第一話 魔都「ヤンゴン」の底知れぬ魅力

第一日目(ヤンゴン)雨


バンコク発ヤンゴン行き(タイ航空)305便は予定より約30分遅れて午後八時過ぎ到着した。機内のスクリーンの表示を見てはじめて、 日本とミャンマーの時差が二時間半であることがわかった。時差は一時間刻みだと思い込んでいたが、30分刻みもあると初めて知った。ヤンゴン空港は一国の の首都の飛行場とはいえ、とても小さい。イミグレーションカウンターも数基あるだけである。ところが、ひとりひとりに掛ける時間がやけに長い。 とろとろやっているというのではないが、ビザの書類を処理したり、出入国カードの確認などを済ますたびに、手でなにやらたくさん書き込んだり、 スタンプをあれこれ押したりする「仕事」が多いのである。

これが終わるのを待ち構えるように、強制両替のカウンターがある。ここでひとり300ドルを外国人観光客だけに適用する FEC300に換金する。親子であったりすれば、そこは状況判断で、「ふたりでUS400ドル」という指示があり 400を受け取るというふうに、係官が顔ぶれをみて判断するようだ。親ひとり赤ん坊ふたりであれば、「300ドルでOK」としてFEC 300で済みそうだ。

入国までの手順は「入国審査」→「強制両替」→(「荷物受け取り」)→税関審査(税関申告書提示)の順である。税関申告は、自分が使うものであっても、日本に持ち帰る貴重品は細かく書いておいたほうが無難だと聞いた。ばか丁寧に書いてあると、「OK、ノープロブレム」と愛想よく通してくれる。ただし、荷物検査はけっこうしつこくて手荷物はいちおう全部開けてチェックされる。こういう作業をひとりでやるのでなく、何人かの係官が団子になってやる。労働力がありあまっているせいなのか、非効率的な仕事にけっこう付き合わされる感じがある。米ドルを2万ドル以上持っていないかどうかは執拗に聞かれた。もちろん「持ってません」と答えた。

さっきも言ったけれど、一連の入国手続きでこの国の人々が一生懸命仕事をするんだという第一印象をもたされる。役人特有の厳しさや堅さはあるが、あとで振り返ってみると、「熱心さ」「親切さ」「優しさ」なども感じる。これが、他の東南アジア諸国とはちょっと違うな、という感じをうける。

よく見ると、まわりにスカートをはいた男たちがたくさんいる。何かの冗談だろうとよくよく見ると、まわりの男たちはみんなスカートなのだ。はだしの足にはサンダル。これって、けっこうカルチャー・ショックを受けるね。

到着した日の夜は雨だった。迎えの人たちはすぐにこちらに気がついて笑顔で迎えてくれた。雨の中を、ワゴン車でヤンゴンのダウンタウンに向かった。ホテルはシュエダゴン・パゴダのすぐ近くの「Summit Park View Hotel.。概観はヨーロッパ風のしゃれたホテルだ。これで、一泊が4500円くらい。部屋の窓から闇夜に美しく輝くシュエダゴン寺院の黄金の仏塔が間近に見える。ロビーも広い。ソファーに腰掛けて、迎えの二人と明日からの行動予定を確認し部屋に入った。

サミット・パーク・ヴュー・ホテル

日本の地方都市のシティホテルのような、安くて清潔なこのホテルは、ダウンタウンの中心地にあるスーレー・パゴダあたりから少し離れているので、日本のガイドブックには載っていない。やはり、現地の人々の判断でなければできないベストチョイスだ。水洗トイレとビデ、バスタブも清潔だ。室内に冷蔵庫もきちんと置いてある。中のミネラルウォーターは一本までフリー(無料)である。天井に大きな白いファンがついている。日本でも昔の銭湯などにあったやつだ。壁にスイッチがついていて、回転の強さをコントロールできる。

しかし、問題は電気の差込口で、三本口である。日本から持っていった変圧器にも、変換のアタッチメントがない。やむなく、ホテルの備え付けの100Vへの変圧器を持ってきてもらうことにした。

もってきたハウスキーピングの男がヌッとはだしで部屋に入り込んできたときには驚いたが、この国では政府の役人やビジネスマン以外に靴を履く習慣というものはないようだ。

部屋には他にリモコン式のTVがあった。NHKの海外向け放送が一日中見れる。CNN放送も楽しめる。衛星放送でアメリカやイギリス、香港などの番組がめだった。ミャンマーの国内TV局は2局ありいずれも国営とのこと。チャンネルをひねってみたけれど、退屈で見るにたえなかったし、それだけ滑稽なものに見えた。

