第三話 炎熱の古都「マンダレー」

第九日目(イラワジ川のほとりにて)曇り

夢の中の「イラワジ川幻流記」

部屋じゅうの壁と天井をエアコンの音が揺さぶっている。チェックインしてから、この部屋のただならぬ騒音には気づいていたが、意識が新しい 町への興味に奪われているうちはまだ我慢できた。からだに極度の疲労感がたまってくると、それにつれ神経も高ぶるのか、今朝のエアコンの 「いびき」や「歯ぎしり」には我慢がならなくなった。
浴室の蛍光灯の気まぐれもほしいままだ。壁のスイッチを入れても、蛍光管の端っこが淡く黄色にもやるだけで、なかなかぱっと点灯しない。こちらがしだいにイラつくのを、まるでじらして楽しんでいるようなふてぶてしさだ。あきらめてそのまま浴室のドアを閉め、しばらくしてからそっとドアを開けてみると、いつの間にか蛍光管の端から端まで点灯して、場末のクラブのロックミュージシャンのように威勢よくビリビリとがなりたてている。客室のけち臭い明るさとはうらはらに、狭い浴室はナイター球場かサッカー場のように目もくらむ光が充満している。
部屋の小型冷蔵庫も、さっきから何が気に食わぬのか、時折神経にさわる振動音を立てはじめた。

しかし、すぐに私はまた天井をうつろに見つめながらまどろみ始めた。
エアコン、浴室の二メートルはある蛍光管、そして冷蔵庫。不思議なことだが、これら騒々しい最悪のオーケストラの中でも熟睡できた。南方特有の大らかさとでもいおうか、はたまたもうどうでもいいという投げやりな気持ちといおうか、そういう得体の知れない感覚に押さえ込まれていた。
ときには死者も出るというというマンダレー名物の熱暑のなかを動き回ったせいで消耗し疲労がたまったのだろう、とにかく私は日本にいるときには考えられないほどよく眠った。

うとうとと、浅い意識が眠りと覚醒のあいだをたゆとうなかで、なぜか「イラワジ川幻流記」というような旅行記のタイトルが、朽ちた流木のように繰り返し浮かんできた。「イラワジ川」については、日本で誰かが書いたものを読んだ記憶がない。なぜか雄大な自然のイメージがとりついて離れない。

展望レストランから見た朝もやの風景

マンダレー最後の日だ。
今朝は、早めに行動しようと決め、開店時刻の6時30分を待って8階の展望レストランに行ってみた。
窓から臨む朝は、淡いブルーのベールを空からかぶせたようにやわらかく徐々に明けていた。マンダレーの人々の早朝の暮らし振りが足元にミニチュアの人形劇のように見下ろすことができた。遠くにマンダレーヒルの丘が、朝もやのなかに霞んで見えた。きのうタクシーで何度か通り過ぎた近代的なショッピングセンターのひときわ高い建物が目につく。マンダレーの古い町並みとは明らかに違うデザインだ。83番どおりがはるか北のほうから遠く南のほうまで一望できる。私はこのレストランがすっかり気に入ってしまった。

よくみると灰色がかった町並みや道路のあちこちに、小豆のような赤黒い点がうごめいている。はじめは少しに見えたが、しだいに数が増え、やがて道の両側に列をなして連なり始めた。マンダレーの灰白色の朝に、その「赤黒い点」は、鮮やかな緊張をもたらしていた。その点の流れ出る先をたどると、このホテルの真向かいに小路があり、その奥まった場所の建物から吐き出されていることがわかった。小路が83番通りに出ると、赤い点は風に吹かれた草花の種子のように四方八方に散っていった。

赤黒い点は、朝の托鉢に向かう僧侶たちの姿だった。私はまるで顕微鏡の中の微小な生物の動きを観察するかのように、ガラス窓越しに焦点を絞り込んで僧侶たちの動きに目を凝らしていた。片手に鉢を抱え、それの上部を袈裟の端で覆っている。まだ、幼い顔をした僧侶も混じっている。彼らはみな裸足だった。

