中通り南部

 北流して宮城野にむかう阿武隈川、南東常陸の海をさす久慈川上流のこの地方、中通り南部である県南は、弥生文化以来西から流入する文化や政治の窓口でした。白河の関は中央政府の蝦夷に対する前進基地として、勿来の関(菊多関)とともに4〜5世紀頃設置されたものです。ここは東山道の終点であり、「道の奥」の国(陸奥国(むつのくに))の始まりでした。仏教も白鳳(はくほう)期の借宿廃寺あとが白河市にあるように、この道から入ったと思われます。

 白河から奥州街道とわかれ北西に会津街道をとり、勢至堂峠をとれば会津若松城下にでます。阿武隈川東部は、低い波浪状の阿武隈山地であり、この線上には三春、石川・棚倉・塙があります。城下町棚倉、天領塙は久慈川のみなもとにあり、常陸(茨城県)への通路で、石川から東南へ阿武隈山地の御斉所峠をこえれば勿来の関のある磐城の浜にでます。

 中世初頭には、源頼朝が鎌倉軍を率いて白河の関を越え、平泉の奥州藤原氏を滅ぼし、結城氏(白河)・二階堂氏(岩瀬)・伊藤氏(安積)などの関東武士を県南地方に配置しました。豊臣秀吉は小田原征伐後、白河から勢至堂峠をこえ会津に入って「奥羽仕置」を発令し、戦国争乱に終止符を打ちました。

 近世、徳川幕府は白河・棚倉・守山に家門と譜代大名を配置し、塙には天領を置きました。奥羽の関門をおさえる意図があったと思われます。元禄期には松尾芭蕉が白河の関を越えて「奥の細道」に分け入り、須賀川の等躬(とうきゅう)宅に滞在しましたが、幕末の戊辰戦争にはまたまた軍勢をむかえることになりました。大田原から北上した西軍は白河城を奪い、棚倉城をおとして石川から三春に進み、二本松城を攻略して会津鶴ヶ城にむかいました。

 また、東日本の自由民権運動は三春や石川を拠点としておこないました。河野広中をはじめ多くの民権家を排出しましたが、福島事件で弾圧されました。その一方で明治政府による安積開拓が開始され、安積疎水が開削されると奥州街道の一宿場であった郡山はその後の発展の基礎を築きました。豊富な水と電力は大工場の建設を促し、さらに東北本線の開通と磐越東・西線や水郡線の分岐は、後の国道4号・49号線の整備とあわせて郡山を交通の要衝とし、東北有数の経済都市に発展させました。

 近世の商業都市として栄えた須賀川からは、国道118号線が水郡線と並行して茨城県に通じています。この阿武隈川と久慈川を結ぶルートも、古代から道奥への道筋として開けた所です。

1、白河の関を越えて

2、須賀川盆地を訪ねて

3、久慈川の源流から石川へ

4、城下町三春と田村郡

5、安積のから安達郡南部へ

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1、白河の関を越えて

 白河地方は那須山系の甲子山(かし)や旭岳に源流を発する阿武隈川が東流する標高360mほどの丘陵地帯に立地します。古く白河の関が置かれ、道奥の入口として知られています。古代白河郡の中心であった白河郡衙(ぐんが)は、白河市東方泉崎村関和久にあり、白河軍団もおかれました。
 中世は結城白川氏が約400年間この地方を支配し、近世にはいると会津領となりましたが1627(寛永四)年に丹羽長重が白川藩を創設して以来、7家の大名が相次いで支配しました。特に松 平 定信 は幕府 老中 上 座 として寛政の改革を行い、藩政においても農業を中心とする産業の振興や人口対策にみるべきものがありました。近年は東北自動車縦貫道や東北新幹線などの開通 により、首都圏との結びつきを強めています。


境 の 明 神

                                     ▼ 白河市白坂字明神前1
                                     ▼ 東北本線白河駅バス明神行終点下車1分

 
 バス停明神で下車すると、すぐ近くに神社があります。1689(元禄二)年陰暦の4月20日、松尾芭蕉が奥州に第一歩を印したのはこの境の明神です。近世奥州街道の道奥の玄関口にあたるこの神社は玉津島神社(祭神衣通姫(そとおりひめ)))ともいい、下野国(しもつけ)(栃木県)側にある住吉神社(祭神筒男命(つつのおのみこと))と県境(国境)を挟んで並んでいます。道路の向かい側に「従是北(これよりきた)白川領」と刻まれた藩界石柱があり、また福島県奥の細道自然遊歩道の起点の標識があります。芭蕉はここから北へ約800m の白坂宿の入口近くから東に折れて山間の小道を通り、東方約4kmの旗宿に入り、白河の関を訪ねています。

 境の明神から奥州街道を北へ約3km白坂宿(泉岡)を通り抜け白河市街地に向かう途中の皮籠(かわご)の林のなかに、源義経とかかわりの深い金売吉次(かねうりきちじ)兄弟の墓と伝えられるものがあります。



白 河 関 跡

                                        ▼ 白河市旗宿字関の森118
                                        ▼ 東北本線白河駅バス旗宿終点車1分

  旗宿にあった白河の関は、古代の東山道または中世の関街道が道奥に通ずる玄関口に当たります。古代大和政権の蝦夷に対する前線基地であり、後には交通検断の要所ともなりました。
 バス発着所の向かい側の独立丘陵、関の森が白河関跡国史跡)で、入り口近くの古関蹟碑は1800(寛政一二)年、定信によって建てられたものです。旗宿集落の東丘陵中腹に一丁仏とよばれる中世の板碑があります。奥州平泉の藤原秀衡が、白河関より津軽半島の外ヶ浜まで、一町ごとに金色の阿弥陀像をえがいた笠卒塔婆を建てたという『吾妻鏡』の記事にある一町仏がこれだ、と伝えています。また集落の北方300m程の道路わきに庄司戻しの桜と碑があります。信夫の庄司佐藤基治が、子の継ぐ信・忠信兄弟が義経に従って戦いにおもむくのをおくって、ここまできてわかれ、戻ったことにちなむ桜といわれます。



南 湖 公 園

                           ▼ 白河市南湖1
                                  ▼ 東北本線白河駅・新白河駅バス棚倉行下車1分

 南湖公園(国史跡・国名勝)は白河の市街地からほぼ南方2kmにあり、杉並木に入ると『南湖公園』の碑があります。寛政の改革を担当した老中、白河藩主松平定信(白河楽翁と称する)が1801(享和元)年に作庭した公園です。
 この地はもとアシ・カヤが生い茂り、荒れ果てた沼沢地でしたが、当代のすぐれた作庭理論家 でもあった楽翁が庭園化すると共に、灌漑用地として、沼の下方を新田開発し、その収益は白河藩の藩校立教館の資金としました。大名の閉ざされた庭園ではなく、定信はこの場所を民衆に開放したので、日本最初の公園といわれます。
 自然景観をいかし、湖畔には松・吉野桜や嵐山の楓などを取り寄せて植樹し、また茶室共楽亭を建て、湖畔には、諸国の名士・文人から寄稿された詩歌をを詠みこんで鏡の山・千世の堤・有明崎などの16勝17景の名所を構成しております。

 湖の周囲は、約2kmで、公園内には南湖開削碑(1804<文化元>年建立)・共楽亭・南湖16勝17景歌碑やそれぞれにおかれている小歌碑があります。また、1922(大正十一)年、公園の南東の菅生舘地域に定信(楽翁)を祀る南湖神社がつくられました。境内には定信にゆかりの深い茶室羅月庵があり、定信の遺品などを収蔵展示する宝物館もあります。

 南湖西方の那須連峰、東方の関山が公園の借景の効果を上げています。

    



白 川 城 跡

                 ▼ 白河市藤沢18
                                   ▼ 東北本線白河駅バス旗宿行八竜神下車5分

 白河駅から市街地大通りを約2km東に抜けた町はずれ近くに宗祇戻しといわれる場所があります。室町時代の1481(文明十三)年春、白河領主結城直朝・政朝父子が主催する鹿島神社連歌興業に際して、連歌師飯尾宗祇がその句会に参加するため、この場所で鹿島神社への道を尋ねたが、その時の綿売りの少女の即妙の歌に驚き、ここから都へ引き返したと伝えられます。ここに宗祇戻しの碑や芭蕉の句碑とともに白河羅城岐路碑があり「右たなくら 左いしかは道」と刻されています。

 宗祇戻しの場所から100mほど東に進むと道が二つに分かれます。右が棚倉左が石川への街道で、棚倉街道を500m程進むと八竜神に白川城跡(県史跡)入口の石標があります。このあたりの搦目山や藤沢山一帯が中世の白川城で、南北朝のころ、奥州における南朝側武将の巨星だった結城宗広の居城です。入口石標から約500mの小道に従って山上に登り、丸木でつくられた階段を上ると白川城本丸跡があります。本丸跡の広さは東西約75m南北約80mで、後村上天皇行幸碑、徳富蘇峰(とくとみそほう)の文になる城主結城宗広の顕彰碑などがあります。また、本丸を中心に各所に曲輪・空堀・出丸・土塁などの遺構があります。石川街道側に下ると城の搦手(裏門)があったという搦目に至ります。この集落の入口の近くの岩壁に白川城跡感忠銘(県史跡)と呼ばれる磨岩碑があります。高さ約8m・幅約3mの大きな碑は、1813(文化十)年、結城宗広・親光父子の後醍醐天皇に尽くした忠烈を顕彰するために刻されたもので、題字の「感忠銘」の三文字は松平定信の筆によるものです。

 「感忠銘」碑から500mほど石川街道を引き返し、北側に折れる道を進み阿武隈川にかかる橋を渡ると、左手の森の中に鹿島神社(祭神武甕槌(たけみかづち)神)があります。古くから白河の氏神として尊崇され、延喜式内社の白河神社はこの神社のことだといわれています。



小 峰 城 跡


                                            ▼ 白河市郭内
                                            ▼ 東北本線白川駅下車10分

 白川駅のプラットホームから北側の間近に小峰城(白河城)跡の石垣が見えます。駅もかっては城郭の内側でした。中世には結城一族の館の一つで、結城宗広の子親朝が南北朝時代の1340(興国元)年にこの地に城館をつくり、子孫は小峰氏と称しました。結城氏滅亡後、江戸時代の1627(寛永四)年棚倉から国替えしてきた丹羽長重が白河藩10万石を創設して、1629年から小峰城の大改修を行い、近世的城郭として一新しました。丹羽家以後は、本多・松平(奥平)・松平(結城)・松平(久松)・阿部と10〜15万石の親藩・譜代大名が交替しました。

 城は戊辰戦争で石垣のみとなりましたが、白河市制40周年1989年から三層櫓と清水門が再建されることになりました。石垣は同心円形の珍しい石積が各所にみられ、本丸跡には築城の際に人柱となったという伝説にちなむ乙女桜や、明治天皇が近在の1500頭の馬を天覧した記念碑があります。本丸の周りの腰曲輪は現在バラ園になっています。

 市内年貢町の竜蔵寺(真言宗)には、1691(元禄四)年に藩主松平忠広が寄進した銅鐘(国重文)があり、奥州白河のイボなし鐘として知られています。また同寺の管理する鍍金装笈(ときんそうおい)(国重文)は「慶長六(1601)年」の銘があり、金屋町法雲寺跡の虚空蔵堂に安置されています。
 
