会 津 の 里

                        メイン画面に戻る    

 会津は福島県西部に位置し、冬は積雪が多いものの自然環境に恵まれ旧石器時代から生活が営まれていました(耶麻郡高郷村塩坪遺跡など)。
 「あいづ」という地名が最初にみえるのは『古事記』で、大和政権による支配実現の伝説ですが、崇神天皇により北陸に派遣された大彦(おおひこ)命と東海へ遣わされた建沼河別(たけぬかわわけ)命の父子が出会った場所が「相津(あいづ)」だというものです。会津大塚山古墳(会津若松市)の出土品は、4世紀後半にはすでに大和政権の勢力が会津に及んでいたことを示し、『万葉集』東歌(あづまうた)にみえる「会津嶺の国をさ遠み逢はなさば偲ひにせもと紐結ばさね」という歌も、会津の歴史の古さを物語っています。

 今日、福島県の奥羽山脈の西を会津と称していますが、いわゆる会津盆地とそれをとりかこむ山岳地域とにわけられ、歴史的にはこの両地域が異なった生活文化をうみつつ会津を形成してきました。盆地のすぐれた生産力は、古代にあっては恵日寺を頂点とする仏教文化の温床となり、中世においては芦名氏が山岳地域の諸豪族を圧倒し領国としての会津を形成しました。四方を山で囲まれ、峠をこえて流入した文化は、盆地ゆえに強い定着度をもっています。

 平安時代には恵日寺(慧日寺)(えにちじ)や勝常寺(しょうじょうじ)などに仏教文化が栄えました。とくに恵日寺は多くの衆徒(僧兵)を擁して強大な政治勢力を誇りましたが、源平争乱の際、平氏にくみして没落します。源頼朝の平泉征服後、会津も鎌倉武士団の支配下に入りましが、やがて三浦・佐原一族の芦名氏が、会津盆地の豊かな生産力を背景に他の領主・豪族達を圧倒し、戦国大名に成長しました。戦国末期には、伊達政宗が芦名氏を破って会津を占領しますが、豊臣秀吉が会津に乗り込んで奥羽仕置を行い、近世社会への転換が始まります。

 近世初期、会津の領主は蒲生・上杉・蒲生(再)・加藤と交替しますが、1643(寛永二十)年、会津松平家の始祖、保科正之(ほしなまさゆき)が入部すると、南会津の一帯は天領となり、「南山御蔵入(みなみやまおくらいり)」とよばれましたが、会津藩の預かり地となることが多く、また諸物資の交流をつうじ会津としての一体感は保たれました。

 明治維新の際、会津藩が新政府に反抗して戊辰戦争の戦場となり、若松県が1876(明治九)年福島県に合併されたこともあって会津の発展は妨げられました。しかし自由民権運動喜多方事件が示すように、圧政に対して果敢にたちむかう民衆の力は、会津の風土と歴史によってはぐくまれたもので、会津の里は古い伝統とともに進取の精神をもつ独特の地域性を形成しています。

1、磐梯山南麓と猪苗代湖

2、城下町会津若松市とその周辺

3、喜多方市とその周辺

4、勝常寺から坂下・柳津へ

5、只見川に沿って

6、焼きものの町本郷と会津高田

7、飯豊山南麓と阿賀川のほとり

8、大内宿から田島・檜枝岐へ




1、磐梯山南麓と猪苗代湖

 会津地方東部に位置する磐梯山南麓一帯は、古くから磐梯山信仰が盛んで、平安期から室町・戦国期にかけて恵日寺に仏教文化が栄えました。中世には三浦・佐原一族と称する猪苗代氏が会津と仙道(福島県中通り地方)を結ぶ当地方を支配し、戦国末期には磨上原(すりあげはら)で会津の戦国大名芦名義広と伊達政宗の決戦が行われました。北に磐梯山がそびえ、南には猪苗代湖があって風光明媚な景観をなしていますが、1888(明治二十一)年の磐梯山の大噴火によって、裏磐梯に檜原湖や五色沼などの湖畔群ができ、現在では屈指の観光地となっています。   



猪 苗 代 城 跡

                                          ▼ 耶麻郡猪苗代町字古城跡
                                          ▼ 磐越西線猪苗代駅下車20分

 i猪苗代駅に下車すると、町の中央西よりに小高い丘が見えます。これが猪苗代城跡で、別称亀ヶ城ともよばれています。鎌倉初期に芦名氏の一族猪苗代(佐原)経連(つねつら)が築いた山城で、その子孫が代々この城によって猪苗代氏を称したと伝えられます。戦国末期になると猪苗代氏は黒川(会津若松)の芦名氏に属しましたが、猪苗代盛国・盛胤(もりたね)父子が伊達政宗への内応をめぐって対立し、盛国は猪苗代城を乗っ取って伊達勢を引き入れました。1589(天正十七)年6月5日、伊達政宗は磨上原の戦いで芦名義広を破り、会津を手中に収めました。芦名氏滅亡後は若松城(鶴ヶ城)の支城として会津の東部をかため、本城鶴ヶ城に対して亀ヶ城とよばれるようになりました。江戸時代には、会津藩は猪苗代城代をおいて当地方を支配しました。
 1868(明治元)年の戊辰戦争のとき、猪苗代東方の母成峠を守る大鳥圭介ら旧幕臣・会津藩兵らが薩摩・長州・土佐の3藩を主力とする新政府軍に敗れたので、城代高橋権太夫(ごんだゆう)は城を焼き払って若松に退却しました。現在、城跡には石垣や本丸跡などが残り、城山公園として町民の憩いの場となっています。

 城跡の東方1kmの安穏寺(あんのんじ)(曹洞宗)には、「文永八(1271)年八月十一日」銘の銅造阿弥陀如来立像があります。この仏像は脇侍を欠きますが、善光寺式三尊で、会津の銅仏としては最古のものです。安念寺は江戸初期の会津藩主蒲生氏の家臣関十兵衛が、猪苗代城代のとき開いた浄土宗の寺院ですが、1609(慶長十四)年、十兵衛が去ったあと荒廃し、その後泉朔(せんさく)という僧が再興して曹洞宗となりました。

 猪苗代城跡の西方3.5km、磐越西線翁島駅の北にある磐梯山のすそ野は磨上原(すりあげはら)の古戦場で、その一角に三忠碑が立っています。1589(天正十七)年奥州の覇権をかけ、伊達政宗と芦名義広との戦いが磐梯山のすそ野磨上原ではげしくおこなわれ、伊達氏の勝利に終わりました。敗れた芦名義広はわずかな兵とともに常陸国佐竹氏のもとに逃れ、会津の戦国時代は終わりました。この戦いのとき、敗走する芦名勢のなかで最後までふみとどまって戦死した金上盛備(かなかみもりはる)・佐瀬種常(さぜたねつね)、その子常雄の3人の武勲を称え、1850(嘉永三)年、会津藩主松平容敬(かたもり)が建立したもので、碑文は儒者高津秦の撰で唐の顔真郷(がんしんけい)の書跡を集めて刻んだものと伝えられています。



土津(はにつ)神社と磐椅(いわはし)神社

                    ▼ 磐越西線猪苗代町土町
                    ▼ 耶麻郡猪苗代町見祢山他バス磐梯山登山口行土津神社前下車5分

 猪苗代町の市街地の北西端、秀峰磐梯山の登山口、見祢山をのぼりつめると正面に土津神社の社殿がみえます。この神社は会津藩(松平氏)の藩祖保科正之を祀っています。社殿は1675(延宝三)年に完成し、磐椅神社の末社となりました。当時は奥日光廟ともいわれ、荘厳華麗な社殿でしたが、明治元年の戊辰戦争で焼かれ、その後、1880(明治七)年に再建されました。正之は徳川3代将軍家光の異母弟で、幼少の4代将軍家綱を補佐し、文治政治への転換をはかりました。藩政では家訓十五ヶ条を制定して、幕府・主君への絶対忠誠を示しました。また、学問を好み朱子学を山崎闇斎(やまざきあんさい)、神道を吉川惟足(きっかわこれたる)に学んで、家中に学問を奨励しました。
 境内には山崎闇斎の撰による土津霊神碑があり、社宝には太刀銘一文字吉房(国重文)・太刀銘陸奥大掾三善長道(県文化)・狩野探幽など狩野派の絵師たちによる絹本著色土津神社霊神画像9幅(県文化)などがあります。なお、2代松平正経(まさつね)から9代容保(かたもり)までの歴代藩主の墓は会津若松市東山町の松平家の墓地にあります。

 土津神社の東方300mに延喜式内社の磐椅神社(祭神大山祗(おおやまつみ)命・埴山姫(はにやまひめ)命)があります。昔、磐梯山は「磐(いわ)の梯(はし)」(天にとどく岩の梯子)と考えられ、それを神として祀ったのです。『日本文徳天皇実録』によると855(斉衡二)年正月28日、「陸奥国石掎神」が従四位下を授けられており、平安初期までは会津を代表する神でしたが、やがて磐椅明神とよばれ、恵日寺の守護神のような存在となりました。927(延長五)年に完成した『延喜式』には「磐掎神社」の名のみがみえるものの、大沼郡の伊佐須美神社が名神大社となっており、会津における首位の座を譲っています。

 中世には猪苗代氏一族の信仰も厚く、寄進された社宝や社領もあり、社殿も壮麗であったといわれますが、1589(天正一七)年、磨上原の戦いののちは衰微し、江戸初期、会津藩主蒲生秀行の時に社領をすべて没収されて、神官らも離散しました。1659(万治二)年、会津藩祖保科正之が当社に参詣して社殿を復興し、2代正経は社領15石を寄進しました。1869(明治二)年、民政局の命により磐掎神社から磐椅神社と改め現在に至っています。 

 祭礼は江戸時代には8月25日から9月3日までで、流鏑馬(やぶさめ)の行事もありましたが、現在は春祭りの5月5日、例祭が10月10日となっています。境内の大鹿桜は「会津五大桜」の一つとなって居ます。
 磐椅神社の北東700m、美祢(みね)の集落にある美祢の大石(国天然)は1888(明治二十一)年、磐梯山の大噴火により運ばれてきたものです。



小平潟天満宮(こひらがたてんまんぐう)

                                       ▼ 耶麻郡猪苗代町中小松字西浜
                                       ▼ 磐越西線関都駅下車20分

 関都駅から猪苗代湖に向かっていくと、湖岸近くの松林の中に小平潟天満宮があります。このあたりは天神浜ともよばれ、長瀬川が猪苗代湖に流れ込んで遠浅になっているので、夏は湖水浴客でにぎわいます。小平潟天満宮は菅原道真を祀り、九州太宰府・京都北野とならび三大天満宮に数えられます。現在の社殿は1670(寛文七)年の造営で、総ケヤキ造り、桃山様式の彫刻が施されています。

 境内には戦国初期の連歌師猪苗代兼載(けんさい)の句碑があります。兼載は1452(享徳元)年小平潟に生まれ、黒川(会津若松)自在院で仏門に入りましたが、和歌・連歌の才に恵まれ、京都に上がって宗祇(そうぎ)らと交わり、北野連歌会所奉行・宗匠の職につき、宗祇を助けて『新撰菟玖波(つくば)集』を完成しました。永正の頃(1504〜21)会津に帰って武将や僧侶に連歌を指導しました。小平潟天満宮には紙本墨書猪苗代兼載書八代集秀逸一巻(県文化)が残されています。
 天神浜の北方1.5kmの白鳥浜とよばれる一帯は、猪苗代湖のハクチョウおよびその渡来地(国天然)として有名です。 



野口英世記念館と会津民俗館

                         ▼ 耶麻郡猪苗代町三っ和字前田81・33−1
                         ▼ 磐越西線猪苗代駅バス会津若松行野口英世記念館前下車

 磐梯山を望む猪苗代湖畔の三城潟に野口記念館があります。野口英世は本名を清作といい、1876(明治九)年、当地にうまれました。家は貧しく、三歳の時に左手に火傷を負いました。貧困と不具という境遇のなかで、母シカの愛情と、たぐいまれな努力により、21歳の若さで医師の資格を得、のち英世と改名しました。1900年、アメリカに渡り、毒蛇や梅毒を研究、さらに中南米に行って黄熱病の研究をしました。1927(昭和二)年黄熱病研究のためアフリカに渡り、翌年5月ガーナのアクラで黄熱病に感染し没しました。記念館は、1939年5月21日、英世の命日を期して開館され、陳列館には母シカの手紙や英世にゆかりの遺品があります。その隣には生家が保存され、かれが火傷を負った囲炉裏(いろり)や、少年清作が「志を得ざれば再び此地を踏まず」と上京の決意を刻んだ床柱が残っています。

 記念館に隣接して会津民俗館があり、会津各地から収集した民家と民具を展示しています。旧馬場家住宅(国重文)は、南会津郡伊南村小塩から、また、旧佐々木家住宅(県文化)は大沼郡金山町玉梨から移築したもので、会津山間部特有のうまや中門造の構造です。会津の仕事着コレクション(県民俗)は、会津の江戸時代から現代までの仕事着を網羅しています。会津地方の寝具コレクション(県民俗)は、明治から昭和までの寝具類ですが、箱床は土坐生活の名残を伝える珍しいものです。そのほか会津製蝋用具および蝋釜屋(国民俗)や会津固有の民具を多数みることができます。



天 鏡 閣

                               ▼ 耶麻郡猪苗代町翁沢字御殿山
                               ▼ 磐越西線猪苗代駅バス会津若松行長浜下車5分

 バス停長浜から坂道を上ると、猪苗代湖が一望できるところに天鏡閣(国重文)があります。1908(明治四一)年8月、有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王の発意により竣工し、その直後の皇太子(後の大正天皇)の来遊の折りに、李白の「明湖落天鏡」から命名されました。その後、高松宮家に継承され、1952(昭和27)年、福島県に下賜されました。県では1971年から会議などの使用を中止し、1982年に修復完成しました。

 本館は2階建て天然スレート葺きの八角塔屋付で、西側には玄関ポーチを構え、外観は変化に富んでいます。淡いグレーの外装が四季折々の湖水を背景に映る姿は、明治のロマンを偲ばせます。天鏡閣の名にふさわしく、7面の鏡と、大理石の26個のマントルピースがあります。各部屋はルネッサンス様式をこらして優雅であり、絨毯やシャンデリアなども豪華で、明治期の皇族の生活を知る手がかりとなります。



恵 日 寺(慧日寺)

                                  恵 日 寺   




2、城下町会津若松市とその周辺

 会津盆地の東縁に位置するこの地域は、東北地方でも最古に属する大塚山古墳や白鳳時代の山口瓦窯跡群があり、古くから文化が栄えました。中世になると門田莊黒川(会津若松)に本拠をおく芦名氏が他の領主たちを圧倒し、ほぼ会津全域を支配する戦国大名に成長しました。戦国末期に芦名氏を滅ぼした伊達氏はすぐに会津を去り、1590(天正一八)年、蒲生氏郷が入部すると黒川は若松と改め、その後、上杉・蒲生(再)・加藤・保科(松平と改姓)と領主は代わりましたが、城下町若松は常に会津の政治・経済・文化の中心として栄えました。

 1868(明治元)年の戊辰戦争の戦火で市街地のほとんどが焼かれましたが、翌1869年に若松県が設置され、若松は県庁所在地として復興が行われました。1876年、若松県は福島県に合併されましたが、1899年、若松は福島県としては最初に市制を施行して若松市となり、1955(昭和三十)年、周辺7ヶ村を合併して会津若松市が成立しました。伝統産業としては漆器・酒・ろうそくなどがあります。



