霊山と霊山神社

                                    ▼ 伊達郡霊山町大石字霊山・相馬市玉野
                                    ▼ 福島駅からバス相馬行行合道下車約1時間

 相馬への道を東に約23キロ、峠の行合道(ゆきあいどう)から霊山(国史跡・国名勝)に、胸つき八丁の急坂、峨峨(がが)たる奇岩をよじ登ると、晴天の日には遠く太平洋を望むことができます。

 霊山は、阿武隈山地の北部に位置し、標高805メートル。基盤の花崗岩のうえを第三紀中新世の霊山層が覆い、山頂付近では火山角礫岩が断崖をつくり、岩頸 (がんけい)が突き立ち、その西麓には断層線が走っており、その底を広瀬川が北流しています。かっては美しい赤石が産出しました。ここを中心とした一帯は県立自然公園となっています。

 この山は、もと不亡山と言いましたが、859(貞観元)年、慈覚大師円仁が、清和天皇の勅命をにより南岳山山王院霊山寺を創建し、霊山と改められ、修験の霊場ともなりました。1924(大正13)年に中腹の霊山寺跡が発掘され、僧坊3600と称される幻の霊山寺の規模が明らかになりました。

  もっとも歴史的に脚光を浴びたのは、1337(建武4)年正月、南北朝の動乱に、北畠顕家が、この要害の地を南朝勢力の南奥羽における拠点としたときで、ここに霊山城を築きました。この後、顕家は伊達行朝らを従えて西上し、翌年5月和泉国の石津の露ときえました。霊山城もまた、相馬親胤に攻められ、1347(貞和3)年に落城し霊山寺もともに焼亡しました。山頂には国司館の遺跡があり、1894(明治27)年の碑がたっています。
 
 1881(明治14)年、南朝正統論の立場から北麓の大石には別格官幣社霊山神社(保原からバス霊山行終点下車)が創建されましたが、この神社には霊山城の悲劇に由来する勇壮な濫觴(らんじょう)の舞が伝えられ、付近には奉戴踊りなど民俗芸能も伝えられており、また前9年の役にさかのぼる豪族クニトラや虎捕山の伝説もかたりつがれています。 

                          福島県の古代に戻る

                          福島県の中世に戻る