高く、これにはどうしようもない。私は、あまりサイカーを利用しなかったが、料金は格安なことはあきらかだ。
●パガン
この町の成り立ちは不思議だ。町と呼べるような商店の集合エリアは、北のニャンウーとオールド・パガン、それに南のはずれのニュー・パガンのみだ。都市機能は、著しく遅れ、過去から時間が止まったような町だ。人ごみがする場所といえば、わずかにニュー・パガンの朝市と、ニャンウーの市場だけだ。ニュー・パガンの朝市は、昼近くになると人っこひとりいなくなる。
土地の人々は、歩くかまたは自転車に乗る。市場の片隅や大きな建物の角には馬車が付け待ちをしているが、地元の人の日常的に利用する交通手段ではない。
しかし観光客にとってもっとも便利なのが、この馬車だと思う。旅行者の利用のしかたは半日または一日チャーターするのがふつうだ。次いで便利なのがタクシー。とはいっても日本の感覚でいえばハイヤーのようなもので、旅行者はやはり半日ないし一日チャーターする。手配はホテルのフロントで行うのが良い。流しを拾うという感覚ではない。馬車が半日で2500K。一日なら5000K。タクシーはその倍の料金が相場だ。サイカーはほとんど見かけないのは、練り歩く町の建物がないのと、パゴダとパゴダの間をサイカーで移動していては、暑さのせいで危険だからだろう。自転車も、旅行者にレンタルしているのだが、料金は定かでない。
●マンダレー
整然と区画整理された町並みは、分かりやすさの点でははじめての旅行者にも便利である。通りの番号をたどれば、どこへでも行ける。しかし、前にも言ったように、歩いて移動しようとすると意外と広く距離があるな、という印象を受ける。やはり、この町で歩いて町並みを見て歩くというのにはムリがあるという気がする。
タクシーは、ヤンゴンのように流しているというよりは、サイカーと同様主要なショッピングエリアやホテルの近くに駐車して客を待っていることが多い。メーターは壊れていて使いものにならない。頭に「TAXI」表示がないものもある。旅行者には、一時間区切りの時間制でやっている。1時間800チャットと言われた。もし、市内からマンダレーヒルに登るときにはなぜかプラス1000チャットの割増料金を請求される。もし全日でチャーターするとなると7000K(US20ドル)ということだった。市内全域を限られた時間でくまなく見て回るときにはタクシー。市内に限るが、どこか一箇所に移動するときにはサイカーが便利な交通手段だ。
マンダレーヒルに登る
さて、「シルバー・スワン」の朝食はコンチネンタル風。じつにあっさりとしている。トースト2枚。メロンの賽の目切り。オレンジジュース。卵。焼き方は自由だが、オムレツはプレーンになる。このホテルの食堂は最上階にあり、窓から四方の風景を遠く見はるかすことができる。マンダレーは平坦な市街地にあまり高くない建物が建っている。8階の食堂からの眺めは、市外の感じがつかめてうれしい。
朝食後、ホテルのタクシーを3時間チャーターしてマンダレーヒルに登ることにした。1時間800Kで、マンダレーヒルに登る際の追加料金1000Kを払うと合計で3400Kという計算になる。
市の北に位置する広大な旧王宮の赤茶けたレンガ壁を横目に見ながら、タクシーはスピードを上げる。まだ22歳というドライバーが、白いタナカを両頬に塗っている。もうすっかり見慣れてしまったので、違和感がなくなっている。王宮は20メートルほどの幅の濠で周りをぐるりと囲まれている。
王宮の北側の道の中ほどを左折し、山道に入る。急な険しいS字の坂道のスソにさしかかった。ドライバーは、窓を全開にし、エアコンのスイッチを切った。エンジンが苦しそうに軋みだした。頂上は標高230メートルだから、日本のどんな地方都市にでも町を見下ろせる小高い丘が近くにあるものだが、まさにマンダレーヒルとはそのような場所にあり、坂道を登る風情もまったく日本のそれと変わりがない。登り始めてしばらく行くと料金所のようなところがある。その近くに、歩いて頂上のパゴダまで行く人のための屋根つきの急な石段がある。参道の入り口ということだろう。
タクシーはさらに山道を進み、やがて山頂のふもとの広場に達した。クルマはここが終点である。広場の周りには茶店や土産物屋が数軒軒を連ねている。
タクシーの運転手が、何か異変に戸惑っているようすだ。警官や軍服姿の男たちが物々しく何かを警護している。警官と何か言葉を交わしていたドライバーが戻ってきて言った。
「きょうは頂上までのエスカレーターもエレベーターも使えないといっています」