第二日目(ヤンゴン)曇りときどき小雨

ホテルの朝食は1階のカフェでブフェスタイル。このホテルは日本人客が多いせいか、メニューはだいぶ日本人好みのものがそろっている。食材がわからないでうろうろしていると、さっとボーイが近づいてきてサポートしてくれる。

あいにくの小雨もようだが、カフェの窓ごしに向かいの公園の緑の木立に囲まれたプラネタリウムが屋根をのぞかせている。

首都のあちらこちらに緑がありあまるほどある。その緑の合間に黄金のパゴダの尖塔がいくつもそびえ立っている。ふしぎな光景だ。

シュエダゴン・パゴダ

食事を終えて、散歩がてらすぐ近くのシュエダゴンパゴダのほうに歩いてみた。道を歩いている人々は少ない。それに反して車の数はめっきり多い。パゴダに向かう途中、車が方向を変えるために設けられたロータリーのような場所があった。ところが、信号はどこにもないし、交通整理のおまわりさんがいるわけでもない。道をわたって先に進もうにも、危険で行けない。あくまでもクルマ中心で、歩行者への配慮は全くないのだ。しかたなく、クルマの切れ目を見つけて命がけで突っ走るしかない。しかし、道を橋って渡るという発想は、日本人社会特有のものかもしれない。こちらの人々をみると、クルマが走っているのもお構いなしに道に体を突っ込んでいく、流れに逆らわないようにゆっくりと進むと、車のほうが器用に人を避けてくれる。「東南アジア式横切り方」とでもいうのだろう。そういえば、ベトナムのホーチミン市でも道を渡るときに「決して走ってはいけない」と注意されたのを思い出した。

シュエダゴン・パゴダの入り口にたどり着いた。ここで靴と靴下を脱ぐことを初めて知った。「靴を脱ぐんだ」と私が気がついた場所は、パゴダの参道に登る階段の下だったが、そこはすでに土足で侵入してはいけない場所だった。これ以後いたるところで靴と靴下を脱がされ、パゴダや寺院が無数にあるミャンマーで、靴と靴下がいかに不便なしろもので、はだしにスリッパがどれほど便利で合理的なものか思い知らされたのだった。

日本人には、靴を脱ぐ場所が決まっている。玄関があって「あがりかまち」のような一段高いところがあるから、視覚的にも「ここから先はくつを脱がねば失礼にあたる」ということがわかる。しかし、パゴダなどでは、それがよくわからない。宗教上の「玄関」がどこにあるのかは、人によっても違うのかも知れない。考えるのがわずらわしければ、パゴダのそばまで行きクルマを降りるとき靴をクルマの中に残して、早々に裸足で歩くのが「無難」だということは言える。何度かわたしもそうした。とくに人で込み合う寺院などでは履き物がたくさん脱ぎ置かれていることが多く、帰りに間違われる可能性もあり、境内を歩くにも裸足になっておくのが便利である。仏像の御前を泥足で歩くとはなにごとぞ、という危惧もあるが、像のまわりの大理石や石の床は「内」というよりは「外」で、われわれが一般的に考える「歩道」に近い。境内は、板の間を想像するのではなく、歩道を想像すればよい。その境内という歩道を裸足で歩くのである。さらにいえば、その「境内という歩道」を歩く前に、われわれは靴を脱いではだしになるのである。

シュエダゴン・パゴダの入り口には「靴預かり所」がある。ここに預けると、帰りに受け取る際寄付を求められる。私は相場がわからないまま200チャットも払った。寄付にしてはちょっと高すぎたかもしれない。

長い緩やかな石の階段がはるか上方に伸びている。それは荘厳なたたずまい。参道の両脇には所狭しと、仏教関係のお店が軒をつなれている。かつて訪れたことのある、香川県の琴平宮の階段を上っているような気持ちだ。あちらは屋外だが、こちらは室内の違いはあるが・・・・。

階段の途中で観光客は入場料を徴収される。1人US5$チャットでもよく、その場合は2000チャット。ここで領収書と支払済みの印の赤い円形のシールを受け取る。このシールを胸のあたりに貼ってくれる。時々、係官の検札のようなものがあるらしい。しかし、このシールを貼って歩くといろんな物売りなどがしつこく声を掛けてくるのでやっかいである。

