飯 盛 山

                           ▼ 会津若松市一箕町大字八幡字弁天下
                           ▼ 磐越西線会津若松駅バス飯盛山経由金堀行飯盛山下車3分

 市街地の北東にある飯盛山は、昔から景勝の地として知られていました。山麓にある宗像神社は弁天財を祀るので弁天堂とも呼ばれましたが、明治初年に鹿島神社と改称しました。この神社の前を流れる戸の口堰の洞窟は、猪苗代湖の水を若松城下に引くために、1835(天保六)年にくり抜いたもので、戊辰戦争の際、会津藩の16,17歳の少年で編成された白虎隊は戸の口の戦いに敗れ、この洞門をくぐり抜けて飯盛山にたどり着きました。しかし、そのころには若松城下には西軍が殺到し、町には火が放たれていました。入城して決戦を挑もうとしていた少年たちは、城が黒煙に包まれているのを見て、城が陥落したものと思い、20名全員が自刃しました。しかしただ一人飯沼貞吉は人事不省中に通りかかった人に助けられ、一命をとりとめたので、この話が伝えられるところとなりました。

 飯盛山を登りつめると、白虎隊士の墓があります。正面には自刃19士の墓、右側は戦死者31士の墓です。1957(昭和32)年には蘇生者飯沼貞吉の墓も設けられました。左側には当時会津藩主松平容保の「幾人の涙は石にそそぐとも その名は世々に朽じとぞ思う」という歌碑があります。そのほか墓前の広場には、1928年、イタリア首相ムッソリーニから贈られた碑、1935年駐日ドイツ大使館付武官から寄贈された碑、佐原盛純作の白虎隊漢詩の碑などがあります。

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