マンダレー仏教徒学院

私は食事を終えてすぐ、階下におり、先ほど確かめたホテルの真向かいの小路に向かった。サイカーの運転手が、ビンロウで真っ赤に染まった口を開いて懸命に声をかけてくる。私はそれを振り切って、小路の奥の敷地に入り込んでいった。

僧侶を吐き出していた建物は「モネストリー(Monestry)」、すなわち仏教徒を教育し養成する僧院だったのだ。建物の内部には教室のような部屋があり、立てかけた黒板には学年別やクラス別のカリキュラムがびっしり書き込まれていた。パーリ語、サンスクリット語、英語などの語学教科とともに、仏教の基礎理論などの教科が書かれているのが読み取れる。別な建物には講堂のような空間があり、正面に立派な仏壇が据えてある。それに向かって木製の使い古した座机がたくさん並んでいた。仏壇の上方に「Buddist Academy of Mandalay」と刻まれたボードが掲げられている。

しばらくすると、敷地内の寄宿舎のような建物から、白いシャツに濃い緑のロンジーをまとった少年たちが出てきて物珍しそうにこちらを見ている。仏教徒の格好ではなく、一般の生徒のいでたちだ。
「Are you students?」
何度も声をかけてみたが、いつものようにはにかむばかりの反応だ。やがて、物音に気づいたのか、僧院の一室の格子窓のすきまから年配の僧侶が声をかけてきた。
「どうかしましたか?」
「ここは仏教徒の学校なのですか?」
「ええ、そうです」僧侶は穏やかに言った。「なにがお知りになりたいのですか」
「いまここにいる少年たちは、普通の学校に通っているのですか」
「そうです。ビレジッジ(田舎)から来て勉強しているんです」
それを聞いて私は思い出した。タイでもカンボジアでも田舎の貧しい家庭に育ち学業成績が優秀な子女を、寺院が面倒をみて、宿泊場所と食事提供し都会の学校に通わせる制度があるのだ。ミャンマーだって同じ仏教国なのだから、そういう扶助制度があっても不思議はない。目の前の子供たちは、朝早くから僧衣をまとって托鉢に出かける子供たちとは違い、こぎれいに学校の制服を着ている。髪も伸ばし、スリッパも履いている。仏教国では、僧院が国の教育制度を補完するものとして立派に機能している。これは素晴らしいことだと思った。

生の魂が息づくイラワジ川岸

ホテルに戻りタクシーを2時間キープして、私はイラワジ川の川岸を北から南に走ってみようと考えた。昨夜の夢で「イラワジ川幻流」のイメージにとらわれていた。それが本当なのかこの目で確かめておきたかったのだ。
最初に訪れたのは、マヤンチャン埠頭の北の広場。真ん中に老齢の大木が立っている。その近くにクルマを駐車して、私は周囲を見回してみた。イラワジ川に「雄大な自然」をイメージしていたが、目の前の光景はまるで違っていた。

川べりはおびただしい数の水上家屋や小舟で埋め尽くされていた。小舟は、何かを運搬するものもあれば、住居として人が住み着いているものもあった。洗濯をするもの、煮炊きするもの、食器を洗うもの、小舟を修理するもの、物売り、そして水浴びする子供の姿。それはまるで、打ち寄せられ混濁した「波の華」のように、ざわざわと岸辺に向かってうごめいている。

広場の一角で、誰かが巨大な拡声器からパーリ語と思われる独特のイントネーションで楽曲とも語りとも思えぬ声が朗々と流れている。川の土手の上の道の両側にも、朽ち果てそうなバラックの小屋が累々と軒を連ね、あるものは雑貨を商い、あるものはおとな二人が入れば精一杯という空間を住居としていた。

