二本松少年隊

 戊辰戦争で幕府軍側にあった二本松藩(丹羽氏10万7千石)は西軍の北上を阻止するため、家臣の精鋭をすべて東北の玄関白河口まで出撃させていました。ところが西軍は、浜通りから三春藩を攻略、いっきょに霞ヶ城に殺到しました。意表をつかれた城内では家老丹羽一学(藩主長国らはすでに米沢に疎開)ら残る老人と少年で急遽守備隊を編成し防戦しました。12歳から17歳までの63名が各地で戦い、16人が戦死しています。

 ”1868(慶応四)年7月29日夕刻、少年隊員成田才次郎(14歳)は放心状態で城下西谷門を下っていた。早朝から大壇口の戦いに少年隊員も25名が出陣、2時間にわたる激闘で隊長木村銃太郎以下半数近くの隊員を失い、城下に最後の決戦場をもとめて満身創痍の状態でひきかえしていた。そのとき前方から隊列をくんですすんでくる西軍の一隊がにあったが、彼らは乱心者とみて左右にわかれて道をゆずってやった。才次郎はふらつきながらなかほどにいたしゃぐまをかぶった隊長とみられる武士に、すれ違いざま渾身の力をしぼって腹部に突いてかかった。相手はその場にどっと倒れ、彼もかさなるようにしてたおれた。部下は彼を斬殺しようとしたが、『刺されたのはじぶんの不覚、少年は殺さずに』といって息をひきとったといわれる。”
 このような少年隊秘話もあります。

 倒された西軍の隊長は長州藩士白井小四郎政法(31歳)で二本松城下真行寺にねむっています。その光る武士道に、才次郎の遺族は、四季折々の花を彼の墓前に供え、霊を慰めたといいます。

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