上 杉 氏 の 西 根 堰

                                     ▼ 福島市飯坂町湯野
                                     ▼ 福島駅から電車飯坂温泉下車10分

 飯坂と湯野を結ぶ十綱橋から下流にむかって左手を見下ろすと、西根下堰の取入口が見えます。さらに橋をわたり東にすすむと、西根堰開削の功労者、米沢藩奉行古河善兵衛(墓は福島市康善寺)、四郡役佐藤新右ヱ門(墓は桑折町大安寺)の遺徳をたたえ、堰関係者が1886(明治一九)年3月に建立した西根神社があり、 境内に西根堰開削碑と二人の頌徳碑がたっています。西根堰は摺上川の水をあげて、摺上川・阿武隈川左岸の一帯の西根郷、1600haを灌漑する用水路、下堰(桑折町徳江まで13km)、上堰(梁川町五十沢まで29km)のふたつの堰をふくんでいます。この堰は十七世紀前半、米沢藩は関ヶ原の戦いで大幅な減封をうけたため領内開発の必要にせまられて開削されました。
  西根堰下は1618(元和四)年に完成しました。工期は1年で、旧堰を改修したものとみられます。通水まもなく四箇新田が誕生しました。取水口から桑折町成田までは低い台地の上をとおりますが、桑折以東は産沢扇状地南東部にある段丘崖の下を通っており、この下堰ができた当時は、その受益面積は西根郷平地の四分の一にすぎず、山沿いのひろい地区は用水の便がなくて困っていました。このため二人は新堰開削を藩に請願し、1624〜33(寛永元〜十)年、10年がかりで完成します。西根上堰は穴原で取水し、湯野までの区間は堅岩を掘り、樋を懸けるなど、半田銀山の採鉱技術を利用しましたが難工事でした。上堰が桑折の産沢川を横切るところでは、大雨のさいに堰が壊れないように、わざと上流へ迂回させ、水門をつくって水量を加減し、上流からの水が川と堰の両方に流れるようにするなど、高度な技術を駆使しています。

 古河善兵衛は上杉支配下の信達地方の開発に多くの実績を上げましたが、難工事の上堰を完成させるため藩の軍用米を流用したことを密告され、米沢藩に戻される途中、1637 (寛永一四)年米沢街道の李平宿で自刃したとされてきたが、中村藩との境論のもつれから殺害されたともいわれます。

  

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