タクシーは、イラワジ川を右手にみて、ゆっくりと南に進んだ。川岸といっても、それはどこまでも細長く続くスラムで電気や水道などが通っている気配はない。タクシーのドライバーは、私が夢中でカメラのシャッターを切っているので、こちらを気遣ってスピードを落として進む。古いクルマが減速するたびにウイウイと苦しそうにエンジンをうならせた。私は、エンストするのではないかと気が気ではなかった。

それは衝撃的なイラワジの風景だった。
川岸に打ち寄せられた「生きんとする魂」の澱(おり)が、よどみ行き場を失い、土手を突き上げてもぞもぞと這い上がり、道の路肩に陰性花を咲かせているようにみえた。
人間とはきっと、このようにして泥水の中からざわざわと水辺に這い上がってきて、さらに地上の生き物に変貌していったのに違いない。イラワジ川の岸辺のざわめきやどよめきの中に、私はそうした「生きる魂の源流」を垣間見たような気がしてならなかった。ここに佇めば、人間は泥水や濁った空気の中で、生きるためにしたたかに環境に適応してやまぬ細菌やバクテリアやビールスと、いったいどこが違っているのかと思えてくる。それにしてもイラワジ川は、寛大かつ偉大だと思った。小魚や藻や栄養をはぐくむのと同じ慈愛と平等を、ひとしく人間にも与えてくれているのだから。私は、ただ呆然と立ち尽くすばかりで、しばらくその場から離れることができなかった。

それから、マヤンチャン埠頭とゴーウェイン埠頭に向かった。埠頭とはいっても、気の利いた桟橋があるわけではない。岸辺に停泊した船に、川の土手の水面近い斜面から3メートルほどの長さの木の板をただ危うく渡してあるだけだ。その木の板を伝って乗客は舟に乗り込む。土地の人間に混じって、欧米人らしい観光客や僧侶の顔も見える。埠頭の近くでは、荷をびっしり積んだトラックが、できるだけ舟に近づこうと、片側の車輪を土手の斜面にかかるギリギリのところまで片寄せしている。トラックが川面の方に転落したら、大惨事になる。ガリガリに痩せ、背中の骨を弓なりに突き出した牛が、背中に荷を載せ苦しそうな息をして舟まで運んでいる。

マンダレーのイラワジ川は、パガンでみたふところ深い雄大な自然としてのそれではなかった。いわばそれは生活のすべてを支えるインフラとしての川だったのだ。

「女は触れるべからず」のマハムニ・パゴダ

イラワジの河岸を離れ、マハムニパゴダに向かった。マハムニ仏を中心部に収めたパゴダはその周辺に広大な門前町あるいは寺社町を形成している。その賑わいと人の数に圧倒される。外国人の入場料はひとり4ドルである。
中央のマハムニ仏は、お堂の四方から見えるようになっている。正面の仏像の前にはおびただしい人々が座り込んで手を合わせ額づいている。その人垣の横を、促されるようにして仏像のそばまで押し出された。後ろを振り返ると、無数の人垣がまるで自分のほうを向いて伏拝しているような錯覚に陥る。このとき初めて気づいたのだが、その人々がすべて女性だったのだ。途中フェンスがあり、その横に足元に立て看板がある。
「女は仏像に触れてはならない」
つまり、仏像のそばは女人禁制になっているのだ。だから、女性はここまできて、仏像の正面に座り込んで熱心に合掌していたのだった。男は、高い場所にある仏像の基段に上がり直接触れ、無数の金箔を押しつけ功徳を積んでいる。目の前のマハムニ仏は、私がこれまでに見たどの仏像よりも美しく黄金色に輝いていた。
パゴダの中の賑わいもひときわで、物売りの店も活況を呈している。子供の僧は尼僧もふくめて、外国人観光客とみると「マネー,マネー」といってしつこくつきまとってくる。(これじゃあまるで乞食じゃないか)といぶかしく思ったのだが、いつも逃げ回ってばかりいても仕方がないのかなとふと思った。じゃあどうすればいいのかと問われれば、どうしようもないとしか言いようがない。「乞食への施し」と考えるか「お坊さんへの寄付」と考えるかは、金品を与える側の意識の問題だということだ。「今日は予算があるから何人まで」とか「子供にはあげるけれど大人にはあげない」などと、細かく計算づくで器用に対処すべき問題ではないだろうと思った。
かつてカンボジアを支配したポルポト政府は、国民の精神生活を支えていた仏教徒を、社会に寄生する非生産的存在だとして大虐殺した。この不幸な事件は、単に「乞食的な存在」が多数抹殺され、この世から物理的に消えた損失というのではなく、人々の精神生活のインフラを支えていた敬愛すべき対象(僧侶)が、「人々の心の中から抹殺された」という意味で、その後の国民に相当な「トラウマ(精神的被害)」をもたらす結果になった。あれから25年近く経過しているが、カンボジアという国家が立ち直る見通しが立たない原因のひとつに、精神生活の基盤の壊滅的被害ということがあげられる。