若松城(鶴ヶ城)跡

                               ▼ 会津若松市追手町1−1
                               ▼ 磐越西線会津若松駅バス市内4コース鶴ヶ城下車

 若松城(国史跡)は、会津盆地の東縁、湯川によって形成された扇状地上に立地し、東に小田山があり、南を湯川が西流します。若松城は鶴ヶ城ともよばれ、本丸・北出丸・西出丸・二の丸などの石垣や塀が残り、名城の面影を偲ぶことができます。

 1384(至徳元)年、芦名直盛(なおもり)がこの地に城を築き鶴ヶ城と名づけたと伝えられますが、「塔寺八幡宮長帳」(国重文、会津坂下町心清水八幡宮社所蔵)の「宝徳三(1451)年七月一五日条」「長禄四(1460)年十月二十日条」などでは、芦名氏の居城を「小高木(おたかき)の館」、その城下を「黒川」と記しています。黒川という地名は湯川という河川の旧称に由来するともいわれますが、同書の「応永二十六(1419)年六月二十六日条」では芦名氏を「黒川」と称しており、芦名氏の居館もしだいに黒川城と称するようになったものと思われます。

 1590(天正十八)年、会津の領主となった蒲生氏郷は、1592(文禄元)年から2年がかりで城の大改修を行い、7層の天守閣を設けるなど、本格的な城郭を築きました。また城下町の町割りを行い、黒川の名を若松と改めました。鶴ヶ城と名づけられたのもこのときとする説もあります。その後、加藤氏が入り、1639(寛永十六)年、加藤明成は天守閣を5層に改め、西出丸・北出丸をつくって、城の追手を東側の三の丸から北出丸に移しました。しかしこの改修工事は財政的に大きな負担となり、また父嘉明(よしあき)の寵臣堀主水(もんど)が一族・家臣三百余名をつれて出奔するなどの事件があり、明成は会津40万石を返上しました。1643(寛永二十)年、徳川3代将軍の異母弟保科正之が会津23万石の藩主となりました。保科氏は1696(元禄九)年から松平姓名乗り、若松城は1868(明治元)年まで松平氏の居城となりました。1868年の戊辰戦争では5000人の老若男女が籠城し、薩摩・長州・土佐藩など全国の兵を相手に1ヶ月もちこたえましたが、小田山からの砲撃は熾烈(しれつ)をきわめ、米沢藩の勧めもあって9月22日ついに開城しました。
 
 1874(明治七)年、陸軍省の命令により天守閣を解体、1876には堀と石垣のみを残して楼閣を取り去りました。第二次世界大戦後、一時は本丸跡が競輪場にされたことががありましたが,1965(昭和四十)年、天守閣が再現され、内部は郷土博物館となっています。本丸跡の南東、月見櫓の下に詩人土井晩翠(ばんすい)の「荒城の月」の詩碑があります。

 若松城跡の西側を南北に通じる国道121号線と旧1丁目通りの交差点を西へ曲がると、道路の南側に山鹿素行(やまがそこう)誕生の地の碑があります。碑石は地元の自然石で、「山鹿素行誕生地 大正十五年春 元帥伯爵東郷平八郎書」と刻まれています。素行の父貞以(ていい)は、わけがあって蒲生秀行の重臣、町野幸仍(まちのゆきより)のもとに身を寄せました。素行は1622(元和八)年、町野左近の邸内で誕生、6歳の時父とともに江戸に出て朱子学や甲州流軍学などを学びましたが、やがて朱子学を批判し古学を唱え「聖教要録」お著した罪で、播州赤穂に流され、のちにゆるされて江戸にかえり1685(貞享二)年63歳で没しました。

 若松城の西側一帯は、会津藩藩校日新館のあった所です。今は敷地の北西に設けられた日新館天文台跡のみが残っています。日新館は1788(天明八)年、家老田中玄宰(はるなか)が藩主松平容頌(かたのぶ)に建言し、藩政改革の一環として設立されました。1799(寛政十一)年に造営を開始し、1805(文化二)年に落成しました。藩士の子弟10歳以上はすべて就学することとし、生徒数はおよそ千人に上りました。

 若松城の北方600mに若松城の甲賀町口郭門跡があります。蒲生氏郷が城下町を整備したとき城の周囲に外堀をめぐらし、それを境に城下を武士の住む郭内と町人が住む郭外に分けました。外堀の内側に16ヶ所の郭門がありましたが、現在のこるのはここだけです。かっては、甲賀町通りの東側にもありましたが、東側の石垣は1870(明治三)年に破却され、西側の石垣のみが残っています。

 若松城跡の北西1kmの諏訪神社は、1294(永仁二)年芦名氏が勧請したと伝えられ、室町・戦国期になると芦名氏勢力拡大にともない、会津の総鎮守的な地位につきました。近世に入ると、蒲生氏が100石の社領を寄進し、以後歴代の会津藩主もこれにならいました。しかし、1868(明治元)年、戊辰戦争の兵火にかかり、広大な敷地に造られた社殿は灰燼(かいじん)に帰して、今は昔の面影をとどめていません。鉄製注連(しめ)(県文化)があり、注連に下げられた小札に、「永仁二(1294)年」の銘が刻まれています。    



戊辰戦争と会津

                                   戊辰戦争と会津



福島県立博物館

                           ▼ 会津若松市城東町1−25
                           ▼ 磐越西線会津若松駅バス市内1コース県立病院前下車5分

 若松城三の丸跡に1986(昭和六十一)年福島県立博物館が開館しました。本県は関東・東北・北陸の接点にあり、中央と地方の文化の融合の役割を果たしてきました。この文化の継承をはかり、将来の進歩にも対応するため、資料の収集・展示にとどまらず調査・研究や教育普及の諸活動も行っています。展示は、原始から現代までの資料を総合展示・部門展示・収蔵資料展示・企画展示とするほか、移動展・巡回展なども行います。また、年に数回の特別企画展や講演会も催します。
 
 総合展示室は、本県の歴史と文化を、原始・古代・中世・近世・近現代・自然と人間の六室に分け、実物資料を中心に展示しています。その一部を紹介しますと、耶麻郡高郷村塩坪遺跡出土の旧石器、縄文時代の竪穴住居の復元や数多くの石器・土器などがあり、原始時代の生活を偲ぶことができます。

 古代では、坊製三角縁神獣鏡(ぼうせいさんかくぶちしんじゅうきょう)(国重文)など会津大塚山古墳出土品は、地元豪族と大和政権との結びつきを物語っています。西白河郡原山1号墳出土埴輪一括(県文化)のなかの「琴をひく人」などは、古墳時代に行われていた祭祀などを考える資料ともなり、金メッキされた馬具からは大陸伝来の技術を知ることができます。また、白河市借宿廃寺跡(かりやどはいじ)(県史跡)出土の軒丸瓦(のきまるがわら)などは、仏教文化の福島県への波及を示しております。古代の白河郡の群衙(ぐんが)跡と推定される西白河郡泉崎村関和久遺跡の礎石などをもとに復元された正倉(籾を収納した倉)の模型などから、律令制がこの陸奥国にまで及んでいたことがわかります。

 近代では、輸出産業として飛躍的に発展した本県の蚕糸業の様子を示す県北地方の片あづま養蚕農家の断面もようなどもあります。そのほか、子供の世界を中心にした民俗、県土の形成を解説した自然、利器や容器の変遷を軸にした考古、仏教美術を中心にした歴史美術などの常設展もあります。



小田山周辺の史跡

                               ▼ 会津若松市花見ヶ丘建福寺前・門田町黒岩
                               ▼ 磐越西線会津若松駅バス市内コース小田橋下車

 若松城跡の南東1.2kmにある丘陵が小田山です。1868(明治元)年、戊辰戦争のとき西軍はこの山に砲陣をしいて若松城を攻撃しました。山頂には会津藩家老田中玄宰(はるなか)の墓があります。玄宰は5代容頌(かたのぶ)・6代容住(かたおき)・7代容衆(かたひら)の三代21年間藩主を補佐し、藩政に参画しました。天明の大飢饉に見舞われた際には、藩政の危機を乗り切るため、松平容頌(かたのぶ)のもとで藩政改革を行って殖産興業に努め、また藩校日新館を創設しました。

 小田山の麓には芦名家廟所(びょうしょ)・宝積寺(ほうしゃくじ)・建福寺・恵倫寺(えりんじ)・善竜寺(ぜんりゅうじ)などがあります。

 小田山の北麓一帯は中世における会津の藩主芦名氏の墓地でしたが、今は16代盛氏(もりうじ)を中心に、西に17代盛興(もりおき)、東に18代盛隆(もりたか)の墓の3基が残っており、芦名家廟所(びょうしょ)とか花見ヶ森廟所とよばれています。

 小田山西麓の恵倫寺(曹洞宗)は、蒲生氏郷が父賢秀(かたひで)の菩提を弔うために開いた寺で、封内の僧録司(会津領内における曹洞宗の総本山)として大きな規模を誇りましたが、戊辰戦争の兵火で焼失しました。寺宝は木造蒲生賢秀坐像などで、境内には柴四郎(東海散士)・柴五郎(陸軍大将)など柴家累代の墓があります。

 建福寺(臨済宗)には、戊辰戦争で活躍した長岡藩家老河井継之助(かわいつぐのすけ)の埋骨遺跡があります。また肥前島原城主松倉勝家の弟重頼とその臣野添作兵衛の墓があります。

 善竜寺(曹洞宗)は、保科正之に従って信州高遠・山形・会津と移った寺で、山門は竜宮城をみるような美しい形をしています。この寺の裏山は窪山と称し、会津藩士の墓地でしたが、戊辰戦争時の家老西郷頼母(たのも)夫妻の墓などがあります。善竜寺境内の「奈与竹の碑」は自決した頼母の妻千重子の辞世「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節のありとこそきけ」にちなんで建てられました。



会津松平氏庭園

                                 ▼ 会津若松市花春町
                                 ▼ 磐越西線会津若松駅バス東山行御薬園前下車

 若松城跡の北東1.3kmにある会津松平氏庭園(国名勝)は、「御薬園」の名で親しまれています。室町時代の領主芦名盛久が、霊泉の湧き出たこの地を別荘としたことに始まるといわれます。1643(寛永二十)年、保科正之が会津藩主となってからこの地を保養所とし、2代正経(まさつね)が各種の薬草を栽培させてから「御薬園」の名が起こりました。1696(元禄九)年、3代正容(まさかた)のときから保科氏は松平姓を名乗りますが、この頃の正容は江戸から近江出身の目黒浄定(じょうてい)を招き、遠州流によって回遊・舟遊式の本格的な借景園としました。東に東山の峯を望み、北西に飯豊連峰を見るという雄大な風景を借景として取り入れ、庭園の中央に心字の池があり、島には数寄屋造りの寿楽亭が建っています。大名の庭園として優れた御薬園は、戊辰戦争で西軍負傷者の診療所にあてられたため、戦火は免れたものの、建物の数ヶ所に刀痕が残っています。

 御薬園の南300mの所にある宗英寺(そうえいじ)(曹洞宗)は、芦名家の御影堂として9代盛政のとき建立されたと伝え、厨子入木造芦名盛氏坐像(国重文)があります。



会津松平家墓所

                                ▼ 会津若松市東山町大字石山字墓山甲
                                ▼ 磐越西線会津若松駅バス東山行院内下車10分

 東山温泉入口近くの院内集落に「会津松平家塋(えい)域入口」の石柱があり、山手に向かって折れると松平家墓所(国史跡)で、「御廟」とか「院内廟所」ともよばれています。1657(明暦三)年、会津松平家の祖保科正之の長子正頼(まさより)の死去に際し、正之の命によって院内の山が松平家累代の墓所と定められました。2代正経から9代容保まで歴代藩主のほか、藩主の正室・側室・子女の墓が並んでおり、10代容大(かたはる)以下は奥の「松平家の墓」に納骨されています。

 東山温泉の北の山上に羽黒神社があります。もとは神仏習合で羽黒山東光寺と称し、今は羽黒山湯上神社とよばれています。ここにある銅造聖観音菩薩立像(県文化)は、アルカイック・スマイル(古代の微笑)を口元にたたえ、推古・白鳳仏の特徴がみられます。



飯 盛 山

             ▼ 会津若松市一簣町大字八幡字弁天下
                              ▼ 磐越西線会津若松駅バス飯盛山経由金堀行飯盛山下車

 市街地の北東にある飯盛山は別名弁天山といいます。山麓にある宗像神社は明治初年に厳島神社と改称、弁財天をまつるので地元ではこのやしろを弁天堂といいます。この神社の前を流れる戸の口堰の洞穴は人工的にひらいたもので、戊辰戦争のさいに戸の口原の戦いから引き揚げた白虎隊士は、この洞門をくぐり飯盛山にたどりつきました。

 飯盛山中腹の宇賀神社には、白虎隊19士の木造が安置されています。その近くの旧正宗寺三匝堂(しょうそうじさんそうどう)(県文化)は上り下りの通路を異にし、昇降を通じて建物内を3度回ることになることから三匝堂の名がありますが、その形から「栄螺(さざえ)堂」の名で親しまれています。1796(寛政八)年の建立で、堂内には西国札所三十三観音が祀られていますが、明治維新の廃仏毀釈で仏を廃しました。飯盛山の麓には白虎隊記念館があり、戊辰戦争に関する東西両軍の資料が陳列されています。

 飯盛山北西麓の旧滝沢村は白河街道への出口に位置し、旧滝沢本陣横山家住宅主屋・座敷(国重文)があります。ここに歴代の会津藩主が、参勤交代や猪苗代土津神社参詣の折り、休息や旅装を整えるための本陣として使用されました。戊辰戦争の際は会津藩の本営となり、藩主松平容保が白虎隊に戸の口原への出陣を命じた所です。座敷には当時の弾痕や刀傷が十数ヶ所も残っています。

                                飯 盛 山



融通寺と観音寺

                                               ▼ 会津若松市大町
                                               ▼ 磐越西線会津若松駅下車

 会津若松駅前の大通りは若松城下の北端にあたり、寺院が多い所です。融通寺(浄土宗)はもと融通寺町(現在の本町)にありましたが、文禄年間(1592〜96)に蒲生氏郷による城下町整備の際に現在地に移されました。蒲生秀行はこの寺を菩提寺と定めて、京都知恩院の末寺とし、1604(慶長九)年、後陽成天皇から扁額(へんがく)と宸翰(しんかん)の和歌を賜り、それより勅願寺(ちょくがんじ)となりました。木造扁額「融通寺」(県文化)はその勅額です。戊辰戦争のとき、この寺は西軍の本陣が設けられたため戦火を免れましたが、本堂の柱には刀の傷痕が残されています。戊辰戦争後、寺域の一部をさいて設けられた西軍墓地には、薩摩・長州・土佐・大垣など9藩150名が葬られています。

 融通寺の南側の観音寺(真言宗)には、絹本著色仏涅槃(ねはん)図・絹本著色如意輪(にょいりん)観音像・絹本著色愛染明王(あいぜんみょうおう)像(いずれも県文化)があります。この3点はいずれも磐梯町恵日寺旧蔵品で、明治初年、恵日寺が観音寺の管理下にあった頃移されたものです。この涅槃図には「応永十五(1408)年仲秋十月」の墨書があり、年紀の明らかな涅槃図は珍しいものです。



