第一話 魔都「ヤンゴン」の底知れぬ魅力

第三日目(ヤンゴンからパゴー)曇りのち雨


朝8時30分、私はもう迎えのマーさんとアイさんのクルマに乗っている。土曜日のこんな時間に、私のためにもう早起きして行動しているふたりの主婦に頭が下がるおもいだ。今日の目的地は近郊のパゴー(BAGO)。クルマで跳ばして片道2時間半の道のりだ。途中ヤンゴン大学とヤンゴン工科大学の前を通った。ふたりが気を利かせて、もうひとり案内役の青年を同乗させるのだという。確かに、アイさんの日本語も英語もたどたどしく、名所旧跡を訪ね案内するには限界がある。私も英語が堪能ではないが、ある程度の深い会話はできる。

もうひとりの案内役ニィニィ青年

青年はニィニィさんといった。こぎれいな白のブラウスに、ロンジーという巻きスカートのようなものを身につけて現れた。この夏からアメリカに留学しているマーさんの長男の親友だった。彼もアメリカ留学を希望しているのだが、既に両親が渡米しており、彼のビザがなかなか下りない。どんな事情かはわからないが既に二度申請が却下されているのだという。しかたなく、ヤンゴンの大学院に通っている。ビジネス・アドミニストレーション専攻だというから、いわゆるMBA(経営学修士)を取得するコースだ。勉強のかたわら、日本人女性が率いる仏教関係のボランティア団体で働いてもいる。その仕事が好きで、いつか東南アジアのどの国にでもいいから住んで、ボランティアの仕事をしたいのだと夢を語った。

クルマは、幅の広い道路を北東をさして突き進んだ。あんなに無口でおとなしかったマーさんが、まるで人が変わったかのように、猛スピードでワゴン車を運転している。どこまで行っても道に信号らしきものはなかった。この国は長い間イギリスの植民地下にありながら、車道は右側通行で、どうしてなのかと不思議に思った。タイのチェンマイでは、日本と同じ左側通行だったのを思い出した。

途中、反対車線の道沿いに古い巨木があり、その下の祠のような場所に人だかりがしている。何をするのかと見ていると、マーさんはわざわざクルマをUターンさせてその祠の前にクルマを寄せた。アイさんとマーさん、それに私の後ろにすわっていたニィニィさんまでもが手を合わせて何か祈りのようなものをささげている。あとで聞いたら交通安全の祈願をしていたのだといった。それから再び、クルマをUターンさせて走りつづけた。安全祈願をして安心したからだろうか、マーさんの運転はますます荒っぽくなった印象を受けた。午後になって、この道を引き返すことになるのだが、途中何度も道の中央で故障車を修理する命知らずの人を見かけたし、実際に車どおしの衝突事故も見た。

道を突っ走るクルマは、よくもこれだけ長く乗り込み、使い込んだものだと思うような年季の入ったシロモノばかりだった。その多くが日本車で、バスやトラックの横っ腹に日本語で会社名がでかでかとペイントされたままになっている。その上に、くるくる文字のミャンマー語が重ねてペイントされている。日本名の会社が、何十年も前に「使い物にならない」と判断して払い下げたものだろう。そのクルマが遠い国のガタガタ道ですすけた顔をして「現役」で走っているのを見るのは感動的だった。自動車にも「生命」や「寿命」というものがあるような気になって、「がんばれよ」とつい声を掛けたくなる思いがしてくる。

9時30分を回る頃、道の路肩を裸足で托鉢に歩くお坊さんの姿を多く見かけるようになった。赤茶色の袈裟が途切れ途切れに、沿道に咲く花のように続く。見るとまだ10歳にも満たないような子供の顔も見える。タイやベトナムの僧衣はややオレンジ色に近いが、ミャンマーのそれはもっと赤黒い。白い僧衣の上にはおる尼僧の袈裟はシースルーのショッキングピンク色で、原色に乏しいこの国の色使いにしては目に鮮やかで、大胆なおしゃれをしているように見えて面白い。

道幅は広く、舗装されてはいるが補修状況が悪い。だから、とにかく上下の振動が激しい。ワゴン車のサンルーフと窓を開け放って突っ走ると、風が体に心地よかった。クルマには一応エアコンがついている。しかし、こちらの人々はあまり「クーラー」の機能を使わないようだ。とにかく窓を開けて風を取り込んで涼む。