さて、広いパゴダの境内で小用を足したくなり、通行人の男性にその場所を尋ねた。ところがである、彼は親切に教えてくれたばかりでなく、わざわざその場所にまでついてくるのだ。境内の片隅に公衆トイレはあったのだが、どうも気持ちがよくなさそうだ。パゴダに入る前に、すでに駐車場ではサンダルを脱ぎ、タクシーの中に入れてきた。ヌメヌメするトイレに裸足で侵入しなければ居心地の悪さは想像を絶するだろう。パゴダに入る前に、トイレはなるべく済ませておくのがよい。パゴダの中は裸足でなければならないということを、いつも計算に入れておいたほうが望ましい。

帰りぎわ、参道の土産物屋で安っぽいお守りのペンダントを5つ買った。1つ100Kはちょっと高いかなと思ったが、いつもこうした小物を買うときほど自分がセコくなってしまうことに気づき、「功徳」を積むために500Kを払った。ついでに竹の扇も手にしていくらかと聞いた。
「500Kだよ」
「えっ、一本500?ノー、ノー、そりゃないだろ。200Kでどう?」
売り手の女性が苦笑いしている。
「400K」
「いや、まだ高い。200Kだってば」としつこく言ったら、
「じゃあ300Kでいいよ」
ときた。私はこれで手を打って買うことにした。品物をみれば100Kもしないのかもしれないが、扇を開くと強い木の香りがする。木の材質は、ビャクダンかもしれないなと思った。この香りがとてもいいのだ。おそらく現地の人々は香りになれているので、値打ちをもたないのだろうが、私には得がたい爽やかな香りが楽しめて気に入っているのだ。

それから、いったんホテルに帰り、昼食時なったのでふたたびサイカーに乗りナイロンゴテルの近くの「桜花」に行ってみることにした。ミャンマー名物のモヒンガーでも食べておきたい尾思ったのだ。中に入ると、きのうの日本語を話す女性がまた応対に出てきた。私はモヒンガーときのうは一滴も口にしなかったパインの生ジュースをあらためて頼んだ。もってきたときに、失礼とは思ったのだが、再び「ジュースの中の氷はだいじょうぶですか」と念を押した。「ミネラルウォーターで作っているからだいじょうぶだよ」彼女はまた同じように答えた。サイカーの運転手は、外のテーブル席に腰かけてタバコを吸っている。食べ終わってチェックするとき、女性と少し会話した。
彼女はビルマ人ではなく中国人だった。本名廖正蘭(リョウセイラン)、ミャンマー名をMyaYinというのだそうだ。オーナーの親戚筋にあたり、今年(2000年8月現在)26歳になるという。独身だとのこと。
マンダレーの日本語学校に二ヶ月通ったことがあり、あとはお店の客さんと話をすることで習得した日本語だという。その割には上手な日本語を話す。店にある日本語のメニューは、ミャンマーにいる日本人の友だちに作ってもらったのだという。ガイドブックに載っている店の情報は、原稿を自分で考えたという。
「桜花」は、ナイロンホテルという有名なゲストハウスの前の交差点にあり、けっこうはやっている感じだ。
彼女の写真を数枚撮らせてもらった。