理由を聞くと、政府関係のVIPが保養にきているのだという返答だけだ。エスカレーターもエレベーターも彼と彼の警護の連中が使用しているのだという。登ってきたわれわれの車を最後に山道は通行止めになったらしい。
「ふざけんなー!誰がおまえの国を支えてあげてんだ、観光客だろ!」
と怒鳴りつけたい気持ちだったが、しかたなく、クルマのところから裸足になり、歩いて参道を少し登った。
参道には、みやげ物が両脇に並んで、熱心に客を引いている。ベージュ色をした薪のようなタナカの木を、丸い板状の砥石に似たプレートにタナカの木をこすりつけ、水を少し混ぜクリーム状のものを作って見せている。僧侶も頂上付近に数多くいる。子供の僧もいて、私から離れようとしない。
頂上のパゴダでは入場料として外国人は3ドル徴収される。パゴダの回りがぐるりと四周を見はるかす展望台になっている。はるか眼下に王宮が見え、その向こうに整然と区画されたマンダレーの市街地が広がっている。雨季で川幅が広がったイラワジ川の、悠然たる流れも視界いっぱいに広がる。目の前をさえぎるものは何ひとつなく、市街地を臨むパノラマとしては最高のスケールで、アジアで一、二を争う絶景の部類に入るだろう。
展望台の囲いの内側に足の長い木製の椅子が並べてあった。当然そこに腰かけて展望を楽しむものだと思っていたら、管理人のような人に「そこは座ってはいけない」と注意された。「なんなんだい!?じゃあこの椅子は何のためにあるんだ」と、またまたブッちぎれそうになった。どうも、この国の民主主義のあり方が理解できない。タイの空港では搭乗ゲートに一番近い場所に「仏法僧専用席」というのがあったのだが、あれと同じようにお坊さんが座るために据えてあるのかと思ったが、確認はしていない。
参道を降りてタクシーが駐車している場所まで戻ったのだが、まだ例のVIPが山道を閉鎖しているようで、クルマはエンジンをかけられない。見ると乗合バスがまるで家畜を詰め込んだ小型トラックのように、ぎゅうぎゅう詰めの人を乗せたまま足止めを食っている。暑い日差しの中で、中の人々は窒息でもしはしないかと心配になった。こちらは「時間制」でタクシーをチャーターしているので、いらいらは募るばかりだった。仕方がないので、広場の周りの茶店に入って時間をつぶすしかなかった。
(まったくこの国のVIPかなんか知らんが、外国人観光客を何だとおもってんだ)
苛立ちがしばらくして怒りになって暴発しそうになった。「ポッカ」という名の日本製の冷たい缶ジュースを頼んだ。オレンジの果肉パルプが入ったおなじみのジュースだった。料金は200K。タクシーのドライバーは「ポッカ」のライチジュースを頼んでいた。ライチは大好物なので、好奇心もあってあとから私も「ポッカ・ライチ」を頼んでみた。30分が経過しても、まだ頂上は税金を無駄素使いする迷惑な奴に振り回されていた。
ふと見ると、茶店の中に小部屋があり、入り口のところに「CD−OK]と書いてある。ニューパガンのニャンウー・マーケットに行く途中にも、この「CD−OK」の看板を出した店が何軒かあって、気になっていたのだ。ドライバーに聞いたら、ニヤニヤしている。
「歌いたい?」
と聞いてきたので納得した。CDをかけてマイクで歌ういわば「カラオケ・ルーム」だったのだ。
結局私たちは茶店に入ってから1時間近く待たされ、ようやく山道は再開した。まるで軍と警察のクルマを追い立てるように、タクシーは下り坂を駆け下りた。
それから、ヤンゴン最大といわれる絹織物工場、お布施の金箔を作る工房、そしてマハムニパゴダの周辺にある仏像・仏具の工房群を駆け足で見学した。日差しが強くなってきた。クルマを降りるたびに、犬のように息をハーハーさせながら私は歩いた。昼少し前に、いったんホテルの部屋に戻ることにした。朝ホテルを出るとき、枕の下に小額の紙幣をかき集めて200Kくらい置いておいたものが、ベッドメークを終えても、手付かずのまま同じ場所に置いてあった。チップの習慣が一般的でないことが、これでもわかる。「ピロー・マネー」だとは思わなかったようだった。この清廉さはいったいどこからくるのだろうか。不思議な国だと、妙に感心した。
「GOLDEN DUCK」で夕食を
午後三時、仮眠から目覚めると、外は恐ろしいほど雷がなり激しいスコールに見舞われている。浴室の格子窓から、雨が吹き込んできた。かんしゃくを起こしたように降りつづけた雨は、それから1時間後にはウソのようにぱたりと止み、やがて再び空には晴れ間が広がった。夕食までの時間、部屋にこもって今日までの旅の思い出を振り返っていたら、突然初めての停電に遭遇した。