 向新蔵の谷田川沿いにある常宣寺(じょうせんじ)(浄土真宗)には絹本著色受苦図(けんぽんちゃくしょくじゅくのず)(県民俗)があります。受苦図は地獄絵で江戸時代の間引き(生児圧殺)の悪弊を防止する目的で描かれたものです。川を隔てたむかい側には愛宕町に関川寺(かんせんじ)(曹洞宗)があり、結城宗広の遺髪を納めた墓や、赤穂浪士中村勘助の妻の墓などがあります。円明寺地区には歴代藩主の菩提寺跡があり、この寺跡に丹羽長重廟(びょう)と宝塔碑、松平清照(藩主忠広の子)の墓、松平大和守直短・基知父子の墓があります。



泉崎横穴装飾古墳

                                            ▼ 西白河郡泉崎村字白石山                                                        ▼ 東北本線泉崎駅下車25分

 泉崎駅から東方約2km、中島村に通ずる道路が白河市から矢吹町に通ずる道路と交差する所に泉崎横穴(国史跡)があります。この泉崎横穴から南側約3kmの関和久に古代白河郡の郡衙(ぐんが)跡である関和久官衙遺跡(国史跡)があります。1972(昭和四七)年から10年間の発掘調査により、奈良・平安期の役所、正倉などの建物群が検証され、古瓦・土師器や須恵器・墨書銘土器・焼米が出土しました。
 関和久官衙から阿武隈川をへだてた対岸の白河市借宿(かりやど)には借宿廃寺跡(県史跡)があり、寺院の基盤や礎石、白鴎期の古瓦やせん仏(仏像を浮き彫りにしたタイル)が発見されています。   

            



観音山磨崖碑(かんのんやままがいひ)

                       ▼ 西白河郡泉崎村踏瀬字観音山
                                ▼ 東北本線白河駅バス郡山行踏瀬下下車10分

 泉崎村踏瀬の集落の北外れから北西を走る国道4号線を横断すると、東北自動車道の下に観音山磨崖供養塔婆群(県史跡)があります。西側の山の岩肌に高さ約10m・幅約38mにわたり7段に並んで刻まれた観音像は、俗に五百羅漢(らかん)といわれます。「弘安八(1285)年」の銘のある板碑、浮彫阿弥陀三尊来迎像や陰刻線彫五輪塔など、おびただしい数の大小さまざまの板碑がありますが、風化がはなはだしく、東北自動車道がこの上を通っているため景観的にも以前のすはらしさが失われています。
  
  踏瀬の集落を通る道は旧奥州街道で、村はずれから五本松の松並木が700mほど続きます。これは松平定信が街道筋の各所に並木を植林させた名残です。

 ここから約3.5kmほどで矢吹町の市街地に入りますが、町の西部を走る国道4号線西側の館沢に中世城館袖ヶ城跡があります。堀・土塁・空堀などを残すこの城館は、矢吹地方を支配した矢吹氏の居城と伝えられます。ここから北方に約1kmはなれた隈戸川沿いに八幡太郎義家と矢吹の地名の起こりの伝説がある滝八幡神社(祭神誉田別(ほんだわけ)命)の小洞と江戸時代のものと思われる優美な三十三観音磨崖碑があります。

 
 

 

 


2、須賀川盆地を訪ねて

 須賀川地方は中央部を北流する阿武隈川とそれに注ぐ釈迦堂川が貫流し、平均標高260mの須賀川盆地を形成しています。中世には二階堂氏が支配しましたが、後に会津領となり、1643(寛永二十)年以後は須賀川町を中心として白河藩領その他に編入され、須賀川の町は代官・町会所の下で民政が行われました。このため須賀川には俳人相楽等躬(さがらとうきゅう)をはじめ銅板画家亜欧堂田善らに代表される町人文化が生まれました。
 須賀川市・鏡石町の西方に位置する天栄村は、鳳坂峠を中間に会津と中通り地方にまたがり、東西に数十キロの長さを有する村です。


龍ヶ塚古墳

                                 ▼ 岩瀬郡天栄村白子字龍ヶ塚30
                                 ▼ 東北本線須賀川駅バス湯本行上白子下車15分

 須賀川駅からバスで約40分、天栄村の上白子の停留所で降りれば、南側の水田の中に龍ヶ塚古墳(県史跡)を見つけることができます。この古墳は東西方向に主軸をもつ前方後円墳で、長さ36m後円部の径は14mほどあります。1977(昭和五二)年の基盤整備により著しく変形しましたが、墳丘自体は頂部に石祠があったため古くから保護されてきました。古墳の形態は前方部が大きく開いた帆立貝式の古墳で、六世紀中頃の築 造で、この白子一帯は古代の遺跡が多数分布する地域です。古墳南方の丘陵地は志古山遺跡となっており、近年大規模な掘建柱の遺構が発見されています。

 白子からさらに西方にむかうと牧ノ内の集落があります。この集落は本陣・脇本陣などのあった宿場町で、会津街道はこの集落から北へ丘陵を横断します。この牧ノ内から南へ1.5kmほど歩くと、安養寺という、かっての寺名が地名になった小さな集落に入ります。この集落には木造法燈国師坐像(県文化)が保管されています。法燈国師は信州の人で、中国五台山などに遊学し、紀州由良の西方寺に住した人で、この坐像の制作年代は鎌倉末期、1298(永仁六)年前後です。

 牧ノ内から鳳坂峠を越えるとまもなく羽鳥湖が眼下に広がります。この湖は大川に注ぐ鶴沼川をせき止め、この水を中通りの矢吹ヶ原に導き、農業開発に利用するために、1956(昭和三一)年につくられた人造湖です。さらに坂を下るとひなびた湯治湯の面影を残す湯本の集落があります。この集落の左手丘陵の中腹に満願寺があり、木造馬頭観音坐像(県文化)が安置されており、鎌倉から室町にかけての作です。 



須賀川一里塚

                                ▼ 須賀川市一里坦・鏡石草津
                                ▼ 東北本線須賀川駅バス鏡石方面行一里坦下車

 須賀川駅からバス約15分で須賀川一里塚(国史跡)に着きます。現在の国道東側に旧道があり、数本の松が往時をしのばせてくれます。この道が当時の奥州街道で、一里塚は江戸を起点とする各街道に、距離を測る目安として日本橋を基点に1里(約4km)ごとに設けられました。須賀川の一里塚は日本橋から59番目のものとされています。この一里塚は徳川家康の命により全国の主要街道を改修した際築造されたものといわれており、道の両側に2基残っているのは全国的に珍しく、1936(昭和十一)年に国史跡に指定されています。


 
須賀川市立博物館と牡丹園

                                            ▼ 須賀川市池上町
                                            ▼ 東北本線須賀川駅下車15分

 須賀川駅から旧4号国道を南に進み、釈迦堂川にかかる橋を渡り、中町のバス停から東に進むと、木立の中に須賀川市立博物館があります。博物館は須賀川城の端城保土原館跡に1970(昭和四五)年建設されました。須賀川出身の首藤保之助氏が生涯にわたって収集した考古資料を市に寄贈されたことにより開館のはこびとなったものです。この考古資料は東北地方を中心にして全国にまたがり約五万点に及び、まさに圧巻です。主な所蔵品として太田貞喜亜欧堂田善コレクション(県文化)1672(寛文一二)年頃の安積・石背などの「六郡絵図」(県文化)、岩代米山寺経塚出土品(国重文)絹本著色釈迦如来十六羅漢図などがあり、この町の歴史をものがたるものが多い。

 博物館から見晴橋を渡ると、毎月11月第二土曜日に行われる「松明あかし」の会場となる翠ヶ丘公園があります。この公園は戦国時代に須賀川・岩瀬地方を支配していた二階堂氏の居城のあった所です。道路に沿って南に進むと国道118号線にでます。最寄りのバス停から石川行きバスに乗って牡丹園前で下車、正面に須賀川牡丹園があります。牡丹園は、約220年前に須賀川の薬種商人が薬用とするためボタンの苗を摂津国から買い求めて栽培したのが始まりといわれ、明治以降になってからは観賞用として整備され、現在では10haの園内に約290種、4000株のボタンが植えられ名実ともに東洋一の規模をもつようになりました。



蝦夷穴古墳と和田大仏

                                ▼ 須賀川市和田蝦夷穴
                                ▼ 須賀川駅からバス母畑まわり石川行根岸下車3分

 須賀川市の東部、根岸でバスを降り、50mほど進むと北へむかう道があり、300mばかり前方の果樹園内に蝦夷穴古墳(県史跡)があリます。明治18年・21年の二度にわたり発掘され、墳丘のすそがけずられていますが径37m高さ6.5mの円墳です。横穴式石室で開口しており、奥壁と天井石は巨大です。副葬品は金銅製頭椎太刀・金銅製鈴など多種にわたりますが、大部分は東京国立博物館に収蔵されています。六世紀前半のものといわれます。
 基の地点に戻り、街道を東に進むと浜田公民館前にでます。公民館前から南へ、山際の用水堀に沿って約50m、道の左手の水田に大仏古墳群があります。昭和48年に発掘され、長さ40m後円部径25m前方部幅26mの前方後円墳と確認され、多数の埴輪片のなかに馬・靭(ゆき)・天冠をつけた埴輪が出土しました。六世紀半ばと推定されていますが、出土品は市立博物館に収蔵されています。
 ここから200mほど歩くと、右手に和田大仏があります。大仏は、横穴古墳群の崖を利用した磨崖浮彫阿弥陀(まがいうきぼりあみだ)像で、高さ2.7mの鎌倉時代の作です。



宇津峯城跡

                                      ▼ 須賀川市小塩江・郡山市田村町
                                      ▼ 須賀川駅からバス埋平行終点下車30分

 須賀川の東部にひときわ優雅な山が見えます。これが標高676mの宇津峯城(国史跡)、南朝の遺跡です。バスは40分ほどで、宇津峯中腹の埋平につきます。山道をのぼると、まもなく山頂につきます。山頂には約20m四方の土塁が残っており、これを千人溜りといいます。なかに宇津峯宮、後村上天皇・後亀山天皇をまつる小祠があります。

                   ( 宇津峯城跡)



上人壇廃寺(しょうにんだんはいじ)

                                              ▼ 須賀川市上人坦
                                              ▼ 東北本線須賀川駅下車10分

  須賀川駅のホームから北を望むと、丘の上に立つ私立中学校とその南側に広がる緑地が見えます。この緑地一帯が上人壇廃寺跡(国史跡)です。七世紀から八世紀にかけて全国の土地・人民を直接支配する律令体制がとられ、中央集権的な国家体制の整備がはかられました。その当時の書物である『俗日本紀』に「白河、石背、会津、安積、信夫五郡置 石 背 国」とあり、それまでの陸奥国から分割されて石背国が設置されていたことがわかります。上人壇廃寺跡も東北本線の電化にともなう発掘調査により、石背国設置とほぼ同時代の遺跡であることがわかりました。南北の中軸線上にいくつかの掘立柱建物の遺構が見つかり、また数多くの瓦円面硯などが発掘されました。このことから、上人壇廃寺跡は石背郡の官衙とみる説国府寺とみる説、そして国府とみる説などがあります。