昇りきると正面にお堂のようなものが見える。この最上段は尖塔を中心とした強大なサークルになっていて、周りにいろんな仏像等が美術館の陳列のように納まっている。メインの仏像が安置されている正面のお堂の入り口あたりで、何かを売っている少女たちがいる。こちらの女性たちがすべてそうであるように、顔に薄いベージュ色の漆喰のようなものを塗っている。「タナカ」というらしい。

売っているものは何かといろんな質問を投げるが、彼女たちはうまく説明ができない。売り物は5センチしほうの紙片のようなものだった。1枚25チャット。中を見せてもらうと薄い髪の間に金箔がはさんである。4枚買って100チャットを払った。これは後でわかったが、いたんだ仏像の金ぱくがはげた部分に自分で貼り付けて、供養する。いわば寄付にあたるものだった。あるいは、この金箔を持ち帰ってお茶などに入れて飲んでもいいのだそうだ。

境内には、仏塔に向かって人々が熱心に祈りをささげている。片足を前に、残りの足を後ろに折りたたんでいるすわり方が面白い。これならば足もしびれないのだろう。

ホテルに帰って、ロビーにある「ビジネスセンター」に寄り、インターネットにアクセスしようと思ったら、ミャンマーでは政府が個人のインターネットを禁止しているそうで、便利なHotmailなどができない。インターネットは政府が認めた法人利用に限定されるということだった。また、ミャンマー独自のEメールシステムなら旅行者でも利用可能だということだった。その際、時間制でなく、1Kバイトから10Kバイトまで1USドルという面白い計算だった。ちなみに、部屋に帰ってイエローブックで調べてみたら、「Internet」という項目はなかった。「Internet Advertising Agency」で2件あるだけだった。

歩くのもいいが、やはりこの町では乗り物を利用しないと移動には不便だという印象をもった。午後送迎のクルマを調達して「スーレー・パゴダ」の方に向かう。

空港で出迎えてくれたふたり、キン・マーさんとアイ・アイさんが、ふたたびホテルに迎えにきた。マーさんは、東京で事業をしているミャンマー人の私の知人の妹、アイさんは知人のヤンゴン大学での同窓生だった。アイさんはおとなしい性格に加え、言葉がまったく通じないので、ただ黙々とクルマを運転するばかりだった。アイさんが、かたことの日本語と英語を話した。しかし、込み入った会話になると、まったく分からない。

世にも不思議な「タナカ」

もう40歳近いと思われるアイさんが、助手席から後ろを振り向きながら、道を通るたびに建物の説明をしてくれた。振り向くたびに彼女の頬のタナカが気になった。マーさんは、タナカをしていない。
「タナカというのは粉ですか?」わたしはアイさんにきいてみた。
「いいえ、木です」意外な返事が返ってきた。
「木の皮の部分を石の平べったい臼のようなものにこすりつけ樹液のようなものが出てくるのですが、それに水を混ぜておしろいのように顔に塗ります」
面白いなあと思った。
「外出するときに塗ります。塗り方は自由です」アイさんは笑った。「日焼けを防ぐのと、香りがよくひんやりします」
いろんな効果があるようだ。私がマーさんの顔をのぞき込もうとしているのに気がついて、
「マーさんはしていません。中国人はタナカが嫌いなんです。ミャンマー人は大好きなんですけどね」

道すがら、タナカは「化粧」なのかどうかと考えた。確かに、それから何度もタナカを塗っている人々を見かけた。女だけとは限らない。男もしっかり塗っている。年配だけということもない。若い男女に好まれているようだ。知的な人々はしないのでは、と思ったがそういうこともなさそうだった。

すっぴんがきれいなミャンマー女性も数多く見かけたけれど、そういう美形がわざわざ滑稽に見えるタナカを塗って人前に出て行くのは、どういう神経なのかと不思議に思った。もったいないなという気もした。この「タナカ」は、私にとって解けない「謎」のひとつである。

「オリエンタル・ハウス・レストラン」

私たちは遅い昼食を摂るため、ホテルの近くのミョーマ・チャウング・ロードに面した有名なチャイニーズレストランに立ち寄った。そこは「オリエンタル・ハウス」といった。昼食時には遅い時間だったので、客は帰ったあとで、がらんとしていた。店の従業員も夕食ディナーのためにもうテーブルの配置替えなどをしている最中だった。

