キャンプファイアー


2004年7月21日(水曜日)は、午前9時15分に1次隊の日本人10名が帰路に付くと、モンゴル・ダルハディン湿地の第1調査地があるキャンプ地に、日本人は3名だけになった。私と中川雅博さん(近畿大学)、それと冨士利郎さんであった(彼は○○ゼミのOBで、現在は和歌山県のキャンペーンボーイをしている。彼の現地での役割は、炊事を含む雑用全般であった)。このとき、調査隊長の○○さん(金沢学院大学)を含む、他の日本人6名は、第3調査地に遠征していて不在だった。そのため、その日の夜は、モンゴル教育大学の教員と学生の天下となった。

話によると、昨年は毎日がキャンプファイアーで、夜通し騒ぎっぱなしになってしまい、仕事にならなかったそうである。「これではいけない」と危機感を抱き、今年は「キャンプファイアー禁止令」なるものが出されたらしいのだが、キャンプ地から肝心の調査隊長がいなくなったことで、箍(たが)が外れてしまったようである。午後8時頃から何人かの学生がボートで川を数往復し、第1調査地からキャンプ地へと細長い木をたくさん運び入れているのは知っていたが、これが正しくキャンプファイアーの準備であった。

日が暮れる前の午後10時30分、私がテントで休んでいると、モンゴル教育大学の教員のひとりである「モンゴ(Munguntulga)」から「ロシアンジープに来て下さい」と誘われた。そのジープの定員6名の狭い車内には、入れ代わり立ち代わり、常に9〜10名の人間がひしめき合い「モンゴル・ウオッカ(Mongolian Vodka)」の「アルヒ(Arkhi)」を飲みながら話をしていた。つまり「その輪に加われ」という要請であった。結局、酒を飲みながら様々な議論をすることになり、解放されたのは午前1時20分であった(1)。

ところが解放されたのも束の間、今度は、いつの間にか学生が始めていたキャンプファイアーに連れて行かれたのであった。「明日も、午前7時に起きて調査だよ」と、一旦は固辞したのだが「歌うバクシ」の異名を取る「タミル(Tamir)」さんから「これは羽角バクシの歓迎会だ」と言われれば、私としては参加しないわけには行かなかったのである(バクシは「先生」を意味するモンゴル語)。モンゴル人は酒飲みで、おまけに歌と踊りが大好きである。「他に楽しみがないのか?」と、いぶかしく思うほど、歌と踊りの尽きることがないキャンプファイアーであった。こうして、その日のキャンプファイアーは明け方近くまで続いたらしいのだが、私は午前2時には何とかテントに引き揚げて、騒がしい中、午前2時20分には就寝した。

翌日は、いつものように午前7時に起床したのだが、テントの外には誰も見当たらず、皆さん、ご就寝のようであった。いつもなら午前7時30分には始まっているはずの朝食も、炊事当番の学生3〜4名の寝坊で準備が遅れ、サンショウウオ・チームの調査開始時間、即ち対岸の第1調査地に渡り始める時間は、午前9時20分にずれ込んでしまった。漸く起きて来た教員も学生も、全員が全員、疲れ果てているようであった。「これが、私と彼らとの違いなんだろうな」と思った。結局のところ、今年は一晩限りのキャンプファイアーであったが、彼らには、調査期間中に自分の体調をベストな状態で維持するための「自己管理」の意識を、まずは植え付ける必要があるのかもしれない(2)。

まあ、私としては、22日は寝不足状態での調査になってしまったが、その前の晩は満点の星空に浮かぶ「天の川(Milky Way)」が、今にも手が届きそうなくらい近くに見えたことで、満足している。星の中では、特に「北斗七星」が大きく見え、日本では余り見ることの出来ない4番目の星が、モンゴルのダルハディン湿地ではキラキラと輝いて見えるのが、感動ものであった(3)。

[脚注]
(1) 今回のダルハディン湿地の調査には、モンゴル教育大学の教員以外にも、モンゴル国立大学の教員1名と、モンゴル科学アカデミーの研究者1名が参加していた。中でも、モンゴル国立大学の教授である「ジャムスラン(Tseden Jamsran)」さんは、確か年齢が73歳で「モンゴル植物学会の重鎮」という話であった。彼を筆頭とするモンゴル側の教員は、その多くが動物学か植物学を専門にしており、なぜか私は全員に気に入られてしまったようである。「私の調査方法が彼らには目新しく映ったことが、彼らに敬意を抱かせるには充分なインパクトを与えたのだろう」と、勝手に解釈している。
(2) 「モンゴル時間」というものが存在するようで、たいていの事は「1時間遅れ」になる。もし午前8時から調査を始めたければ、前の晩に「明日は、午前7時に調査開始だよ」と言っておけばよい。但し、サンショウウオ・チームのメンバーに限って言えば、これほどの遅れを見越した時間設定は必要なく、10〜15分間の遅れで済んでいた。これは「時間を守る」という意識の現れのようで、私としては「一筋の光明」を見い出した思いであった。
(3) 7月24日は、ダルハディン湿地の調査を終えてムルンへ向かう途中にある「草原に掘られた井戸(1)」のところで全員が一泊したのだが、その晩の月を眺めていた「森田孝さん(2)」から面白いことを教えてもらった。「月が出ている時間帯が、極端に短い」というのである。月の軌道は、全周の1/4くらいの長さであった。これは、太陽が出ている時間帯が極端に長く、その軌道が全周の3/4くらいの長さであることを考慮すれば、納得の行く現象である。

[脚注の脚注]
(1) この井戸は、機械で汲み上げた地下水をタンクに貯えて使用するタイプのものであった。その井戸小屋は、近くに居住する遊牧民の家族が管理していて、ライフル銃を構えた若者が、貴重な水を盗む悪い輩を見張っているのであった。その家族との交渉で、水をいただいた次第である。ちなみに、この草原には燃料となる薪がなく、草原に散らばる乾燥した家畜の糞を収拾して、炊事に用いていた。しかし、これは火力が弱い。その後、遠征していたロシアンジープの1台が薄暮の中、森林地帯から伐採した木を何本か積んで戻って来たので、それらを炊事に用いることが出来た。キャンプ地の選定は、第一に水場の有無、次に燃料の有無である。これらが確保できれば、後は、どうとでもなる。
(2) 森田さんの年齢は65歳で、○○さんと同じ年齢であった(お二人とも、お若い)。彼は、退役したTV技術者であると共に、現役のパラグライダー指導員でもあった。そのパラグライダーを操って、300〜750mの上空からダルハディン湿地の写真撮影をおこない、調査地の全体像を把握する作業に貢献していた。ちなみに、パラグライダーの本体やエンジンを現地まで運ぶのが、これまた一苦労のようであった。


Copyright 2004 Masato Hasumi, Dr. Sci. All rights reserved.
| Top Page |