 上人壇廃寺跡から国道四号線を越えた北側の丘陵地に米山寺経塚があります。この丘陵地頂部には日枝神社という小さな社がありますが、1884年(明治一七)年神社本殿の改修にあたって裏手にあった塚群を整地したところ、青銅や須恵器の径筒・刀子・銅鏡などが出土しました。経塚は全部で10基あったといわれるが、今ではその原形をみることはできません。出土した径筒には外面にへら状のもので刻まれた銘文が残されており、この銘文には米山寺の名称と施入者名・年号(承安元(1171)年八月)があり、、米山寺の存在と埋納の時代が明らかになりました。さらに、ここに刻まれてい た 施 入者と同一人物の径筒が、福島市の天王寺経塚、桑折町の平沢寺経塚からも出土しております。



稲村御所跡

                       (稲村御所跡)

 



桙 衝 神 社(ほこつきじんじゃ)

                             ▼ 岩瀬郡長沼町桙衝字亀居山
                             ▼ 東北本線須賀川駅バス矢田野経由長沼行宮本下車1分

 バ ス停のすぐ右側に社名を刻んだ石柱が立っており、この山道を上ると鉾衝神社(祭神建御雷命)です。この神社は『延喜式』に記載されている式内社で、岩瀬郡最古の神社です。境内は大木に覆われ、古社の趣を感じさせます。正面に白河藩主建築の社殿(県文化)があり、棟札(県文化)から1648(慶安元)年の建物とわかります。日本武尊がこの地に矛を立てたのが社名といわれますが、中世には鹿児島大神宮ともよばれました。社殿の裏100mの所には要石と呼ばれる磐座(いわくら)があり、この周辺から古墳時代の祭祀遺物が大量に出土しています。このような遺跡は鹿島神宮をはじめとして各地にあり、元来はこの磐座が地元民の祀りの対象ではありましたが、大和朝廷の勢力の伸長とともに社が営まれ、それが現在の鉾衝神社へと変遷していったものと思われます。

                                                     



長 沼 城 跡

                                    ▼ 岩瀬郡長沼町長沼
                                    ▼ 須賀川駅からバス長沼行上金町下車5分

 バスを下車して約2分、横町坂上はかっての城内です。小学校裏に『長沼城趾』の柱石が立っています。長沼城は一名千代城ともよばれ、城跡は町の北部 360mの半島状丘陵が西から東へ延びる先端、日高見山に主郭をもち、城跡の南東部は岩盤が露出しています。西南部、地蔵堂との山稜を南北に空堀でたち、独立丘のかたちをとっています。中枢部を山頂と中腹におきながら、山麓の平地をも総合的に組み合わせた縄張りをもつ平山城です。

 文明〜永禄年間(15〜16世紀)、長沼をめぐる二階堂・伊達・田村・芦名の攻防は激烈をきわめましたが、1565(永禄八)年芦名盛氏に攻略され、盛氏の臣新国貞道(にっくにさだみち)が城主になります。以後、長沼城は芦名氏の仙道攻略と会津防衛との基地となります。1571(元亀二)盛氏は北条氏と同盟し、佐竹氏挟撃を図り長沼から出兵。1576(天正四)年には佐竹・田村の連合軍に包囲されます。1589(天正一七)年芦名氏滅亡後、新国氏は伊達政宗に服従しますが、翌天正一八年には豊臣秀吉が奥州仕置(陸奥・出羽両国の戦国大名を処分するもの)のため長沼城から会津入りし、蒲生氏郷に会津支配を命じたので、氏郷は長沼城に蒲生郷安と蒲生郷貞を置きます。1598(慶長三)年蒲生氏のあとに上杉勝景が会津に入り、その移封の際に、信州長沼城から嶋津忠直が移城。1600(慶長五)年徳川家康が上杉討伐の兵をすすめると、景勝は領国防衛のため、長沼城を新国氏時代の規模をはるかにこえた大規模な拡張しました。1601(慶長六)年蒲生氏が再度会津に入り、蒲生郷治・玉井数馬が配置されるますが、1615(元和元)年の一国一城制により、この城は廃城となり、ました。                                             

        


勢 至 堂 峠

                                           ▼ 岩瀬郡長沼町勢至堂
                                           ▼ 長沼からバス勢至堂行終点下車

 勢至堂峠は長沼の西方、太平洋と日本海の分水嶺に位置する峠です。長沼から西4キロの山ぎわに、合いの宿・江花集落があります。集落のはずれから山が両側にせまり、しばらく上ると街道沿いの樹間に滝が静かに音を立てております。まもなく勢至堂の集落にかかります。天文年間(一六世紀)、芦名盛氏が柳津から勢至菩薩を移し祀ったのが地名のおこりといわれますが、なぜか馬頭観音像(鎌倉時代)が安置されています。本陣・問屋・旅宿が軒をつらねたのも、今は昔の語りぐさとなっています。
 集落の西に、江戸時代初期の一里塚が街道の左右に残っています。若松から10里目といいます。一里塚から峠への道は、ふかい緑と覆い被さるような山々の起伏をのぼります。物音もきこえず鳥のさえずりばかりの、おれまがった街道が続きます。峠の山頂(741m)に立つと、ここから先は会津の国であり、道は猪苗代湖の南にぬけています。近くに、上杉景勝や戊辰戦争のさい会津軍が構築した堡塁が残っています。

 この街道は、1590(天正一八)年豊臣秀吉が伊達政宗に命じて幅3間の道路を小田原から会津まで整備させたことからはじまります。秀吉自身も奥州仕置のためにこの峠を通って会津入りをしています。江戸時代には佐渡から金荷を運ぶ街道の一つとなり、会津藩も参勤交代のさいに利用していました。峠をさかいに地元ではそれぞれ会津街道・白河街道とよぶ『江戸より佐州への道、奥州道』という公道でした。

 
 

3、久慈川の源流から石川へ

 現在の東白川郡と石川郡は、古代には白河郡の一部であり、平安期には高野(たかの)郡と石川荘に分立したものの後身です。中世以降の高野郡は南郷(なんごう)と北郷(きたごう)に区分されていました。久慈川の源流であり、東北と北関東の接点でもある東白川郡は、近世は棚倉藩領と塙代官所が支配する幕府領に分かれていました。郡内の鮫川村と古殿町を流れる鮫川に沿った道筋は、本県中通り南部と浜通り南部を結ぶ重要な交通路でした。
 石川郡は阿武隈山地にあり、近世はほとんどの村が、初め白河藩領、ついで浅川陣屋が支配する越後高田藩領となり、後期は幕府領と諸藩の飛地となりました。近世の石川地方は自由民権運動の一中心になり、石陽社が設立されました。

 水戸から久慈川沿いに北上する水郡線の、福島県に入った最初の駅が矢祭山です。駅の北西部の山が源頼義が奥州征伐にさいし、矢をまつったという伝説をもつ県立公園矢祭山で、ツツジの名所です。矢祭町内の東館には、戦国期の佐竹氏の館跡があり、江戸時代には常陸太田街道の宿駅でした。



塙 代 官 所 跡

                                              ▼ 東白川郡塙町字町裏
                                              ▼ 水郡線磐城塙駅下車5分

 南郷とよばれる東白川郡南部は、1729(享保一四)年以後幕府領となり、塙代官所が置かれました。その跡はわずかに残っておりますが、町家に囲まれて、六万石の支配所跡とは思えません。代官所跡から南に下った桜木町の向ヶ丘公園は、名代官寺西重次郎封元(たかもと)が1793(寛政五)年に窮民対策としてつくったもので、公園内には彼をまつった小祠と、その時植えた桜(県天然)があります。彼は、天明の飢饉後着任し塙に22年間在任したのち、次の任地桑折代官所で生涯を閉じています。

 市街地の東の羽黒山は戦国時代の羽黒館跡です。佐竹氏の南奥州進出の兵站(へいたん)基地とみられる巨大な山城で、東麓には居館跡も残っています。その西麓にある安楽寺(浄土宗)には封元(たかもと)の子蔵太の室後藤氏と田中愿藏(げんぞう)の墓があります。愿藏は幕末水戸藩天狗党の一派を率い、1864(元治元)年八溝山(やみぞやま)にたてこもったのち、解除下山して捕らえられ、久慈川畔で処刑されました。また、天狗党の争乱よりはやい1750(寛延 三)年には、数年来の凶作のため各地に一揆が続発し、塙領では戸塚一揆が起き、代官筧伝五郎至方(ゆきみち)は一揆勢に囲まれて自刃したところでもあります。首謀者善兵衛らは棚倉藩に捕らえられ、磔など重刑に処せられたといわれます。



八槻都々古別神社

                                            ▼ 東白川郡棚倉町八槻字大宮
                                            ▼ 水郡線近津駅下車10分

 近津駅から国道118号線を南へ500mほど行くと八槻都々古別神社(祭神味耜高彦根(あじすきたかひこね)命・日本武尊)があります。この神社は、近津大明神ともいい、江戸時代に「近津三社」と称された神社が、棚倉町字馬場の近津明神(上の宮)と八槻の近津明神(中宮)と茨城県大子町下野宮の近津明神(下宮)です。前二社は明治期に国幣中社に列したとき、都々古別神社と改称しました。さらに都々古別の社号をもつものが石川郡に二社あり、”つとこわけ”という種子交換のことばと関係して、北関東から みちのくに入った農耕文化を暗示するようで、農業神の性格が強くあらわれています。この神社では、寒さの厳しい旧正月六日御田植の神事(県民俗)と旧11月1日の大祭の時に七座の神楽(県民俗)がおこなわれます。

 神社の前の常陸街道(国道118号線)にそう門前町の一角に、代々の宮司八槻家があります。水濠・土塁をめぐらし、うしろの山には空濠がつくってあります。大門・玄関の着いた書院は江戸初期の建築といわれ6500坪の武家屋敷です。西南の高台には、かって修験の別当大善院がありました。中世には白川氏を壇越(寺院の財政を援助する豪族)として威勢をはり、1488(長享二)年には修験道本山派聖護院門主道興(どうこう)が来遊し、短冊(県重文)を残しています。中世以来の古文書の他、1411(応永一八)年の銘のある銅鉢(国重文)などの多くの宝物を所蔵しています。



棚 倉 城 跡

                                          ▼ 東白川郡棚倉町字城跡
                                          ▼ 水郡線磐城棚倉駅下車10分

 磐城棚倉駅から市街地を南に行くと、中心部に棚倉城(亀ヶ城)跡があります。1622(元和八)年外様大名の丹羽長重が入部して築城し、以後8家16代にわたって譜代大名が転封をくりかえしました。戊辰戦争では東軍に属したため落城し、町は灰燼に帰し増した。現在はケヤキのある大手門と内濠・土塁に囲まれた本丸跡と、一部石垣を残すだけです。
 関ヶ原の合戦後、筑前柳川城を没収された立花宗茂が棚倉城の北にある赤舘に3万石をあたえられましたが、その臣蓮沼某・糟家某が建立した蓮花寺(浄土宗)が城の北にあり、のちに領主内藤信照が寄進した銅鐘(国重文)が戊辰戦争の戦火を免れてあります。

