中通り北部

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 中通り北部は、北流する阿武隈川が仙台平野に出るまでに堆積形成した一連の平地や盆地でできています。この地域一帯には、吾妻や安達太良のほか、遠くは榛名や霧島の噴出物と浸食・氾濫による堆積物が堆積し、,変化に富む海食峡谷・漣痕(れんこん)・化石層を残しています。
 中通り北部は、福島を中心に、二本松市を含む旧安達郡、福島市に含まれてしまった旧信夫郡、それに伊達郡を加えた地域をさし、信達地方ともよばれます。伊達郡は、阿武隈川の北西を西根郷、南東を東根郷、南部の川俣地区を小手郷とよび、安達郡は阿武隈川を挟んで東安達・西安達とよび、地域性を培ってきました。

 この地域には、旧石器時代から祖先が住みつき、645年の大化改新から平安時代初めの811(弘仁二)年にかけての長期にわたり討伐をうけ、次第に同化していきました。この地域はもと信夫・安積2郡に属し、信夫国造(しのぶのくにのみやつこ)・安積国造の支配をうけ、718(養老二)年からの一時期は石背(いわしろ)国の管轄となりましたが、906(延喜六)年に安達郡が分けられ、1080(承歴四)年から1171(承安元)年までの間に伊達郡が分けられました。

 1189(文治五)年石那坂(福島市)や大木戸(国見町)の合戦で平泉方が敗れると、関東武士たちが移住してきました。そのなかから成長してきた伊達氏は、戦国時代、伊達政宗が白河地方の佐竹氏、会津の芦名氏、浜通の相馬氏を制して山道に覇権を確立しました。しかし、その後、1590(天正十八)年に始まった秀吉の奥羽仕置に屈服して、仙台へ移っていきました。

 江戸時代には、信達2郡が米沢藩上杉氏の支配から離れると、二本松の丹羽氏を除いてすべて親藩・譜代の大名領か天領となりました。1749(寛延二)年の大一揆、1866(慶応二)年の信達騒動に揺れ動き、1868年の戊辰戦争では戦場となり、二本松少年隊の悲劇の舞台となっていきました。また、この地域は、開国以来の蚕種・生糸・絹織物の輸出によって国際的な絹業王国の名をとどろかせました。第一次世界大戦後の慢性的な農村不況のなかで、全農の指導による小作争議を展開しながら養蚕から果樹への転換を果たし、全国屈指の果物王国となりました。

1、二本松と霞ヶ城

2、阿武隈川の山ふところ

3、県 都 福 島

4、あつかし山と西根郷

5、梁川城と東根郷

6、絹の里と小手郷



1、二本松と霞ヶ城

 二本松市を中心とする安達郡・大玉村・本宮町は安達太良連峰と阿武隈川に挟まれ、西安達とよばれてきた、稜線の美しい安達太良麓に展開する地域です。二本松市杉田の郡山台(こおりやまだい)からは、大量の焼米が出土し、郡衙(ぐんが)の所在を推測させました。また、安達町油井は東山道(とうざんどう)の湯日(ゆい)駅がおかれるなど古い歴史をもつ地域です。



二 本 松 神 社

                                            ▼ 二本松市本町
                                            ▼ 東北本線二本松駅下車5分

 二本松駅から駅前通りを北へ300m程行くと、二本松神社の鳥居が見えます。藩政期には後両社とよばれた二本松神社(熊野宮ー祭神伊佐奈美(いざなみ)命・事解男(ことさかお)命・速玉男(はやたまお)命、八幡宮ー祭神品陀和気(ほんだわけ)命・気長足媛(おきながたらしひめ)命)は、1643(寛永二十)年、丹羽光重入部にともない、畠山時代に白旗ヶ峯(霞ヶ城公園の山頂、霧ヶ峰城と称す)の鎮座してあったものを、城の改築の際にこの地に遷宮し、丹羽家と領民の守護神としたものです。社殿は1805(文化二)年に築造された物です。日本三大提灯祭りとして知られる例大祭は、10月4・5日に行われ市民に親しまれています。
 
 二本松神社の北隣には畠山氏累代の墓のある称念寺(しょうねんじ)(時宗)があります。また、付近には二本松市歴史民俗資料館(丹羽家文書等収蔵)・二本松市図書館(朝河貫一資料収蔵)などの文化施設があります。



大 隣 寺

                                          ▼ 二本松市成田町1−532
                                          ▼ 東北本線二本松駅下車20分

 二本松神社から西へ1kmほど行くと、二本松藩丹羽氏の菩提寺で丹羽氏累代の墓のある大隣寺さいりんじ)(曹洞宗)があります。1627(寛永四)年、丹羽長重が父長秀のためその居城があった白河に創建、その子光重が二本松城に転じたため、寺も何度か場所を変え、1667(寛文七)年に現在地に移転しました。戊辰戦争の時に、西軍の二本松城総攻撃に際し、藩内の12・13歳の少年で編成する二本松少年隊は、大壇口(おおだんぐち)の戦闘に参加し、木村銃太郎に引率されて戦いましたが、その多くは戦死しました。境内には二本松少年隊の墓・戊辰戦争殉難者群霊塔があり、当時をしのぶ史跡として参詣が絶えません。本堂には少年隊の遺品や藩主の遺品が収録されています。



霞 ヶ 城 跡

                                        ▼ 二本松市郭内3丁目
                                        ▼ 東北本線二本松駅下車15分

 二本松駅から北方1km、久保丁通りの急坂をのぼりつめると眼前に霞ヶ城公園があらわれます。ここは丹羽氏10万石余の城跡で、頂上のコケむした石垣には遠く南北朝の昔がしのばれます。
 霞ヶ城公園(霞ヶ城跡)の入口にある「霞ヶ城址」の碑の裏面に次のような記述があります。『古名は白旗ヶ峯、奥州探題畠山氏の入国と共に霧ヶ城と言い、後霞け城と称す。寛永20(1643)年丹羽氏入国と共に積達10万石余の居城となり、明治戊辰の役に落城す。後此地に本邦最初の民営製糸工場を設く、実に輸出産業の嚆矢(こうし)たり四辺勝景に富み史跡多し、昭和24年公園となる。』

 南北朝時代の1341(興国二)年、足利尊氏はその一族の畠山高国を奥州探題に任じ、塩沢・殿地ヶ岡(現塩沢小学校付近)に居を構えさせました。その後、孫国詮(くにあき)は攻防の便を考えて1400年前後に霞ヶ城公園の山頂、白旗ヶ峯に築城しました。これを霧ヶ城といいます。以後200年近く隆盛を続けますが、粟の須の変(畠山義継がいつわって伊達輝宗を殺し、自分も殺された事件)の翌1586(天正十四)年、12代義綱は伊達政宗に滅ぼされ、その後は、伊達・上杉氏らの出城となりました。

 江戸時代初期、1643(寛永二十)年、丹羽光重(丹羽氏3代目)が白河から移封され、城郭を山麓に移し霞ヶ城を構築し、1868(慶応四)年7月24日、戊辰戦争で西軍に敗れ天守閣が焼失するまでの228年間丹羽氏の居城でした。城郭は、旧所に新たに四つの門で曲輪(くるわ)内外を区切り、曲輪内には城主と家臣が住み、町屋はすべて曲輪外に出すことで城を守りました。現在石垣に囲まれた箕輪門(1988年再建)など当時の遺構を数多く残して居ます。戊辰戦争ではこの城とともに命を落とした二本松少年隊の活躍は有名です。落城後、1873(明治六)年には二の丸跡に二本松製糸会社(その後双松館製糸会社と改める)ができ、現在は県立公園となっています。

