河 野 広 中

 三春町は日本の市民革命運動ともいえる自由民権運動の東日本における中心でした。1874(明治七)年、板垣退助らの「民撰議院設立建白」にたんを発した国会開設の要求は全国に広がり、各地に政治結社が結成されました。
 三春出身の河野広中が石川町に設立した石陽社は土佐の立志社に次ぐものです。広中はついで田村郡常葉町に最初の民会を設立、明治10年には三春にもどって三師社(所在地不明)を設立、、同時に田母野秀顕・松本茂らと青少年の政治教育のための正導館を設立し、民権思想の普及に努めました。

 河野広中は、1849(嘉永二)年三春町の郷士の家に生まれました。その場所ははっきりしませんが、甥の河野広躰(ひろみ)のそだった三春大町の家だとする人が多い。広中はずばぬけた指導力で東日本の民権運動を指導し、福島事件(1882年)で国事犯として入獄7年、出獄後代議士当選14回、衆議院議長をへて大隈内閣の農商務相となるなど、立志伝中の人ですが、金銭的には清廉で、自分の家・財産をもたず、明治末期に三春地方有志によって三春町亀井字滝田にカヤぶきの士族屋敷をおくられたのが唯一の財産でした。

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