宇 津 峯 城 跡

                                       ▼ 須賀川市塩田字雲水峯
                                       ▼ 水郡線小塩江駅下車六〇分

 須賀川市の北東市境にある宇津峯(標高676m、国史跡)は阿武隈山系に属する独立峰で、三角錐状のシルエットをもつ美しい山です。山頂から県南部が一望でき、春秋にはハイキングを楽しむ家族連れでにぎわいます。水郡線小塩江からの登山道はよく整備されており迷うことはありません。なだらかな山道をたどれば小一時間ほどで山頂に着きます。

 宇津峯は、今から660年ほど前の南北朝の時代において、東北地方における南朝方の一大拠点でした。この地は当時南朝方にくみしていた田村氏の勢力下にあったこと、自然の要害の地であったことなどから、宇津峯に城が築かれたと思われます。1340(興国元)年、 鎮守府将軍北畠顕信(あきのぶ)を吉野から迎入れ、さらに守永親王(後醍醐天皇の孫・宇津峯宮)を奉じて、ここに国府と鎮守府を開いて北朝方と対峙しました。1346(貞和二)年足利尊氏は、吉良定家と畠山国氏の両管領を下向させ、奥州北朝軍の編成を強化し、 翌年の夏霊山宇津峯両城を攻撃します。結城・相馬・岩城などの県内の武士団の投入による大攻勢のなか、宇津峯城は孤立無援となり落城しました。落ちのびた守永親王と北畠顕信は、1351(観応二)年、北朝方の内部分裂に乗じて多賀城を拠点とする奥州管領吉良貞家を攻め落としますが、援軍が少なく多賀城の占拠は永くは続きませんでした。翌年(文和元年)3月、北朝方に追われた守永親王と北畠顕信は伊達の大波,日和田と後退し、再度宇津峯城にたてこもり、阿武隈川を挟んで熾烈な攻防戦を繰り広げました。しかし、宇津峯周辺の出城は次々と落とされ、1353(正平八)年5月、南朝方の拠点宇津峯もついに陥落し、ここに東北における南北朝戦乱は幕を閉じました。

 山頂には当時をしのぶことのできる千人溜・鐘撞堂跡・空堀などが残っています。千人溜は20m四方の土塁で囲まれ、本丸跡と考えられます。城の守りとしてはこのほかに東音森・西音森などがあり、いずれも見張り所としての施設です。宇津峯の山麓には矢柄城・滑津館・綱の輪城などの出城が築かれ、宇津峯を本城として雄大な城構えをしていました。

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