 棚倉市街地北端の高台に赤館跡があります。久慈川の盆地を一望に見わたせる赤館は、于迦(うが)神社の鎮座する台地も郭とする山城で、1560(永禄三)年に築かれたといわれ、久慈川沿いの平地を扼(やく)する要地でした。結城白川氏は会津芦名氏の援助の下にしばしば佐竹氏と戦いましたが、1575(天正三)年ついに佐竹義重は赤館を奪い、次いで白川城も攻略しました。のちに赤館は丹羽長秀の棚倉築城により廃されました。南麓には、出羽上の山に配流された僧沢庵とともに紫衣(しえ)事件(1627<寛永四>年、後水尾天皇が大徳寺・妙心寺などの禅僧にあたえた紫衣勅許を徳川幕府が無効とした事件)に連座して棚倉に流された玉室宗珀の庵跡があります。

 棚倉城跡から西に1km近く歩いた森のなかにある馬場都々古別神社は、棚倉城築城のとき現在地に遷座され、本殿はこのとき解体移築されたものとみられます。八槻都々古別神社とおなじ延喜式内社で、古い歴史をもっており、鎌倉時代末の長覆輪太刀(ながふくりんたち)(国重文)など多くの社宝があります。

 


中世の石川氏

 石川氏の祖は前九年の役(1051〜1062)に源頼義・義家に従った源頼遠の子源有光が、前九年の役後、石川の地に土着したといわれます。その子孫が石川氏で、鎌倉期に石川荘の各地を開拓し、武士団を形成しました。一族が鎌倉幕府の御家人であったことは『吾妻鏡』で知られます。やがて石川荘が執権北条氏領になると、一 族は得宗(北条氏嫡流)の御内人になってゆき、鎌倉末期には一族の分立がみられるようになりました。

 南北の争乱では、鎌田氏(古殿町)のように一貫して北朝方だった一族もありますが、本宗家は一時南朝方につき、のち結城親朝(ちかとも)に従って北朝に復しました。室町期には結城白川氏の勢力が浸透し、赤坂氏(鮫川村)・大寺氏(玉川村)・小高氏(玉川村)らの庶流は一時白川氏に属し、竹貫氏(古殿町)は岩城氏家臣になりまた。三蘆城(石川町)の本宗は、鎌倉・古河公方と深いつながりをもったことが本宗家の「角田石川文書」でうかがえます。一族の結合は20代成光(なりみつ)の明応年間(1492〜1500年)頃まで続きましたが、以後は近隣戦国大名の侵入をうけます。本宗家は田村・芦名氏の脅威をうけて佐竹氏に属し、戦国末期には伊達晴宗の子を24代昭光としましたが、1590(天正一八)年豊臣秀吉の奥州仕置により城地を没収され、一族は伊達氏家臣となり角田(宮城県)にうつりました。

                           



古 殿 西 光 寺
ふるどのさいこうじ

                             ▼ 石川郡古殿町田口字久保田
                             ▼ 水郡線磐城石川駅バス上遠野方面田口山下下車10分

 中通りと浜通りをつなぎ、いわき市から御斎所峠を通る道を御斎所街道とよんでいます。石川町から古殿町にかけての街道沿いには、双里(そうり)・戸賀(とが)・坂路(さかじ)・千石(せんごく)・鎌田・竹貫(たかぬき)等の村が鎌倉末期には存在していました。塩と魚、松川葉の名で知られるタバコ、会津藩の廻米、古川古松軒が随行した幕府巡検使、そして吉田松陰もこの街道を通りました。現在も各所に旧街道が石仏とともに残っています。

 石川町の東、古殿町は中世に石川一族の竹貫氏が支配していました。中心部に竹貫氏の居館竹貫城跡があります。駒ヶ城(古館)と山城の牛ヶ城(新館)に分かれていますが後者は詰めの城とおもわれます。城跡の東には竹貫氏の氏神古殿八幡宮があり、祭日の10月第二土曜日には流鏑馬と笠懸が行われます。

 同町田口の西光寺(臨済宗)は、バスを降りて国道349号線から北に入った集落の奥にあります。阿弥陀堂(県文化)は方3間の宝形造りで、落ち着いたたたずまいをみせる室町禅宗建築で、棟札によれば竹貫中務大輔(なかつかさだいふ)重光により1555(天文二四)年に建立されたものといわれます。須弥壇(しゅみだん)には玉冠をつけた木造阿弥陀如来坐像(県文化)が安置されています。板碑群のある境内を挟んで本堂があります。本尊は木造地蔵菩薩坐像(県文化)で、両像とも14世紀の仏師乗円の作で、その作品は県内に多く残されております。

 鎌田の八幡下から国道349号線を鮫川沿いに8kmほどさかのぼると、鮫川村の中心部赤坂中野に至ります。ここは石川一族赤坂氏の赤坂館跡があります。佐竹家臣になった赤坂氏は佐竹氏に従って秋田に去りました。

 



薬 王 寺 
やくおうじ

                                           ▼ 石川郡石川町字大室
                                           ▼ 水郡線磐城石川駅下車10分

 磐城石川駅の東500mほどの所に薬王寺(真言宗)があります。浜通りと中通り南部から会津にかけては、平安初期の僧徳一が創建したという寺院が多く、薬王寺もその一つです。鎌倉末期と南北朝初期に開板された仁王般若経版木と妙法連華経版木(ともに県文化)は、この寺が盛んに経文を発行していた壇林(学問の寺)であったことを示しています。境内の薬師堂には鎌倉期の作とみられる木造阿弥陀如来像が安置されています。

 薬王寺山の西麓に立ヶ丘板碑群があります。曲木字坂ノ下の「建治元(1275)年」銘を最古とする石川地方の板碑(石造供養塔婆)は、地元産の凝灰岩をおもに使っていますが、関東の影響を強くうけており、線彫阿弥陀三尊来迎塔婆に特色があります。

 薬王寺の北に対面する山が三蘆(みよし)城跡です。中世石川氏本宗(惣領家)の城館で、三方が急崖で西北を空堀で区切った山城で、本丸跡には石都々古別神社が鎮座しています。社宝の銅製鰐口(県文化)は1423(応永三十)年に城主石川持光が奉納したものです。宮司の吉田家は、自由民権運動家吉田光一の生家です。光一は1875(明治八)年に、後に石陽社となる有志会議を河野広中らと結成し、関東・東北でいち早く自由民権ののろしをあげました。福島事件では逮捕されて高等法院に送られました。
 城跡の北にある長泉寺(曹同宗)には17代義光以後の石川氏歴代城主の墓がありますが、旧態をとどめていません。

 石川町の西を流れる阿武隈川東岸は遺跡が多くあります。上流からみると、大字赤羽にある中世城館一夜館跡(いちやだて)、大字新屋敷の大壇古墳群鳥内遺跡(ともに県史跡)、大字中野の悪戸古墳群(県史跡)と続いています。鳥内遺跡は弥生中期の再葬墓で、100個ちかい土器が出土しました。

 


川 辺 八 幡 神 社

                                          ▼ 石川郡玉川村川辺宮ノ前
                                          ▼ 水郡線川辺沖駅下車10分

 川辺沖駅から国道118号線に出て北に200m行くと川辺八幡神社があります。前九年の役(1051〜62)のとき、源頼義が石清水八幡を勧請して建立したと伝えられる石川一族の氏神です。一間社流(いっけんしゃながれ)造の本殿(県文化)は江戸初期の建築とみられ、南北朝期の古文書と境内にさかさ杉(県天然)をもつ古社です。国道を挟んだ丘には宮ノ前古墳(県史跡)があり、切石積の横穴式石室が開口しています。

 川辺八幡神社から5km程北上すると、玉川村の岩法寺につきます。石川氏の初期の菩提寺で、源基光のために造立したと刻銘されている五輪塔(国重文)があります。基光は石川氏初代有光の子です。五輪塔の南方には「文保二(1318)年」銘の巌峯寺開山供養塔もあります。これは石川氏の氏寺といわれる巌峯寺の遺物です。現在巌峯寺は無住の寺となっています。

 川辺八幡神社から東に6kmの玉川村南須釜には、石川一族大寺氏の大寺城跡があります。大寺氏は戦国末期に石川本宗家と戦い滅亡しましたが、多くの文化財を残しております。城跡の北にある須釜都々古別神社の銅製御正体(みしょうたい)鏡板、城跡南の東福寺(真言宗)の舎利石塔(国史跡)と秘仏の木造薬師如来像(県文化)などです。村には旧盆に少女たちにより踊られる南須釜の念仏踊(県民俗)が伝えられています。

                                                      

 
 
4、城下町三春と田村郡

 郡山市の東部を流れる阿武隈川の東岸より以東の地は田村郡です。古代から中世にかけて田村庄とよばれ、郡の東部の小野町付近は小野保と称しました。この庄の支配者は庄司系田村氏(藤原姓)で、南北朝の争乱期には南朝方として活躍しています。しかし、戦国期に入ると三春に本拠を構える三春田村氏(平姓)が田村庄の支配者となり、近隣に覇を競うようになります。近世に入ると、田村郡は会津支配領から三春松下領・幕府領を経て、1645(正保二)年、秋田氏の三春移封により三春秋田藩(五万石)が成立すると、その大半はこの領域に含まれるようになります。このほか田村郡には守山領・笠間領・幕府領などがおかれ幕末期を迎えます。
 自由民権運動では、田村郡は自由民権運動の拠点として多くの民権運動かを輩出しました。

 




田 村 神 社

                                ▼ 郡山市田村町山中本郷
                                ▼ 東北本線郡山駅バス守山行田村神社前下車3分

 バスを降りて西へ3分ほど歩くと、阿武隈川の支流谷田川北岸の小高い丘陵に鎮座する田村神社(祭神坂上田村麻呂)に着きます。田村神社は元来田村大元明王(だいげんみょうおう)社と称し、明治初期の神仏分離によって田村大元師神社、さらに田村大元神社、そして田村神社と改称され現在に至っています。一説には、南北朝の末期に宇津峯西麓の岩瀬郡塩田地内からこの地に遷座したともいわれます。代々領主の尊崇厚く、戦国期の三春田村氏の支配下師あっては、1504(永正元)年に田村氏は本拠地三春に分社田村大元明王を分霊しています。近世に入っても領主の信仰はかわらず、1665(寛文五)年、将軍家綱の代に朱印領300石を受領しています。
 明治以前の田村大元明王社は鎮守山泰平寺とよばれ、学頭の善法院(天台宗)、別当の帥継院(すいけいいん)の両寺のよって維持されてきましたが、両寺とも明治期の廃仏毀釈により廃寺となり今はありません。

 田村神社の参道は急な石段で、うっそうとした杉の大樹に覆われて仁王門・拝殿があります。本殿は江戸期の再建、内部の厨子(ずし)(県文化)は桃山様式を残す豪壮なつくりです。1689(元禄二)年4月松尾芭蕉は曾良とともにここを訪れ、参詣(さんけい)しています。本殿内には奉納絵画が多く、蒔絵神馬図額2面(県文化)は1570(元亀元)年1571年のものです。このほか遠藤田一画佃島南望之図(文政13年)・鳥居清信画大江山図(いずれも県文化)・(つなぎ)馬図(県民俗)の大絵馬があります。

 田村神社から南へ谷田川を越えると田村町守山地内に入ります。守山は田村町の中心で、近世守山藩の守山陣屋がおかれた所です。守山領は現在の郡山市の東部、阿武隈川東岸の村々31ヶ村で、石高2万石余、現田村町・西田町の一部がこれに相当します。阿武隈川東岸における物資交流の中心であった守山は、現在でも道路を挟んで両側に家屋が並び、鉤(かぎ)形に折れた道路などかっての宿駅の様子を残しています。しかし、字中町地内にあった守山陣屋跡は壊されて現在はなく、守山小学校は中世守山城のあった所です。