金 剛 寺 周 辺

                                                ▼ 会津若松市七日町
                                                ▼ 只見線七日町駅下車5分

 会津若松の市街地の西部に位置する七日町は、越後街道に沿って形成された町並みです。七日町通りの北側にある金剛寺(真言宗)には、「正応六(1293)年十月」銘の金銅双竜双鳥文磐(こんどうそうりゅうそうちょうもんけい)(国重文)、雪村(せつそん)筆紙本蕭相八景図屏風(しほんしょうしょうはっけいづびょうぶ)があります。雪村は天文(1532〜55)の頃会津に来住し、芦名盛氏(もりうじ)の庇護のもとに、芦名氏の居城黒川城(会津若松市)や岩崎城(大沼郡本郷町)の障壁画を描いたといわれますが、会津に現存する雪村の作品はこれだけです。

 七日町駅近くの七日町通り南側の阿弥陀寺(あみだじ)(浄土宗)には、戊辰戦争後に移築された若松城本丸の御三階(おさんかい)と戊辰戦争で戦死した会津藩士の墓地があります。また、阿弥陀寺の南方300mの長命寺(ちょうめいじ)(浄土宗)のあたりは、戊辰戦争のとき激戦が繰り広げられた所で、この寺には会津藩士など東軍の戦死者が葬られています。



蒲 生 氏 郷 の 墓

                                        ▼ 会津若松市栄町
                                        ▼ 磐越西線会津若松駅バス市内4コース

 会津若松市内最大の繁華街、神明通りの東側、興徳寺(こうとくじ)(臨済宗)の境内に蒲生氏郷の墓があります。墓は「空風火水地」の5文字を刻んだ五輪塔で、墓前には「限りあれば吹かねど花は散るものを 心短き春の山風」の辞世を刻んだ歌碑があります。氏郷は、1590(天正十八)年、豊臣秀吉によって会津に封ぜられ、若松城の大改修や城下町の整備などを行いましたが、1594(文禄三)年、京都で亡くなりました。

 興徳寺は1287(弘安十)年、芦名泰盛が建立したと伝えられる古刹で、1417(応永二十四)年、関東10刹に列せられました。1590(天正十八)年、天下統一をした豊臣秀吉は会津に下向し、興徳寺において「奥州仕置」とよばれる東北地方諸大名の配置を行いました。しかし、1868(明治元)年、戊辰戦争の兵火によって堂宇はすべて焼失し、さらに1939(昭和十四)年、都市計画によって神明通りが開設されたため、由緒ある墓地の多くが整理され、昔の面影は失われました。

 神明通りの南方3.5km、「館の薬師様」で親しまれている館薬師堂があり、そのわきの弘真院(真言宗)の境内に蒲生秀行廟(県文化)があります。秀行は氏郷の子で家中の不和などのため、1598(慶長三)年に宇都宮に移されましたが、1600(慶長五)年の関ヶ原の戦いで徳川方につき、会津60万石に封ぜられました。しかし、1611年の大地震や家中の不和などの不運が続き、1612年、30歳で没しました。墓は五輪塔で高さ3m、墓を覆って御堂が建てられています。



会 津 大 塚 山 古 墳

                             ▼ 会津若松市一簣町大字八幡字北滝沢165
                             ▼ 磐越西線会津若松駅バス松長団地行山見町下車5分

 会津若松駅の東方1kmに大塚山があり、会津盆地を見渡せる山頂部に会津大塚山古墳(国史跡)があります。これまで全長90mの前方後円墳と認識されていましたが、1988(昭和63)年の測量調査で、全長114m、多段築成(前方部2段、後円部2段または3段)で、従来古墳の範囲と考えられていた部分は、多段築成の初段にあたることが判明しました。古墳の年代は4世紀後半と推定されています。

 会津大塚山古墳出土品(国重文)には、彷製三角縁神獣鏡・三葉環頭太刀(さんようかんとうたち)碧玉(へきぎょく)製管玉(くだたま)・硬玉製勾玉(まがたま)・直弧紋漆塗靫(ちょこもんうるしぬりゆき)・紡錘車(ぼうすいしゃ)などがあります。彷製(日本製)の三角縁神獣鏡は、岡山県備前市丸山古墳出土のものと同じ型でつくられており、大和朝廷から会津の国の王に与えられたものと考えられております。会津は4世紀前半には大和朝廷の勢力圏に入っていたのです。

 山口瓦窯跡(やまぐちがようせき)(村北瓦跡群)が、会津大塚古墳の北東500mの低丘陵にあります。5基の瓦窯跡が調査され、平瓦・丸瓦・軒丸瓦が出土しました。雷紋縁複弁四弁蓮華紋(らいもんえんふくべんしべんれんげもん)軒丸瓦は、年代が7世紀末(白鳳文化期)と推定されています。会津で唯一の瓦窯跡ですが、この瓦を使用した官衙(かんが)跡や寺院跡の発見はなく、供給先は不明です。ここから北方4kmに郡山(河沼郡河東町)という地名があり、他の地区などの例から、古代における会津郡官衙の推定地とされています。

 大戸窯跡群は、会津若松駅から南へ12km、国道121号線沿いに位置しています。平安時代前期に須恵器、鎌倉時代から室町時代初期にかけて中世陶器を生産した窯跡が数多く存在します。我が国有数の窯跡群となる可能性があり、今後の調査・研究が待たれます。



延命寺地蔵堂と八葉寺阿弥陀堂

                          ▼ 河沼郡河東町倉橋字藤倉甲
                          ▼ 磐越西線会津若松駅バス熊倉経由喜多方行藤倉下車5分

 会津若松駅から北方3kmの所に延命寺(真言宗)があります。境内の延命寺地蔵堂(国重文)は、上層の屋根と下層の裳階(もこし)から2階建のように見えるので、地名とともに藤倉二階堂と呼ばれています。建築年代は室町時代と推定されています。近くに藤倉三郎左衛門盛吉義が住んだと伝えられる藤倉館跡があり、土塁や空堀が残っています。
 
 延命地蔵堂から塩川町方面にむかって車で約10分の所に八葉寺(真言宗)があります。会津の高野山と言われ、空也(くうや)が964(康保元)年に創建したと伝えられています。八葉寺阿弥陀堂(国重文)は文禄年間(1592〜96)の再建といわれ、地名から別に冬木沢阿弥陀堂とも称されます。この堂は茅葺きの反りの美しい入母屋造で、妻部を正面とし、堂内に阿弥陀如来像を安置しています。奥の院には死者の歯骨・爪・毛髪などを10cm内外の木製五輪塔に入れた八葉寺奉納小型納骨塔婆および納骨器(国民俗)が、1万4千体以上も納められています。また、地元の人々によって高野詣り期間中の8月5日に奉納される冬木沢の空也念仏踊(県民俗)は、1922(大正十一)年東京神田の空也念仏講中の人々が伝授したものです。




3、喜多方市とその周辺

 会津盆地北部は中世以来「北方(きたかた)」と呼ばれていました。当地には東北地方最古の千光寺(せんこうじ)経塚、平安後期の建立とされる熊野神社長床、新宮莊地頭新宮氏の居城新宮城跡などがあり、会津盆地北部における文化的・政治的中核をなしていました。戦国期には小荒井・小田付などに定期市が開かれ、繁栄するようになりました。近世になると漆器業・酒造業など伝統産業が形成され、小荒井・小田付の両村は在町・在郷町として発達し、会津北部における経済の中心となりました。
 1875(明治八)年、小荒井・小田付など五ヶ村が合併して喜多方町が成立しました。1878年、会津地方最初の政治結社である愛身社が喜多方町に結成され、1882年には自由党会津部に成長しました。自由党会津部が農民達を指導して福島県令三島通庸(みしまみちつね)の専制政治と戦った事件は、自由民権運動喜多方事件として有名です。 



喜多方プラザ郷土資料展示館

                                        ▼ 喜多方市字押切川向5364−1
                                        ▼ 磐越西線喜多方駅下車20分

 喜多方市の西郊にある喜多方プラザの南側に郷土展示館と旧手代木家住宅(県文化)があります。郷土資料展示館は、1923(大正十二)年、銘酒「白山」の酒蔵蔵として建てられたものを現在地に移築復元したもので、1階展示室には宇田成一・三浦文治その他喜多方事件に関する資料など、2階展示室には、漆掻き工具・木地師工具・土器類など、喜多方地方広域市町村圏(喜多方市・塩川町・山都町・西会津町北塩原村・熱塩加納村・高郷村)の民俗資料・考古資料などが展示されています。旧手代木家住宅は天保年間(1830〜44)、下三宮(喜多方市上三宮下三宮)の肝煎(名主)の手代木家が建てたものを移築修復したもので、江戸後期の村役人層の住宅遺構がよく保存されています。

 喜多方プラザの東方1.5kmの喜多方図書館の3階にある喜多方郷土民俗館には、仁瓶清コレクションなどの考古資料のほか、民俗・歴史・自然資料が展示されています。



熊 野 神 社 長 床

                                     ▼ 喜多方市慶徳町新宮字熊野2258
                                     ▼ 磐越西線喜多方駅バス真木行新宮下車

 喜多方駅の南西4kmの低い山並みの麓に、八幡太郎(源義家)が勧請したと伝えられる熊野神社があります。社記『新宮雑葉記』などによると、源義家は1057(天喜五)年,前九年の役のとき、紀伊国(和歌山県)の熊野三社(本宮・新宮・那智)を河沼郡熊野堂村に勧請、さらに1085(応徳二)年、後三年の役のとき三社のうち新宮を耶麻郡小松村に移し、以後その村を新宮村と称するようになったといいます。新宮の造営は4年後の1089(寛治三)年に完成したと伝えられています。この頃本宮は耶麻郡岩沢村(喜多方市上三宮町)、那智は同郡字津野村(熱塩加納村)に移したといわれます。

 熊野神社長床(国重文)は、熊野神社の拝殿で、桁9間(27.27m)・梁間4間(12.12m)寄棟造茅葺の大きな屋根と、太いケヤキの円柱44本が5列に並んでいる様は壮観です。1611(慶長十六)年8月の大地震で倒壊し、1614年に再建したものが残っていましたが、傷みがひどくなったので修理工事が行われ、1974(昭和四十九)年9月末、3年がかりの工事が完成して、慶長大地震以前の姿に復元されました。このときの調査によると、修理以前の建物は、各部材の様式・手法から鎌倉初期のものと推定されています。長床の裏山の中腹には、3棟からなる熊野神社本殿(県文化)があり、中央に新宮証誠殿(しょうじょうでん)、むかって右側(北側)に本宮十二社権現殿、左側(南側)に那智山飛竜権現殿が鎮座しています。長床の向かって左側(南側)の鐘楼にある「貞和五(1349)年、七月二十一日」銘の銅鐘(県文化)は、平明継(あきつぐ)ら新宮莊地頭(新宮城主)一族が寄進したもので、本県最古の銅鐘です。その西側の文殊堂には、鎌倉初期の木造文殊菩薩騎獅像(県文化)などがあります。この神社にはそのほか「歴応四(1341)年」銘の銅鉢(国重文)・「文保二(1318)年」銘の牛王板木(県文化)・「慶応二(1390)年」銘の銅製鰐口(県文化)・年代不詳の熊野神社御神像6体(県文化)そのた数多くの文化財が保存されています。

 熊野神社の北東500mには新宮城跡があります。この城は新宮莊地頭新宮氏の居城で、本丸跡は東西120m・南北130mで、幅15mの内堀がめぐらされ、その南側が二の丸、西側が三の丸とされています。新宮氏は黒川(会津若松)の芦名氏と争い、1403(応永十)年正月に落城し、いったんは降伏しましたが、1413年、北西の山頂に築いた高舘城にこもって再び反抗、1420年7月高舘城が落城すると、奥川城(西会津町奥川)にこもり、さらに越後国五十公野(いじみの)(新潟県新発田市)に逃れて再起をはかりましたが、1433(永享五)年9月、芦名氏の支城小河城(こかわじょう)(新潟県東蒲原郡津川町)の攻略に失敗し、新宮次郎盛俊(時兼ともいう)はじめ一族郎党は討死や自害をして滅亡しました。長床のすぐ北側にある駿河館(するがだて)は新宮氏滅亡後、芦名氏から熊野神社の守護に任ぜられた西海枝(さいかち)駿河守の居城です。
 

 熊野神社の南1kmにある山崎集落の裏山の山中に山崎横穴古墳群があり、人骨・勾玉・銅鏡・直刀・土器類が出土しましたが、その多くは散逸しました。

 熊野神社の北1.3mの慶徳集落の南端山ぎわに稲荷神社があります。この神社は南北朝末期に玄翁(げんのう)和尚が造営したと伝えられ、毎年7月2日の御田植祭には田植神事(県民俗)が行われます。慶徳稲荷神社の北2.3km、磐越西線の北側の尾根の先端に松野千光寺経塚があります。慈福山千光寺は天平年間(729〜749)に行基が開いたと伝えられ、全盛期には僧院三百余宇に及び、毎年4月17日の大斎会には稚児舞も行われたといわれますが、1611(慶長十六)年の大地震で倒壊して地中に埋もれ、現在はその位置も定かでありません。この経塚跡からは、「大治(1130)五年四月二日」銘の石櫃(せきひつ)・青銅製経筒・金銅板経筒・唐銅磐(けい)・五鈷鈴(ごこれい)2個・独鈷杵(どっこしょ)・かめ6個・刀剣多数・鉄鏃(てつぞく)などが出土し、東北地方最古の経塚として知られています。

 稲荷神社の北方3.3km、新町(もと宮在家)集落西側の山腹に古四王(こしおう)神社があります。この神社は越後国五十公野(いじみの)、出羽国秋田(秋田市)とともに我が国三古四王の一つとされています。社殿は北向きの宝形造で、現在の社殿は1557(弘治三)年に建てたと伝えられます。社殿が北をむいているのは蝦夷追伏のためといい、拝殿にある御神像は風雨にさらされて傷んでいますが、平安末期の様式がみえ北方の守護神とされる多聞天と思われます。



願 成 寺(がんじょうじ)

                               ▼ 喜多方市上三宮字籬山(まがきやま)833
                               ▼ 磐越西線喜多方駅バス針生・与内畑行上三宮下下車

 上三宮の集落のほぼ中央にある叶(かのう)願成寺(浄土宗)は、1227(嘉禄三)年浄土宗多念義派の元祖隆寛(りゅうかん)が開基し、その法弟実成(じつじょう)が建立しました。隆寛は讒言(ざんげん)によって奥州に流されることになりましたが、実成がその身代わりとなって当地に下り、隆寛の遺骨を葬って願成寺を建立したと言います。当時は現在地から500mほど北側の位置にありました。文禄年間(1592〜96)、蒲生氏郷の家臣がこの村(三ノ宮村)を所領したとき、堂舎を壊して居を構えたため、住持も去り荒廃しましたが、1665(寛文五)年、入田付村(喜多方市岩月町入田付)光徳寺の僧行誉(ぎょうよ)が会津藩に願い出て現在の場所に再興しました。そのとき周辺の小集落をを集めて屋敷割をして上三宮と称するようになりました。