 公園の東入口の花崗岩に「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺」(なんじがほうなんじがろく たみのこうたみのし かみんしいたげやすく しょうてんあざむきがたし)と刻まれています。この戒石名碑(国史跡)は、1749(寛延二)年3月7代藩主丹羽高寛(たかひろ)が儒学者岩井田昨日(いわいださくひ)の献策によって藩政改革と藩士の綱紀粛正の指針として、中国北宋の黄庭堅(おうていけん)の戒石名をまねて一夜のうちに刻ませたものといわれます。また公園内には、高村光太郎の『智恵子抄』の詩碑があり、「樹下の二人」の一節「あれが阿多羅山、あの光るのが阿武隈川」が刻まれています。智恵子の生家は隣町の安達町油井にありました。ほかに黒絵の茶屋とよばれ、風流人の集いの場であった洗心亭など多くの史跡を残しています。公園内では9月下旬から11月まで菊人形が開かれます。公園から北へ1kmほど行くと、ヒノキ材の一本彫で、鎌倉末期の作と推定される木造聖観音菩薩立像(県文化)が安置されている龍泉寺(りゅうせんじ)(曹洞宗)があります。



安達原(あだちがはら)・黒塚(くろづか)

                      ▼ 二本松市安達ヶ原4−126
                      ▼ 東北本線二本松駅バス御免町経由福島駅行安達原入口下車10分

 二本松の東端、阿武隈川にかかる安達ヶ原橋の東岸一帯が安達ヶ原公園となって居ます。この一角の小高い丘陵のふもとに謡曲「黒塚」で知られる奥州安達ヶ原真弓山観音寺(天台宗)があります。境内には鬼婆の住居であったといわれる奇怪な岩屋、夜泣き石などの巨岩があります。また川岸寄りには鬼婆を葬った黒塚があり、塚には老杉とその下に平兼盛の歌『陸奥の安達ヶ原の黒塚におにもこもれりと聞くはまことか』の碑があります。このころすでに鬼の伝説があり、さらに歌枕にあこがれる都人がみちのくの女を皮肉った歌だといいます。この「おに」とは御尼(おに)であり、女性のことで、それが鬼に転じ、謡曲がつくられ、その間にいろいろな挿話が加えられ鬼婆伝説となったと思われます。

 安達ヶ原から西へ2km行くと、根崎町に寄木造で中国宋風の影響をうけた乗円仏共通の造形のみられる木造阿弥陀如来坐像(県文化)が安置されている善性寺(ぜんしょうじ)(浄土宗)があります。



粟 ノ 須 古 戦 場

                                  ▼ 二本松市沖2丁目
                                  ▼ 東北本線二本松駅バス岩角経由本宮行五老内
下車10分

 バス停から南へ1kmほど行くと粟ノ須古戦場の碑が見えます。このあたり一帯が粟ノ巣古戦場です。大内定綱(さだつな)の小浜城を攻略した伊達政宗は、一気に畠山義継(よしつぐ)の二本松城攻めにかかろうとしていました。1585(天正十三)年、義継は親交のあった政宗の父輝宗や八丁目城主伊達実元を通じ、政宗に講和を申し入れようと小浜を訪ねますが、それもならず、窮地に追い込まれた義継は、隙を見て輝宗を捕らえ、二本松へ急ぎ戻ろうとしました。政宗は粟ノ須で追いつき、戦闘となり覚悟した義継は輝宗を刺殺し自らも割腹して果てました(これについては、政宗が父輝宗もろともに義継を銃撃したとも伝えられる)。畠山氏滅亡の契機となった古戦場です。

 また、二本松駅南西4kmの原瀬川左岸の台地上に、複式炉をともなう17の住居跡、増築を意味すると思われる二重の周構など、重要な遺跡原瀬上原遺跡(県史跡)があります。



真 弓 紙

 二本松市の北隣、安達町上川崎は紙の里として知られています。1943(昭和十八)年に第18回芥川賞を受賞した二本松出身の東野辺薫(とうのべかおる)の作品『和紙』には、冬の阿武隈川の流れでさらした白楮(こうぞ)を厳しい寒さのなかで、冷たい水で漉き上げる作業が具体的に、感動を込めて描かれています。

 上川崎の和紙づくりは平安の頃からとされ、真弓(檀(まゆみ))を原料としたので、真弓紙の名で知られました。江戸時代には二本松藩の専売品でした。全盛期の大正時代なかばには、全村5百余戸の内300戸ほどが紙漉を行い、障子紙をおもに掃立(はきたて)紙(養蚕用)など、多くの種類を生産してきました。しかし、第二次世界大戦後は洋紙におされて、現在はわずか3戸あまりとなっております。



2、阿武隈川の山ふところ

 安達郡の阿武隈川東部一帯を東安達といい、阿武隈山地の高原地帯に位置しています。古くは、治陸寺(じろくじ)(東和町)を中心として修験が勢いを得、住吉城(東和)を本拠に石橋氏が支配し、近世には二本松領となった地域です。



小 浜 城

                               ▼ 安達郡岩代町小浜字下舘
                               ▼ 東北本線二本松駅バス小浜行小浜新町下車10分

 町役場前を通って登り、バス停から500mの所に小浜城跡があります。この山間の里(岩代町・東和町)は、戦国時代、南の三春田村氏、北の伊達氏、東の相馬氏、西の畠山氏の中間地帯にあって、抗争の場となり、戦国史に重要な役割を演じてきました。そのため実に多くの古城跡を残しています。奥州探題吉良氏の居城塩松城、石川氏の百目木(どうみき)城、伊達政宗南奥羽掌握の足がかりとなった小浜城(下館)、宮森城(上館)、東和町には安達郡最古の築城といわれる住吉山城、伊達氏の「皆殺し」の残酷な場所となった小手森城(おてのもり)などがあります。なかでも小浜城は、多数の曲輪配備の情況と出城の存在などで、戦国城郭から近世平山城に発展する過渡的な型として注目されます。そのほか岩代町杉沢に推定600年の大杉(国天然)があります。

 小浜城跡から東方に波打つように静かにひろがる阿武隈の山々、日山(1057m)・麓山(887m)を中心に500m前後の山々が連なっています。なかでも日山は、阿武隈山地第2の高峰で1062(康平五)年源頼義が尾張から牛頭天王(ごずてんのう)宮を山頂に勧請したと伝え、天王山ともよばれ、山からの展望がよく、東は太平洋の金華山、相馬、いわき近海が展望でき、ツツジの群生、ブナの原生林があり、県立自然公園となっています。



木 幡 山

                                 ▼ 安達郡東和町木幡字治家
                                 ▼ 東北本線二本松駅バス木幡行学校前下車60分

 東和町の木幡山(県天然)は、南北朝時代の文書「飯野八幡宮文書」に木幡山の名があり、天台密教によって開山されたとわれます。現在多くの神社仏閣や社寺を残しております。山頂蔵王に蔵王堂跡、経塚(県史跡)、大杉(国天然)があります。山頂に鎮座する弁財天は隠津島(おきつしま)神社(県文化)となっています。社殿の下方には三重塔、門神社と称する貞享年間(1684〜88)の建物、鎌倉時代の供養塔(板碑)などがあります。また、山内にある治陸寺(じろくじ)(天台宗)には、寄木造・漆箔(しっぱく)押しで定印を結び、豊かな頬、胸のふくらみ、腕からひざにかけての衣文の美しい流れなど、藤原期の面影を秘めた鎌倉時代の作である阿弥陀如来坐像(県文化)が安置されています。