 谷田川と阿武隈川に挟まれた沖積地は、弥生から古墳時代にかけての遺跡が多い所で、これより西方にある守山中学校から西へ約500m、県道沿いの雑木林のなかに正直(しょうじき)古墳群があります。大半は開拓によっては破壊され、現在残されているのは20基余りですが、1970(昭和45)年の発掘により古墳内部からは木炭郭の主体部が検出され、郡山市内では最も古い5世紀中頃のものと推定されています。

 田村神社から国道49号線を北へ行くと、谷田川にかかる大善寺橋手前の東方に大藤(おおふじ)稲荷神社があり、境内に大善寺の藤(県天然)があります。
 また、北隣集落の田村町上行合人形(県民俗、個人蔵)は、江戸末期から明治にかけて、この地域で人形浄瑠璃が演じられてきた名残で、庶民芸術資料として価値が高いものです。

 ここから県道(飯豊ー郡山線)を東へ阿武隈山地へ入ると、「おしどり伝説」で有名な赤沼(中田町赤沼)があります。沿道に板碑が一基あり、南側の水田はかって赤沼と称する沼であったといいます。さらに東へ行き、柳橋地内で北に折れると、中田町駒板字表地内の水月観音堂に着きます。堂内に木造観音菩薩半跏(はんか)像(県文化)があり、俗称水月観音とよばれるこの像は高さ92cm余で、江戸期に2度修理されていますが、水面に映った月を見つめるような優雅な姿は、鎌倉末期から南北朝の作といわれています。また、堂内に享保(1716〜36)以前の古絵馬も7点奉納されています。

 


雪 村 庵
 (せつそんあん)

                                           ▼ 郡山市西田町大田字雪村
                                           ▼ 磐越東線三春駅下車20分

 三春駅から線路沿いに西へ20分、山間に小高い竹林を背にした庵があります。ここが画聖周継(しゅうけい)雪村(1505〜1589?)ゆかりの雪村庵で、庵の前庭には七重のベニシダレザクラがあります。雪村は常陸大田の名族佐竹氏の長男として生まれましたが、父にうとまれ、みずから僧門にはいりました。絵をよくし、周文・雪舟に私淑しましたがとくに直接師とあおいだ人はいなかったようです。
 
 雪村は1542(天文十一)年、会津芦名の知遇を得て、そこで約20年間充実した筆をふるい、芦名氏滅亡後、1573(天正元)年70歳の時三春にきて、この里に住し、この地で没したとされています。しかし雪村の三春における生涯については詳しくわかっていません。彼の没後80年余りのちの1657(明暦三)年、三春高乾院高僧一元紹碩(いちげんしょうせき)が、三春藩主秋田盛季(もりすえ)に願い出て荒廃した庵を再建し、これを桜梅山(おうばいざん)観音寺(雪村庵)と称したといいます。庵内には紹碩筆の「雪村庵」と「桜梅山」の2面の扁額とともに、雪村庵由緒書も残されています。

 


デ コ 屋 敷

                                        ▼ 郡山市西田町高柴字舘野・福内
                                        ▼ 磐越東線三春駅下車40分

 雪村庵の北方約1kmの郡山市西田町高柴には、通称デコ屋敷(またはダルマ屋敷)と称される三春人形の里があります。ここは旧藩時代は三春藩領であった所で、数軒の農家が藩政時代から三春人形や三春駒(高柴木馬)・三春ダルマを制作してきました。三春人形の由来は不明ですが、元禄(1688〜1704)の頃からつくられ始めて、正徳・享保期(1711〜36)には盛んにつくられるようになったといわれます。三春人形は木型に和紙を丹念に張り付けられる張子人形で、その姿はダルマをはじめ天狗面・七福神・歌舞伎人形・十二支の動物など種類が多くあります。現在、人形の張り形に使われた木型の代表的なもの28点は、県指定有形民俗文化財となっています。

 ここから西方、阿武隈川の東岸・西田町鬼生田(おにうだ)の広渡寺(こうとじ)(曹洞宗)にある洞鐘(県文化)は、「永徳二(1382)年」銘のもので、県内でも喜多方市慶徳熊野神社の「貞和五(一三四九)年」についで2番目に古いものです。また、西田町丹伊田(にいだ)の県道(二本松〜三春線)の沿道に鎮座する鹿島大神宮境内には、ベクマタイト岩脈(国天然)があります。

 



三春城跡とその周辺

                                          ▼ 田村郡三春町城清水・南町他
                                          ▼ 磐越東線三春駅下車30分

 「東北の小鎌倉」として知られる三春町は、藩政時代三春秋田5万石の城下町です。三春城(別名舞鶴城)は市街地の東方、大志多(おおしだ)山に築かれたもので、現在は城山公園となっています。この城は戦国期三春田村氏の居城として永正年間(1504〜20)に田村義顕(よしあき)によって築かれ、その後、隆顕(夫人は伊達稙宗の娘)・清顕(娘の愛姫は伊達政宗夫人)と続く、田村氏三代が近隣に覇を唱えた所です。田村氏は伊達氏と連携して常陸佐竹・会津芦名・須賀川二階堂に対抗しますが、清顕没後は政宗の配下となり、1590(天正一八)年秀吉の奥州仕置のさい改易となり、四代目の宗顕・家臣の多くは政宗に従い仙台に移りました。なお、田村義顕以下三代の墓は、田村氏の菩提寺であった御免町の福聚寺(臨済宗)にあります。
 
 三春はその後会津領支配(蒲生氏郷・上杉景勝・蒲生秀行・同忠郷・加藤嘉明)となりましたが、1628(寛永五)年、松下長綱が二本松から三春移封となり、17年間居城して三万石を領しました(三春松下藩)。しかし、長綱死後改易となり一時幕領となります。こののち1645(正保二)年、秋田俊季(としすい)が常陸宍戸から三春に入部し、三春秋田藩が成立します。

  秋田氏は、北奥羽の名門安東氏の末裔です。初代俊季が拝領した石高は田村郡内の内5万5000石で、2代盛季(もりすい)の時5000石を分知し、三春藩5万石として幕末まで存続します。なお、、新町の州伝寺(曹洞宗)は松下氏の菩提寺であった所で、ここに長綱の父重綱の墓があります。また、城山の南西麓にある三春小学校は、かって藩主の御殿跡であった所です。校門は旧藩校明徳堂の正門を移築したもので、正面には「明徳堂」(7代倩季(よしすい)筆)と描いた扁額があります。この付近が大手門となります。現在、この周辺には町役場・公民館・郵便局など公共施設が多くありますが、旧藩時代も御会所・永倉・代官所など藩庁関係の建物があった所です。

 城山の南麓(字山中地内)にある田村大元神社(通称、明王様)は、1504(永正元)年、田村義顕が守山から分霊したもので、神鏡に「永仁三(1295)年」銘の松喰鶴鏡があります。また、ここは秋田藩時代も領内総鎮守および祈願所として尊崇を集めましたが、本殿・拝殿は明治初期に壊され、現在ある本殿は1899(明治三二)年に再建されたものです。山門は1867(慶応三)年の建立で、それを飾る彫刻類は領内石森出身の彫刻師伊東光運の作です。
 城山西麓、北町亀井の光岩寺(浄土宗)は、松下氏夫人の加藤氏の菩提寺であった所で、ここに木造阿弥陀如来立像があります。この像は高さ70cm余りで、頭部から両手にかけて破損もみられますが、顔や衣文がよく整い、鎌倉中期の美しい彫刻で、胎内銘により1280(弘安三)年に肥後国でつくられ、常陸弘経寺を経て三春光岩寺に移されたことがわかります。

  大町の紫雲寺(浄土宗)には、福島自由民権の指導者河野広中の墓があります。また、新町の真照寺(真言宗)は藩主の祈願寺でした。本堂わきに四天王を納めた古四王堂があり、本堂裏手には低地では珍しいミズバショウ小群落があります。
  このほか、三春町内では古い武家屋敷・商家の蔵屋敷・職人横町など、歴史散歩にふさわしい風物が至る所で散見できます。また、三春町歴史民俗資料室を訪ねるのも三春の歴史散歩には欠かせないものです。

 



龍穏院と高乾院

                                             ▼ 田村郡三春町荒町
                                             ▼ 磐越東線三春町下車30分

 三春藩主秋田氏は、北奥羽の安倍氏(後に安東と称する)の末裔で、関ヶ原の戦い後の1602(慶長七)年に秋田から常陸宍戸(五万石)に転封になり、このとき秋田姓にあらためました。1645(正保二)年に三春移封となり、このとき宍戸から移築されたのが、龍穏院と高乾院です。いずれも藩主秋田家の菩提寺で、三春城の西方、荒町地内にあります。

 龍穏院(曹洞宗)は、初代藩主秋田俊季(としすえ)の祖父愛季(ちかすえ)(1539〜89)の法名で、藩政時代は寺領50石を拝領していました。寺は三春城に対して出城の役割を果たしていたといわれ、本堂は1839(天保十)年の再建ですが、槍を立てて出入りできる高い向拝、銃眼用を兼ねた花頭窓など、出城建築の豪壮なつくりとなっています。
 寺内には佐久間派和算家による奉納算額、境内裏手に4代頼季(よりすえ)が1720(享保五)年に建立した、三春就封以前の一族の霊を祀った秋田家累代の尊霊塔などがあります。

 龍穏院の北隣にあるのが坂上田村麻呂に由来する馬頭観音堂(華生院)で、堂内には奉納絵馬が数多くあります。かって、当地方が有数の馬産地(三春駒の産地)であったことをしのばせています。なかでも馬奉行で駒絵で有名な徳田研山(初代)の絵が知られています。

 秋田山高乾院(臨済宗)は、龍穏院の南にあります。高乾院は初代藩主秋田俊季の実父、実季(さねすえ)の法名です。秋田家累代の菩提所で、寺の「高乾」の扁額は7代倩季(よしすえ)の筆です。しかし、高乾院は1870(明治三)年に取り壊されて以来、現在は仮堂で無住となり往時の姿はありません。わずかに残された手水鉢(ちょうずばち)と寺の礎石に、往時の豪壮な建物の様子をしのばせるだけです。寺の南高台には秋田家歴代藩主の墓と御霊屋(おたまや)があります。この南隣には、甘酒地蔵として親しまれている室町期の地蔵尊像のある宝蔵寺(ほうぞうじ)(時宗)があります。

 さらに、三春の市街地より南方、旧岩城街道を約4km行った大字滝字桜久保地内に滝桜(国天然)があります。ベニシダレザクラの巨木で、開花期(4月末頃)には四方にのびた太い枝から紅色の花をつけ、滝のようにみえるその姿は壮観です。また、三春町の北方、富沢字中山地区に中山家(国重文)があります。17世紀末の民家建築で、馬産地であった阿武隈山系の古い民家の特色を残したものです。

 



