戊辰戦争と会津

 会津は歴史の遺産が多く、これまで多くの研究蓄積がありますが、その内容は戊辰戦争につきるといっても過言ではありません。それは会津が戊辰戦争に敗れて賊軍の汚名をうけたため、反証をあげて晴らそうということからきており、それは今でも続いている感があります。

 戊辰戦争は、1868(慶応四)年1月の鳥羽・伏見の戦いから1869(明治二)年5月の五稜郭の戦いまでの、新政府軍と旧幕府軍との戦いをいいます。会津藩は薩長を中心とする新政府軍と、1868年8月以降激戦を展開しましたが、9月22日には若松城を開き降伏しました。この戦争はのちに白虎隊や娘子軍などの悲劇とその主人公を生み出しました。降伏後まもなく若松に入ったイギリス人ウィリアムは、『英国公使館員の維新見聞録記』で「一般的な世評としては、会津公が起こさずもがなの残忍な戦争を惹起した上、敗北の際に切腹もしなかった為、尊敬を受けるべき資格はすべて喪失した」と、戦争責任者を明確に記しています。しかし、士族層の薩長に対する恨みはその後も根強く残り、会津が後進地域となったのは薩長閥による政策であるなどという思想まで生まれてきます。

 会津を歩くと、どんな町村にも戊辰戦争にかかわる史跡や話が残っています。会津藩は1868(慶長四)年の春から戦闘準備に入り、各地に御用金・食料・人足の徴発を命じました。凶作用に郷蔵に備えていた米なども兵糧として持ち出しています。戦いが藩境に近づくにつれ、攻めてくる官軍の食料・宿舎を断つため、会津軍は撤退に当たって街道沿いの宿場に次々に火を放って焦土としました。農民は生きるためには会津軍にも新政府軍にも協力しなければならず、すべてのものを失います。会津の早い冬を間近にひかえて、その苦しみは言語に絶するものでした。戊辰戦争における悲劇の主人公は農民や町民であり、武士に視点をおいた研究から、今やっと農民などに視点が注がれつつあります。

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