今日は土曜日。やがて、道の両側に半ドンで学校を終えた子供たちの姿が目につく。白いブラウスにモスグリーンのロンジー(巻きスカート)の学生服姿がかたまりをつくって歩いてくる。全国共通の制服だ。粗く織った布地の四角い袋を肩から提げている。

バゴーの名刹「シュエモード・パゴダ」

やがてクルマは「シュエモード・パゴダ」の参道のすぐ横で止まった。私たちは靴と靴下を車内に残し、裸足で下りた。小石やぬかるみに足の裏がどうも落ち着かない。シュエモード・パゴダはバゴー最大で、尖塔の高さでは、ヤンゴンのシュエダゴン・パゴダをしのぐ。最上階の境内を一巡りすると、古い尖塔の部分が保存されている場所にたどりついた。直径2メートルほどの丸い石の断面が肌をさらしている。かたわらの案内板をニィニィさんが英語で説明してくれる。
「1917年7月5日、午前4時45分に地震が起きました。約5分間揺れが続いたと書いてあります。尖塔のてっぺんのあの傘の形をした部分が見えますか。そのの下に少し太くなっている部分があるでしょ」ニィニィさんは、現在の尖塔を高く指差していった。
「あれをバナナシュエイプ(バナナ形)と呼ぶんですが、それが崩落したんです」
それを50センチほどに輪切りにしたものが、目の前に石肌をさらしている。この国も地震国家だったことを初めて知った。
境内には、拡声器から老婆のかすれたお経の声が流れている。
「パーリ語です」
アイさんが、老婆の方を指し示していった。パーリ語は、私の耳にはインドの言葉のように響いた。塔のスソにあたる部分に、それをぐるりと囲むように小さな仏像が何体かあり、その前で人々が熱心に祈りをささげている。仏像はすべて「曜日」に関係があるという。サタデー・コーナー、とかウェンズデー・コーナーというように、それぞれが曜日をもっている。人々は誕生日などにここに来て、自分の年齢の数だけ水を注いで祈願していくのだという。
歩いていると、日本語で「鎌倉大仏はこちら」という妙な看板を見つけ、「あれはなんですか」とアイさんに聞いてみた。だれも分からないので、そばの案内人にたずね、案内にしたがって行ってみた。境内から参道を少し降りた右手に小さな部屋があり、そこに仏像が三体置かれている。真中の仏像が背丈3メートルほどの鎌倉大仏の模写像だった。
1996年に、鈴木義太郎さんという日本人の一家がこのパゴダに寄付をしたものだった。家族の肖像写真も壁にかけてある。鎌倉大仏の写真を持ち込んで、ビルマ人の職人が作ったものらしい。こんなところで鎌倉大仏にお目にかかるとは思ってもみなかった。
別の部屋にはとくに仏像らしきものは見当たらなかったが、なにかお供え物のようなものがたくさん置いてある。ニィニィさんが、しきりに「ナッツ、ナッツ」と連発して何か説明を始めた。ミャンマー人の「ナッツ信仰」について熱っぽく語っていることはわかるが、説明がよくわからない。見ると確かに「ココナッツ」がいくつか置いてあるので、この実に対して特別な信仰心があるものと思い込んでいた。しかし、あとで調べてみたら「ナッツ」という言葉は「精霊」を意味するものらしい。仏教とともに土俗の精霊信仰もこの国には根深く残っているということか。
土産物屋のようなハウスがあった。壁一面にこのパゴダの成り立ちを説明した絵物語が貼ってある。
「仏陀が二本の髪の毛を二人のビルマの商人に寄贈した。そのふたりが舟に乗りサウントゥーという町に髪の毛を持ち帰った。評判を聞いた王様(トゥング)がきた。そのとき天使が現れ王様にその髪をどこに収めればよいかを指示した。王様は、このパゴダを建立し髪を安置した」
というようなことだったと思う。

キモチよさげなシュエターリャウン寝釈迦仏

それから、案内された場所は「シュエターリャウン寝釈迦仏」。その巨大さには圧倒される。頭を支える箱枕の部分と足の裏には色ガラスで装飾が施されている。それにしても、ミャンマーの仏像はなぜかくも人間くさいのか。日本の仏像のようにピンと背筋をのばして、静かに目を閉じ瞑想する仏像よりも、なんだか人生をたっぷり楽しんでいるような小気味いい表情をしている。そして、目の前の寝釈迦仏にいたっては、食事のあとならとっくの昔に牛にでもなってしまっているような自堕落な格好に見えてしまう。胃に負担がかからないように、ちゃんと右を下にしているところなんか庶民の知恵って感じだ。