3、県 都 福 島

 県都福島市は、かっての信夫郡をすっぽりつつんでしまいました。信夫郡は、吾妻連峰と阿武隈川に挟まれた地域で、古くは信夫国造(しのぶのくにのみやつこ)が配され、平安時代には信夫庄とよばれ、平泉文化圏に属しましたが、1189(文治五)年以降次第に関東文化圏の影響下に入りました。室町時代に伊達氏の支配をうけ、江戸時代には激しい領主の交替と複雑な領地の入り組みが行われましが、1876(明治九)年の三県合併後は県都福島を中心とした生活圏を培ってきました。



八 丁 目 宿

                                       ▼ 福島市松川町八丁目・天明根・鼓ヶ岡
                                       ▼ 東北本線松川駅下車30分

 八丁目宿とは現在の松川町です。伝説によると「昔宿千軒」と言われ、1189(文治五)年、源頼朝の奥州征伐の際に焼き払われたといわれています。古代すでに東山道の宿場町として八丁目宿の発達を推測することができます。1542(天文十一)年の伊達家内紛、いわゆる「天文の乱」の際に、八丁目城主堀越能登守は、伊達宗稙(むねたね)側に属して活躍していたことが知られます。近世には、安達郡二本柳宿を経て、境川を渡ると八丁目宿であり、福島へと奥州街道は続いて行きます。この宿は奥州街道だけでなく、米沢街道、それに行合に残る道標が示すように、相馬街道の宿でもありました。
 宿には本陣・検断・問屋などがおかれていました。八丁目宿の繁栄は、特に化政期(1804〜30)以後、俳諧・狂歌・鳥羽絵・三味線などの町民文化、いわゆる「八丁目文化」を生み出しました。しかし、二本松城の落城とともに宿の繁栄を失ったものとおもわれます。

 字町裏の地の水原川右岸にある西光寺(さいこうじ)(真言宗)に安置されている木造阿弥陀如来坐像(県文化)は、元来、奈良東大寺所蔵の阿々弥(あんあみ)作の像を、1760(宝暦十)年、大円坊(だいえんぼう)と通禅坊(つうぜんぼう)が鼓ヶ岡村中町の藤倉清左衛門を施主として運んできたものであることを、その台座銘が示しています。

 1949(昭和二十四)年8月17日未明、青森発上野行412列車が脱線転覆し、機関士を含む3名の乗務員が死亡した松川事件の現場は、東北本線松川駅の北約1.7kmの線路のカーブする地点であり、現在そこには供養塔が立っています。逮捕され、死刑を含む有罪判決をうけたのは、国鉄と東京芝浦電気(現東芝)の労働組合員10名ずつ計20名でした。同年GHQの指令で「行政機関職員定員法」が成立し、また東芝も松川工場の分離を推進していました。同年7月5日、国鉄の大量解雇に反対した下山定則総裁が常磐線で轢死(れきし)体で発見された「下山事件」、7月15日無人電車が暴走する「三鷹事件」があいつぎ、松川事件も戦後日本の転換期を象徴する事件でした。事件発生から14年ののち、被告全員が無罪になりましたが、第一審福島地方裁判所跡地は、現在市内新浜町の新浜公園となり面影もありません。

 松川町浅川の金谷川交差点を東に約3.5km進むと、阿武隈河畔にでます。ここにかかる上蓬莱橋の下は阿武隈峡(県名勝・県天然)の中心であり、対岸立子山春田地内字船場は、橋の北側直下にあり、鮎滝渡船場(あゆたきとせんば)として信夫郡と伊達郡を結び、明治初期まで使用されていました。今日でも船をつなぐ岩の穴や船場に通ずる敷石が残っています。



満 願 寺

                                 ▼ 福島市黒岩字上ノ町43
                                 ▼ 東北本線福島駅バス黒岩行東北地建下車5分

 バス停からバス通りを左に折れ、200mほど住宅地の坂道を上り、さらに左折すると、蓬莱峡を見下ろす阿武隈川右岸に黒巌山満願寺(臨済宗)があります。寺伝によると、811(弘仁二)年の創建となっています。1598(慶長三)年、上杉の臣尾崎重挙が中興したと伝えますが、不明です。1663(寛文三)年の分限帳にその名がみえます。この寺の虚空蔵堂は、上杉時代の代官、古河善兵衛が西根堰竣工のお礼として、1635(寛永十二)年建立しました。寺に残る絵図によると、懸崖に舞台がありました。近世以降福島・米沢の人々の13詣りの寺としてにぎわい、板倉・上杉両氏の厚い保護をうけ、寛文年中(1661〜73)鋳造の銅鐘(通称いぼなしの鐘)・山岡鉄舟の書・狩野常信作の「三十六歌仙図」などの宝物も多くあります。虚空蔵堂背後の斜面には、1829(文政三)年建立の十六羅漢像が林立しています。

 福島駅からバス二本松行を北谷地で下車して15分、国道4号線を3分ほど南下して、陸橋の南を右折、500mほど歩き原高屋集落の手前左折して150m進むと、東北本線石名坂トンネルまでの地域が石那坂(石名坂)です。1189(文治五)年、源義経の死後、頼朝が派遣した東北平定軍と平泉藤原軍が衝突したところです。藤原側の信夫の庄司佐藤基治が河辺・伊賀良目(いがらめ)などの一族とともに、頼朝軍の常陸入道念西(のちの伊達朝宗)の息子たちに敗れた古戦場です。現在「石那坂戦将士」碑が建っていますが、一説にはそこからさらに西方の平石地内旧平沢村との説があり、特定できません。平沢は片原宿と言われ、古代東山道の宿であったと伝えられています。



県都福島と大仏城

                                           ▼ 福島市杉妻町2−16
                                           ▼ 東北本線福島駅下車15分

 福島市は、1869(明治二)年設置の福島県の県庁所在地(この年に若松県・福島県・白河県が置かれ、明治四年廃藩置県により浜通は平県、中通りは二本松県、会津は若松県となる。)として、古くは城下町として栄えました。福島駅を降りて栄町・大町通りを東進し、上町を南に折れると、300mほど前方に見える福島県庁の位置が福島城跡の中心です。この城は、信夫の庄司佐藤基治が源頼朝と戦った1189(文治五)年頃はその一族杉妻太郎行長の居城で、杉妻城と称されていました。伊達氏が支配した中世末には杉目大仏(現在大町到岸寺(とうがんじ)にその胎内仏が残る)とその堂宇があったので杉目城とも大仏城ともよばれていました。伊達晴宗は夫人栽松院とともにここに住み、1577(天正五)年、この城で没しました。その後、会津に入った蒲生氏郷の客将木村吉清(よしきよ)が大森から移って、その居城となりました。吉清は1592(文禄元)年頃大森城を模倣して改修し、福島城と改めました。

 1598(慶長三)年以後、上杉景勝の城代が住み、その後本多忠国・堀田正仲・正虎と城主が変遷し、1702(元禄一五)年以降板倉氏3万石の城下町として明治に至りました。県庁東の紅葉山公園には板倉氏が祀られ、旧福島県立医大跡地は城の二の丸、船場町旧日赤病院跡地は三の丸でした。

 城下の町割りは、1693(文禄二)年までに終わり、大森の町名寺院などを移転させています。西根堰開削者古河善兵衛(ふるかわぜんべい)の墓のある康善(こうぜん)、大森城下から移り福島山の山号をもつ誓願(せいがん)寺、同じく大森城下から移り,1873(明治六)年福島仮県庁、翌年福島師範学校の全身仮講習所がおかれ、1877年、自由民権運動が盛んになると模擬県会の会場にもなった鷹峰山常光(じょうこう)寺(曹洞宗)。常光寺は1506(永正三)年の開山で1591(天正十九)年には関白秀次が宿所とし、のち板倉氏の菩提所となった由緒をもています。信夫山の羽黒権現の別当羽黒山新浄院(しんじょういん)(真言宗)、これらの寺院が、旧国道4号線の西裏通りに連なります。
 