室内は、薄暗い。ミャンマー特有の薄暗さだ。これ以後も、この国では煌々とした明かりの下でメシを食った記憶がない。日本のレストランのあの明るさはなんなのだろうとふと考えた。

朝、ホテルのブフェで朝食を食べすぎたこともあって、軽い昼食にしたかった。ほんとうは、何も食べたくはなかったが、当方を気遣って案内のふたりが「レベルの高いレストラン」を紹介してくれたのだった。その気持ちには感謝する。私も、わざわざ遠い国から来た人を、路上の屋台に連れて行くことなど考えもしないだろうから。けれど、私は旅行者としてその屋台の雰囲気が何よりものご馳走だと考えている者のひとりだ。私はその国に行ってもいわゆる「観光」や「観光料理」のために有名レストランを駆け回る性質ではない。

メニューは、たいていの高級レストランがそうであるように、ミャンマー料理と中華料理で構成されている。私はこの国で人気のミャンマービールを一本頼んだ。日本の大ビンサイズで、これを飲み干すだけでお腹がいっぱいになりそうだった。それから、お腹に負担のかからないフルーツチャーハン。点心もの2点。従業員のサービスは完璧すぎるくらい行き届いている。常にテーブルには数人がそばにじっと貼りついている。空いた皿は、食べ終わった瞬間に下げていく。遠くからもサービスの視線が感じられる。じつは朝食時のホテルのカフェでもそうだった。ひとりの顧客には、数人の手と、数十の視線が貼りついている、そういう印象なのだ。

サービスには確かにひとつの「理想形」を描いているように見える。これが、馴れないうちは窮屈に感じる。とくに日本人にはその思いが強いかもしれない。「もしかして、チップがほしいのかな?」などと、ついつい勘ぐってしまいそうだが、ミャンマーには基本的にチップをあげる習慣はない。外国人観光客が出入りするホテルやレストランではある程度「チップ馴れ」している事実はあり、差し出したものを返してよこすということはないが、チップをあげなくても問題はない。この名の知れたレストランでも、空港で感じたサービス業の規律正しさや行き届いた統制力のようなものをついつい感じてしまい、さすが軍事政権のモラルがこういうところにまで浸透するものかと勘ぐったしだいである。

店の奥にはステージがあり、夜のディナー時にはPOP音楽や民族舞踊などのショーがあるという。こういう食事と民族舞踊、パペットショーの組み合わせで観光客をもてなす式のレストランが思いのほか多い。

店を出ると、駐車場に観光バスが何台か並んでいる。先に食事を終えた人々のバスだろう。そうした「観光客が引き回される」レストランを好まない人もいるだろう。しかし、どうやらこの国では「観光客が行くレストラン」しか高級な店はなく、「地元の人々が行きたくても行けないレストラン」であるようだ。

ボージョー・アウンサン・マーケット

昼食の後、ボージョー・アウンサン・ロードに面した「ボージョー・マーケット」に行ってみた。中核のビル内にはインショップ形式で民芸品や衣類、宝石などが売られている。ここでも統制がとれているのが、きっちり店の区画が割り振られ整然としている。風景だけをいえば、少なくともベトナムのホーチミンのように、物量とカオスが渦巻く「商いの熱風」が竜巻を起こしている、そういうマーケットではない。どちらかといえば、タイのチェンマイの「ナイトマーケット」と、そのありさまにおいて似てはいるが、もちろんその華やかさでは足元にも及ばない。

売り込みはそれなりに激しいが、中心施設内に宝石店が多いということが、マーケットとはいえあるしゅの落ち着きと品格を添えているのかも知れない。宝石の中心は、この国が誇る「JADE(ひすい)」と「ルビー」、そして南部のMYEIKあたりの沿岸で獲れる「真珠」が中心である。一説によれば、日本の真珠メーカーが養殖技術を提供しているということだ。
マーケットの館外には、路地裏を中心に食べ物やや食材屋が軒を連ねている。食材を扱うマーケットとしては、規模がたいへん小さく見えた。