 杉の巨木が並ぶ道を西へ進み、山門をくぐると本尊阿弥陀如来坐像のある客殿、その右側に庫裏があります。その間をさらに奥へ進むと大仏殿があり、木造阿弥陀如来および両脇侍坐像(国重文)が安置されていましたが、現在はその手前右側の収蔵庫に納められています。阿弥陀如来像は高さ2.41mもあり、千体仏をつけた舟形光背を背に金色に輝いています。脇侍はむかって右は観音菩薩、左が勢至菩薩で、いずれも膝を折って座っています。三尊とも寄木造で鎌倉時代の作と思われますが、この形式は京都三千院の来迎三尊像によったもので、東北地方では珍しいといわれます。これは、もと、2kmほど東の中村の来迎寺阿弥陀堂にあったものを、延宝年間(1673〜81)、願成寺に移したものです。

 願成寺の西側の丘陵上に青山城跡があります。この城は平城である東城と、山城である西城の二つからなっていましたが、現在は西城の遺跡のみが残っています。佐原義連(よしつら)の孫、五郎左衛門尉盛時(加納五郎)の子孫が加納村を領してここに住み、加納殿とよばれましたが、1402(応永九)年、新左衛門平実詮のとき、新宮莊地頭の新宮次郎盛俊に攻められて滅亡しました。城跡の北西2kmの半在家(はんざいけ)集落には、伝佐原義連の墓(県史跡)があります。願成寺の北の山ぎわにある三島神社は、佐原氏が伊豆国から勧請したといわれ、毎年9月9日には太々神楽(県民俗)が行われています。



示 現 寺

                           ▼ 耶麻郡熱塩加納村熱塩字熱塩甲795
                           ▼ 磐越西線喜多方駅バス熱塩温泉・日中行熱塩温泉下車

 山形県境に近い会津盆地北端の山懐に囲まれた熱塩温泉の奥を右に折れると示現寺(曹洞宗)があります。山門をくぐると鐘楼があり、その正面に本尊の虚空蔵菩薩坐像を安置した本堂と庫裏があります。さらに奥に進むと、木立の中に当山を再興した玄翁(げんのう)をはじめ歴代住職の木造を祀る開山堂があります。この寺はもと真言宗の道場で、五峯山慈眼寺と称しました。鎌倉末期には衰微してしまいましたが、越後国(新潟県)出身の玄翁が、会津の領主芦名詮盛(あきもり)らの帰依をうけ、1375(永和元)年に再興して曹洞宗となり、護法山示現寺と改めました。椿彫木彩漆笈(つばきぼりもくさいしっきゆう)(国重文)や「示現寺文書」とよばれる中世文書などがあります。

 示現寺山門を左へ曲がると千手観音を安置する観音堂があり、会津三十三所巡礼の一つとなっています。観音堂の向かって右側に、自由民権喜多方事件の指導者として活躍し、のち加波山(かばさん)事件に参加して刑死した三浦文治と横山信六の墓があります。



太 用 寺

                             ▼ 喜多方市岩月町大都字寺前
                             ▼ 磐越西線喜多方駅バス平沢根小屋行上岩崎下車6分

 煉瓦蔵で有名な三津谷(みつや)集落の手前の上岩崎集落を西に折れ、田付(たつき)川の橋を渡ると山際に太用寺(たようじ)(真言宗)があります。開基は明らかではありあませんが、1375(永和元)年、宥海(ゆうかい)が再興したと伝えられます。戦国末期における伊達政宗の兵の侵入による戦乱で、記録や什物を失い、さらに明治維新後村民が神道に転じて檀家が減ったため衰微しました。
 釈迦堂に安置されている木造釈迦如来立像は、1.66m余の寄木造で、鎌倉末期の作です。これは10世紀に中国から伝来した清涼寺釈迦如来像の模造で、鎌倉時代の復古的風潮によって全国各地でつくられたものの一つです。



中 善 寺

                                    ▼ 喜多方市関柴町字権現沢2083
                                    ▼ 磐越西線喜多方駅バス大塩行平林下車10分

 関柴集落の北の山麓に中善寺(真言宗)があります。この寺の裏山の薬師堂にあった木造薬師如来坐像(国重文)は、寄木造漆箔押しで、高さ88cm、衣文が美しく、藤原時代の面影を残しますが、鎌倉時代の作であり、今は薬師堂のわきの収蔵庫に納められています。
 
 この寺の開基は明らかではありませんが、元は曹洞宗であったといいます。慶長年間(1596〜1615)、若松(会津若松市)大町弥勒(みろく)寺の祐誉が再興して真言宗となりました。この寺は、1882(明治十五)年、自由民権運動喜多方事件の際、農民達の秘密の集会所とされました。

 中善寺の北東約1.5kmにある入柴の山際に、芦名の重臣松本備中の居城だった関柴城跡があります。彼は1585(天正十三)年、伊達政宗に内応してその軍をひきいれ、芦名氏滅亡の一因をつくりました。



北 山 薬 師

                                 ▼ 耶麻郡北塩原村北山
                                 ▼ 磐越西線喜多方駅バス大塩行北山下車20分

 北山の集落の北東の山上にある北山薬師は、会津五薬師の一つで、勝常寺(しょうじょうじ)の中央薬師に対してこう呼ばれいますが、北山はもと漆村と称したので、漆薬師ともい います。弘仁年間(810〜824)、空海(弘法大師)が薬師像を刻んでここに堂宇を建立したと伝えています。永禄年間(1558〜70)、この薬師堂は衰微しましたが、慶長年間、会津藩主蒲生忠郷(たださと)が再興し、若松弘真院の開山秀栄を供養の導師とし、それ以来弘真院が管理することとなりました。
 毎年の9月8日に二児(ふたつご)参りといって二歳になった子ども健康と成長を祈る行事が北山薬師で行われ、子どもをつれた近在の母親達でにぎわいます。

 北山の東約1.5kmにある要害山には、明応・永正(15〜16世紀初め)のころ、芦名氏の重臣松本勘解由(かげゆ)の居城であった綱取城跡があります。



勝 福 寺 観 音 堂

                       ▼ 喜多方市関柴町三津井字堂ノ上630−1
                       ▼ 磐越西線喜多方駅バス熊倉経由若松米代・雄国川前行上勝下車

 喜多方市の市街地から東にのびる通称熊倉街道の北側に、「勝(すぐれ)の観音堂」の名で親しまれている勝福寺観音堂(国重文)があります。勝福寺(真言宗)は、昔、勝前(すぐれのまえ)という京都の女性が松島を訪ねていく途中にこの地で亡くなったので、その冥福を祈って建立したと伝えられます。この観音堂は三間四面、茅葺の寄棟造で、和様・唐様の折衷建築です。建立の年代は定かでありませんが、1529(享禄二)年に焼失し、1558(永禄元)年、会津の戦国大名芦名盛興(もりおき)によって再建されました。その後ふたたび荒廃ししていましたが、1665(寛文五)年保科正之が再建しました。本尊は観音菩薩ですが、その脇侍である「弘安二(1279)年四月一日」銘の木造不動明王立像(県文化)と「弘安二年三月二十九日」銘の木造毘沙門天立像(県文化)は、それぞれ1.46mと1.55mの大きさで、ともに寄木造で彩色されています。

 観音寺のむかって右側の鐘楼にある「永禄七(1564)年」銘の銅鐘(県文化)は、芦名盛氏・守興父子の寄進であり、会津の刀工として名高い古川兼定(ふるかわかねさだ)の作によるものです。

 勝福寺の北東1.3km、平林集落の福聚寺(ふくじゅじ)(真言宗)にある銅造聖観音菩薩立像(県文化)は、高さ33cmの小さな金銅仏で、冠をつけた大きな頭部・胸かざり・くびれた腰・まとまっている天衣に、白鳳時代の特色がみられます。これは恵日寺(耶麻郡磐梯町)にあったものが飛来してきたという伝説があり、もと法隆寺にあった四十八躰仏」の1体とよくにています。

 勝福寺観音堂のの北々西1.5km、下台(しもだい)集落の北側にある糠塚(ぬかづか)古墳群(県史跡)は、もと7基の円墳がありましたが、現在は3基となり、内2基は半壊しています。3基のうち最大のものを糠塚とよび、直径25m・高さ5mで、周濠の跡が確認できます。



弾 正 ヶ 原

                                         ▼ 耶麻郡塩川町上江
                                         ▼ 磐越西線塩川駅下車25分

 塩川駅の北方、上江集落の東側に広がる田園の中に松の木などが数本立っています。このあたりは明治時代までは広い野原で、戦国時代の芦名氏の家臣栗村弾正の墓があることから弾正ヶ原とよばれます。

 1882(明治十五)年、福島県令に着任した薩摩出身の三島通庸(みしまみちつね)は、「火付け強盗と自由党は管内に一匹もおかぬ」と豪語するとともに、会津三方道路の開削をはかりました。会津と宇都宮・新潟・米沢とを結ぶ道路を開き、山国会津の発展をはかろうとするものでした。

 会津6郡(会津地方の5郡と越後国東蒲原郡)の15〜60歳の農民達は、早朝5時から服役を遠隔地に割り当てられ、工具は自弁で、しかも冬期の日数分は夏期に働かなければならず、それができない者は代夫賃納入を義務づけられました。豪農民権派を中心とする自由党会津部は権利恢復同盟を組織し、農民達の先頭に立って反対運動を開始しました。それに対して三島県令は官憲を動員して運動を弾圧し、宇田成一ら指導者を逮捕したので、11月28日、喜多方町諏訪神社境内に近在の農民約3000名が集結し、宇田らの拘置されている若松署をめざしました。しかし途中で日が暮れたので、弾正ヶ原で集会を開き、寒風吹きすさぶなかで22歳の青年瓜生直七らが演説、指導者達の釈放を願い出ることに決定し、6kmの道のりを引き返して喜多方署に押し掛けました。ときに11月28日夜8時頃といわれています。代表者数名が署長と談判中、何者かの投石を合図に抜剣した巡査や土工などが群衆を襲い、多くの負傷者や逮捕者が出ました。翌朝未明、同県本部が襲われて多くの指導者が逮捕され、これを機に県下各地の自由党員が一斉に逮捕されました。

 弾正ヶ原の北東2kmの、喜多方市熊倉町の小沼に、権利恢復同盟総理として運動を指導した赤城平六の屋敷跡と墓地があります。

 弾正ヶ原の東800mの別府集落に、旧米沢街道の別府一里塚(県史跡)があります。旧米沢街道の一里塚はそのほか、樟(くぬぎ)と大塩に一基づつ、山形県境に近い桧原峠南麓に2基残っています。

 弾正ヶ原の東2.5km竹屋集落の山際にある観音寺(曹洞宗)の観音堂に、木造如意輪漢音坐像(県文化)があり、「竹屋観音」とか「子安観音」とよばれています。1573(天正元)年、越後から快元という比丘尼(びくに)がきて北村にお堂を建ててこの像を安置し、のち1651(慶安四)年、現在地に移したといわれています。 




4、勝常寺から会津坂下・柳津へ

 会津若松市から旧越後街道沿いに、国道49号線は南北に長い会津盆地のほぼ中央を北西に横切ります。道の両側は水田地帯ですが、転作によるハウス栽培などが増える一方、茅葺き農家は見られなくなりました。山地の西麓には、亀ヶ森古墳をはじめ前期・中期の古墳群があります。また塔寺周辺は越後への街道沿いの宿場町として栄えました。近世、盆地西方の中心となる坂下は、月6度の市ににぎわい、塔寺八幡の門前に連なる気多宮(きたのみや)とともに宿場として栄えました。                          



勝 常 寺

             ▼ 河沼郡湯川村勝常字代舞1764
                            ▼ 磐越西線会津若松駅バス坂下柳津行佐野下車10分

  バス停佐野で下車し国道49号を右折して農道を北へ1kmほど行くと、徳一大師の開基と伝える勝常寺(真言宗)中門につきます。真夏でも残雪をとどめる飯豊連峰を背景に、大川・日橋川の合流点に近く、会津盆地中央にあるので「中央薬師」といわれる、木造薬師如来(国宝)および両脇侍像(国重文)を祀る薬師堂(国重文)があります。この堂は総ケヤキ寄棟造で、外観は唐様と和様(連子窓など)の折衷。内陣は方3間で薬師三尊像を安置し、外陣に諸仏を安置してきましたが、現在は中尊のほかは勝常寺重要文化財収蔵庫に移されています。

 中尊の薬師如来像は坐像(137.5cm)で、日光菩薩像・月光菩薩像を両脇侍とする形式をとっていたものと推察されます。中尊は大きめの螺髪(らはつ)が額のなかばに迫り白毫(びゃくごう)がありません。肩幅が広く全体に厚みがあり、腹部などに翻波式に似た技法がみられる一本造です。材質には諸説がありますが、ケヤキかハルニレとするものが多い。貞観期(平安初期)の特色をもちながら地方的な素朴さをもって独特な雰囲気をかもしています。このほかにも木造聖観音菩薩立像木造天王像木造地蔵菩薩立像2体木造十一面観音立像木造天部立像(伝虚空蔵菩薩像)(いずれも国重文)や十二神将像などが立ち並ぶ様は、会津仏教文化の質の高さを示しています。

 中門に向かって左の小道を行くと薬師堂の西に墓地があり、「吉川籐四良親」と記す墓があります。明治初年のヤーヤー一揆の指導者、藤吉の墓です。肝煎りを倒して世直しをしようと一揆の先頭に立ちましたが、新政府役人により贋金づくりの汚名をきせられて斬首されました。

 勝常寺から北へ1km行くと北田集落があり、その北800mに北田城跡があります。河原より5m高い河岸段丘上に築かれた中世の平城で、現在は圃場整備により主郭土塁の一部を残すだけです。



亀 ヶ 森 古 墳

        ▼ 河沼郡会津坂下町青津字舘の越4
        ▼ 磐越西線会津若松駅バス坂下・柳津行喜多方街道下車、バス乗り換え喜多方行青津下車

 阿賀野川土手のすぐ南に青津集落があり、集落北西に巨大な亀ヶ森古墳(国史跡)があります。このあたりは会津盆地の西端で、盆地を流れる河川のすべてが集まります。亀ヶ森古墳は大亀甲(だいきつこう)ともいわれ、前方後円墳で、古墳時代前期(4世紀)のものと推定されています。その規模は、宮城県の雷神山古墳についで東北地方第2の大きさですが、平地築造のものでは東北地方最大です。これは、大和政権と会津の豪族との結合が強化されたことと共に、当地方の生産力の発展を示すものといえます。全長127m・後円部径72.4m・前方部幅53.6m後円部比高10.12mです。後円部には観音堂と稲荷神社が祀られています。前方部は、墓地となっているためか四周の形をよく保存しています。前方部周囲には、15〜30m程の幅で水田があり、その外縁は急に2m内外高くなっていて、周濠跡とみられます。後円部周濠跡とみられる東半分は、土盛りされて民家の屋敷となり、濠形はとどめていません。しかし、大部分は濠形がありますので貯水池を復元などすれば壮観なものとなります。

 これより南西50mへだてて、小亀甲といわれる鎮守森古墳(国史跡)があります。これは前方後方墳という珍しい形で、全長57.6m・後方部幅31.4m・前方部幅16m・後方部比高4.6mで、後方部頂上に八幡神社が祀られています。四周には周濠跡とみられる濠形があり、後方部の北側は最近まで水をたたえていました。ともに未発掘ですが、1956(昭和三十一)年、大亀甲の後円部東側斜面にあったケヤキの老木が倒れたとき、根の跡から、径20cmほどの玉石を径40cmほどの円形に積み上げたものや、土師器(はじき)の小片などが発見されたといいます。

 この青津集落の西に接して館の越という字名があります。ここは戦国時代に芦名家の家臣であった生江氏の館跡と伝えられています。生江家は、江戸時代に東青木組の肝煎りをつとめ現代につながっていて、屋敷に長屋門や堀跡を伝えています。