堂 山 王 子 神 社

                                ▼ 田村郡船引町門沢字堂前
                                ▼ 磐越東線船引駅バス堀越行門沢支所前下車15分

 船引町の南部、磐城街道沿いにある門沢支所前で降り、南へ町道を約1km行くと、門沢字堂山地内の山中に堂山王子神社(国重文)があります。元は堂山観世音といい、本尊は准胝(じんてい)観世音を祀っていましたが、1870(明治三)年に堂山王子神社と改称しています。1968(昭和四三)年に文化庁による解体修理が行われ、このとき「明応七)年」の巡礼札が発見され、室町中期の建造物であることがわかりました。桁行5間・梁間4間、寄棟造、四面地放し切目縁をもつ単層の重壮な建物で、内部は内陣・外陣にわかれています。堂内には奉納絵馬が多く、「寛文十(1670)年」の奉納絵馬は町内で最も古いものです。ここより東方にある双六山(そうろくさん)は、戦国期三春田村氏の臣、門沢六郎満定の居城で、1589(天正十七)年、岩城常隆の田村侵攻の際に落城しました。このとき田村軍の援兵として伊達政宗より派遣され討ち死にした茂庭定直(もにわさだなお)の墓が、堂山王子神社の西側にある飛龍寺(曹洞宗)にあります。

 また、JR船引駅から南へ徒歩で10分、市街地を流れる大滝根川の南岸に船引館跡があります。この館は、田村清顕没後の1588(天正十六)年に起こった田村家騒動後、清顕未亡人(相馬顕胤娘)が隠居したことで知られます。現在は館山公園として桜の名所となり、町民に親しまれています。さらに、大滝根川を挟んで北岸にある大鏑矢(おおかぶらや)神社には、社宝として鉄鉢があります。この鉄鉢は口径41.5cm・高さ16cm余の円形の深鉢で、胴部に「文明十九(1487)年」の銘があり、鉄鉢としては県内最古のものです。

 船引町の西方3km、移街道沿いの石森字戸屋地内にある庸軒塾(ようけんじゅく)は、幕末から明治期にかけて和算家佐久間庸軒の家塾のあった所です。庸軒は最上流佐久間和算の総帥で、その門人は2000人を数えました。ここは庸軒の生まれた生家で、和算書や書画が多数残され、和算研究の貴重な資料となっています。船引町内には奉納算額が多く残されていますが、庸軒塾の南方、文殊山山頂にある安倍文殊菩薩堂には、庸軒門人が奉納した県内最大の縦91cm・横540cmの奉納算額があります。
 
 また、船引町の北東、移しヶ岳南麓で常葉町に近い大字北鹿又(きたのかまた)字前田地内に前田遺跡(県史跡)があります。1967(昭和四二)年の発掘調査で環状列石が出土したことで有名です。現在遺跡は埋土になっていますが、環状列石の西端部から出土した敷石住居跡1基が保存されています。



あぶくま洞と入水洞

                                            ▼ 田村郡滝根町釜山・入水
                                            ▼ 磐越東線神俣駅下車「60分

 磐越東線菅谷駅の東方に、鍋を伏せたような台地とその一部をきりとった白い岩肌がみえます。これが仙台平(せんだいひら)を中心とした石灰岩台地です。この石灰岩は阿武隈山地が造山される過程で浅海にあったとき動物などの骨格がつもり、そこに中生代末のアルプス造山時に花崗岩が貫入し、熱作用を受けて変質して結晶した石灰岩です。石灰岩は水に溶けやすく、その割れ目に浸透した水は岩を溶かし、やがて大きな洞穴を形成します。こうしてできたのが仙台平を中心として石灰岩台地に発見されたあぶくま鍾乳洞と入水鍾乳洞です。

 二つの洞の母胎をなす石灰岩台地の三つの山は、阿武隈山地の最高峰大滝根山(1193m)の西麓にあり、洞入口から台地の頂上までは車で行くことができます。三つの中の仙台平は眺望もよく台地は牧草地になっています。そのところどころに地表面の水をあつめて鍾乳洞へおくるじょうごのようなかたちをしたドリーネとよぶ凹地があり、カヤや自然林が生えています。仙台平の東斜面、大滝根川の支谷にかかる鬼穴(達谷窟)といわれる洞穴も一種のドリーネです。この洞穴は大多鬼丸伝説があり、大多鬼丸は、坂上田村麻呂東征の折りに、ここを根拠として勇猛果敢に戦い最後をとげたという伝説が残されています。

 神俣駅から北へ5km、阿武隈山系の最高峰、大滝根山の麓にあるあぶくま鍾乳洞につきます。大滝根山の山麓は石灰岩の台地で、あぶくま洞は、この一角で大正の初めから採掘されてきた釜山石灰石場跡地で1969(昭和四四)年に新しく発見された鍾乳洞です。探勝可能な長さは約600mですが、内部は3層になっており、その規模は大きく、見るものをしばしば幻想の世界へ導いてくれます。あぶくま洞は、今や阿武隈高原の観光のメッカとして県内外の観光客を集めています。

 あぶくま洞から西へ約3.7kmの所に入水鍾乳洞(国天然)があります。入水鍾乳洞は1927(昭和二)年に地元の鈴木菊意・蒲生明らの努力によって発見されました。発見者達はセメント会社による洞周辺の土地買収に反対し、全村民の嘲笑のなかで天与の自然を守るため猛烈な運動を起こし、その功あって昭和9年に国の史跡・天然記念物に指定されました。洞内は第一洞・第二洞あわせて900m、暗くて狭く、このなかをカルスト川が流れ、6mの滝をつくっています。洞内に入るには案内人がつき、ローソクをもっての探勝となりますが、本格的洞窟探検を味わうことができます。



東 堂 山 満 福 寺

                              ▼ 田村郡小野町小戸神字日向
                              ▼ 磐越東線小野新町駅バス東堂山行大名内下車20分

 バスを降りると前面に小高い山が見えます。この小戸神集落の標高668mの山頂にあるのが東堂山満福寺(浄土宗)です。昔は急な山道を上りましが、現在は自動車道が開かれ、山際まで容易に行くことができます。この堂は、807(大同二)年の徳一大師開基伝説をもつ古刹です。 また、馬産の神としても信仰を集め、馬産が盛んであった第二次世界大戦前までは、東堂山の祭りとして多くの参詣人でにぎわった所です。堂内には、幕末期に活躍した須賀川出身の銅版画家亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)の奉納絵馬「油彩洋人曳馬図」(県文化)があります。さらに、同町大字赤沼字寺前地区の無量寺(浄土宗)には、いわき市内内郷にある白水阿弥陀堂と同時期の優美な藤原仏の流れをくむ、木造阿弥陀如来像坐像、勢至両脇侍像(いずれも県文化)があります。また、同町内の夏井駅前にある諏訪神社参道には翁杉・媼杉(国天然)とよばれる巨木があります。これより北方、同町湯沢字舘の越地内の地蔵堂には、木造地蔵菩薩半跏(はんか)(県文化)があります。



三春町と正道館

 三春正道館は、明治初期の福島県における唯一の政治教育の学塾でした。創立は1881(明治一四)年6月頃とされ、場所は旧藩校明徳堂の跡地を利用したものです。これは近代的な政治教育を目的とする青年の教育機関で、その維持費は設立を含めすべて公費があてられていたことに大きな特色をもっています。このことは当時の三春町が戸長松本茂をはじめ、議員・学務員・など町の指導者層が「自由民権派の人々によって占められていたという特別な事情を抜きには考えられません。

 これより先、三春では1878(明治十一)年1月、政治結社「三師社」が結成されています(県下で2番目)。これは福島自由民権運動の指導者河野広中(三春出身)らによって組織されたもので、三春戸長野口勝一ほか田母野秀顕・松本茂・佐久間捨蔵・安積儀平ら創立当時の社員は79名と記録されています。三師社も各地の政治結社と連携をもち、河野は1880年4月の愛国社大会に参加し、これが「国会期成同盟会」の捧呈委員に推され、全国的指導者としての立場を築いていきます。

 正道館はこのような事情を背景に生まれたもので、先進地の土佐から講師を招いて青年の政治教育に力を注ぎ、政治・法律・経済・歴史のほか、討論・弁論術を教えています。しかし、三島通庸(みちつね)の福島県令着任とともに、その自由党抑圧策により1882年7月頃には閉館を余儀なくされます。しかし、ここで育った青年達は「田村の壮士」として各地で活躍しました。また、同年12月に起こされた福島事件に連座して、最終的に東京の高等法院に送られた57名(内県人47名)のうち、過半数の25名が田村郡人であり、田村人の果たした役割がいかに大きかったかを物語っています。さらに、1884年の加波山事件では、琴田岩松・山口守太郎・河野広躰(ひろおみ)・五十川元吉・天野一太郎ら正道館を巣立った血気の青年達の姿を見ることができます。 

 
 


5、安積野から安達郡南部へ

 中通り中央部・阿武隈川縦谷中流域に広がる郡山盆地を中心に、西は奥羽山脈、東は阿武隈山地に囲まれた地域を安積平野と称し、広義には北縁の本宮盆地を含みます。低地の開発は古く、弥生の遺跡、古墳を多く残しています。律令時代に安積郡が設置され、軍衙(ぐんが)は郡山にありました。906(延喜六)年、北部を安達郡として分離、平安後期、阿武隈川以東を田村郡として分離しました。鎌倉期安積郡の大半は安積伊東氏に給与され、室町末期には有力大名の勢力争いの場となります。1643(寛永二十)年以後は大部分は二本松藩領となり、幕末まで続きます。明治以降、特に安積疎水開削により台地面の開発が進み、商工業も急速に発展しました。



篠川御所跡

                                       ▼ 郡山市安積町笹川字高瀬
                                       ▼ 東北本線安積永盛駅下車10分

 安積永盛駅から南方約500mの笹川公民館付近一帯は、1399(応永六)年、鎌倉公方足利氏満(うじみつ)の子満直(みつなお)が派遣されて城を構えた篠川(笹川)御所跡で、昔は阿武隈川西岸段丘上に南北に18町・東西3町の規模を誇ったといわれます。字高瀬にある高瀬稲荷神社はその一部で、往時の御所の堀跡と「文保元(1317)年」銘の板碑を残し、その西方台地にある御所明神天性寺(てんしょうじ)(臨済宗)も御所ゆかりのものです。御所跡の大半は市街地になっていますが、これは江戸時代の街道(奥州街道=仙台・松前道)沿いの笹川宿から発展したもので、安積永盛駅のすぐ西手に鎌倉から南北朝時代の笹川高石坊板碑群が集められています。

 ここから西へ約1.5km旧街道を北上した道端に、1845(弘化二)年建立の岩城道への道標があり、この南東(直線約1km)の阿武隈川対岸の古川第4池のほとりが、芭蕉も利用した金屋の渡し跡です。ちなみに古川第1〜第4池は、江戸時代の阿武隈川蛇行の河跡湖です。



宿 場 町 郡 山

                                            ▼ 郡山市駅前・大町・中町・本町
                                            ▼ 東北本線郡山駅下車

 郡山駅から西へ約5分歩くと大町交差点で、ここから南北にのびる繁華街が江戸時代の郡山宿でした。文政年間(1818〜30)の人口約3000人旅籠屋40軒以上、1867(慶応三)年には5000人を超えました。宿場は旧国道に沿い、中町10番地を境に、南を上町、北を下町と称しました。本陣今泉家の敷地は和久屋旅館を含む一角にあり、二本松藩の安積三組(郡山組・片平組・大槻組)の代官所跡(通称陣屋)は現第2うすえデパートの東裏手にありました。代官所跡は明治以降、郡山初の小学校・戸長・郡役所などに利用され、十数年前まではケヤキの巨木数本と碑が往時の面影をとどめていましたが、今はなく、有料駐車場の片隅に小さな稲荷の社を残すのみです。旧国道沿いにはビルが並んでいますが、一歩裏通りにはいると、古い土蔵や門扉、中世の板碑など古い歴史が発見できます。

