「小板橋」 「石上露子を語る集い」会報 第54号 から 〜新しい富田林をめざす「次期総合計画」策定に着手〜 芝 昇一氏
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「石上露子を語る集い」代表 芝昇一氏 |
富田林市広報 10月号の2頁に題記のような見出しを見て、かねてより抱いていたところの私見を記してみたいと思い、筆をとりました。 教育問題について 1) 証秀が富田の芝に着目したのは、東高野街道と富田林街道が交叉していて交通の便がよく、真宗を広めるの によい場所で、人もあまり住んで いない空地で入手するのに都合がよかった。証秀はこの二万余坪を全て寺 域にしたかった。だが、富田林の八人衆らは応じなかった。ほぼ今日の寺域として、商人の町として発展した。料足百貫文は、三年後、永禄5年に皆済した。 証秀 ---- 浄土真宗本願寺は親鸞聖人の子孫継承の教団であり、興正寺は浄土真宗十派のひとつで、証秀はその十四世門主である。 2) 石山本願寺の戦いの時、富田林は本願寺(興正寺を含む)に味方しなかった。 石上露子のこと 次に(前略)むかしの言葉がどんなに美しく使われたか、私は手垢にまみれた言葉を聞かざるをえなかった日は『石上露子集』を紐解くことにしている。(中略) 日露戦争の最中、露子は『辰年』第七号に一首をよせた。 みいくさにこよひ誰が死ぬ 与謝野晶子の詩「君死似たまふことなかれ」に先んでて発表され、晶子の詩ほど有名にはならなかったが、反戦歌としての質の高さは比較にならぬほどである。批評家平出露花はこの作品に注目して、「我はほこりかに世に示して文学の本旨なるものを説明してみたいと筆を躍らせている。(後略)」(草柳大蔵著 「知の荒野に立たぬために」より) 露子資料館の創設 文学賞の制定 以上失礼の段くれぐれも御寛恕の程を。(芝昇一 八十一歳、敬称略) |
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(注記) 上記内容は「石上露子を語る集い」芝昇一代表が2004年10月10日(日)午後に富田林市立中央公民館講座室で開催された同会10月例会の席上で講演された講演録です。講演内容は「富田林市史」をはじめ各種資料などから引用・ご朗読されたものです。同会会報10月号「小板橋」(第五十四号)に収録されました文章をそのまま転載させて頂きました。(2004年11月6日、歴史散歩、同会会員・「富田林寺内町の探訪」管理人) |
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