 このあたりは洪水に強い藍(あい)が栽培され、各地に藍玉(あいだま)を出荷していました。明治初年から染屋を営む者が出て、大正時代には木綿織りが盛んになり、青木縞(あおきじま)の名で知られ、農作業着や布団地などに広く用いられました。現在も生産量は減りましたが会津木綿として出ています。



宇 内 薬 師

        ▼ 河沼郡会津坂下町字内大上字村北
        ▼ 磐越西線会津若松駅バス坂下・柳津行坂下車庫前下車バス乗換山都行川西小学校前下車

 青津の西3kmに宇内集落があります。村の西手の雷神山は、集落からの高さが100mで、盆地全体を眺望できます。この山頂に宇内雷神山1号墳があります。前方後円墳で、全長47mに対し前方部長20.5m、後円部径26.5mに対し前方部幅14.5mと、前方部が未発達な形で前期古墳の特徴をもっています。このあたりには大小40基ほどの古墳があります。

 雷神山と高寺山に挟まれた勝負沢を通る峠越えは、江戸時代初期までの越後街道です。この峠の入口近くに、会津五薬師の一つ木造薬師如来坐像(国重文)を祀る薬師堂があります。像は座高176cmのケヤキ一本造で会津五薬師のうち勝常寺以外では、現存する唯一の像です。寺伝では、恵隆寺の一坊である調合坊(廃寺)の本尊であるといいます。中央薬師(勝常寺薬師如来)に似ていながら、肉髻(にくけい)はより低く、螺髪(らはつ)もより小粒です。白毫(びゃくごう)をつけ、顔は丸みをおびて優しさを増し、時代が下がることを示しています。中央薬師とともにかって写真家土門拳が絶賛した仏像で、会津の仏像の双璧とされています。堂内には34点の絵馬(うち6点が県文化)があります。これらは江戸時代の元禄期(1688〜1704)から宝永(1704〜11)の初めにかけて奉納され、当時の風俗を伝える美人画などがあります。

 薬師堂から道路沿いに北へ500mほど行くと、右手に杉並木にかこまれた陣ヶ峰城跡があります。12世紀末、越後の城四郎長茂が会津進出の折りに築いたと伝えられる館の一つといわれ、東西90m・南北120mほどあり、南・西・北の三方に二重の深い空堀をめぐらしています。この城は勝負沢への入口に当たり、要衝の地でした。



恵隆寺(えりゅうじ)と心清水八幡宮

                              ▼ 河沼郡会津坂下町塔寺字松原
                              ▼ 磐越西線会津若松駅バス坂下・柳津行立木観音前下車1分

 塔寺あたりは、慶長の大地震で通行不能となった勝負沢より南に2.5km離れ、鐘撞堂(かねつきどう)峠へ通ずる江戸時代の越後街道に沿った宿場町です。塔寺の町としての歴史は戦国時代までさかのぼり、恵隆寺(真言宗)および心清水八幡宮の門前町です。

 バスを降りるとそこが恵隆寺観音堂(立木観音堂、国重文)の山門です。寺伝では、ここから北西2kmの地にある高寺山に中国・梁の僧青岩が5世紀中頃に開基したといいます。また『新宮雑葉記』によれば、634(舒明天皇六)年、恵隆の開山といいます。その後、兵火にあい焼失しましたが、平安時代初期、徳一大師により現在地に再建されたということです。現在の観音堂は鎌倉初期の創建ですが、慶長の大地震(1611年)で倒壊し、1617(元和三)年、領主蒲生忠郷の援助により再建されました。材料はほとんどそのまま用いられたといいます。桁行5間・梁間4間の単層寄棟造で茅葺き(1986年文化庁の指導で全面葺替え)、純和様の観音堂は、見るからに剛健で風格があります。勝常寺薬師堂・円蔵寺弁天堂・藤倉二階堂など禅宗様古建築の多い会津にあって、数少ない純和様の遺構として貴重です。ここに安置され「立木観音」の愛称で親しまれている木造千手観音立像(国重文)は、像高8.5mもあり、木彫りでは全国有数のものです。弘法大師の夢のお告げによりケヤキの立木に彫ったという伝説にふさわしく、堂々としています。鎌倉初期の作と推定され、眷属(けんぞく)として二十八部衆・風神・雷神があります。

 「塔寺八幡」とよばれる心清水八幡宮は、恵隆寺の西隣にあります。社伝では平安時代中期の1055(天喜三)年、源義家が山城の石清水八幡宮から勧請したといわれます。それ以来この地方の総鎮守となり、多くの貴重なものを所蔵しています。芦名家からきた神官初王丸のものといわれる室町時代の「やなぐい」(矢を背負う武具)、源義家奉納と伝える錣(しころ)(胄<かぶと>の下につけ首筋を守る)、左文字で知られた「応仁二(1468)年」銘のある鉄鉢(県文化)「至徳四(1387)年」銘がある会津最大の銅製鰐口(わにぐち)(国重文)などがあります。特に注目されるのは塔寺八幡宮長帳(国重文)です。南北朝時代の1350(貞和六)年から江戸時代初期の1635(寛永十二)年に及ぶ八幡宮の日記です。八幡宮の行事を中心に書いたものですが、中世資料として興味深いのはその裏書きであり、天変地異・戦乱・米価などの情報が、諸国遍歴の僧などのよって伝えられ、記録されました。現社殿は、最後の会津藩主松平容保によって建立されました。

 拝殿の西隣に旧五十嵐家住宅(国重文)があります。会津坂下町中開津(なかかいづ)の五十嵐智信氏宅を移築し、できるだけ旧材を用いる旧工法により復元しました。梁束(はりつか)の墨書銘から1729(享保十四)年の建築とわかり、柱に手斧(もような)の跡が残っています。会津平坦部の本百姓の家屋構造を伝えています。



円 蔵 寺

                                            ▼ 河沼郡柳津町寺家町甲
                                            ▼ 只見線会津柳津駅下車

 会津坂下町を後に、七折峠を越え国道49号線を左折して国道252号線を行くと、車なら15分で柳津駅前に着きます。駅を出て左に坂を下ると円蔵寺(臨済宗)の裏山門につきます。さらに下ると眼下に只見川を展望することができ、表山門の石段に出ます。門前町を見下ろしながら急な石段を上ると菊光堂(本堂)の前に出ます。寺伝によると平安時代の初期、徳一大師によって開かれたといいます。

 本尊は、虚空蔵菩薩像で、茨城県の村松、宮城県の柳津、とともに弘法大師の作と伝え、日本三大虚空蔵の一つといわれ、古来、戦国大名から民衆に至るまで攘災招福(じょうさいしょうふく)の仏として信仰を集めてきました。江戸時代には歴代の藩主はもとより、幕府が諸国に派遣した巡検使(各領主の統治の実体を観察する)も数回にわたあり登山参拝しています。特に初厄(しょやく)の13歳に参拝すると霊験あらたかであると、山形・新潟をはじめ近県からも「十三参り」にくる参拝者が多くおります。

 正月7日夜には、奇祭「七日堂裸参り」が行われ、近郷から観光客が集まって臨時列車も出ます。うち鳴らす鐘を合図に、ふんどし姿の若者達が本堂の梁をめざして鰐口の綱にとりつき、もみあいながらよじ登ります。身動きできないほどの観衆と一体になってにぎわう様に、只見川に住むという竜王は、宝珠の奪還をあきらめるのだといいます。その舞台となる本堂は、総ケヤキの白木造りで、西側に広い舞台を構えています。現存の堂宇は江戸時代の後期、1829(文政二)年に再建されましたが、藩主松平容敬(かたたか)はじめ、会津の一円はもとより越後・出羽・上野(こうづけ)下野(しもつけ)などから沢山の貴捨が寄せられたといいます。柱の床下部分は一辺27cmの八角ですが、それぞれの出材地が記されており、判明しているだけでも現在の柳津・三島・金山・山都の各町村に及びます。これらの大木運搬には牛が使役されましたが、最も強健だったアカ牛にちなんで、郷土玩具アカベコが出来たといいます。

 本堂から、秋なら美しい紅葉のトンネルを縫って5分も行くと奥之院弁天堂(国重文)があります。宝形造・三間茅葺の、室町時代禅宗様の単層建築です。小堂ながら細部の手法に目を見張るものがあります。1960(昭和三十五)年末、満1年をかけて根本的な大修理がなされ、正面両わきの蓮子(れんじ)窓が花頭(かとう)窓に改められるなど旧に復しました。安置仏は弁財天と伝えますが、髪形・印相などから吉祥天のたぐいとみられます。奥の院を下り5分も行くと只見川の魚淵に出ます。柳津ウグイ生息地(国天然)です。弘法大師が虚空蔵を刻んだとき木の葉がウグイになったのだといいます。

 柳津中央公民館に開かれた柳津町芸術文化資料室では、町内の石生前遺跡その他出土の埋蔵文化財とあわせ、郷土の版画家斉藤清の作品も公開しています。



越後街道の変遷

 会津は山国であり、四方を山で囲まれているため、他国に出るには必ず峠を越えなければなりませんでした。特に越後(新潟県)へ通じる道は塩や海産物を移入する「塩の道」として重要な役割をはたしていたせいもあって、越後山脈の山ひだを縫うように幾筋もの街道が通っていました。

 古代・中世の越後街道は、本県最大の亀ヶ森古墳のある青津(会津坂下町)で鶴沼川を渡り、越後の豪族城氏が築いたという陣ヶ峰や平安時代の薬師如来のある宇内(会津坂下町)から勝負沢越えを通っていました。この道は東羽賀で只見川を渡って西羽賀へ、さらに塩坪(耶麻郡高郷村)から阿賀川南岸沿いに尾登・松尾・野沢(西会津町)を経て越後国小河莊(新潟県東蒲原郡)に通じていました。

 1611(慶長十六)年8月の大地震により、越後街道も大きく影響を受けました。山崎(喜多方市山崎)で山崩れがあり、阿賀川をふさいだため「山崎新湖」ができてしまい、勝負沢越えは通行不能になってしまいました。会津藩(藩主蒲生秀行)は、坂下・塔寺(会津坂下町)を通る道筋を越後街道として整備し、さらに1639(寛永十六)年、加藤明成が若松城の大改修を行ったとき、安座(西会津町安座)の肝煎り(名主)が束松峠を開いて木材を運搬してから、この峠が本街道となりました。




5、只見川に沿って

 只見川流域の山間部は、日本でも有数の豪雪地帯として知られます。只見川の河岸段丘上には縄文・弥生時代の遺跡が散見され、この地にも古くから人間の生活が営まれていたことを示しています。大沼郡三島町・金山町・昭和一帯は、かって、金山谷とよばれ、南会津郡只見町一帯の伊北郷とともに中世には山内氏の支配をうけ、山城跡など山内氏関連の遺跡も多くみられます。江戸時代には南山お蔵入とよばれた幕府直轄地の一部で、8代将軍吉宗の治世に起こった南山お蔵入騒動では当地からも犠牲者を出しました。

 この地域は県内一の過疎地帯です。三島町もそうした過疎の山村の一つで、電源開発にとまなうダム建設でにぎわった1950(昭和二十五)年には7700人を数えた人口が、現在では半数以下に減っています。



三島町生活工芸館

                                       ▼ 大沼郡三島町名入字諏訪ノ上395
                                       ▼ 只見線会津西方駅下車10分

 会津西方(にしかた)駅から北へ国道400号線を上っていくと三島町生活工芸館があります。1986(昭和六十一)年に完成、三島町が進める過疎対策を狙う中心施設です。館内には木工・陶芸・機械などの設備が整い、だれでも利用できます。山間の地に受け継がれてきた知恵と技術を生かして町を活性化しょうという「村おこし」の先進的な試みです。また、三島町では村おこしの一環として、町あげての年中行事が数多く保存されていますが、若水汲み・初田植・さいの神・火伏せなど9種の初春行事が県の重要無形文化財の指定をうけています。

 会津宮下駅から西へ5分、宮下中学校手前に荒屋敷(あらやしき)遺跡があります。只見川の河岸段丘上にあり、縄文時代晩期から弥生時代の古い部分の土器が確認されています。この中には弥生時代初期の北九州で多く発見される遠賀(えんが)川式土器と思われる壺が確認されたことは、東北地方への稲作文化の伝播の時期が従来の定説よりも早く、しかも日本海沿いのルートで伝えられたとする近年の説を裏付けるものとして貴重であり、今後の研究が待たれます。



大悲堂観音(だいひどうかんのん)

                                  ▼ 大沼郡金山町中川字居平(いだいら)1786
                                  ▼ 只見線中川駅下車2分

 中川駅で降りて国道252号線から集落内の旧道に入るとすぐ左に大悲堂があり、堂内には木造聖観音坐像(県文化)が安置されています。寄木造りで、顔面は丸みをおび腹部のくびれも少なく、衣文の彫りや宝髻(ほうけい)の様式から、鎌倉時代後期以降に中央の仏師によってつられたものと思われます。会津の奥地にこのようなみごとな仏像が残っているのは珍しく、なんらかの形で当地を領した山内氏が関与したと考えることも出来ます。

 中川駅から国道を只見方面に進むと、2分ほどで旧五十島家住宅(県文化)があります。かっては中川の南方の沼沢湖畔の同町沼沢にあったもので、厩をすべて中門に収容した馬屋中門造りの形態をもち、18世紀後半(江戸時代中期)の農家住宅です。



昭和からむし会館

                                ▼ 大沼郡昭和村下中津川字中島612
                                ▼ 只見線川口駅バス両原・大芦行下中津川下車1分

 川口から只見川の支流野尻川沿いに南へむかうと、やがて広い耕地が開けてきます。ここが昭和村です。1927(昭和二)年、大芦村と野尻村とが合併、村名は大正から昭和への改元を記念して発展の願いをこめて名付けられました。
 
 下中津川にある村役場の東裏に昭和村からむし会館があります。「からむし」」は青苧(あおそ)ともいいます。イラ草科の多年草で、その繊維を利用した織物がからむし織(県民俗)です。からむし栽培がこの地に普及したのは、室町時代初期の応永年間(1394〜1428)頃であるといわれます。以後、千谷縮(ぢやちぢみ)・越後上布(えちごじょうふ)の原料として盛んに栽培され、六十里越えを越えて新潟県魚沼(うおぬま)地方に運ばれました。当地でも「いざり機」という手工芸的技法によって野良着を生産していました。第二次世界大戦中の食料増産で栽培すら行われなくなりましたが、同村大芦の一帯で細々と維持されてきました。現在、からむしを生産しているのは本州ではここだけです。昭和村では1975(昭和五十)年頃から、からむし織りの復活の動きが進められ、現在ではその生産も軌道にのってきました。会館では紡ぎ、機織りの実演を見ることができ、製品の販売も行われています。また、大芦はからむしの栽培地であるとともにからむし生産用具とその製品(県民俗)の資料も保存されています。



叶津番所跡と旧五十嵐家住宅

                                        ▼ 南会津郡只見町叶津字居平
                                        ▼ 只見線只見駅バス川口行叶津下車

 只見川から支流の叶津川をさかのぼり、浅草山の北側を越えて新潟県三条に至る道が八十里越(はちじゅうりごえ)です。叶津番所跡(県史跡)はこの八十里越の麓にあり、口留番所として六十里番所の田子倉番所とともに、越後国との出入りを取り締まっていました。叶津番所の設置は中世山内氏の時代にさかのぼるといわれ、中世には山内氏がこの峠道を整備・管理していました。