 阿武隈川沿いの御倉町には廻米を入れた倉が残り、二本松畠山氏の菩提寺の称念(しょうねん)寺が大森を経て移された畠山義継を祀る宝林(ほうりん)(時宗)があります。旧県立医大跡地の東、国道4号線を横切った舟場町の長楽(ちょうらく)(曹洞宗)には、上杉時代の城代本庄繁長の墓所があり、その北側の宝積(ほうしゃく)の五輪塔には伊達晴宗が眠っています。

 県庁正面から500mほど北に進むと、右側に稲荷神社があり、その境内の北東隅には、戊辰戦争の際に仙台藩士によって福島で殺害された、奥州鎮撫使下参謀、長州藩士世良修蔵の霊神碑がたっています。
 
 宝積寺から北東へ約500mの所に腰浜廃寺跡があります。2度の発掘調査で、金堂あとも発見され、7世紀後半の8弁蓮華文と9世紀中頃の三蕊(ずい)弁四花文の2種類の鐙(あぶみ)瓦が唐銭・宋銭とともに出土しました。これらの瓦は、今日、阿武隈川対岸の宮沢窯から前者が、赤埴窯から後者が焼かれたことが判明し、腰浜廃寺は白鳳時代(7世紀後半〜8世紀初期)までさかのぼる事が判明しました。



信 夫 山

                          ▼ 福島市御山・森合丸子他
                          ▼ 東北本線福島駅バス市内循環2コース体育館前下車2分

 信夫山は、信達地方のほぼ中央に位置し、古くは青葉山ともよばれていました。バス停から200mほどで上り口につきます。古来信仰の山で、御山とも呼びます。福島を支配した伊達・上杉・堀田諸氏も厚く信仰し・保護を加え、伊達政宗は信夫山の羽黒神社の別当寂光寺(じゃくこうじ)を仙台に移しました。月山神社の下の羽山廃堂からは平安中期〜室町時代の古鏡・武具など(県文化)が出土しています。湯殿山神社南の細道を下ると、狐の恩返し伝説の権坊狐を祀った権坊稲荷神社に至ります。薬王寺(天台宗)参道には「弘安八(1285)年」の板碑が立っています。

 国道4号線の岩谷下交差点から150mの巌谷観音(字岩谷)の岩には宝永年中(1704〜11)に刻まれた60体に及ぶ供養仏が並んでいます。また、この山中には、古い金山の坑道と連行されてきた朝鮮人らによって掘削された秘密軍需工場の地下壕が闇に眠っています。

 岩谷交差点から国道115号線を東に約300m進むと北側に佐藤基治の叔父伊賀良目(いがらめ)七郎高重の五十辺館跡があり、土塁・空堀が残っています。国道四号線を北上し松川橋を渡ると本内です。現在、字館の地にある正福(しょうふく)(曹洞宗)とその北側の小楯八幡神社境内は本内館跡です。さらに北上し、左折して通称農面道路を400mほど進むと、南側に鎌田館の土塁が見えます。げんざいこの館は鎌秀院(れんしゅういん)の境内になっており、両館とも本来漣郭式でしたが現在は本城部分を残すのみになっております。館主はどちらも伊達氏の家臣本内氏・鎌田氏です。



大 蔵 寺

                           ▼ 福島市小倉寺字捨石7
                           ▼ 東北本線福島駅バス川俣・立子山行小倉寺下車15分

 腰浜廃寺から南に2km、阿武隈川の東側、小倉寺山の中腹に大蔵寺(臨済宗)があります。この寺の木造千手観音立像(国重文)は寺伝によると大同年中(806〜10)、坂上田村麻呂が市内伏拝での戦勝を祈願して造立したとか、徳一開基の寺の本尊であったとかいわれます。厳しい顔立ち、豊かな体躯、渦巻文、衣紋のひだに貞観時代(平安初期)の様式を伺わせ、カヤの一本造で、高さ4m余の巨像です。寺にはこのほかに十一面漢音・地蔵・四天王・金剛力士像など計24体の仏像(県文化)が安置されています。

 ここから阿武隈川越に吾妻の山々を眺めながら峰伝いに、「信夫の細道」を北に歩を進めると、弁天山に、北畠顯国(あきくに)とか伊達の臣持地遠江守(もちじとうとみのかみ)、あるいは亘理安房守(わたりあわのかみ)の居城とつたわる椿館に着きます。一説には安寿と厨子王の父岩城政氏の居城との伝説もあります。



文 知 摺 観 音

                                      ▼ 福島市山口字寺前5
                                      ▼ 東北本線福島駅ばす文知摺行終点下車

 福島駅の東方約4km、国道115号線に沿った山間に文知摺観音があります。バス停の東側、文知摺観音の境内に入ると、左の高台に1709(宝永六)年再建の観音堂をはじめ、1812(文化九)年建立の多宝塔(県文化)・三十三間堂・薬師堂・水月堂・日月堂などが建っており、また、諸記念碑や伝説にまつわる多数の石があります。河原左大臣源融(とおる)と虎女の悲恋物語や、『吾妻鏡』の1185(文治五)年頃に、毛越寺(もうつじ)建立の際仏師に贈った「信夫毛地摺千端(もちずりせんたん)」と記されているように、この地方で産する文知摺絹は古くからよく知られていました。藍を摺りつけ文知摺絹を染めたという文知摺石は、貞観年中(859〜77)、」陸奥国巡行中の源融と恋に落ちた山口の長者の娘虎女が、再会を約束して京に戻った融を待ち、観音に百日の願をかけ、麦で摺って融の面影を浮かべた鏡石でもあります。京都から届いた「陸奥の信夫文知摺誰ゆいに乱れ染めにし我ならなくに」の一首に喜ぶのもつかの間、まもなく息をひきとったといいます。この地を訪れ、伝説をしのび「早苗とる手もとや昔しのぶ草」と詠んだ芭蕉の句碑があります。同様に文知摺を詠んだ子規の句碑、小川芋銭(うせん)の歌碑(人肌石)、その他夜泣き石・綾象(あやかた)などがあります。

 文知摺観音の別当は北側の安洞院(あんどういん)(曹洞宗)であり、その背後の斜面には17基の御春(おはる)新田古墳群があります。

 文知摺観音から山麓伝いに南東約1.2kmほど進むと、姑に殺されたお春を供養したお春地蔵に至ります。芭蕉は文知摺観音の山麓沿いに北上し、岡山字船場の「月輪の渡し」で阿武隈川を渡り、飯坂とむかい「奥の細道」の旅を続けました。


 
大 森 周 辺

                                 ▼ 福島市大森
                                 ▼ 東北本線福島駅からバス平田大森行大森下車

 信夫橋から西へはいると山王道で、大森から松川へぬけるコースは古代から中世の街道でした。福島駅からバス音坊行に乗り、奥州征伐の古戦場石那坂を左にみて平田に入り、久保で下車、バス停から東に約5kmで濁り川をわたり、さらに1kmほど山道を登ると、ひっそりと陽林寺が建っています。坐禅僧瞬?盛南(しゅんせきせいなん)と伊達稙宗の出会いによって1513(永正十)年に開かれた名刹で、信夫の”開山さま”と呼ばれてきました。ここには大森城主実元とその父稙宗の墓、それに民衆に慕われた代官山中太郎右衛門・中沢道右衛門の碑があります。また、この寺は陽泉寺、陽泰寺などの多くの末寺をもっています。