メインの建物は平屋だが、周囲にはそれを囲むように薄い二階建てのアネックスがあり、二階部分がすべて「美容」「理容」関係の店が並んでいる。

ある土産物屋で声をかけられた。1942年から45年まで日本軍国政府がビルマで発行していた紙幣を買わないかといっている。みると当時のビルマの通貨単位が「ルピア」になっている。日本政府発行のマレーシアドル、インドネシアドルというのもあってなかなか面白い。US5ドルといわれ、買いはしなかったが、歴史の資料としては価値があった。本物かどうかはわからないが、3ドルくらいに値切って買ってもよかったかなと少し後悔している。

ボージョー・アウンサン・マーケットのすぐ東隣りに「FMIセンター」という間口の狭いモダンなビルがある。ここは、いわゆる有名ブランドショップが入っているファッションビルなのだが、残念ながらテナントとして「ルイヴィトン」や「シャネル」などの世界に冠たる有名ブランドを想像しては間違いだ。狭い4階建てほどのそのビルは、真中に階段があり、4階まで吹き抜けのようになっていて、それぞれのインショップが「高級イメージ」を指向しているのである。名の知れた企業は二、三あるだけだった。

このFMIセンタービルに、日系の著名企業のオフィスが入っている。JAL、住友銀行、住友商事、第一勧銀、東京海上火災などである。

このビルの最上階にファーストフードのショップのような店があった。トイレを探検しようと思って、聞いたら、鍵が必要なことがわかった。鍵をもらってトイレに入るのである。いつものクセで小型カメラを持ち込んでまず数枚撮影させてもらった。ひざを折ってしゃがむスタイルのもので、よこに水槽(水道の蛇口のようなものが上についている)とおわんのようなものがあり、これがビデに相当するものである。

なお、中級以上のホテルでは、この水槽とおわんのかわりに、ピストルの銃口のようなノズル装置がついたホースがビデとして洋式便器の横についている。

ボージョー・アウンサン・ロードは目抜き通りのひとつで、とくにスーレー・パゴダ通りとの交差点の周辺にはヤンゴン一の高級ホテル「トレーダー・ホテル」や高級オフィスビル「SAKURA TOWER」などが集まっている。

スーレー・パゴダ

オフィスのひける時刻が4時30分頃だから、仕事帰りの人やクルマでごった返すボージョー・アウンサン通りを右折してスーレー・パゴダ通りに入ると、道の真正面に夕空にまばゆく輝く「スーレー・パゴダ」の威容がそびえる。このパゴダは、スーレー・パゴダ通りとマハバンドーラ通りの交差点に位置し巨大なロータリーの役目も果たしている。一番低い裾野にあたる部分が、360度ぐるりと仏塔に関するさまざまなミニショップが軒を連ねている。
この「パゴダ・ロータリー」周辺にはヤンゴンのランドマークビルや施設が密集している。
市庁舎、イマヌエル・バプテスト教会、ハイ・コート(最高裁)、独立記念碑、噴水が名物のマハバンドーラ公園など、数えあげればきりがない。

車を降りた私は、運転手のマーさんと案内のアイさんの誘導で、肝を冷やす思いでパゴダの入り口に向かった。車道を横切るように白いペイントで横断歩道の帯が引かれてはいるが、歩行者が渡るタイミングを保証する信号もなければおまわりさんもいない。横断歩道を覚悟の上で渡らなければならないことにかわりはない。ほんとうに、これは何とかならないものだろうか。

パゴダのスカートのスソにあたる部分に何箇所か中に入る参道の入り口がある。ここでも靴と靴下を脱いでなだらかな階段を上りきるとパゴダの境内の最上階に達する。シュエダゴン・パゴダとは違ってスーレー・パゴダは小ぶりだからあっという間に一周してしまう。ピンクの袈裟を羽織った尼僧のすがたも見かける。

男の僧も女の僧も午後になれば一切の食事が禁じられている。水やジュース以外の固形物は口にできないのがきまりである。早朝5時頃第一回目の食事をする。二回目は午前10時半頃から11時頃までの間に済ませる。その後は約18時間ほど食事を摂らないというからきびしい。