 会津側の叶津口には江戸時代に口留番所が設けられましたが、保科氏時代になると、叶津の肝煎(名主)に番人を兼任させることが多くなり、やがて番所自体も肝煎の長谷部家に移されました。バス停近くの現在の長谷部家住宅(県文化)は、1800年前後の建築と思われ、大規模な母屋の土間の前にうまや中門をつけた曲家です。もとは「のっこみ」という玄関が座敷前面にありました。前庭には制札場跡も残っています。

 長谷部家住宅裏には旧五十嵐家(国重文)があります。もとはここから3.3km南の只見町上町にありました。修理中発見された墨書から、1718(享保三)年に建てられたことがわかりました。中央に広い土間をもち、三間広間型の間取りです。本百姓の家屋と伝えられ、江戸時代中期の会津地方の農民生活を今に伝え貴重です。

 戊辰戦争のとき、長岡藩家老河井継之助は傷ついた身体でこの峠道を越えて会津に入りましたが、叶津から川口・若松方面へ5kmほどの只見町塩沢の矢沢家で没しました。只見線塩沢駅から5分のところに河井記念館があり、東隣の矢沢家には臨終の部屋が残されています。また、墓所は塩沢の医王寺裏にあります。



                                                                     田 子 倉 ダ ム

                                   ▼ 南会津郡只見町田子倉田子倉展望台
                                   ▼ 只見線只見駅バス田子倉行田子倉ダム展望台

 只見川流域の現在の姿と暮らしぶりは、只見川の電源開発を抜きにしては語ることはできません。その象徴が田子倉ダムです。最大出力38万kwという、当時としては我が国最大規模だった水力発電所を支えているコンクリートダムは、1953(昭和二十八)年着工、総工費340億円と延べ300万人の労働量を投入して1961年に完成しました。ダムとそれによって生まれた人造湖田子倉湖は、景勝地として年間20万人が訪れます。ダム下の発電所敷地内には記念館があります。

 ダム建設にともなって田子倉集落50戸が水没しました。田子倉は、奥会津と新潟県小出とを結ぶ六十里越の起点として、口留番所が置かれていたところです。ダムの展望台近くの湖畔の国道沿いに村の鎮守だった若宮八幡宮が移され、境内の「田子倉の碑」には水没によって移転した住民の思いが刻みこまれています。
 只見川には電力開発にともなって現在(1989年)までに10箇のダムと17の発電所が建設されています。



成 法 寺 観 音 堂

                                    ▼ 南会津郡只見町梁取字仏地1864
                                    ▼ 只見線只見駅バス山口行菊池商店前下車

 只見川に流れ込む伊南川をさかのぼっていきます。比較的広く川の氾濫源が開けている明るい谷です。南郷村との境にほど近い梁取集落の入り口左に成法寺(曹洞宗)があります。寺の後方には間近に岩肌の露出した断崖がそびえ、いかにも霊地にふさわしくみえます。

 荘厳なたたずまいをみせる観音堂(国重文)は、茅葺・方三間の寄棟造りで、四面に回縁をもっています。和様と唐様折衷の様式で、建立は戦国時代初期の永正年間(1504〜21)と推定されます。境内に安置されている木像聖観音坐像(県文化)は、寄木造の美しい彩色が残る坐像で「人肌観音」として信仰を集めています。像の膝裏の銘により1311(応長元)年に長沼氏がつくらせたものであることがわかります。本寺の創建もこのときと思われますが、それ以前に徳一が開いた道場であったとも、あるいは空海が柳津から只見川・伊南川をさかのぼってこの地に虚空蔵尊を祀ったともいわれています。




6、焼きものの町本郷と会津高田

 会津若松市の南西を流れる大川をこえると三峯の麓にとりついて本郷の町並が続きます。会津盆地南部は、土質がよく水田が開け、単位面積当たりの収量も高く、会津の穀倉地帯を形成しております。米の他に会津特産の薬用人参やみしらず柿の栽培も盛んです。本郷町は、東北地方有数の窯場として知られ、白釉(しろぐすり)や飴釉(あめぐすり)をもちいる民芸を基調とした陶器がつくられています。古代・中世の開基伝承を持つ神社・仏閣がこの地域に多数存在しますが、その背景には豊かな生産力があげられます。近年、新たな圃場整備事業により農業の大型化が進行中ですが、その一方で専業農家の数が年々減少の傾向にあります。



焼きものの町本郷(ほんごう)

                                          ▼ 大沼郡本郷町
                                          ▼ 只見線会津本郷駅下車5分

 本郷町は、340年余の伝統を持つ焼きものの町で、飲食器類や電気用碍子(がいし)を生産しています。焼きものは、1592(文禄元)年蒲生氏郷が黒川城を鶴ヶ城にあらため城郭の大修理をしたときの瓦焼きにはじまりますが、生活用品としての本郷焼きは1645(正保二)年、会津藩祖保科正之が、長沼(岩瀬郡長沼町)から瀬戸出身の陶工水野源左衛門を招き、製陶を命じたことに始まります。1800(寛政十二)年には佐藤伊兵衛により磁器がつくられました。しかし、江戸時代は瀬戸や有田の陶磁器が有名で、本郷焼きの販路をみせるのは明治時代に入ってからです。本郷焼きが一躍有名になったのは、柳宗悦(やなぎむねよし)が始めた民芸運動によるところが大です。柳は鰊鉢(にしんばち)や切立(きつたて)など日常粗末に扱われている粗物(雑器類)を高く評価し、世に紹介しました。本郷には16世紀の窯元があり、陶器や磁器にそれぞれ特徴をもつ焼きものをつくっています。毎年8月の第1日曜日に「せと市」が開かれ、朝の4時から掘出物や日用品を買い求める人々でにぎわいをみせます。

 町役場の南東方1kmの白鳳山公園内に岩崎城跡(向羽黒山城跡)があります。岩崎城は蘆名修理大夫盛氏が嗣子盛興に家督を譲り、1561(永禄四)年築城に着手し、そこに隠居しました。1574(天正二)年、盛興の死去により盛氏は再び黒川城に戻り、城は廃城とされました。岩崎城は、山頂部の本丸をはじめ、二の丸・三の丸などの曲輪や土塁・空堀・堀切が良好な状態で保存されています。城域は東西0.5km・南東1.3kmにも及び、県内を代表する戦国大名の山城です。麓の三日町の太子堂に「正中三(1326)年」の胎内銘をもつ木像聖徳太子立像(県文化)があります。公園の入口に会津本郷焼資料館があり、登窯の模型・本郷焼きの名品・資料が展示されています。



龍 興 寺(りゅうこうじ)

                                         ▼ 大沼郡会津高田町龍興寺北
                                         ▼ 只見線会津高田駅下車10分

 町を南北に走る大通りに並行する西裏通りに龍興寺(天台宗)があります。この寺は848(嘉祥元)年、円仁(慈覚大師)による建立と言われ、本尊の阿弥陀如来を客殿に安置しています。かっては多くの末寺をもつ盛時もありましたが、1629(寛永六)年類焼し、記録・什物の多くを失って歴史は明らかではありません。同寺所蔵の一字蓮台法華経9卷(国宝)は藤原期(平安時代中期)の写経思想をあらわしたもので、200年以上にわたって女性を含めた多くの貴族・庶民によって写経され続けたものだといいます。斐紙(はいし)に銀罫(ぎんけい)をひいた1行17字詰めという体裁で、一字一字が色とりどりの蓮台の上に書かれている荘厳経(装飾経)です。美しい和様書体は蓮台のあざやかな色彩との調和が美しく、欣求浄土(ごんぐじょうど)の理想を追った古人の信仰の深さがしのばれます。同寺には「文亀三(1503)年」の裏書きのある絹本著色両界曼陀羅(けんぼんちゃくしょくりょうかいまんだら)2幅(県文化)もあります。

 龍興寺は家康・秀忠・家光の帰依をうけて権勢をふるった天海僧正(慈眼大師)ゆかりの寺でもあり、永禄年間(1558〜70)頃の住持舜幸(しゅんこう)のとき、天海はこの寺に入り、舜幸を師として得度しました。家康の知遇を得た天海はその政治顧問として活躍し、また、家光の命により上野に寛永寺を開山、久能山(静岡県)から日光山への家康の改葬の導師も勤めました。天海の墓は日光山にありますが、かって寺隣だったという農協会館前に誕生地を記念する石標が立っています。境内には両親の五輪塔があり、父船木景光の陰刻がみえます。また、中央公民館裏にある浮身観音堂には胎内秘仏をいただく観音像とともに、天海の木像が安置されています。

 閑静なたたずまいを残す東裏通りに、ひときは高く瓦屋根が反り返る寺が目にはいります。法幢寺ほうどうじ)(浄土宗)です。1494(明応三)年、玉誉(ぎょくよ)が開基し、1532(天文元)年ごろ智境(ちきょう)上人が住持し再興したといいます。当寺には銅造阿弥陀如来および両脇侍立像(国重文)が安置されています。善光寺式の阿弥陀三尊像で、阿弥陀如来の背面には鎌倉時代中頃の「賢治二(1276)年」銘があります。



伊佐須美(いさすみ)神社

                                          ▼ 大沼郡会津高田町宮林甲4377
                                          ▼ 只見線会津高田駅下車20分

 細長い高田の町を南に抜けていくと、左手に伊佐須美神社(祭神伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)尊・大毘古(おおひこ)命・建沼河別(たけぬなかわわけ)命)の高木が見えてきます。延喜式内社で「奥州二の宮」と称した高い格式を誇る古社です。会津の総鎮守として芦名氏から松平氏に至る歴代領主をはじめ、人々の厚い信仰を集めてきました。

 同社一帯はかって今よりもうっそうとした森でしたが、今は南隣のかっての神苑はあやめ苑として、東に接して流れる宮川沿いは河畔公園として整備されています。また、高天ヶ原の林が伐採されて久しくなります。

 宝物殿には、同社の年中行事に使われた祭具や往時をしのばせる文化財などが展示されています。1526(大永六)年に芦名氏によって寄進されたと伝えられる朱漆金銅装神輿しゅうるしこんどうそうしんよ)(国重文)は、扉に芦名氏の家紋をもち、四方に金銅製の鳥居つきの階段を配しいます。また、寄木造の木造狛犬1対(県文化)は、頭小胴大の特徴を示しており、南北朝期の作品と思われます。

 毎年7月11・12日には御田植祭が行われます。伊佐須美神社の田植神事(県民俗)は多くの東北の田植祭が予祝型であるのに対して、暖国型の田植祭で、日本三大田植祭りの一つとして伊勢・熱田とともに知られる祭りの神事で、獅子追い、御輿渡御を中心に田植人形(神子<でこ>人形)の行列に田植歌の催馬楽(さいばら)をうたい五穀豊穣を祈るという、古い要素を残した貴重なものです。このうたに”高い田や”という句があり、町名のいわれといいます。神事は同社と会津高田駅前にある御田(おた)神社で行われます。なお、御田神社の北方の大沼高校第2運動場内に、豊臣秀吉が寄進したという神田跡が古御田神社の地として記念されています。

 伊佐須美神社の北隣に清瀧寺文殊堂(せいりゅうじもんじゅどう)があります。2月25日の文殊祭には入試合格祈願の受験生などでにぎわいます。また、神社の南の竹原橋を渡って東へ300mの所に大沼神社があります。かってこのあたりはおおきな沼で、それが大沼郡の郡名のいわれといわれますが、現在はこの神社の境内裏に小さな窪地を残すのみです。


会津高田町のおいたち

 街村型の町の西の丘陵から宮川扇状地にかけて縄文時代より古墳時代への遺跡が多い。農耕文化の古い発祥とともに会津名のおこりといわれる伊佐須美神社が西方山岳より551(欽明天皇十三)年に遷座し、高田の名もやしろの祭りに結びついたと伝えられます。仏教文化が入ってくると、法用寺をはじめ多くの寺院が隆盛をほこり、いまに文化財を伝えています。鎌倉期には高田館の小俣幸高(こまたゆきたか)は芦名氏の侵攻に滅亡し、松本氏が船岡館で支配するようになりました。藩政時代には一部御蔵入領でしたが、松平氏が領有し、越後より下野(しもつけ)に通じる西街道の間道として市もたち、商業も盛んに行われました。明治時代には郡役所の所在地でもありました。昭和30年高田町を中心に大沼郡東部の1町六ヶ村が合併し会津高田町となりましたが、現在会津若松市の郊外的な性格をもつようになっています。


・伊佐須美神社のいわれ

 社伝によれば、『古事記』にみえる四道将軍派遣にまでさかのぼります。崇神(すじん)天皇によって鎮撫のため派遣され、北陸を進んだ大毘古命と、東海を進んだその子建沼河別命が行き合い(「其地を相津という」とある)、そのとき国家鎮護のために御神楽山(大沼郡金山町と新潟県の境)に祀った2神(伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)尊)を、やがて明神ヶ岳(会津高田町の南西方。現在、奥の院として1744(延享元)年に奉納された石祠があります)などを経て552(欽明天皇十三)年に同社南隣の高天ヶ原(南原)へ、さらに現在地(東原)へ遷座されたものだといわれます。もちろん、「相津}=「会津}という地名の由来は信じがたいものですが、会津への文化の流入を考えるうえで興味深い伝説です。



富 岡 観 音

                                   ▼ 大沼郡会津高田町富川字富岡甲
                                   ▼ 只見線会津高田駅バス市野行馬の墓下下車

 バス停馬の墓下で降りて左へ折れていくと、富岡観音として親しまれている福生(ふくしょう)寺観音堂(国重文)の瀟洒(しょうしゃ)な姿が見えてきます。この堂は桁行3間・梁間3間、一重の宝形造で、正面の向拝などは後補ですが、軸部は室町時代の物で、禅宗様の建築です。その由緒はつまびらかではありませんが、伝えによれば、平安時代初期の延暦年間(782〜806)にこの地の大口大領(おおぐちだいりょう)という長者が京都に上り、紆余曲折(うよきょくせつ)を経て観音像を持ち帰って安置したことに始まるといわれています。

 富岡の西方500mの藤田には大光寺(だいこうじ)石造供養塔(県文化)があります。塔高159cm、三角頂部・二条切込線・顎部をもち、上面には阿弥陀を意味する梵字(キリーク)が刻まれた板碑です。キリークの下には、「延応二(1240)年」の銘が刻まれており、記銘のある板碑としては東北最古のもので、東北諸県・北関東の同種のものの祖型として重要です。藤原秀衡の女(むすめ)のものだという伝承があります。



中 田 観 音

                                        ▼ 大沼郡新鶴村米田字堂ノ後甲147
                                        ▼ 只見線根岸駅下車5分

 根岸駅から西へ500m、根岸の集落を抜けていくと中田観音の名で親しまれている弘安寺(曹洞宗)があり、今でも厚い信仰を集めており、香の煙が絶えることがありません。 

 山門をくぐってすぐ右手の保存庫には弁天堂(国重文)が収められています。この堂はもと本堂の厨子(ずし)でしたが、1642(寛永十九)年、観音堂再建の祭に本堂外に出されたものです。和様に唐様を加えた小建築で、頭貫(かしらぬき)・木鼻(きはな)には大仏様がうかがえます。1279(弘安二)年、、当地の地頭富塚盛勝が伽藍(がらん)を造営したといい、この堂も当時のものと考えられています。