 福島駅からバス鳥川行に乗り、島で下車、バス停から西に約100m、陽泉寺の案内板を左折し、200mほど行くと陽泉寺(曹洞宗)につきます。この地域は鳥渡(とりわた)といい、古くは鳥和田と書きました。二階堂氏が大きな勢力を持ち、1240(仁治元)年の二階堂基行(もとゆき)の譲り状に地名が登場します。1357(延文二)年、中世きっての名家二階堂時世は湖山寺を開き、1371(応安四)年、仏師円勝・乗円作の木造釈迦如来坐像(国重文)を安置しました。現在湖山寺は礎石と地名古山寺を残すのみですが、釈迦像は陽泉寺に安置されています。

 陽泉寺西の山上が朝日館跡です。この館の西部は宅地化されてしまいましたが、よく原形をとどめています。ここには佐藤基治一族の信夫小太郎重信が住んだものの、伊達持宗が近隣を侵略していると関東管領足利持氏に訴えたのは二階堂常陸介であり、そのため1413(応永二十)年に「大仏城合戦」が起こっていることからも、その後この地域を領有した二階堂氏とのかんけいは深いと考えられています。朝日館の麓は、信夫三山王の一つ鳥渡の山王社で、農業と眼病の神様です。

 陽泉寺の北側に張り出した丘陵には中世の供養塔が多くあって、その中でも「正嘉二(1258)年」「右志者為悲母也。平氏女敬白」(「右志は悲母のためなり」平氏女)の銘をもつ石造供養塔(国史跡)は、阿弥陀如来を浮彫にした傑作です。

 また、バス停島から北へ200m進み、右に折れてさらに200mほど歩くと稲荷塚古墳が見えます。これは市内最古の古墳で、5世紀後半の帆立貝型古墳とも考えられています。高速道路を挟んでその北500mに位置する八幡塚古墳は、朝顔型埴輪を出土し、6世紀の古墳と考えられます。

 福島駅からバス大森行大森本町で下車すると、西に見える小高い丘陵が通称大森の城山です。天文年中(1532〜55)から伊達稙宗の三男実元(さねもと)・成実(しげざね)父子・片倉小十郎の居城であった所で、鷹峰城(臥牛城ともいう)ともよばれ、中腹には城山観音像、最後の城主上杉氏城代芋川正親(まさちか)ら4代の墓があり、現在は城山公園としてしたしまれています。城の南東に城下町が形成され、1593(文禄二)年蒲生氏の城代木村吉清が杉妻城に移るまでは、信達地方の中心地として栄えました。



慈 徳 寺 周 辺

                                      ▼ 福島市佐倉字寺前9
                                      ▼ 東北本線福島駅バス土船行佐原下車8分

 福島盆地の南西端に位置し、荒川西岸の吾妻山麓にかけて佐原地区がひろがります。バス停から北へむかい、途中左折して山側に入ると慈徳寺(曹洞宗)があります。1585(天正十三)年、伊達政宗は二本松城主畠山義継を攻撃、伊達勢に恐れをなした義継は、政宗の父輝宗の斡旋でいったんは服従しましたが、輝宗に謁見の帰途、輝宗を捕り押さえ、二本松に戻る途上、政宗の軍に輝宗もろとも撃たれました。輝宗の遺体はこの寺に運ばれ、荼毘(だび)に付されました。現在その首塚と伝わる五輪塔の一部が、境内の観音堂北側の巨石の上にのこっています。

 バス通りを挟んで慈徳寺の反対側の、県営あづま総合運動公園の北の角に義民の碑が立っています。1729(享保十四)年、定免法(じょうめんほう)の施行、年貢の増強などの代官の圧政に苦しんだ農民を救済しようと、佐藤太郎右衛門は、福島藩に越訴(おつそ)をし、さらに江戸の目安箱に直訴したため、翌年佐原荒田口で獄門に処せられました。

 荒川に接する佐原・名倉・庄野(しょうや)地区に及ぶ広大な地域は、18世紀中頃建築の旧奈良輪家・菅野家住宅(ともに県文化)などが復元された民家園、諸運動施設の整った県営あづま運動公園などがあり、多くの人に親しまれ利用されています。

 福島盆地は果物の産地として知られますが、その代表的果物の一つナシの栽培は、1882(明治十五)年、鴫原佐蔵が埼玉県より苗木を取り寄せ、苦心の末、萱場地区での栽培に成功した萱場ナシの栽培に始まります。



i医王寺と大鳥城跡

                                  ▼ 福島市飯坂町平野字寺前・飯坂町字舘
                                  ▼ 福島駅より福島交通電車医王寺前駅下車10分

 飯坂温泉街の西方の大鳥城跡(丸山)は、信夫庄司佐藤基治の居城跡と伝えられ、頂上には空堀があり、しぜんの要害をなしています。信夫庄は奥州平泉藤原基衡がひそかにおいた荘園と言われ、郡司が莊官をかねる辺境地の荘園でした。『吾妻鏡』によると基治は1189(文治五)年7月8日一族とともに石那坂の戦いで敗れ、その首は阿津賀志山(厚樫山)の経が岡にさらされました(許されて大鳥城に戻ったとも伝えられる)。
 また、大鳥城跡の南清流小川をこえた平野の森に瑠璃光山医王寺があり、佐藤氏一族の菩提寺です。       

 伊達朝宗の4男為家の曽孫政信は湯山城(旧飯坂警察署)を居城とし、そこから摺上川出る坂道を飯坂とよんだので、飯坂氏を称したといいます。1416(応永二三)年、上杉禅秀の乱の際の戦功により、飯坂氏5代目家房の次男豊房が余目(あまのめ)莊を与えられ、下飯坂氏をしました。以後近世には、今の飯坂地区を区分して上飯坂とよびました。

              医王寺・大鳥城跡

                                                      



飯 坂 温 泉

                                ▼ 福島市飯坂町
                                ▼ 東北本線福島駅より福島交通電車飯坂温泉下車

 今日、飯坂温泉は、旅館数においても利用客数においても、東北地方最大の温泉街を形成しています。温泉の起源は、1672(寛文一二)年の湯年貢に関する文書には、佐藤十兵衛尉勝行が温泉を開いたことを記しています。信夫の庄司は「湯の庄司」ともよばれており、基治の一族とみなされるところから、開湯は中世にまでさかのぼると考えられます。1729(享保一四)年の「上飯坂村絵図」には、波古湯・滝の湯・鯖湖湯・透達湯が明示され、摺上川支流赤川沿いの温泉は文化年中(1804〜18)の開湯です。摺上川対岸の狐湯・切り湯・舟場の湯は1624(寛永元)年にはすでにその名がみえ、これらの温泉群を総称して今日では飯坂温泉とよんでいます。

 この温泉街から北西に約1km、摺上川をさかのぼると、1847(弘化四)年、摺上川の洪水ののち噴出した穴原温泉があります。1689(元禄二)年5月、芭蕉は「奥の細道」の旅も途中鯖湖湯に投宿し、現在の快適な温泉旅行とは違った様子を書き残しています。

 摺上川東岸を湯野とよびます。そこの不動寺縁起によると、湯野には高寺堂菩提寺と芽部寺が存在していたことが記されています。1972(昭和47)年、西原字堂跡の地を発掘調査した結果、堂宇2棟が確認されました。『日本後記』に記されている「名菩提寺」に比定され、西原廃寺跡(県史跡)として基壇部が復元保存されています。ここから北東へ500mの北原地区にある高寺堂の地名をもつ地域では、礎石が確認され、建築金具などが出土し、高寺伝説がのこっています。