パゴダめぐりに少々くたびれていた私は、同じ姿勢でこの場に横になりたい気持ちだったが、案内してくれた人たちの誠意を裏切ることにもなるので「ふむふむと感心したふり」をしながら、足の裏を眺めたり、正面に比べれば殺風景な背中側を回ってみたりしていた。
参道の室内階段の両脇にはやはり土産物屋が並んでいる。二台携帯していた小型カメラのひとつのバッテリーがなくなりかけていたので屋台のフィルム屋を覗いてみたら「CR2」のバッテリーがちゃんと置いてあった。こんなところで買うと高いだろうと思って、買うのは思いとどまった。

バゴー最大の木工漆塗り工場

寝釈迦仏殿の近くには小さな市場があった。その横を通ってバゴー最大の木工工房を訪ねてみた。緑の木立のなかに今にも朽ち果て、しおれてしまいそうな小屋があり、頼りなさげに屋根をのぞかせている。「NAZIN CO−OP.,LTD」という看板が掲げてある。昼食時でがらんとした工場に、どんよりとしたやせた男がふたりばかりいて、工具の手入れをしていた。勝手に中に入り込んで、珍しげにあたりを見回していると、折り目正しい日本語を話す老人がいつの間にか現れた。

「ベンガー」と呼ばれバゴーのあたりに多い「ねむの木」を材料にし、民芸品や食器、仏具などを作っているのだそうだ。パゴダの参道の両脇にあった店が扱うものやホテルのみやげ物やにおかれている木工品などは、ここで作られているという。20センチ四方のやや長四角形のものがいくつも積み上げられている。「これはなんですか」と訊いたら、「まな板」です。といわれた。こちらの人は随分小さいまな板を使うのだなと思った。

作品の陳列部屋に案内された。部屋は薄暗く赤黒い漆塗りの作品などは見分けがつかない。窓からわずかに差し込んでくる自然光だけを頼りにものの形が判別できた。日本でも見かけたようなものが何点かあった。
「これは日本からの注文です」
老人は言った。
「富山県からたのまれたものです。デザインの型紙が送られてきて作ります。日本人は仕上げに大変厳しいです」
老人は折り目正しくつけ加えた。
工場には約60人ほどの木工職人が働いていて、そのほとんどがこのあたりに多いモン族だという。
「協同組合の工場です。ここが本店になります」
老人の説明を裏づけるように、そういえば看板に「CO−OP」という文字があったことを思い出した。

旧王宮殿と展示館

それから旧王宮殿のほうに向かった。あいにく補修工事中ということで、敷地内はバリケードで封鎖されていた。アイさんが、守衛いる管理事務所に入っていって何か話している。しばらくして「OKです」といいながら助手席にに乗り込んできた。ただしUS5ドル入場料がかかるという。私は5ドルの持ち合わせがなかったので10ドル紙幣を差し出した。おつりがないようだった。多分正式な入場料ではなく、融通を利かせてくれたお礼だったのだろう。そうだとしたら、彼らも初めからおつりなど用意しているはずもなかった。おつりは帰りまでに用意するということで、とりあえずバリケードで閉鎖された門を開けてくれた。

敷地の奥にクルマを進めていくと、左手前方にまばゆいばかりの黄金の建物が視界に飛び込んでくる。今にも一雨来そうな、鉛色の雲を低く垂れた空に、それば不気味なくらい鮮やかに見えた。黄金の宮殿は、16世紀のバイナウン王の居城だ。靴を脱いで宮殿に足を踏み入れる。中央に修復中の謁見の間がある。「BEE THRONE HALL」と呼ばれている。玉座の周辺の装飾が「BEE(蜜蜂)」をモチーフにしているからそう呼んだのであろう。王位継承もここで行われたのだという。

宮殿の背後にはハンターワディ遺跡の発掘が今も行われている。それを横目に見ながら敷地の奥に踏み込んでいくとこのモン族の城塞都市から発掘された土器などを展示するミュージアムがある。ミュージアムをひとめぐりして帰ろうとしたら、出口のところに自転車をわきに支えた初老の男性が立っている。5ドルのおつりを返すためにわざわざ自転車でここまできたのだった。ミャンマー人のこうした誠実さには、驚かされる。