 本堂内には銅造十一面観音および脇侍立像(国重文)が祀られており、この脇侍は不動明王と地蔵菩薩です。十一面観音には「文永十一(1274)年」の銘があり、佐布川(さぶかわ)(会津高田町字宮の腰)の長者江川常俊が娘の死をいたんで鋳造したものだといいます。銅像でありながら木彫の様な写実性があり、高い技術を示しています。なお、当地から南東へ3.5km佐武川の観音寺(曹洞宗)にある木造十一面観音立像(県文化)は中田観音に酷似しており、その原型と伝えられます。

 新鶴駅の東、新屋敷集落の北外れの杉並木のなかに田子薬師堂(常福院薬師堂、国重文)が高雅なたたずまいを見せています。1197(建久八)年の創建と伝えますが、室町時代の禅宗様です。宝形造ですが、1954(昭和二十九)年に入母屋造に修復されました。



法 用 寺

                                     ▼ 大沼郡会津高田町雀林字三番山下3554
                                     ▼ 只見線根岸駅下車30分
 
 
 中田観音前の道を南にむかうと米沢の集落を経て雀林にきます。山麓に開けた集落のなかを上りつめていくと、法用寺(天台宗)があります。石段を上り山門をくぐって一歩境内に足を踏み入れると、そこには荘厳な雰囲気が漂い、訪れるものの心を落ち着かせてくれます。

 法用寺は720(養老二)年に徳道(得道)(とくどう)上人によって建立されましたが、焼失し、808(大同三)年、徳一大師が現地に再興したと伝えられています。会津の天台宗の中心として栄えて多くの末寺を抱え、坊舎も33坊を数えたといいますが、天正年間(1523〜92)には16坊となり、さらにその後も衰退をたどりました。
 
 かって山門にあった木造金剛力士像2体(国重文)は藤原時代(平安時代中期)の仁王像として全国的にも類例が少なく、滋賀県善水寺のものとともに貴重な作品です。現在、吽形(うんぎょう)は観音堂(本堂)に安置され、阿形(あぎょう)は会津若松城天守閣内に展示されています。本堂には、ほかに本尊である木造十一面観音立像2体(県文化)が安置されています。1体はカツラ、もう一体はケヤキの一本造で、いずれも藤原時代前期の特色を示しています。同じく伝木造徳道上人坐像(県文化)は鎌倉時代末期の作とみられ、玉眼で肌を黒漆で仕上げた姿は、高僧らしい堂々たる風格をもっています。本堂厨子(国重文)には「正和三(1314)年」の銘があり、記銘のものとしては会津最古の厨子です。棧唐戸(さんからど)の扉、粽(ちまき)つきの円柱に台輪・木鼻がのり、二軒扇垂木を支える仕手先(してさき)のみごとな組物をもつ、禅宗様の小建築です。また、厨子をのせている仏壇(国重文)の格狭間(こうざま)は、禅宗様特有のコウモリ狭間(ざま)です。そのほか、同寺所蔵の十一面観音版木(県文化)は、「応永四(1397)年」の銘のある室町時代初期のものですが、長谷寺様式を今に伝えるものとして貴重です。

 本堂の南には、現存する会津唯一の塔建築である三重塔(県文化)が落ち着いた美しいたたずまいをみせています。高さ19mほど、懸柱式の新しい建築様式で、安永年間(1772〜81)に再々建されたものです。塔内に釈迦三尊が祀られています。本堂前の鐘楼には「文明六(1474)年の銘があり、昔ながらの響きをもっています。                                        




7、飯豊山南麓と阿賀川のほとり

 福島県北西端の越後山地をつらぬく阿賀川流域は、常に会津と越後との交流の上で重要な位置を占めてきました。とくに西会津町は古代末の越後国城氏支配以後明治初期にいたる700年間、新潟県東蒲原(ひがしかんばら)郡と歩調をともにしてきました。蒲生・上杉期には野沢の市街が形成され、藩政期には代官所がおかれ、越後街道の宿駅がおかれ、こんにちでもその面影を残しています。かって河沼郡に属していた阿賀川以南は越後街道が通り、藩政時代、野沢(のざわ)と上野尻(かみのじり)に宿駅がおかれ、さらに阿賀川舟運の船着き場であった上野尻には郡役所が、野沢には代官所がおかれました。

 阿賀川以北の耶麻郡は飯豊山南麓に位置し、古くは山郡(やまぐん)ともよばれた丘陵地帯であり、越後裏街道が通っていました。阿賀川と只見川の合流点に位置し船着き場があった館原(たてのはら)には代官所がおかれ、「山三郷」を支配していました。この阿賀川流域は我が国有数の豪雪地帯ですが、厳しい自然条件のなかではぐくまれた独自の文化は、阿賀川とその支流の流域に史跡や貴重な文化財を数多くの残しています。



飯豊山神社

                                    ▼ 耶麻郡山都町一ノ木中在家乙1760
                                    ▼ 磐越西線山都駅バス一ノ木行終点

 新潟・山形両県との県境にまたがる飯豊山は、五穀豊穣と成人儀礼信仰の山としてあがめられ、近年まで白装束姿の登拝者でにぎわっていました。飯豊山神社の本殿はその山頂に祀られ、遙拝殿は麓の一ノ木集落にあります。社伝によると、652(白雉<はくち>三)年唐の僧智道(ちどう)が開山し、五社権現を祀り、720(養老四)年会津高田の法用寺、1539(天文八)年以後北会津村の蓮華寺が別当となり、蓮華寺の僧宥名(ゆうめい)が1595(文禄四)年中興し、明治になって飯豊山神社と改称したといいます。
 
 登拝者が増えたのは、1590(天正十八)年、蒲生氏郷が会津郡下荒井(現北会津郡北会津村)蓮華寺13世宥名に登山道を開かせ、5年後の1595(文禄四)に完成してからといわれています。社宝に、五社権現の本地仏銅造五大虚空蔵菩薩坐像(県文化)、中尊寺経に属する紺紙金泥法華経(こんしきんでいほっけきょう)1卷、「元禄十二(1699)年」銘の絹本著色飯豊山登山参拝絵図などがあります。虚空蔵菩薩坐像は鎌倉時代末の彫法がみられ、山頂の本殿に奉遷するとき運搬しやすいように、肩と膝が分解できるうに制作されています。

 一ノ木集落の田中家屋敷入り口には、天保年間(1830〜44)に設置された旧一戸(いちのと)村制札場(県史跡)があります。一戸の村名は飯豊山神社の一の鳥居があることに由来し、登山口の宿場として栄えていました。登山道は米沢への間道であり、肝煎の田中家は番所役も兼ねていたとみられ、山越えして米沢藩領へ抜けるのを禁じた制札など13枚が保存されています。現存する県内唯一の制札場であり、制札とともに藩政・交通資料として歴史的価値が高いものです。   



泉 福 寺(せんぷくじ)

                                     ▼ 耶麻郡山都町小舟寺字頭無甲1012
                                     ▼ 磐越西線山都駅下車25分

 駅を出て山都町の中心市街地平野・木曽の商店街を通り抜け、一ノ戸川にかかる磐越西線一ノ戸橋梁の石造り鉄橋をながめながら歩くと、やがて寺内集落に着きます。ここに泉福寺(浄土宗)があります。寺内の地名は、大同年間(806〜810)建立と伝えられる大同寺の院内にあったことに由来するといいます。大同寺は、その後新宮村(現喜多方市慶徳町新宮)に移されましたが、平安時代末期の制作とみられる木造大日如来坐像(県文化)は、堂を建て安置されました。像高66.7cm頭部と胴体がヒノキ材の一木素地彫(いちぼくそちぼり)で、膝部をはぎあわせた胎蔵界(たいぞうかい)の大日如来で、大日堂は、現在、泉福寺に属しています。この寺は1283(弘安六)年、耶麻郡入田付村(現喜多方市岩月村入田付)光徳寺の僧空行(くうぎょう)によって創建され、「天明二(1840)年」銘の梵鐘(ぼんしょう)、「享保三(1718)年」銘の鉦鼓(しょうこ)、「天保十一(1840)年」銘の大日如来をあらわす種子を彫り込んだ供養碑塔などがあります。

 寺内集落には福島・喜多方事件や加波山(かばやま)事件に参加した自由民権運動家三浦文治の生家、真部家があり、南東1kmの小布瀬原集落には元亀〜天正年間(1570〜91)、芦名氏の家臣としてこの地方を治めた渡辺忠兵衛直忠が住んだと伝える小布瀬原館跡と、中崎城と称し、中崎善六郎が住んだと伝える館跡があります。



久 昌 寺(きゅうしょうじ)

                                         ▼耶麻郡山都町舘原4660
                                         ▼ 磐越西線山都駅下車15分

 山都駅から西へほぼ1kmにある久昌寺(曹洞宗)は、河沼郡松尾村(現耶麻郡西会津町尾野本)真福寺の末寺で、1586(天正十四)年、僧幽禅(ゆうぜん)の開基といわれ、観音堂に像高45.3cmの木造十一面観音菩薩坐像(県文化)が安置されています。ヒノキ材の一本造で、「康安二(1362)年」の銘があり、南北朝期の基準作として重要であるばかりでなく、仏師道円(どうえん)の作と考えられていることから、県内の正統仏師の系譜や足跡を探るうえで貴重な仏像です。境内には青面金剛が浮き彫りにされた庚申(こうしん)供養塔3基があります。

 交通の要地に位置する館原集落には、1788(天明八)年、代官所が設置され、木曽組・大谷組・吉田組の「山三郷」とよばれた地域を支配していました。「文久二(1862)年」銘の道標と、舟運の船着場跡が残っています。



塩 坪 遺 跡

                                  ▼ 耶麻郡高郷村塩坪字車地蔵
                                  ▼ 磐越西線荻野駅バス会津坂下行塩坪下車5分

 「荻野石」の産地として知られる荻野の駅前商店街を通り抜けた所に高郷村郷土資料館があります。1983(昭和五十八)年に開館した館内には、村内から産出した貝化石やオオカイギュウなど、海生哺乳類の化石、漆かき・蝋しぼり・紙漉(す)きなど、かって村内で行われていた伝統産業の用具、塩坪遺跡から出土した旧石器など、学術上貴重なものが展示されています。

 資料館から阿賀川に沿って約3km歩くと塩坪集落に着きます。その集落東端にある塩坪遺跡は、1966(昭和41)年8月に発見された福島県を代表する旧石器時代の遺跡です。調査の結果、今から1万5000年前の後期旧石器時代に属するナイフ形石器、エンドスクレーバーなど多数発掘され、関東地方と東北地方の両地域に通ずるナイフ形石器文化であることが判明しました。1986年7月、この遺跡から6kmほど離れた耶麻郡西会津町登世島の山本遺跡から、塩坪遺跡と同系とみられるナイフ形遺跡が発掘され、阿賀川流域の旧石器文化の性格を解明するうえで貴重な資料を提供しました。



如 法 寺(にょほうじ) 観 音 堂

                                     ▼ 耶麻郡西会津町野沢字如法寺乙3533
                                     ▼ 磐越西線野沢駅バス大久保行如法寺下車

 宿駅の面影を残す野沢の商店街から南へ1kmほど歩くと、比高70mの段丘崖があり、ヘアピンカーブの坂道を上り段丘面に如法寺(真言宗)があります。807(大同二)年、徳一大師が創建したといわれる古刹(こさつ)で、道路の右手に本堂、左手に観音堂(県文化)があります。この観音堂は1611(慶長十六)年の大地震で崩壊し、2年後に再建されたものですが、桁行5間・梁間3間の単層入母屋造りで、正面と背面に2間の向拝をつけた雄大な仏堂です。「鳥追観音」とか「ころり観音」といわれ親しまれています。本尊は行基作と伝えられる聖観音立像(県文化)で、像高160cmのケヤキ材一木造です。このほか、平安時代を下らない作風をもつ脇侍の不動明王立像と毘沙門天立像(ともに県文化)、旧本尊仏である金剛力士立像(県文化)などがあり、さらに寺宝として「応安二(1369)年」銘の銅鑼(どら)、「延徳元(1489)年」銘の大般若経(だいはんにゃきょう)の唐櫃(からびつ)があります。観音堂東の正面入口には仁王門があり、境内に根回り6.06mもあるコウヤマキ(県天然)の大木があります。

 観音堂の手前300mの雷山公園に杉木之碑(県文化)があります。代官所が1825(文政八)年から1831(天保二)年にかけて、野沢組の42ヶ村に32万5000本の杉の苗木を配って植林を奨励し、不時の災難に備えるように布告した碑です。高さ90cm・長さ126cmの胴石の上に笠石がのっており、1831(天保二)年、野沢本陣前の制札場に建てられましたが、明治以降、碑の位置は転々とかわり、1969(昭和四十四)年、現在地に移転しました。この碑の内容を裏付ける文書不時囲杉木組定御請(ふじがこいすぎのきくみさだめおんうけ)2点(県文化)とともに近世民政史に関する貴重な資料となっています。



大山祗(おおやまずみ)神社

                                      ▼ 耶麻郡西会津町野沢字大久保
                                      ▼ 磐越西線野沢駅バス大久保行終点下車

 如法寺から南へ3kmほど行くとバスの終点大久保に着きます。ここに宇田帰宮大山祗神社の遙拝殿があり、旅館を兼ねた土産物店が軒を並べ、鳥居前町を形成しています。祭神は大山祗命・磐長比売(いわながひめ)命・木花咲耶比売(このはなさくやひめ)命の3柱で、778(宝亀九)年真海の勧請による開山と伝えられます。山の神・安産の神として親しまれ、普通にはここの遙拝殿で参拝しますが、本殿は山道を歩いて40分ほどの台倉山(だいくらやま)の中腹にあり、さらにその山奥に奥之院があります。

 祭礼には、6月1日から1ヶ月間行われる春祭「大山祭」、旧暦の9月9・19・29日の3日間の例祭、旧暦の大晦日から元旦にかけて行われる「二年参り」などがあります。



出 ヶ 原 観 音 堂

                               ▼ 耶麻郡西会津町下谷字宮ノ後丙241−2
                               ▼ 磐越西線野沢駅バス黒沢行出ヶ原観音前下車

 野沢市街地の東端で国道49号線(旧越後街道)とわかれ、長谷川沿いに走る国道400号線(旧西方街道)を4kmほど南下すると、出ヶ原集落に着きます。かって「出ヶ原紙」の産地として知られた集落で、その昔、伊豆国からきた者が紙漉(かみすき)の技術を伝えたといいます。これにちなみ伊豆原と称しましたが、その後現在の地名に改めたといわれます。

 この集落に出ヶ原観音堂とよばれ、民間信仰の厚い円満寺観音堂(国重文)があります。1335(建武二)年、中先代(なかせんだい)の乱で鎌倉片瀬に戦死した芦名盛員(もりかず)・高盛父子を供養するため、盛員の妻(平泉藤原氏出身)が翌1336(延元元)年に金山町沼沢に創建し、1346(貞和二)年に出ヶ原に移したと伝えられていますが、1611(慶長十六)年の慶長の大地震で倒壊し、翌年宝形(ほうぎょう)造に再建されました。しかし、1970(昭和四十五)年から行われた解体修理のとき、唐様入母屋造の原型に復元され、現在地の伊豆原山(いずはらやま)神社境内に移築されました。茅葺屋根の三間堂(桁行・梁間ともに5.28m)で、内陣に造りつけの須深壇(しゅみだん)があり、張り出しの厨子(ずし)のなかに観音像が安置されています。建立当時の材料が良く保存されており、当時の技法を知るうえからも貴重な古建築です。