 摺上川から取水する西根堰は、現在も伊達郡北西部の1401haの水田を潤しています。この堰流域の農民は、西根堰開削の功労者米沢藩奉行古河善兵衛、四郡役佐藤新右衛門の徳を称え、明治になって西根神社を設け、境内に頌徳碑を建てました。

                西 根 堰

                




4、あつかし山と西根郷

 阿武隈川とその支流摺上川に挟まれた地域は、古くから西根郷とよばれ、近世初期の上杉氏支配の時代以降、行政上の一地区となってきました。特に、近世初期に開通した西根堰の水がかりの共同体として地域的にまとまりの強い所で、奥羽山脈を背にし地積平地の前方に阿武隈川を配した風光明媚な土地です。



伊達町周辺と寛延三義民顕彰碑

                                             ▼ 伊達郡伊達町字田町
                                             ▼ 東北本線伊達駅下車10分

 伊達駅から旧奥羽街道を15分ほど南へ行くと、街道沿いに薬師堂があります。この境内に1918(大正七)ねんに建てられた斉藤彦内(ひこない)・猪狩源七・蓬田半左衛門ら寛延三義民の顕彰碑があります。彼らは、1749(寛延二)年の凶作時に、幕領桑折代官神山三郎左衛門の施政に抵抗して起こした寛延の大一揆の首謀者として処刑された人たちです。この一揆の顛末は、1907(明治四十)年に朝日新聞連載の小説「天狗廻状」(半井桃水<なからいとうすい>作)で一躍有名になりました。なおこのときは、県内各地の幕藩領でも一揆が発生し、江戸時代全期を通じて最大規模のものとなりました。
 ここから南へ500mも行くと、志和田の福源寺(曹洞宗)があります。ここの境内には、斉藤彦内の墓と霊堂があり、香華が絶えません。ここから旧街道を3kmほど北へ行くと、産ヶ沢橋のたもとに寛延三義民処刑之地の碑があります。

 このほか往年、糸市で有名だった長岡の天王さまこと八雲神社(祭神素戔嗚尊、祭礼7月24・25日)の「長岡の天王祭」は同町内の熱田神社(祭神日本武尊)の神体を合体させる風変わりな祭りで、嫁入り祭りともいわれ、1956(昭和五六)年選定の福島県十大祭礼の一つとなっています。

 伊達駅から国道399号線を東へ20分ほど行くと伊達橋に出ます。阿武隈川にかかるこの橋は、1914(大正三)年の架橋工事の地元負担金等をめぐって起きた伊達橋事件の発端となった所で、ここから1.5kmにかかる大正橋は、反対派の妥協によってかけられたいわくつきのはしです。

 東北本線東福島駅の北方1kmほどの所に宮代の山王さんこと日枝(ひえ)神社(祭神大山咋神)があります。霊山と福島市下鳥渡(しもとりわた)の日枝神社とともに信達の三山王とよばれ、農民の尊敬をうけてきました。同社では毎年4月30日・5月1日に、福島県十大祭礼の一つである宮代山王の農祭がおこなわれます。農祭は、元文の初め(1736年)頃、山王祭の笠を買ってかぶると悪疫にかからないといわれ、農具市に人気が集まったのが起源だといわれています。この神社はもと伊達氏の家臣瀬上筑後の産神を祀ったもので、旧奥羽街道の東の深町から移したものといわれます。この境内は、寛延の大一揆の集会所ともなった所です。

 近くの瀬上宿には、近江商人の出で、本居大平(もとおりおおひら)の国学を学んだ内池永年(うちいけながとし)の家が今も残され、家並みに往時が忍ばれます。なお、瀬上宿は、備中(岡山県)足守藩木下氏の飛領でした。



旧伊達郡役所

                                            ▼ 伊達郡桑折町字陣屋12
                                            ▼ 東北本線桑折駅下車10分    

 桑折駅の西方500mほどの南半田に平林遺跡があります。東北自動車道の建設工事にともなう緊急発掘調査で、打製石器が多数発見され(会津若松市、県立博物館所蔵)2万〜3万年前から祖先が生活していたことが明らかになりました。

 駅前の通りを南に行くと、旧奥州街道の桑折宿に入ります。桑折の宿場は、『延喜式』の陸奥国駅馬にみえる伊達駅に関係した古い集落で、戦国時代には桑折氏や伊達氏が本拠とし、以後も上杉氏信夫代官四郡役宅・幕領桑折代官所・松平氏桑折藩陣屋がおかれ、明治以降も伊達郡役所がおかれるなど、西根郷の政治・経済上の中心となってきました。
 
 駅から南に15分ほど歩くと、桑折町のほぼ中央に伊達郡役所(国重文)があります。この建物は、1883(明治一六)年に県令三島通庸(みしまみつつね)によって、彼の前任地西田川郡役所に模して建てられました。物見塔のある総二階左右対称の擬洋風建築で、明治洋風官衙の代表的な建物です。この東側一帯が桑折陣屋跡で、ここは河岸段丘崖の上にあり、信達盆地が一望できる格好の場所となっています。

 旧街道沿いの上町には『念仏勧化現益集(ねんぶつかんげげんやくしゅう)』を著した名僧無能上人(むのうしょうにん)(興蓮社良崇(こうれんしゃりょうすう))が再興した無能寺(浄土宗)があります。また、文化記念館の前を西に行った所に桑折寺(時宗)があります。この寺は、当地の領主桑折氏一族の菩提寺で、そこの山門(県文化)は西山城門を移したものと伝えられ、向唐門形式の優美なものです。桑折寺から睦合道を進み産ヶ沢川にかかる万正寺橋を渡ると大ケヤキがあり、その根元に伊達氏の始祖伊達朝宗(満勝寺殿)の墓があります。             



坂町観音と西山城跡

                             西山城へ



半 田 銀 山 跡

                         ▼ 伊達郡桑折町北半田
                         ▼ 東北本線桑折町駅バス赤坂経由小坂行半田田町下車7分

 バス停半田田町から旧羽州街道を北上して、東北自動車道をくぐるとまもなく舗装道路からわかれて旧道に入ります。旧道の両側が次第に高くなって城の枡形のような石垣となります。西手の半田山の山腹の再光敷(さいこうしき)から敷かれた日本鉱業株式会社の軌道が立体交差し、トロッコで運ばれてきた鉱滓(こうし)などがこの先に棄てられました。この北に小川にかかる小橋があって、女郎橋とよんでいます。橋の先でこの旧道は舗装道路と合わさり、5分も歩くと御免町で、街道沿いに北半田村の名主で、半田銀山の採鉱を請け負っていた早田伝之助の豪壮な邸宅があります。この屋敷内に、明治から昭和まで銀山の経営を行っていた政商五代友厚の息子が住んでいました。
 
 この半田銀山は江戸時代には桑折代官や佐渡奉行が管轄し、石見大森・但馬生野と並ぶ全国有数の銀山でした。明治以降、五代友厚の弘成館、さらに日本鉱業と引き継がれ、1951(昭和26)年に閉山しました。
 
 西方にそびえる標高863mの半田山とその中腹の半田沼は、地滑りによって出来た天然の景勝地で、半田山自然公園として親しまれています。

 桑折駅前のY字点で北東にむかってきた旧羽州街道は、御免町の早田邸のわきを通って北上し、小坂宿を抜け、つづら折りの急坂を上って小坂峠に達し、いわゆる七ヶ宿(しちがしゅく)を経て出羽に通じる古い街道で、伊達氏の米沢往還、羽州諸藩の参勤、御山参詣などでにぎわいました。小坂峠には満蔵稲荷(まんぞういなり)があり、眺望もよいところです。