宮殿をあとにしてバゴーの町に出たとたん、鉛色の空が重さにたえきれなくなったように、突然のスコールが襲ってきた。スコールの雨粒は体に当たると痛みを感じる。馬車を引く馬が、首を低く垂れて苦しそうにしている。雨の強さは路面から跳ね返る水しぶきの激しさが物語っている。家畜をぎゅうぎゅう詰めにしたような小型の乗合バスの運転手が、クルマを停めて飛び降り、バスの横を被う幌を垂らす。後ろにしがみ付いている乗客はどうしようもない。傘をさして自転車をこぐ人々の体はびしょぬれで衣服が肌にはりついている。

スコールのヒステリーがおさまるまで、私たちは昼食をとることにした。バゴーの市街地で見つけた店の名前は「PANDA CAFE」。私は食欲がなかったが、お腹に負担のかからないチャーハンとミャンマービールを缶で頼んだ。この店は、バゴーでも洒落た構えをしている。食事の間に雨はすっかり上がっていた。店を出ると、子供の物乞いに囲まれた。正真正銘の物乞いに出会うのは、ミャンマーに来てから初めてだった。この国に乞食のような人種は少ないという印象をもった。ただし、パゴダ周辺には僧侶の身なりをした子供がたくさんいて、この「僧侶」たちは人目をはばからずに旅行者と見れば金銭をせがむ。これに応じていたらきりがないので仏教心の薄い私は無視することにしていた。ヤンゴンの繁華街にいる大人の僧侶も旅行者と見ると近づいてきてお金を無心する者が少なくない。馴れない私は、戸惑うばかりだった。

四面仏の「チャイプーン・パゴダ」と僧院

最後にチャイプーン・パゴダに寄って帰ることになった。野ざらしの四面の仏塔が背中を寄せるように立っている。敷地は気雑草が生い茂り荒れている。パゴダというより、記念塔のようなたたずまいである。また裸足になって、仏塔の周りの床石づたいにあっというまにひとまわりした。ふたたび雨が降り出した。アイさんがクルマに戻って傘を取ってきてくれた。雨で濡れた石のスレートを裸足で歩くのは危険だった。
ふと気がつくとパゴダのすぐ横の斜面の下に傾きかけた廃屋のような住居があり、木の階段の登りきった踊り場のところに老僧がひとり立っていて、「こちらにおいで」と手招きしている。最初は儀礼的に小振りだったが、最後は「いいからこっちにきなさい」といいたげに、手の振りが大きく深くなっていった。そばにいたニィニィさんとアイさんの顔をうかがうと、「遠慮せずに行ったらどうですか」と無言で勧めている。私は、おぼつかない足どりで、雑草のあいだにむき出しになっている石をつたって老僧のほうに近づいていった。その瞬間、濡れた石に足をとられ突然私のからだが仰向けになって宙に浮いた。「あっ」と思った瞬間、からだが一回転しうつ伏せのまま石段につんのめった。「ボキッ」という音がした。いやな予感が走った。右手にもっていた小型カメラのレンズの縁が軽く石に当たった。鈍い音は、私の腕の骨かと思ったが、幸いにも左手に持っていた傘の柄だった。命拾いした。こんなところで、腕の骨でも折っていたら、旅のすべてが台無しだった。アイさんもニィニィさんも駆け寄ってきて、心配している。幸いひじの上に擦り傷があるだけで、からだに別状はなかった。私はそのまま老僧に近づき、恐る恐る階段を昇り招かれるままに薄暗い部屋に足を踏み入れた。
暗がりに目が馴れると、殺風景な板の間があった。「まあお座りなさい」とばかり、小さいゴザを差し出した。私の横にアイさんとニィニィさんも腰を下ろした。新人深そうなアイさんは、さっきからずっと合掌し身を低くしている。座ったとたんに、機関銃のようにあれこれこちらに話しかけてくる。ミャンマー語なのだろうから、全くわからない。話し相手に飢えている老人が、久しぶりの来客をつかまえて一気呵成に話しているふうに見える。
「このお坊さんは、ここに25年間ひとりで暮らしているそうです。この場所の写真を撮っていく外国人はたいへん多いとも言っています。なかには本を送ってくれゆ人もいて、その中に自分の顔が載っていたりしてびっくりします。日本人はとくに写真を撮るのが好きだといっています」
アイさんがお坊さんの話を説明してくれた。
被写体馴れしているせいか、そのあと写真を撮らせてほしいと頼むと、「ここを撮れ」「あそこを撮れ」といちいち細かく指示をしてきた。笑うたびに前歯が半分欠け、舌の盛り上がりが見えた。どうすればこんなに痩せることができるのだろうと思うほど痩せ細っていた。体中の浮き上がった骨を赤黒い皮膚が覆っていて、屋外の逆光がそれらを不気味に浮き上がらせている。