 中町から旧国道を南下すると、道路のS字形の曲がりにきがつきます。慶長期(17世紀初期)から天和期(1681〜84)までの木戸跡(枡形)です。その後宿駅の発展にともない、木戸は本町2丁目と3丁目の間に移り、1825(文政八)年にはさらに南の本町郵便局付近に第3の木戸が設けられました。ここから東へわかれる旧阿弥陀道脇の熊野神社(旧字兵庫田)境内にあった鎌倉期の石像浮彫阿弥陀三尊塔婆は、いまは同社の管理する本町2丁目の松本氏宅地内にあります。第3の木戸跡から南へJR東北本線の踏切を越えると旧小田原村(1924年郡山市に合併)で、円寿寺(えんじゅじ)(浄土真宗)は、近くの七ッ池遺跡出土の唐二彩水瓶(国重文)や安積町・渕ノ上古墳出土の金銅製頭椎(かぶつち)の太刀(郡山市歴史資料館に展示)を蔵します。

 中町交差点から旧国道を北へ400m行くと、江戸初期の北の木戸跡(枡形)があり、この付近から旧会津街道が分かれ、「右奥州街道 左会津街道」の道標(1914<大正三>年建立)と1825(文政八)年の「従是三春道」の道標(昔はもっと北にあった)が移建されています。ここから約200m北へ幕末の第2の木戸跡があり、近くの阿邪詞根(あさかね)神社は「治歴三(1067)年」銘の石造法華曼陀羅供養塔(県文化)などを保存しています。

 さらに北へ逢瀬川を渡って約500m行った西側にある日吉神社は室町時代の館跡であり、1588(天正一六)年の伊達・田村対佐竹・芦名・岩城・石川・結城・二階堂各氏連合軍のいわゆる郡山合戦(久保田合戦)の際、伊達方の前線基地となった所で、伊東肥前重信(このとき戦死)の墓や、「正安三(1301)年」銘を含む石造供養塔群(県文化)が集めてあります。北隣の阿弥陀寺(真言宗)にも、「永仁四(1296)年」銘を含む板碑群があります。

 ここから約1km北上すると、福原(ふくわら)宿に入ります。街道東わきに一里坦跡の碑があります。その西側の豊景(とよかげ)神社は、慶長以前の古街道沿い現字古戸にあったものが、徳川家康の街道整備政策に基づく新街道(仙台ー松前道)造成により現在地に移建されました。その北隣の本栖寺(ほんせいじ)(曹洞宗)にも中世の板碑が集められ、また、幕末明治期の画家A沢耕山(えびさわこうざん)の墓もあります。



如法寺とその周辺

                                                ▼ 郡山市堂前4
                                                ▼ 東北本線郡山駅下車4分

 郡山駅前通りを西進し、国道4号線を左折し、さらに郡山消防署の角を右折すると如法寺があります。本山は長谷寺、山号高嶽山無料院、同寺「縁起」は807(大同二)年、虎丸長者が平城天皇下賜の馬頭観音像を祀ったのを開基としますが、江戸末期の「相生集」は1219(建保七)年建立と記しています。建造物の多くは戊辰の戦火で焼失し、1821(文政四)年建立の山門を残すのみです。
 国宝殿に「承元二(1208)年」銘の曼陀羅石造供養塔(国重文、通称笠塔婆)と「建治二(1276)年」銘の板石塔婆(国重文)があり、その右隣に保存されているかくれキリシタン墓碑3基(1694(元禄七)年)は、旧川崎屋(宗形家)の祖先のもので、梵字(ぼんじ)や戒名を刻みながら上部に十字章をはっきり残しています。
 通称「いほなし鐘」は1751(寛延四)年、佐野の治工丸山氏の鋳造で昭和期まで「如法寺の晩鐘」で親しまれました。

 大本堂内には鎌倉期作と伝えられる聖観音像や1927(昭和二)年から帝展審査委員となった郡山市出身の彫刻家三木宗策の力作、弘法大師一代記(12枚続きの透彫)などがあります。本堂西側の馬頭観音堂の正月7日の縁日は、江戸時代から七日堂参りとして親しまれ、今もダルマやマサルなどの縁起物を売る露店で一昼夜にぎわいます。

 如法寺の南東一帯は旧字蔵場といい、二本松藩安積代官所の蔵があった所です。同地内の金透小学校は、1871(明治四)年創立で、校庭隅にある金透記念館は、1876年建造の校舎を、当時の建材の一部を使用して1974(昭和50)年に復元したもので、文明開化の頃の洋風建築の姿をみせてくれます。

 その北側の清水1丁目には、平安末期作と伝えられる阿弥陀如来像や文政期の俳人で旅籠佐渡屋主人の佐々木露秀(ろしゅう)の墓などを有する善導寺(浄土宗)や1683(天和三)年に旧字幣導内(赤木町)から遍宮された安積国造神社(あさかくにつこじんじゃ)があります。同神社境内北隅に安積艮斎(ごんさい)像が立っています。艮斎は幼名安藤重信、二本松藩校敬学館教授を経て、1850(寛永三)年、幕府の昌平釁(しょうへいこう)儒学教授となりますが、同神社の蔵する「艮斎門人帳」には、高杉晋作など幕末・維新期の著名人の名が多く記されています。同神社東側を通るサクラ通りの両側は、江戸時代から古瓦・焦米(こげまい)などを出土し、清水台廃寺遺跡と称されましたが、1976(昭和五一)年以降の発掘調査により、その一部は律令時代の安積郡衙跡との説が有力になりました。

 如法寺前バス停から約200m西方の麓山公園には、律令時代の瓦窯跡や化政期(1804〜29)の遊女の句碑、満州事変後の兵士の防寒服と食料に供されたウサギの供養碑などがあります。また、ここから約200m南の荒池東端には、須賀川出身で、安積疎水開削にその一生と財産をかけて奔走した小林久敬(きゅうけい)の句碑があります。



開 成 館 周 辺

                              ▼ 郡山市開成3丁目
                              ▼ 東北本線郡山駅バス安積高校行開成館前下車3分

 バス停から約200m西に開成館(県文化)があります。1874(明治七)年に大槻原開拓の開拓事務所兼句会所として建てられた木造3階建ての擬洋風建築で、現在は郡山市民俗資料館となています。大槻原(現在の開成・桑野・菜根・鶴見坦・台新など)の開墾は、1872年、福島県典事中条政恒(まさつね)の勧めで郡山町の富豪25人が設立した開成社によってなされた事業で、後の安積疎水事業とは別のものです。1875年までに県内の小作人700人と、一部二本松藩士族の入植により、田畑216町・宅地25町が開かれ、安積郡桑野村が誕生しました(1925年郡山市に合併)。しかし、入植者の生活は苦しく、大正期には中条(宮本)百合子が処女作「貧しき人々の群」で描くような貧村となります。
 
 開成館北隣の開成山大神宮は、開拓民の心のよりどころとして1876(明治九)年創建、境内には開成社初代社長阿部茂兵衛銅像や安積疎水の起工および通水記念碑(1882年)があります。近くの開成郵便局東裏に中条政恒晩年の邸跡、開成山公園内には旧桑野村開拓の灌漑用地であった五十鈴湖や安積開拓ゆかりの作家久米正雄・宮本百合子の文学碑などがあります。

 開成館の南西400mの所にある県立安積高等学校旧本館(国重文)は、県内初の福島尋常中学校の独立校舎として、1889(明治22)年、安積開拓ゆかりの桑野村に建築された明治洋風建築の典型で、今は明治・大正・昭和の教育資料を展示しています。

 開成館バス停から国道49号を南東に約1.5km行くと、1630(寛永七)年会津藩主加藤嘉明支配時代造成の五百渕(ごひゃくぶち)があり、その南西の森は野鳥の天国で、日本野鳥の会創始者で詩人の中西悟堂の句碑が立っています。さらに、この南西約500mにある久留米天満宮は、安積開拓に入植した九州久留米藩士たちが、一八八二(明治一五)年に故郷の水天宮の霊を勧請して建立したものです。



日 和 田 宿

                                            ▼ 郡山市日和田町日和田
                                            ▼ 東北本線日和田駅下車10分

 日和田宿は旧奥州街道(仙台ー松前道)沿いの南北約500mの坂の町で、享保期(1716〜36)の戸数169戸です。町名主は佐藤・小野口両家で、小野口家の南東角から東へ8丁目で道が分かれ、約3kmさきに阿武隈川の名勝小和滝があります。日和田は鋳物師の町としても知られ、幕末の二本松藩御用鋳物師佐藤久八郎の生家からかねやは今も残っています。町並みの北のはずれに西方寺(天台宗)があります。永正年間(1504〜21)の開基と伝え、もとは約1km西方にありましたが、享保期に現在地に移りました。室町期の木造大日如来像(県文化)を蔵しています。南隣の蛇骨地蔵堂は1876(明治九)年に廃された東勝寺(天台宗)の祈願堂で、養老年間(717〜724)に始まる長い佐世姫伝説を伝え、境内には江戸時代の凶作供養塔や三十三観音堂、イチョウの古木(県天然)などがあります。近くの日和田公民館には、二本松藩内から米沢・会津・仙台・水戸まで巡業した、寛文年間(1661〜73)に始まる人形浄瑠璃の高倉人形が保存されています。

 日和田駅の北西200mの台地に戦国時代の日和田館跡、さらにその北西台地に城主安積佐衛門一族の墓と伝える五輪塔2基があります。また、藤田川南方、国道4号線の西方約150mにある古館跡は、一辺70mの方形で、今も半分ほど堀跡をとどめています。

 西方寺前から約800m旧奥州街道を北上した所にある安積山公園は、古代から歌枕に使われた浅香山・安積沼・はなかつみ・山ノ井の清水にちなむ所とされ、芭蕉の句碑も1964(昭和39)年に建てられました。公園から約200m北にある姉ヶ茶屋集落は旧街道の茶屋として明治中期までにぎわいました。この付近は奥州街道の松並木の最も多く残す地域です。

 姉ヶ茶屋からさらに2km余り北上すると高倉宿に入ります。街の南東にそびえる高倉山は、室町時代から畠山氏の居城で、1590(天正一八)年、5代氏詮(うじあき)のとき伊達政宗によって開城されました。高倉山麓の山清寺(さんせいじ)(真言宗)には初代高倉城主畠山政泰の墓、石造浮彫阿弥陀二尊供養塔や日和田鋳物師最後の作といわれるつり鐘があります。



