センスを磨く!!


同じ場面に遭遇しても、物事の捉え方は、人によって千差万別である。麗人の涙を見て、ある人は「嬉し泣き」と思うかもしれないし、また別の人は「悲し泣き」と思うかもしれない。同様のことは、真理を追求するはずの自然科学の世界でも、充分に起こり得るものである。

ある結果を基に、二人の研究者が、別々に学術論文を書いたとしよう。その二人が培ってきた学問のバックグラウンドが違えば、当然のことながら緒言や考察の中身も違い、極端な場合には、同じ結果から正反対の結論を導き出すこともある。これを「見解の相違(または解釈の違い)」と言ってしまえばそれまでだが、人類の存亡にかかわる臨床医学の分野では、そうも行くまい。

その点、基礎科学の分野では気楽である。特に私の専門分野の繁殖生態学・行動生態学は、人類にとっては何の役にも立たず、私たちの知識欲を満たすためだけに存在しているようなものだから(1)、そういった解釈の違いは大いに結構だと思う。解釈が違うということは、その問題に発展の余地が残されていることを意味し、今後の研究に話題性を提供したという点で評価されてしかるべきものである(2)。

また生態学上の同じテーマで、二人の研究者が、ある種に着目して別々の個体群で調査・研究をおこなったとしよう。この場合、同じテーマで調査・研究をおこなっているはずなのだが、データの中身が見事に違っているということがある。これは、研究者間でデータの採り方が異なり「一方の研究者が採るデータの重要性に他方が気付かない」といった、お互いの物事の捉え方の違いに起因することが多い。更に定点観測では「いかにデータの採れる個体群を選定できるか?」といった研究者の洞察力も大切である(3)。

これら個人的な問題のことを総じて、私たちは「センス(sense)」と呼ぶ(これは「感性」とも少し違う)。一般には「あの人はセンスが良い」という風に使われる。野外でデータを採るときは、この個人のセンスが重要で、センスが悪い人は幾ら頑張ってみても、まともなデータが採れるものではない。これは何故かと言えば、生態学は実験室でおこなう研究とは異なり「決められた操作手順に従って(その多くは機械任せにして)研究を進めれば、誰もがデータを得られる」といった性質のものではないからである。また、幾ら下準備を入念におこなって現地に出向いても、現地を見てみないことには予定していたデータを採れるかどうかも分からず、現地で臨機応変に対応する能力が問われるからである。では、どうやったら肝心のセンスを磨くことが出来るのか?

これは相当に難しい問題である。私が思うに、私たちひとりひとりが自然の中に身を置き、生き物の声に真剣に耳を傾けてみるより他に、方法が見当たらないようである。彼らの声が、聞こえるだろうか?

「僕らは、こうやって生きているんだよ!!」

[脚注]
(1) 「それは、どういう役に立つんだ?」という物の見方しかできない人が、依然として多い。特に農学系では、生態学の基礎的なデータを採っているように私の目には映るのだが、それらのデータを「役に立つかどうか」という観点で無理矢理、応用と結び付けて議論している研究者が少なくないように思われる。
(2) もし私が雑誌の編集者なら、多少は問題のある論文でも、それが「当該分野でのイノベーション(発展の基本動因)を持つ」と判断できれば、アクセプト(掲載許可)すると思う。それも編集者のセンスではないだろうか(1)?
(3) 開発などを前提として、最初から調査・研究する個体群が決まっているような場合には、期待通りのデータが得られる保証は何もなく、ただ無駄な資金と労力だけが費やされる危険性がある。

[脚注の脚注]
(1) 某雑誌の元編集長の回顧談が、ふるっている。「後に間違いだと分かった論文をアクセプトしたのは、それほど大したことではない。それよりも、後に評判になった論文をリジェクト(掲載拒否)してしまったことが、悔やまれてならない」と......。


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