世紀の大事業・安積疎水

 安積郡の不毛の原野に、猪苗代湖の水を奥羽山脈をくり抜いて引き開拓しょうとの提案は、天保年間(1830〜44)から郡山村の川口半右エ門・大槻村の相楽半右エ門・須賀川宿の小林久敬らによってなされていました。しかし、いわゆる安積疎水工事が具体的化するのは、1878(明治十一)年、内務省の土木局雇ファン=ドールン(オランダ人)が、地元の和算家らの設計した水路を踏査してからで、翌年12月、伊藤博文・松方正義らを招いて開成山大神宮で起工式を行い、多くの困難を経て1882年にほぼ完成しました。
 現在の取水口は国道49号線沿いの上戸にありますが、明治期の取水口はここから300m南にあり、水路跡が残っています。
 

 奥羽山脈をくぐり抜けた疎水幹線は安子ヶ島の第1分水路をはじめ幾つかに分水されて安積郡の台地をうるおし、末端は岩瀬郡に達します。これによって開かれた原野は、青田原・対面原・広谷原・東原・中原・西原・庚坦原・南原・大蔵坦原・山田原・塩の原・四十坦原・牛庭原・大谷地原などで、県内の会津・二本松・棚倉各藩や遠く高知・松山・久留米・鳥取・岡山などの各藩士族が多数入植して開墾の鍬をふるいました。その多くは借金に苦しみ没落して去りますが、ともあれ疎水の完成により、安積郡(阿武隈川以西の郡山市)の散米は4万6千石から1922(大正十一)年には12万1千石に増加しました。なお、その後岩瀬郡の原野の開拓のために新安積疎水が計画され、太平洋戦争中に着工、1949(昭和二四)年に完成しました。新旧疎水の幹線水路の分水口は、沼上発電所の西方約1kmの地下深くに作られ、日夜膨大な水量を分流し続けています。

 このほかに安積原野の開拓には、大槻原開拓があります。大槻原(今の開成・桑野・菜根・鶴見坦・台新など)の開墾は、1872年、福島県典事中条政恒の勧めで郡山町の富豪25人が設立した開成社によってなされた事業で、後の安積疎水事業とは別のものです。1875年までに県内の小作人700人と、一部二本松藩士族の入植により、田畑216町・宅地25町が開かれ、安積郡桑野村が誕生しました(1925=大正十四年郡山市に合併)。しかし入植者の生活は苦しく、大正期には中条(宮本)百合子が処女作「貧しき人々の群」で描くような貧村となります。

安積開拓と2人の作家

 安積疎水完成後の郡山地方は、農業生産だけでなく、紡績業はじめ近代工業の発展はめざましいものでしたが、反面、開拓民の没落や郡山版女工哀史などの悲劇も現出しました。こうした大正時代の郡山地方を舞台に2人の著名な作家が登場します。

 久米正雄は1891(明治二四)年長野県上田市に生まれました。6歳のとき父由太郎は校長だった小学校が火災で天皇の御真影を焼いた責めを負って割腹自殺し、一家は母方の祖父立岩一郎(中条政恒の部下・初代桑野村長)の住む安積郡桑野村開成山に身を寄せました。政雄は開成尋常小学校から郡山町の高等小学校(金透小)を経て、1905年、県立安積中学校に入学、テニスや野球に興じる一方、同校教頭の俳人西村雪人(岸太郎)らの影響で俳句に傾倒し、三汀(さんてい)の号で句誌『オクヤマ』などに多くの秀句を発表しました。1912(大正元)年第一高等学校には入り、芥川龍之介・菊池寛らと出会い、東大英文科に進み、1914年処女作『牛乳屋の兄弟』(桑野村の石井牧場の4兄弟がモデル)を第三次『新思潮』に発表しました。翌年夏目漱石の門下となり、小説『父の死』『流行火事』、戯曲『阿武隈心中』『三浦製紙工場主』など、郡山地方の農民や労働者、進歩的知識人の悲劇をテーマに、社会派的作品をつぎつぎに発表しました。

 宮本(中条)百合子は、「安積開拓の父」中条政恒の孫で、1899(明治三二)年東京に生まれました。祖父政恒没後も祖母運の住む桑野村を夏休みのたびに訪れ、貧しい開拓の村の小作人の生活に触れたことで、処女作『貧しき人々の群れ』(1916年中央公論に坪内消遥の推薦で発表)を書きました。以後『伸子』『二つの庭』『道標』等の作品でわかるように、非合法の共産党員宮本顕治と結婚し、苦難の道を歩みつつ作家として成長します。晩年の代表作『播州平野(ばんしゅうへいや)』は、網走監獄につながれていた夫顕治を訪ねようとして果たせず、きしくも旧桑野村で1945(昭和二十)年8月15日を迎えた情況が描かれています。

                              中通り南部に戻る

                              福島県の近代・現代