午前中シュエダゴン・パゴダをゆっくり時間をかけて見学したので、スーレー・パゴダのほうはあっさりと回ることにした。パゴダの規模と迫力からいえば、シュエダゴン・パゴダに到底かなわない。ひとめぐりして入り口に戻り靴を履き終わると、さっと赤茶色に錆びついた鳥かごに無数のスズメを入れた男が近づいてきた。「幸福のスズメ屋」とでもいおうか、手のひらから空中に放して幸福を祈願する商売の男が近づいてきた。1羽50チャットで放つことができる。黙っていたら、「椀こそば」の早食いのように、男はこちらにどんどん差し出してくる。初めにはっきりと「何羽」と言っておかないときりがない。私は結局2羽も押し売りをされてしまった。ほんとうは、もう何羽かが飛んでいったのだけれど、「あれは当然無効だ!」という厳しい顔をしたら100チャットを受け取っただけで見逃してくれた。この商売は、カンボジアのプノンペンでも遭遇した。

スーレー・パゴダを後にして、マハバンドーラ通りをクルマで西に向かった。堀の深い浅黒いインド人の顔が見える。インド特有のどんよりとすすけた風景と灰褐色に沈んだ町並みが続く。異国ミャンマーのさらに深い異国がそこにあった。自分はいまどこにいるのだろうかとわれを忘れる。それから通称「チャイナタウン」と呼ばれる一角の手前を右折し、道を北上しホテルに向かった。

ミャンマーの庶民の暮らし

運転してくれたキーン・マーさんがぜひにというので、途中彼女の自宅に立ち寄った。不自由するだろうから、家に買いおいているミネラルウォーターを分けてくれるというのだ。ミャンマー人の庶民の暮らしをはじめて覗く機会をえた。

外観は薄汚れた安アパートのように見える。頑丈なドアが開くとすぐのところに、昔のエレベーターの鉄の格子ドアのようなものがあり、それをもう一度左右に開けて中に入る。入ったところがすぐに居間になっている。中にベッドルームが2つある。この隣り合った二つのベッドルームは、しっかりとした木の壁で囲われているのだが、天井はない。だから、4面のしっかりした屏風で閉じただけのようになっている。それから、キッチン、食堂、トイレ、バスルームなどがある。キッチンは床がコンクリート張りになっているので、日本のように「家の中」という気がしない。だから、キッチンには洗濯機が置いてある。一方食堂は「家の中」である。食堂の横に冷蔵庫があった。トイレはおなじみの水桶を利用して左手で洗う式のものだった。トイレから出ると食堂の横に洗顔所のようなところがあり、そこで丁寧に手を洗う。

16歳になるという息子が現われ挨拶をした。ヤンゴンで一番難しいとされるハイスクールを卒業し、いまヤンゴン大学入学を控えているという。みると賢そうな顔をしている。キーン・マーさんの長女はイギリスに留学している。その下の長男は、この夏からアメリカのロサンゼルスの大学に留学したという。次男の目の前の少年も、やがてアメリカに渡っていくのだろう。反政府活動の拠点として現軍事政権から敵視されたヤンゴン大学は、約2年間閉鎖され、学生は地方都市の大学に分散して勉強しなければならなかった。そのヤンゴン大学が、今年から授業を再開することになった。

息子の部屋には、一週間前に買ったばかりというパソコンが置いてあった。PentiumV、Win98/SE、HDD:6GB、メモリー64MBという最新機種だったが、残念ながらインターネット関連のソフトは宝の持ち腐れで、使用できなかった。ミャンマー政府は当面個人のインターネット利用を許可する意向はないようだ。ミネラル・ウォーターを4、5本もらい、昔の家族の写真を見たあと、「サミット・パーク・ヴュー・ホテル」に送ってもらった。

疲れがあったので、部屋で少し体を休めてから、夕食はホテルのカフェで取ることにした。夕食メニューには「ミャンマー料理」、「中華料理」にくわえ「日本料理」まである。カツ丼や生姜焼き定食まである。勉強のために私は「カツ丼」を頼んでみた。10USドル。1000円ちょっとする。日本でも高い値段といえるだろう。生姜焼き定食は12USドル。ミャンマーにきて、こんなところで、こんなものを、こんな値段で食っている自分がどうみても正常ではないなと思いながら、インディカ米のさらさらしたご飯の底にしみ込んでいるカツ丼のタレをすすっていたものだ。のちに、ヤンゴンの町なかの日本料理屋さんでカツ丼を650チャット(約190円)で食べたから、ホテルなんかでメシは食うもんじゃないなと反省した。しかし、飲みでのあるミャンマービールは2USドル、町なかでは350チャット(約100円)で、うれしい安さだ。

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