塚 野 目 大 1 号 墳

                                          ▼ 伊達郡国見町塚野目字前畑
                                          ▼ 東北本線藤田駅下車30分

 藤田駅から5分ほど行った所に観月台公園があります。そこには旧佐藤家住宅(県文化)が移築されています。これは、国見町字木八丁(きはっちょう)から移したもので、前面だけに開口する大壁造の近世の農家です。
 さらに、東に進むと旧奥州街道に沿って藤田宿があります。街道が鉤(かぎ)の手に曲がり、家並みには土蔵や蔵造りの町屋が残り、宿場の面影をとどめてながら、今では国見町の中心市街になっています。

 そこから国道4号線を横断し、伊達広域農道を突っ切ると普蔵川(ふぞうがわ)の沿った塚野目に出ます。この辺一帯に散在する塚野目古墳群は県北最大の群集墳で、正法寺境内にある第1号墳(県史跡)は、八幡塚古墳ともよばれ、全長躍70mの古墳時代中期の前方後円墳です。前方部は墓地となり、旧状をとどめていませんが、後円部の墳頂には八幡神社があって、保存状態は比較てき良好です。この辺一帯はかって条里制がひかれた所でもあり、早くから開発が進んでいました。



厚樫山と石母田供養石塔

                                ▼ 伊達郡国見町大木戸・石母田字中ノ内
                                ▼ 東北本線藤田駅バス貝田行大木戸支所下車60分

 バス停貝田からすぐ西手の山中に、奥州街道の長坂・国見峠(ながさか・くにみとうげ)がひっそりと残されています。厚樫山の麓を迂回する急坂です。東北本線と国道4号線に挟まれいますが、舗装もされず樹木がうっそうと茂り、旧状が非常に良く保存されており、筆塚や「奥の細道」の一節を刻んだ芭蕉の碑が立てられ、公園となっています。旧奥州街道は、大木戸跡を通って東北本線と新旧国道などに分断されながら、福島県境に至ります。貝田宿から東北本線貝田駅までは、わずかに旧街道の面影をとどめています。貝田宿の外れで、白河の境の明神を基点とする「奥の細道自然遊歩道」が終わります。ここを曲がると貝田番所跡・最禅寺(さいぜんじ)(曹洞宗)などがあります。

 長坂を下って、西へ約1.5kmほど行くと、石母田館跡があります。館ノ内とよばれる館跡は、塀と土塁に囲まれています。これは伊達氏の守護代石母田氏の居館で、付近には横町・荒町などの地名が残っています。そこから東北本線の線路を渡り、自動車道をくぐると民家の一角に石母田供養石碑(国史跡)が立っています。この碑文は、元の勧降使として来日した一山一寧(いっさんいちねい)によって1308(徳治三)年に書かれた物で、蒙古の碑ともよばれています。

 稜線の美しい厚樫山(標高289m)は、大将大木戸国衡(おおきどくにひら)に率いられた平泉方の軍勢が陣取った所です。阿津賀志山防塁(あつかしやまぼうるい)(国史跡)は、山腹から東方にむかって築かれた二筋の空堀で、延々数kmに及んで、阿武隈川に達します。近くの高城(たかぎ)には縄文時代の縦穴住居を復元した岩淵(いわぶち)遺跡があります。また、光明寺の福聚寺(ふくじゅじ)(臨済宗)には、伊達朝宗夫人結城氏女(光明寺尼)の墓があり、この付近に伊達五山の一つである光明寺があったと推定されます。

                         あつかし山




5、梁川城と東根郷

 1988(昭和六三)年に第3セクター方式によって開通した阿武隈急行線の沿線にあたる地域は、古くは東根郷とよばれ、伊達氏発祥の地でもあります。阿武隈山地の北端に位置し、広瀬川と阿武隈川の氾濫原に開かれた畑作地帯で、かっては養蚕業が中心でしたが、現今は果樹とニット製品が主力となり、最近はベッドタウン化もすすんでいます。
 阿武隈急行線向瀬上駅に近い阿武隈河畔に小舟が一隻浮かんでおり、県北最後の渡し舟です。



高 子 館 跡

                                               ▼ 伊達郡保原町高子
                                               ▼ 阿武隈急行線高子駅下車

 高子駅前は、1987(昭和六二)年から分譲を開始した高子ハイタウンです。この辺一帯には草創期の伊達氏の本拠だったといわれる高子館のある高子岡や小姓山があります。南に1kmほどの所にある伊達町箱崎の愛宕山をあてる説もあります。伊達氏はやがて、本拠を梁川の方へ移していきました。

 駅の西の丘の麓には熊坂家墓地があります。熊坂家は代々旧高子村の名主で、覇陵(はりょう)・台州(だいしゅう)・磐石(ばんこく)の父子三代の儒学者を輩出しました。台州は、江戸に出て荻生徂徠学派の入江南溟(いりえなんめい)や亀山藩松崎観海(まつざきかんかい)に師事し、自宅白雲館正心塾に同人・門人を集めて詩席を開き、栄達を求めず、郷党とともに生涯を送りました。かれの著作は荻生徂徠・服部南郭(なんかく)を批判した『道術要論』『文章諸言』など20篇を超えます。覇陵の墓碑銘は、その子台州が師松崎観海に文章を求め、知友大田南畝(おおたなんぽ)に筆をとらせたものであり、台州の碑銘は、その子磐石が下野国(栃木県)烏山城主大久保忠成に請うて筆をとらせたものです。

 高子岡の南麓には高子沼があります。周囲約1.8kmの農業用水地ですが、往古の金鉱跡ともいわれ、淡水クラゲが棲息します。湖畔には高子沼グリーンランドがあり、春は桜と桃の花が美しい所です。



長 谷 寺

                                        ▼ 伊達郡保原町5丁目
                                        ▼ 阿武隈急行線保原駅下車15分

 保原町のほぼ中央に長谷寺(真言宗)があります。ここの花頭窓(かとうまど)のついた美しい山門は、保原陣屋の遺構です。保原町は古い市場町で、ここいは幕領保原代官所や白河藩・棚倉藩の保原陣屋がおかれ、戊辰戦争時には、落城後の棚倉藩の阿部氏が逃れてきて、本拠とし住んだ所でした。長谷寺の境内には熊坂適山の画碑があります。適山(てきさん)は蠣崎波響(かきざきはきょう)・浦上春琴(うらがみしゅんきん)・田能村竹田(たのむらちくでん)に師事し、松前藩士となった保原生まれの南画家です。

 町の北端に仙林寺(せんりんじ)(曹洞宗)があります。白亜の楼門が美しいく、その門前には東根上郷の四郡役渡辺新左衛門や適山の弟で松前藩医熊坂蘭斎(らんさい)、幕末の攘夷運動家太宰清右衛門天達の墓、適山の来迎図画碑などがあります。

 保原駅から南へ30分ほど歩いた所には、マルタンクがあります。これは1935(昭和十)年に完成した東根堰のサイフォン式分水糟で、この東根堰は、江戸時代に建設された砂子堰(いさごせき)に、福島市渡利地内で揚水した阿武隈川の水を合流させて、東根一帯を灌漑するものです。