真 福 寺(しんぷくじ)

                                   ▼ 耶麻郡西会津町尾野本字門前丙3176
                                   ▼ 磐越西線野沢駅下車40分

 野沢駅から4km、野沢盆地東縁の山麓に松尾集落があり、その北東の山腹に真福寺(曹洞宗)があります。天平年間(8世紀)行基の開基といわれます。正平年間(1346〜70)、鎌倉五山の一つ寿福(じゅふく)寺の僧慈心(じしん)がこの寺にうつり、七堂伽藍が創建され、末寺37を持つ大寺院であったといわれます。しかし、元亀〜天正年間(1570〜92)兵火にあって焼失し、1614(慶長十九)年、僧明厳(めいげん)が再建、上野国(こうづけのくに)白井の双林寺の末寺となりました。胎内に「康安二(1363)年」銘と大仏師法橋乗円(ほうきょうじょうえん)の銘が入った木造地蔵菩薩坐像(県文化)があります。鎌倉時代末から室町時代初期の様式を伝える、像高38cmのカツラ材寄木造の像です。このほかの寺宝として、尼将軍北条政子奉納と伝えられる「承元五(1211)年」銘の大般若経もあります(ともに若松城天守閣に展示中)。

 真福寺の裏山には松尾神社(祭神大山咋<おおやまいく>命)があります。酒造の神として杜氏の信仰が厚く、良寛書「松尾大明神」の扁額があります。このほか、松尾集落には鎌倉幕府の御家人で、のちに地頭となった宇多河信濃守道忠(うだがわしなののかみみちただ)が住んだと伝えられる館跡があり、北へ1kmの所には縄文時代中・後期の上小島(かみおじま)遺跡、南西に約500mの所には条里制遺構があります。



西 光 寺(さいこうじ)

                                     ▼ 耶麻郡西会津町上野尻字梵天下1512
                                     ▼ 磐越西線上野尻駅下車10分

 上野尻市街地の南端に西光寺(浄土宗)があります。いつの頃か光源(こうげん)という僧が創建し、永正年間(1504〜21)に良然が中興したときには多くの寺領があったといいます。この寺院に紙本著色蒲生氏郷像(国重文)があります。縦71cm・幅39cmの小幅ですが、参議従三位に昇進した氏郷が、冠をかぶり、群笹(むらざさ)に唐草模様をあしらった黒袍(こくほう)を着けた姿で堂々と描かれています。京都妙心寺の僧逸伝(えつでん)の賛があり、没後26年を経た1621(元和七)年の作であることがわかります。会津若松市興徳寺には氏郷三周忌の1597(慶長二)年に描かれた画像の標本があります。

 1952(昭和二十七)年7月、上野尻市街地北端の経塚から発見された五職神経塚出土経筒3口(県文化)は、廻国聖(かいこくひじり)が書写した法華経を入れた経筒で、石製の外容器3個に納められ、年号はいずれも「永正十五)年」です。

 上野尻駅北方200mの上野尻遺跡(東林崎遺跡)は、縄文晩期から弥生初期に移行する時期の遺跡で、籾痕(もみあと)のある土器片が1点出土しています。




8、大内宿から田島・檜枝岐へ

 会津地方の南部に位置するこの地方は、険阻な山岳地帯で、俗に奥会津と称され,かっては”南山”とよばれていました。会津盆地内にみられる古墳文化や平安初期の仏教文化はなく、会津でも特異な地域です。中世は関東御家人の所領、近世は天領として支配されていました。平地が少なく、高冷地であるところから生産性は低く、昔から山仕事や出稼ぎなどで生計を立ててきました。しかし、1986(昭和六十一)年の会津鬼怒川線開通により、自然や温泉を基盤としたリゾート地に生まれ変わろうとしています。こうしたなかで、当地固有の生活や文化はしだいに失われつつあります。



大 内 宿

                                    ▼ 南会津郡下郷町大内
                                    ▼ 会津鉄道湯野上温泉駅下車90分

 湯野上温泉駅から小野川に沿って木々の茂る山道を6kmほど上りつめると、目の前が開け、茅葺屋根の家並みの集落が見えてきます。これが国選定重要伝統的建造物保存地区に指定された大内の宿場です。大内が若松と下野国今市を結ぶ会津西街道(下野街道)の一宿駅として整備されるのは、江戸時代初期で、そのとき屋敷割りが行なわれ、本陣・脇本陣を除いて、一般は、屋敷95坪、家屋の建坪40坪と定められました。戸数は道の両側に24戸、計48戸と推定されています。各家はすべて道路に面し、半切妻屋根で、小屋組は寄棟造り、屋根は茅葺きに統一されていました。現在道の両側に流れている堀は中央にありました。

 会津西街道は、会津藩主の参勤交代や旅人の通路、物資の輸送に利用されました。初代藩主保科正之(まさゆき)・2代正経(まさつね)・8代容敬(かたたか)がこの街道を通っています。物資の輸送は、官営の宿駅ごとの駅継ぎ輸送と、民間の目的地までの付け通し輸送の2形態があり、後者は駑者馬(どちゃうま)とか中付馬とよばれました。若松へは木地・小羽板・薪炭などの木工品や特産品が、若松からは米・味噌・醤油・酒など生活用品が運ばれました。当時は1日の旅程が10里ほどでしたので、若松から5里の大内は、若松と田島の中間に位置し、旅人や馬方の休息の宿場でした。若松から江戸までは61里の道のりで、5泊6日を要しています。大内は宿場といっても小さく、人々は駄賃の他に農業の収入で生計を立てていました。1884(明治十七)年三方道路の一つ日光街道が大川沿いに開通すると、大内は宿駅としての機能を失い、山間に取り残されてしまいました。

 なお、湯野上温泉から歩いて北へ15分、小野嶽の中腹にある小野観音堂は、1813(文化十)年に建立された、三間の宝形造りの堂で、「康暦三(1381)年」の刻銘をもつ銅製鰐口(県文化)を伝え、本県に遺存する最古のものです。



旭田寺(ぎょくでんじ)観音堂

                                        ▼ 南会津郡下郷町中妻字観音前
                                        ▼ 会津鉄道弥五島駅下車40分

 弥五島駅前の万願寺(まんがんじ)(曹洞宗)には、薬師堂に奉納された六角形の鉄製釣灯籠(県文化)があります。各面には市松や巴などの文様、扉には「天文二十(1551)年天十月雪下正次作」の文字を透彫りにしています。
 

 万願寺から大川を渡り、山に向かって坂道を上っていくと、旭田寺観音堂(真言宗、国重文)に着きます。別に中妻観音堂ともいわれます。簡素な三間堂で、隅柱の上にだけ舟肘木(ひじき)用いた円柱が堂の屋根を支えています。建立時代については、室町時代を下らないとされます。



鴫 山(しぎやま)城 跡

                                   ▼ 南会津郡田島町田島字愛宕山・字根小屋
                                   ▼ 会津鉄道会津田島駅下車10分

 中世の南会津は、大川筋を長沼氏、伊南川筋を河原田氏、只見川筋を山ノ内氏が支配していました。会津田島駅の右手前方に見える愛宕山の中腹にある鴫山城跡(県史跡)は、中世に南山(南会津郡東部)を支配していた長沼氏の居城として、南北朝末から室町初期にかけて築かれ、1627(寛永四)年、加藤氏の若松城入部とともに廃城となりました。愛宕山全山が城跡で、城の中心にあたる中腹から麓にかけて、上千畳(うわせんじょう)・下千畳(したせんじょう)・お花畑・御平庭(おんひらにわ)・お茶屋場・嗽清水(うがいしみず)・大門(だいもん)などの地名や枡形・空堀・土塁などの遺構が残っています。中世の城館から近世の城郭への移行期の遺構を含む城跡で、近世城郭の先駆的形態が随所に見受けられます。

 長沼氏によって牛頭天王の祭として始められた田島祇園祭(国民俗)は、一時中断したものの八百余年の伝統をもち、現在は田島町の田出宇賀(たでうが)神社と熊野神社(同一地内)の共同祭として、毎年7月19日から21日にかけて盛大に行われています。また、同社には、あわせて18面の御正体(みしょうたい)(県文化)が保存されています。



奥会津地方歴史民俗資料館

                                       ▼ 南会津郡田島町田島字丸山甲
                                       ▼ 会津鉄道田島駅下車10分

 会津田島駅がら西へ10分ほど行くと奥会津地方歴史民俗資料館があります。1885(明治十八)年、田島町に建てられた旧南会津郡役所(県文化)を移築し、1972(昭和四十七)年、佐藤耕四郎氏の民俗コレクションを主な展示物として開館しました。建物は木造洋風建築で、正面13間・奥行15間の閉鎖型中庭式で、全面棟だけ2階建になっています。美しいポーチをもち、ステンドグラスなども使用しています。館内は、木地師・杓子(しゃくし)うち・小羽うち・太鼓胴作り・下駄作り・農耕・養蚕・紡織・漁撈(ぎょろう)・屋根葺などの奥会津の山村生産用具(国民俗)をはじめ、衣食住に関する日常生活用具が約1万点が展示されています。

 会津漆器の木地つくりは、江戸時代以降、南会津郡各地で盛んに行われました。駒止(こまど)トンネルを100mほど下がった南郷村戸板には、1756(宝暦六)年から40年間居住した木地師集落跡があり、屋敷跡・惟喬(これたか)親王を祀った神社の本殿や鳥居の敷石・墓地などが残っています。戸板の木地師は、その後舘岩(たていわ)村保城を経て、現在は高杖原(たかついはら)に住んで農業を営んでいます。

 資料館に隣接する丸山公園内に南山義民碑があります。8代将軍徳川吉宗の時代、南山御蔵入地(会津・大沼郡の天領)で、1720(享保五)年から3年間、年貢減免・江戸廻米の停止・郷頭制の廃止などを要求して百姓一揆が行われました。これを南山御蔵入騒動といいます。この一揆は天領における最初の強訴で、幕府に深刻な打撃を与えましたが、農民6名が処刑され、さらし首となりました。この義民碑は犠牲となった6名を弔うため、1928(昭和三)年に建立されました。義民碑の傍らには、土井晩翠が訪れとときの歌碑「めにみえぬ神秘の力われを引き 義民の墓にけふ詣でしむ」が立っています。

 田島町本町の薬師寺(真言宗)は、中世領主長沼氏の祈願寺で、「嘉元三(1305)年」の胎内銘をもつ木造阿弥陀如来坐像(県文化)があります。会津田島駅より国道289号線を西に車で15分の所に細井家資料館があります。同家は黒沢新田村の名主を勤め、在郷商人としても活動しました。自宅を資料館とし、古文書や工芸品などを展示しています。



南会津南郷民俗館

              ▼ 南会津郡南郷村界字川久保552
              ▼ 会津鉄道田島駅バス檜枝岐行山口下車バス乗換え只見行きさゆり荘入口下車

 南郷村の山口で只見行きのバスに乗り換え、さゆり荘入口で降りると、右手に奥会津南郷民俗館が見えます。南郷村歴史民俗資料館旧山内家住宅(県文化)・旧斉藤家住宅(県文化)の三棟の建物で構成されています。館内には、伊南川流域で使用されていた漁撈用具(県民俗)、江戸時代から昭和初期まで当地方の主要衣料として「重要な役割を果たしてきた麻に関する用具類と製品(県民俗)、冬期間の運搬用具として欠かすことの出来ない(そり)と付属品(県民俗)を中心に、農耕用具・火伏せ用具などが展示されています。これらの民具は、すでに過去のものとなった当地方の人々の生活を、今、語りかけています。

 旧山内家住宅は、もと同村鴇巣(とうのす)字村中にありました。山内家は江戸時代中期の鴇巣の名主であることから、直屋(すごや)の形態をもつこの住宅は、上層農民の住宅に分類されます。桁行12間・梁間4間、平面積は57.5坪ですが、土間がその半ばを占めています。建てた時期は18世紀後半です。旧斉藤家住宅は、同村界字高田原にありました。馬屋中門造の形態で、19世紀後半に建てられた中流農民の住宅です。



久 川 (ひさかわ) 城 跡

                                  ▼ 南会津郡伊南村青柳字小丈山・小塩字堂前
                                  ▼ 会津鉄道田島駅バス檜枝岐行古町下車20分

 伊南村古町のバス停で降りると善導寺(浄土宗)があります。墨で塗られているところから俗に黒仏様といわれている木造阿弥陀如来坐像(県文化)が安置されています。ヒノキの寄木造で、鎌倉時代初期の作とされます。

 古町から北西1.5kmの小丈山に久川城跡(県史跡)があります。久川城は、1589(天正十七)年、摺上原(すりかみはら)の戦いで黒川城主芦名義広を破り、さらに南会津に侵攻する伊達政宗の軍勢に備えて、伊南郷の領主河原田盛次が築きました。伊達方の攻撃は防ぎきりましたが、1590(天正十八)年、豊臣秀吉の奥州仕置により所領は没収され、蒲生氏郷が全会津の支配者となりました。久川城は、蒲生氏の会津支配の一支城となり、その後城主はかわりますが、寛永年間(1624〜44)に廃城になったと伝えられます。
 小丈山の山頂部に曲輪・空堀・土塁・枡形の遺構が残っています。三次にわたる発掘調査で、礎石建物跡・門跡が見つかり、16世紀末から17世紀初頭の時期を中心とする土師質土器、唐津・美濃の陶器が出土しています。

   



檜 枝 岐 の 舞 台

                                     ▼ 南会津郡檜枝岐村字居平663
                                     ▼ 会津鉄道会津田島駅バス檜枝岐中央下車

 伊南村から檜枝岐村に向かっていちばん奥の集落が大桃です。大桃の舞台(国民俗)は、駒嶽(こまだけ)神社境内の舞台で、1895(明治二十八)年の再建です。檜枝岐村に入ると道ばたのところどころに苔むした石仏が見られます。この村は高冷地にあるため米が実らず、ソバを主食としていました。六地蔵は凶作の年に間引きされた幼児たちの供養のために建てられたといいます。檜枝岐の舞台(国民俗)は、鎮守神社境内の舞台で、1893(明治二十六)年の大火で焼失し、翌年再建されたものです。大桃・檜枝岐の舞台とも兜造の固定式舞台の構造になっています。見物席からみて舞台の左端には、花道をつけるためのほぞ穴があります。これらの舞台はいずれも神社の拝殿で、本来は神事がおこなわれる場所ですが、かっては歌舞伎が上演されていました。
 なお、舘岩村湯ノ花の二荒山(ふたらさん)神社境内の舞台は、1889(明治二十二)年に建築され、県内では最も古いものです。

 歌舞伎は南会津では地芝居といいます。地芝居には、地芝居好きの指導で土地の人で上演する習い芝居と、旅回りの一座を買い切って上演する買い芝居とがありました。大正時代末から昭和時代初期まで、南会津のあちこちの町や村で、神社の祭礼の日に奉納芝居として、また堤防や橋その他建築物の落成式の祝賀行事として行われていました。しかし、現在、歌舞伎を上演しているのは檜枝岐歌舞伎だけです。檜枝岐に歌舞伎が伝わったのは寛政年間(1789〜1801)といわれ、娯楽の少ない時代の人々の楽しみとして今日まで受け継がれてきました。村人によってつくられた花駒座という一座があり、毎年五月12日と8月19日の祭礼の日に、奉納芝居を興業しています。