本 宮 宿

                                      ▼ 安達郡本宮町上町・中条・大町
                                      ▼ 東北本線本宮駅下車3分

 本宮宿に南から入る近世の通称奥州街道(仙台ー松前道、県道須賀川ー二本松)は、太郎丸にある今の観音堂の東裏を通り、上の木戸(南桝形)は1824(文政七)年に上町の薬師堂前に設けられましたが、今は面影もありません。木戸跡近くの路傍(旧会津街道から岩井の清水への分岐点)に残る「正安三(1301)年」銘の太郎丸供養塔、国学者小沼幸彦歌碑や近くの観音堂境内にある「正和四(1315)年」銘の石造供養塔婆が古道の名残をとどめています。なお、かってこの付近にあり、現在は南裡(みなみうち)の町立歴史民俗資料館の玄関わき移建されている普度(ふど)供養塔(1843<天保一四>年)は、北から見て「左江戸・右あい津」と刻まれています。

 本宮村(文政七年から「町」)の家数は1629(寛永六)年で北町112・南町99・在郷32の計243戸、享保期(1716〜36)で北町155・南町162・その他81の計398戸。北町と南町との境は阿武隈川の支流安達太良川で、南町の本陣・検断・問屋は1645(正保二)年以降ほぼ原瀬家が勤め、北町本陣・検断・問屋は1648(慶安元)年から国分家、1706(宝永三)年から鴫原家、1844(弘化元)年から検断役のみ伊藤家が継ぎました。本陣鴫原家跡は本宮小学校入口北側で、今は庭内に明治天皇行在(あんざい)所址碑を残すのみです。

 鴫原家跡の北の菅森山にある安達太郎神社は、安達太良山の三所明神の里宮として1146(久安二)年に中腹に遷座され、本宮の地名の由来とされます。1806(文化三)年、火災で焼けた後、頂上の現在地(戦国期の菅森舘跡)に移されました。同社の西側台地(大黒山)には戦国期の鹿子舘跡(畠山氏一族鹿子田氏居城)、神社上り口付近に旧二本松藩の糠沢組代官所跡、やや北寄りに本宮組代官所跡があります。宿場の下の木戸跡(北枡形)は、旧国道を西に折れ、石雲寺(せきうんじ)(曹洞宗)入口付近の所に痕跡を残しています。

 町立歴史民俗資料館には、1982(昭和五七)年から発掘が始まった南ノ内の天王壇古墳出土の諸種の埴輪(県文化)をはじめ、多くの考古資料、旧南町本陣原瀬家などの文書や器物その他の民俗資料が所蔵されています。



j人 取 橋 古 戦 場

                                          ▼ 安達郡本宮町青田字戸ノ内
                                          ▼ 東北本線本宮駅下車25分

 本宮駅の西側を通る国道4号線を約2km南に進むと、道路西わきの田圃の中に、仙道人取古戦場の標識が立っています。1585(天正一三)年に伊達政宗が常陸の佐竹、会津の芦名をはじめ、相馬・二階堂などの諸氏連合軍約3万を7千の軍で迎え撃ち苦戦したところで、このとき戦死した伊達の老将鬼庭(茂庭)左月の墓が子孫によって建てられています。政宗の本陣は今の日輪寺(天台宗)のある古観音堂丘、重臣伊達成実(しげざね)の陣は人取橋の東方約700mの瀬戸川舘におかれました。古戦場の西と南にひろがる青田原の開墾は、二本松藩が文政年間(1818〜30)に五百川支流の水を引いて始めたといわれますが、本格的には1880(明治一三)年以降安積開拓事業の一環としての旧二本松藩士入植後に開かれました。

 本宮駅の西方約2.5kmにある蛇の鼻遊楽園は、古く源義家伝説を伝える名勝で、1899(明治三二)年以降本宮の地主伊藤弥一が一帯を蛇の鼻百果園として開発、その別荘蛇の鼻御殿は谷文晁(たにぶんちょう)の絵など貴重なコレクションを蔵します。池をめぐる園内はボタンをはじめ多くの花が季節を追って妍を競っています。



馬 場 桜

                                   ▼ 安達郡大玉村玉井字石橋
                                   ▼ 東北本線本宮駅バス岳温泉行寺久根下車3分

 バスを降りて2,3分南へ歩くと玉井神社があります。その南に虚空蔵堂があり、境内にシロヒカンザクラの巨木があります。樹高21m幹まわり7.4mで、付近は源義家の馬場だったという伝説から、馬場桜の名称がついたといいます。また、源義家がこの桜の木に馬をつないだということから、駒止桜とも称されます。樹齢1000年以上と推定されます。

 大玉村には、また、県民の森があります。岳温泉へ行く途中の安達太良山山麓に、県が明治100年の記念行事として、1968(昭和四三)年から五ヶ年計画でつくった林業振興と県民の保健休養を目的としたものです。



岩 角 寺

                                 ▼ 安達郡白沢村和田東屋
                                 ▼ 東北本線本宮駅バス二本松行岩角山下車3分

 本宮駅から東北東に8km、岩角山(標高337m、県名勝・県天然)に比叡山延暦寺の直末寺の和田山常光院岩角山(天台宗)があります。通称「岩角山(いわつのさん)とよばれ人々に親しまれています。全山が花崗岩の巨岩奇岩から成り、巨杉がうっそうと茂り、幽谷の地の感じがします。
 岩角寺は、851(仁寿元)年、天台宗第4祖自覚大師によって開山されたと伝えられています。山中の至る所に露出した岩石があり、それぞれの形に即した名がつけられています。また、岩肌には江戸時代に線刻された西国三十三所の観世音菩薩や四天王などの像808体が刻まれています。1995(昭和三十)年、木造毘沙門天立像とその脇侍の禅尼師童子立像・吉祥天立像の3体が県重要文化財に指定されました。

 山頂からの眺めはすばらしく、南は那須火山、西に安達太良山、北は吾妻の山脈が見渡せ絶景です。

 白沢村の南西端、糠沢字高松に、807(大同二)年徳一大師の開基と伝えられる常光明山高松院観音寺(天台宗)があります。同寺はその後荒廃しましたが、文禄年間(1592〜96)定覚(じょうかく)和尚が中興し現在に至っています。この周辺からは平安初期のものと考えられる唐草文字瓦と鐙(あぶみ)瓦が出土しています。これは福島市腰浜廃寺と郡山市清水台廃寺の双方から影響をうけたものとみられています。観音寺の境内には徳一大師の墓といわれる石造宝塔があります。また弘法大師の作と伝えられる薬師如来、唐画16菩薩なども残されています。



中地大仏(なかちだいぶつ)

                                    ▼ 郡山市湖南町中野堰内248
                                    ▼ 磐越西線上戸駅バス赤津行中野下車5分

 バスを降りて東へ5分歩くと、東光寺(真言宗)阿弥陀堂があります。境内には大ケヤキ(県天然)があり、また、通称中地大仏とよばれる木造阿弥陀如来坐像(県文化)があります。大仏は総高3.3mで鎌倉期の作といわれ、1568(永禄十一)年以降の修理で若干調和を失いつつも、なお、鎌倉仏の特徴を強く残しています。同地区、日の岡寺前の満福寺(曹洞宗)には、木造阿弥陀如来坐像(県文化)があります。この仏像は、鎌倉初期作で寄木造漆箔(しつぱく)仕上げとなっています。

 東へ6kmほどの所に、奥羽山脈を越え郡山市街に至る三森峠(標高808m)があります。1962(昭和三七)年、三森ラインが完成して便利になりました。そのトンネル工事の際、縄文前・中期の住居跡や遺物が発見され、調査の末、4形式の住居が復元され、三森古代の村として親しまれています。なお、戊辰戦争の会津藩兵の砲塁跡も近くにあります。同地区の南2kmの安左野(あさの)集落には会津万歳の流れをくむ安左野万歳(県民俗)が伝わっています。

 中野から北へ約2.5kmほどで猪苗代湖に至ります。湖岸には、東から舟津浜・屏風(びょうぶ)岩・鬼沼・青松ヶ浜(せいしょうがはま)・秋山浜などの名勝が連なり、好天の時には磐梯山・猫磨岳(ねこまだけ)・飯豊連峰(いいでれんぽう)が望まれます。秋山浜は、江戸時代からの良港で、会津藩の廻米運送のほか、諸物産の舟運で大正期まで栄えました。

 中野から南西約2kmに代の宿場があります。江戸時代には、湖南の赤津・福良(ふくら)・三代(みよ)の三つの宿場を経由して勢至堂峠から長沼へ至る道(通称茨城街道・国道294号)が参勤交代でさかんに利用されました。この街道は、1590(天正十八)年、豊臣秀吉が会津入りする際、幅6間の街道整備を命じてから発展していきました。秀吉は三代宿で一泊し会津にむかいましたが、この三代の宿場は、1598(慶長三)年上杉景勝が会津を領した頃から町づくりが始まりました。現在でも茅葺(かやぶき)の家々が道路沿いに残され、江戸時代の町並みをうかがい知ることができます。山王坂(さんおうざか)の上り口には、1667(寛文七)年築造の一里塚が残っています。

 山王坂を西へ2kmほど下ると福良に至ります。町並みの西端に千手院伏竜寺(せんじゅいんふくりゅうじ)(真言宗)があります。ここに千手観音像(県文化)が所蔵されており、鎌倉期の作で一木造となっています。白磁染付の福良焼は、文化年間(1804〜18)に始まり、天保年間(1830〜44)に完成され、昭和初期まで製造が盛んでした。

 福良から菅川(すげがわ)沿いに馬入新田(ばにゅうしんでん)を経て南に7kmほど行くと隠津島(おきつしま)神社があります。「延喜式」記載の安積三座の一つで、境内には巨岩の磐座(いわくら)・風穴(ふうけつ)があります。神域として扱われてきたため数百年間斧が入らず、昔のまま植生が保存され、うっそうとした原始林が隠津島神社社叢(しゃそう)(県天然)として保護されています。福良から約2kmで赤津に至ります。さらに常夏(とこなつ)川沿いに南に6km会津布引(ぬのびき)山(標高1081m)の中腹に赤津のカツラ(国天然)があります。

 

 



大 玉 古 墳 群 

 安達太良山南東斜面と本宮盆地の大部分を占めるのが大玉村です。村内には旧石器・縄文・弥生などの遺跡や古墳が、確認されただけで約120ヶ所あり、県内でも有数の遺跡密集地です。古墳はおもに5〜8世紀の中・後期のものが多くあります。墳型は二子塚(ふたごづか)・傾城壇(けいせいだん)の前方後円墳2基。二子塚古墳は全長51m、県内では9番目の規模をもっています。方墳は西ノ内に1基、円墳が約100基、横穴古墳も約10基あり、古墳群も含めて24ヶ所が記録されています。

 最近特に発掘調査で有名になったのは、天王壇古墳(てんのうだんこふん)です。付近はかって七ッ壇とよばれ、二子塚・傾城壇を含む古墳が集中しています。1982〜83(昭和57〜58)年にかけて発掘調査され、女性人物埴輪・眉庇付甲冑(まゆびさしつきかっちゅう)形埴輪・猪形埴輪・犬形埴輪などのほか円筒埴輪棺や土製馬などが出土しています(出土品一括県文化)。5世紀中・後半のものと考えられます。埴輪棺は埴輪祭祀()が盛んに行われた地域に見られるものであり、東北地方では最初の発見となりました。甲冑形埴輪は、その製作技法や分布などから、畿内政権と密接なつながりをもつ地域から出土しており、東北地方における古墳文化観をかえる発見といえます。
 馬場桜から北に5分歩いた所に、あだたらふるさとホールがあり、大玉古墳群の出土品が展示されています。

 

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