再びヤンゴンへ

ホテルに帰りチェックアウトをしタクシーでマンダレー空港に向かった(500K)。空港の駐車場(といってもただのほこりの舞う広場だが)から異臭を放つどぶ川にかかる小さな木橋をわたるとすぐ、そこがマンダレー空港だ。搭乗機はエア・マンダレー808便ヤンゴン行き、14:35分発。機種はもうすっかり見慣れたATR72双発プロペラ機。

ヤンゴン空港に着くと、アイさんとキン・マーさんが迎えに来ていた。顔を合わせるとアイさんは、ヤンゴンを離れるときに自分が寝坊して迷惑をかけたことを真っ先にわびた。まだ、だいぶ気にしている風だった。私はそういうことにこだわって旅の思い出を台無しにしたくなかったので、努めてあの一件は忘れることにした。

再びサミットパークビューに着いたとき、なぜか懐かしさでほっとした。アイさんとマーさんには明日午前10時に迎えに来てくれよう頼んで、ホテルのロビーで別れた。あいにく初めのときとは違って「パークビュー・ホテル」は満員だった。あてがわれた部屋は、エレベーターから最も遠い場所にあるものだった。おまけに天井の快適なファンが故障していて強さのコントロールができない。エンジニアなどに来てもらったが、直せる見込みがたたないので、部屋を替えてもらうことにした。
「空いている部屋は窓からシュエダゴン・パゴダが見えませんがそれでもよろしいですか」
「問題ありません。とにかくエレベーターに近いほうでお願いします」
結局再びキーをもらった部屋は404号室だった。日本人の団体客が多いようだったので、その旅行会社のガイドなどが縁起の良くない部屋番号を避けたのだろう。確かにそれは落ち着かない番号ではあった。ところが、そういう毛嫌いされる部屋だからこそなのか、中に入ると湯沸し器、ドライヤー、浴衣など、前の部屋にはなかったものが備え付けられており、だいぶ得した気分になれた。

それからタクシーをひろい、パンソダン通りの「味処どんぶりや」という日本料理屋に行って夕食をとった。こんなところまで来て日本食もないだろうと思う気持ちもあったが、食事でトラブって無駄な時間を過ごすのもいやだった。それに現地の物価を図る目安が、日本食の値段でわかるという気持ちもあった。ガイドブックに載っていた「トンカツ650K」は変わっていなかった。各種定食類は1000Kぐらい。現地のヒトには手が出ないのだろうが、旅行者からみるとずい分安い。24時間オープンというのは変わっていた。午前10時から深夜の2時までの営業になったのだという。日本語で注文ができるし、メニューは写真で選べ、ちゃんとチャット表示。かなり良心的な店だと思った。

東南アジアのどの国の都市でも、日本レストランは現地駐在の日本人が常連客だが、ビジネスマンやその家族がまだまだ少ないヤンゴンでは、経営が難しいのではないかと気になった。私が店に入ったときには、ほかに客は誰もいなかった。途中で現地駐在員らしき中年の日本人男性がひとり来店しただけ。テーブル席が10席ほどあるその店はがらんとして殺風景だった。

食事のあと、店の前から再びタクシーをひろってホテルに帰った。1階のカフェで、売れ残ったドーナツを買おうとしたら、値段の半分で分けてくれた。あすはいよいよ帰国だ。荷物を整理し、旅の総括にあれこれ思いをめぐらせながら、その日は早めに眠りについた。

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