菅野八郎自彫の碑

                                 ▼ 伊達郡保原町金原田字中屋敷
                                 ▼ 阿武隈急行線大泉駅バス掛田行北前下車15分

 大泉駅前の県道を東へ10分ほど行くと南手に大塚古墳群があります。中心の大塚古墳は径約32mの円墳です。赤松の巨木に囲まれた墳頂には熊野神社があります。この道を東の山裾まで行くと北前のバス停に出ます。ここから山のほうへ6,7分行くと、菅野八郎の生家があります。菅野八郎は1859(安政六)年、『秘書後之鑑(ひしょごのかがみ)』を著して幕政を批判したため頼三樹三郎(らいみきさぶろう)らとともに捕らえられ、八丈島送りとなりましたが、1864(元治元)年に赦免されて帰国。1866(慶応二)年の信達騒動では、首謀者と目され捕らえられましたが無罪となり、当時の瓦版で「世直し大明神」と崇められた人物です。生家の前山の頂には、1857(安政四)年に「留此而祈直(ここにとどまりてちょくをいのる)」と自ら彫った岩があり、西の丘には「大宝軒椿山八老居士」と刻まれた彼の墓があります。このすぐ北隣の梁川町細谷地区には、新山古墳群があります。



梁 川 城 跡

                                  ▼ 伊達郡梁川町字桜ヶ丘・鶴ヶ丘
                                  ▼ 阿武隈急行線希望の森公園前下車10分

 梁川城跡は、現在の小学校・中学校・高校の敷地のなっており、本丸庭園の一部が残っています。阿武隈川を前面に、広瀬川と塩野川に挟まれたこの城は水利・交通の便をもつ要害の地で、ここが長い間にわたって伊達氏の本拠となったのは、こうした理由によるのかもしれません。
 
 城の北方約1kmの冨野の地に梁川八幡神社が古い面影を残して鎮座しています。3代義広のとき高子岡からここに移したといわれます。境内には三重塔跡などがあり、伊達氏の氏神として代々の尊崇あつく、伊達六六郷の総社として栄えました。

 小学校の麓には陣屋跡があります。さらに西へ進むと国道349号線沿いに中村佐平治家があります。中村家はかって「奥州本場蚕種」で知られた蚕種紙の製造を業とし、中村善右衛門が創製した蚕当計(さんとうけい)と『蚕当計秘訣』の版木、1792(寛政四)年以来の繭(まゆ)の標本を保存しています。
 
 ここから国道を北へ10分ほど行くと興国寺(こうこうじ)(曹洞宗)があります。この寺は、曹洞宗大本山総持寺貫首となった新井石禅(あらいせきぜん)が養われた寺で、ここには関ヶ原の戦いで伊達政宗を苦しめた知将須田長義一族の墓があります。

 また、大町見付から県道を東へ10分ほど行き、左折して20分ほど行くと、阿武隈川を背にして梁川八幡宮と、かってはその別当であった竜宝寺(真言宗)があります。11代伊達持宗(もちむね)が1455(康正元)年に僧澄海(ちょうかい)を招いて中興開山として帰依した寺で、1870(明治三)年に神仏分離令により廃され、のち再興されたものです。梁川八幡宮は伊達氏の氏神で、社殿には県内最古の奉納算額(1817<文化一四)>年)があります。

 町の中央を流れる広瀬川河畔にあったこの町が養蚕製糸で活気に満ちていた時代を記念する、芝居の常舞台(じょうぶだい)広瀬座(ひろせざ)は、福島市民家園に移築保存されています。この広瀬川の川床の梁川層からは、パレオパラドキシアとよばれる絶滅期哺乳類の化石など種々の化石が採取されました。

 県境には、渡辺友意(ともい)・河村瑞賢(ずいけん)らによって開かれた阿武隈川舟運中最大の難所猿跳岩(さるばねいわ)の景勝があります。

                              梁川城跡



古 城 山

                              ▼ 伊達郡霊山町掛田
                              ▼ 東北本線福島駅バス相馬・掛田行金子町下車10分

 金子町でバスを降りて東へ入り、小国川を渡ると古城山(標高225m)です。この山は、北畠顯家(きたばたけあきいえ)に属した懸田定隆(かけださだたか)が1335(建武二)年に移住した茶臼館(ちゃうすだて)跡と伝えられます。山頂には伊達氏天文の乱で滅ぼされた伊達俊宗らを祀る城主宮(じょうしゅのみや)があります。麓の掛田は、茶臼館の根小屋または古い中村街道の宿場町として発達し、幕末海港以後、糸の町として栄えました。蚕の微粒子病を解明し、『養蚕茶話記』を書いた佐藤友信はこの町の出身です。



霊  山

                                  霊山と霊山神社




6、絹の里と小手郷

 信達2郡の養蚕業は、上杉氏治下になってからとくに発達しました。1760年代になると、蚕種は阿武隈川畔の村々に、生糸は掛田地区、絹織は川俣地区、福島は蚕糸類の集散地というように地域内分業が生じ、それぞれ専門的に生産され、販売されました。この地域はみちのくのおくれた封建村落のなかにうかぶ離れ小島のような観を見せ、きわめて特色ある地域となっていました。

 伊達郡南部の川俣町を中心とした地域は、かって小手郷(おてごう)とよばれ、独立した地域性を培ってきました。南部の山木屋地区は、阿武隈山地最奥の高原に位置し、また、北流する広瀬川沿いには月舘町があります。川俣町・飯野町は羽二重の産地で、絹の町として全国にその名をはせています。



機 織(はたおり)神 社

                                    ▼ 伊達郡川俣町舘
                                    ▼ 東北本線福島駅バス川俣行中島下車5分

 バス停から500m東方へ行くと県道沿いに機織神社(祭神小手姫命)があります。伝説によると崇竣天皇(6世紀)の夫人小手姫が政変で奥州へ落ちのび、この地方に住み着き、養蚕製絹の技術をもたらしたといわれます。県道を挟んで南へ800m行くとその小手姫の終焉(しゅうえん)の地とされる大清水機織御前堂(おおしみずはたおりごぜん)堂跡地があります。川俣町は川俣羽二重で世界的に有名でした。同町鶴沢の芦ヶ作バス停近くに、1988(昭和六三)年開館の、絹の町川俣を象徴するかわまたおりもの展示館があります。館内の機織伝承堂では古代からの機織りの紹介、町の織物産業に寄与した大橋式半木製力織機や高機のほか、手織りの実演ができる卓上織機などもおかれています。そのほか大円寺所有の東福沢の薬師堂には、素木(しらき)一本造で、翻波(ほんば)式の余韻を残し、藤原前期の作である木造薬師如来坐像(県文化)と木造菩薩立像(県文化)があります。

 隣町の飯野町には、縄文中期末の竪穴住居跡として価値の高い白山住居跡(県史跡)があります。この遺跡は1958(昭和五三)年4月に家屋を復元して保存をはかっています。 



下手度半天平陣屋跡

                 ▼ 伊達郡月舘町下手度字天平
                 ▼ 陽北本線福島駅バス相馬行掛田下車バス乗換え川俣行下手度下車10分

 国道349号線から東へ入って橋を渡り、畑の間を登っていくと太郎坊山(標高551m)の中腹に下手度藩天平陣屋跡を示す1902(明治三五)年の懐古碑が立っています。下手度藩は、1806(文化三)年、筑後柳川藩立花氏の一族立花種善(たねよし)が筑後三池から移り本拠とした所で、下手度ほか9ヶ村を支配しました。3代植恭(たねゆき)は1848(嘉永元)年、封を継ぎ、若年寄・外国御用・老中格を歴任し、戊辰戦争では奥羽列藩同盟に加わりました。しかし、いったんは封地に入った藩主植恭は、家臣64人を従えて脱出し、江戸を経て大坂の柳川藩邸に入り、西軍の側に立ちました。このため下手度藩は仙台藩兵の的にされ、城下及び領内数ヶ村が焼き討ちされました。戦後は本拠を三池に移しました。