私たちは、帰路についた。再びエンジンをうならせながら、ヤンゴンに向かう幹線道路を突き進んだ。痩せたガリガリの水牛が、背中の骨をパゴダのように突き出して、のんびりと歩いていた。さきほどの老僧の痩せた体がダブって見えた。行き交う乗合バスは、どれもこれも錆びついて、埃にまみれ息も絶え絶えに走っている。この国では老人が大事にされるように、修理に修理を重ね大切に扱われてきたのに違いない。モノにも生涯があり、「人生」がある。目の前の、肺がんに冒されたか喘息の発作を起こしているみたいな体をかしげて走る乗り物をみてそう思った。その乗合バスに家畜のようにびっしりと詰め込まれた乗客が、身動きもせず背を丸くして座っている。屋根の上の、本来なら荷台の部分まであふれた乗客が占拠し、それでも足りずに後部のわずかな突起を足場にして数人の男がしがみついている。
カメラを向けたら、逆に好奇の目をこちらに向けてきた。外に背中を向け行儀よく正規の「客席」に座っている女たちも、からだを強引によじってコーラスのようにいっせいにこちらを見る。頬にタナカを厚く塗った少女たちは、かつて東京で観た寺山修司のアングラ芝居の役者たちのように、引き込まれるような奇怪な表情を投げてよこした。
マーさんの運転はあいもかわらず荒っぽい。スピードメーターの針はさっきからずっと「90」を指したままだ。はじめ90という数字に少し身を固くしたのだが、「あれ」と思い1.6倍してみて、身がすくむ思いで手すりにしがみついた。メーターはKmでなく、マイルだったからだ。補修の十分でない舗装道路を、クルマはサンバのパーカッションのように鋭い音を軋ませて突っ走った。さきからもう1時間以上も、私のメモの文字は激しく躍っている。心は書いているのだが手が心と離反している。自分の文字とはいえ、あとで見直して清書するさい、判読できるかどうか心配になった。信号も速度制限表示もない幹線道路を、ただわれ先にと前に突き進んでいる。ニィニィ青年は、後ろの座席で爆睡している。

カンドヂー湖に浮かぶ「ロイヤル・ガーデン・レストラン」

ヤンゴンに戻り、夜はニィニィ青年の勧めで、カンドヂー湖に浮かぶ水上レストラン「Rpyal Garden Restaurant」に行った。入場料はひとりUS6ドル。これでブッフェスタイルの食事が食べ放題である。ブフェの中にセットされているコーヒーやソフトドリンク以外の飲み物は別途料金だ。食事をしながらステージで演じられる民族劇や舞踊を見学する。ラーマーヤナを題材にした演目が多かった。操り人形や曲芸のような出し物もあった。演じる人々はみな、「National Institute of Dancing」という学校の卒業生ばかりだという。カンボジアでも同じように国立の芸能学校を卒業した民族舞踊を踊るシーンに出会ったことがあったが、踊りの質はカンボジアのほうが上手のような印象をもった。目の前の舞台で見るミャンマーの民俗芸能は、身のこなしなどでも大衆芸能的にみえた。
客のほとんどは欧米や日本からの観光客でガイドらしき案内人がそばに付き添っていた。ブフェのメニューの品数はそれほど多いとは思わなかったが、ミャンマー料理と中華料理の混合メニューである。
レストランが入っている建物は、外から見れば鳥がパゴダを背負って水に浮かんでいるように映る。この建造物全体を別名「カウウェイ パレス」ともいう。
夜はライとアップされ、湖上に美しく浮かび上がる。湖面を見晴るかすと、遠くに黄金色に燃えるシュエダゴン・パゴダのシルエットも楽しめる。まさに一日の締めくくりにふさわしい絶景である。

→前に戻る
←次を読む

©Copyrights Yuza Taira,1999,2000,All rights reserved.