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その他諸々のこと
現在の軽井沢には51年当時の風景は微塵も残ってはいない。高原牧場も様変わりしている。浅間牧場は群馬県西部、吾妻群長野原町南部、浅間山北東斜面の広大な高原牧場である。標高1100−1300メートル。ご多分に漏れず、ここも観光地化が著しく、6月のレンゲツツジの開花期には見物客が大勢押し寄せると聞く。
◇紅白歌合戦始まる
1951年(昭和26年)正月3日午後8時、第1回紅白歌合戦がNHKラジオで放送される。第4回からは正月ではなく大みそかに行われるようになり、現在に至っている。それまでスタジオからの放送だったが、この回から公開放送にするためとテレビでも放送されることになったため大劇場を使うようになった。以下に第1回の出場者(曲目)を記す。
・女性軍=加藤道子(司会)菅原都々子(憧れの住む町)暁テル子(リオのポポ売り)菊池章子(母紅梅の唄)赤坂小梅(三池炭坑節)松島詩子(上海の花売娘)二葉あき子(星のためいき)渡辺はま子(桑港のチャイナ街)
・男性軍=藤倉修一(司会)鶴田六郎(港の恋唄)林伊佐緒(銀座夜曲)近江俊郎(湯の町エレジー)鈴木正夫(常磐炭坑節)楠木繁夫(紅燃ゆる地平線)東海林太郎(赤城かりがね)藤山一郎(長崎の鐘) |
丸十が観光ホテル建設で一儲けを目論み始めた頃の軽井沢である。舗装道路など何処にもない村の姿が、なんとも懐かしい。村内での移動は荷馬車か徒歩。その荷馬車の料金について、少々引っ掛かるのである。
田口光子がカルメンに請求した額は500円、少々高くはないか。鉄道とは比較できぬかも知れぬが、当時、青森−上野間で720円なのだ。 |
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まあ、上のうな重が東京で300円したことを考えれば、高くもないと言えるか。強欲な丸十に歩合で半分取られたとしても、光子の手元に250円は残る勘定である。毎日1回の運搬仕事が月に20日あれば5千円、日に2回で20日なら1万円になる。小学校教員の給与が5千円強の頃だから貧しいとは言い難いし、借金で丸十にオルガンを取られなくてもいいと思うのだが…。しかし、小さい村のことだから、運搬仕事だって毎日あるわけではない、と言われればそれまでである。
軽井沢町と群馬県・嬬恋村の境にあって、笠智衆扮する校長先生がこよなく愛する浅間山。ゆったりと噴煙を上げる日本最高の三重式円錐状活火山の雄姿は、校長先生ならずとも見とれてしまうだろう。
噴煙といえば即座に有珠山の噴火を思い出し、大丈夫かと不安が先に立つ。1783年(天明3年)の大噴火では1151人が死んだと記録されている。1974年以降、長い静穏期が続いているが、その間、82−83年と90年に水蒸気爆発があった。今年6月には火山性地震が頻発して、あわや噴火かとみられたが、観測陣は「当面、噴火の可能性は低い」としている。しかし、いずれ本格的な活動期に入るわけで、今から十全の対策を講じなければならぬだろう。
◇額縁ショーとストリップ
1947年(昭和22年)1月15日、東宝重役の秦豊吉が企画したセミヌードショーが、新宿帝都座の5階劇場で「ヴィーナスの誕生」と銘打って始まった。舞台上の額縁の中で、泰西名画そっくりにポーズをとったモデルがセミヌード姿でじっとしているだけ。幕が開いて閉じるまで僅か数十秒で、観覧料は20円だった。同年5月、渋谷・東横百貨店4階劇場の「東京フォーリーズ」公演で踊り子がブラジャーを外したのが我が国ストリップの最初ともいう。
この後、本格的なストリップが東京・浅草で一挙に花開き、ヘレン滝の常盤座、メリー松原のロック座、朱里みさをの大都劇場が評判を呼ぶ。彼女たちは自分の踊りをストリップとは言わず、ストリップティーズと呼んで芸を競った。ストリップに低俗を感じ、ストリップティーズに芸術を感じていたのかも知れない。リリイ・カルメンと同じように…。
なお、ストリップの歴史については、荒俣宏著「万博とストリップ」(集英社刊)に詳しい。 |
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