捨てられたサンプル


私の指導教官だった教授は、1994年3月に新潟大学を停年退官した。その間際に、置き土産とばかりに、私の研究用のサンプルを勝手に処分し、何喰わぬ顔をして大学を去っていった。

最も被害が大きかったのは、-80℃のフリーザーで保存していた血漿サンプルである。クロサンショウウオの雌の排卵(つまり卵巣濾胞の崩壊)に連関するプロゲステロン(黄体ホルモン)の変動を探るため、これらのサンプルは必要不可欠なものであった。この研究で私は、彼らの繁殖期にピットフォールトラップとドリフトフェンスを池の周りに仕掛け、池へ入る直前の未排卵の雌を採集した(3月の繁殖池)。これらの雌に、ヒト絨毛膜性生殖腺刺激ホルモン(hCG)を投与し、その後、0時間、9時間、14時間、18時間、32時間、50時間の各グループで5個体ずつの心臓採血をおこない(50時間だけ4個体を使用)、それらの血漿サンプルを凍結保存していた。

hCGの投与後、0時間、9時間、14時間では排卵が起こらず、18時間では全ての個体が排卵中であった(排卵と卵嚢の形成)。見た目の形態変化がない排卵前の血漿サンプルを、このように余り時間を置かずに細かく採る理由は、先にも述べたが、プロゲステロンのサージ(血中への大量放出)をラジオイムノアッセイ(RIA)で測定するためであった。これらのサンプルが、私の知らないうちに捨てられたおかげで、予定していたRIAができなくなり、爬虫両生類学関連の雑誌以外に、学術論文を載せることが不可能になってしまった(プロゲステロンの測定値がなくても、研究の内容そのものは面白いトピックなので、この分野のトップの雑誌には掲載されたのだが、それにしても悔いの残る結果となってしまった)

またトウホクサンショウウオの頭骨の透明骨格標本を、一個ずつグリセリン保存していたバイアルも、全部、私に断りなく廃棄されてしまった(鋤骨歯列の形)。この種では形態形質の地理的変異が大きく、各個体群に特異的な頭骨の形状を、多変量解析を用いて比較する作業が、私には残されていた。そのために要求されるデータを、更に細かく採り直すため、これらのサンプルは必要不可欠なものであった。それが勝手に捨てられてしまったのである(予備データによる講演要旨だけで「論文にできない」という結果になってしまい、返す返すも残念でならない)

どのような心の動きが彼にあったのか、私には知る由もない。ただ、私が博士号を取得した直後に、彼から「私は(退官まで)後一年しかありませんから、頑張って(共著)論文を出して下さい」と発破をかけられたことは、今でも鮮明に覚えている(1)。きっと彼は(もし悪意がなかったのであれば)、私の研究用のサンプルも自分の所有物だと思い込み、もう退官で後がなくなったので、綺麗さっぱりと「自分の」サンプルを捨てていったのだろう。

[脚注]
(1) そのとき(1993年3月)、私の胸に去来したのは「おいおい、こっちは後30年以上もあるんだぞ。あなたは本当に、自分のことしか考えていない。不完全なデータでは論文を出したくないし、私は、あなたの研究業績を上げるために論文を書いているのではない(私は、あなたの助手ではない)」という複雑な思いであった。


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