ベトナムの中部ホイアンで夕食時、激しいスコースの後に同じように停電に見舞われたのを思い出した。
ホイアンは、夜になると町じゅうの店が軒先にちょうちんを灯す。突然の停電で電灯がいっさい消え、町じゅうが軒先のちょうちんの明かりだけが残った。それはまるで闇に乱舞するホタルのように、古い町並みを幻のように浮かび上がらせた。
あれは、私にとって期せずして神様がくれた最高の贈り物だった。
午後五時再びタクシーをチャーターして王宮西側の観戦道路に面した「GOLDEN DUCKS」という中華料理店に行ってみることにした。マンダレーでは最高級レストランのひとつだと聞いていたが、最後の夜くらいはちょっとぜいたくをしてみようと思ったのだ。しかし、もともとグルメとは縁遠い人間だから、特に中華料理の何が食べたいという欲求もなかった。
2階のテーブル席の王宮側は、全面足元までガラス張りで、日が落ちると王宮の夜景が堪能できるようになっている。五時過ぎで、食事する人々はまだ少なかったが、王宮側に面したの窓際のテーブルの真中には、みごとにすべて予約のプレートが立てかけてあった。突然思いついて行った私は、もちろん予約なしである。がらんとした部屋の奥まったテーブルに案内された。
メニューは、名前にもある「DUCK」が名物のようだった。飲み物、グリルド・ダック、イカの天ぷら、チャーハン、ポテトチップスを頼んだ。スモール、ミディアム、ラージと三つのサイズがあるが、日本人の小さな胃袋にはスモールでも大きすぎるくらいだ。ミネラルウォーターは無料だった。食事のあとには、デザートにスイカとパイナップルが無料で出してくれる。これで全部で800円くらいだった。計算違いかなと、何度も確かめたが、間違いはなかった。
またもや大いなるコミュニケーション・ギャップ
食事のあと王宮を北のほう東へとぐるりとひと回りし、マンダレー中央駅に行ってみることにした。途中タクシーのドライバーは、有名な「パペットショー(操り人形劇)」があるよとパンフレットを見せたり、あれが「ジュエリーショップだ」などと、当方がまったく関心のない情報を押しつけてきた。相変わらず言葉が通じなくて、彼が一生懸命な割には何を行っているのかわからない。そして、やっぱり言い終わったおとにはケラケラと笑った。
マンダレーの駅は、夕闇に包まれながら、遠くに行く人々でごった返していた。小さな切符売り場の前に長蛇の列ができている。私はドライバーのあとをついて、促されるままに駅のホームに入っていった。ヤンゴンに向かう寝台つき長距離列車が停車していたが、出発が近いのか上客があわただしく出入りしていた。ヤンゴンまでは14時間と聞いた。東南アジアの列車は、どの国でも長旅になる。いつでも、この列車を思うとき、東南アジアの生活時間を連想する。日本の新幹線が、いかに速いか、われわれはあまり気づいていない。こちらの人々からすれば、新幹線の列車の速度は、ロケットなみに思えるはずだ。それをいま、リニアモーターカーの実験で、もっと速いものに革新しようとまでしているのだ。
駅をあとにして、私は「チャイナタウンに行ってくれ」と指示した。「イエス・サー」と威勢よく答えたのはいいけれど、クルマはなぜかどんどん郊外の方に走っていく。「チャイナタウン」は駅の近くだと予め承知の上で指示したのだった。町並みは明らかにチャイナタウンの雑然とした賑わいから遠ざかっている。しばらく走って、クルマはグイと狭い小路に入った。
「おいおい、チャイナタウンだよ」
私は明らかに違うことを見届けてから、ドライバーに強く言った。
なんと彼は「中国領事館」に向かっていたのだった。
「もういい、ホテルに戻ってくれ!」
こんなところまできてしまって、これでホテルに戻ったら、約束の二時間を超過してしまうに違いないとまたまた不愉快なおもいにさせられた。
それにしても、この国はいったいどうしてしまったのだろうか。かつてイギリスの植民地だったころの面影はすっかりなくなってしまった。ビルマ国民の英語の能力は素晴らしいものがあった。独立以前は、医科大学の卒業生がそのままイギリスの医師免許を取得できるほどのネイティブに近い語学力が誇りだったはずなのに、1960年代の民族主義的運動により英語教育の水準は日に日に低下していったようだ。いまは若い人々の英語力は、アジアで最低水準といわれる日本よりも低いのではないかと思われる。とにかく、またしてもコミュニケーションの壁に突き当たったのである。
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