諸々のこと 2

  「日本最初」ではないと言う意見

 「富士カラーフイルム、さくらカラーフイルムによって、戦後直ちに色彩映画研究が進められ、『カルメン故郷に帰る』(3月21日封切)に先行して、非興行、試作品、進行中の諸作をふくめて私の知るかぎりでも、昭和21年以来、25本をかぞえることができる。また、さらにさかのぼれば、昭和12年に大日本天然色映画を社名とした会社が、第一回作『月形半平太』(志波西果監督、月形龍之介、原健作、酒井光子主演=2月28日封切)、三枝源次郎監督『千人針』(昭和12年10月21日封切)、近藤伊与吉原作『唄へ青空』(同年封切)などを発表している。そしてサイレント映画時代―昭和初期、大正期にも色彩映画はあったと思われる。断じて『カルメン故郷に帰る』は日本最初の総天然色映画ではないのである」
              (「昭和映画世相史」児玉数夫著・社会思想社刊)

 児玉氏の意見は、「日本最初」の意味の取り違いからきているように思われる。パートカラー、学術映画、短編などあったにはあったが、フィルムが国産であったかどうかである。「日本最初」には、フィルムが国産で長編劇映画であることが含まれている。アメリカのカラー映画は1934年、テクニカラー社開発のフィルムで短編「クカラチャ」が撮られ、翌年から本格的にカラー作品が作られている。海外にカラーフィルムが存在していたのだから、我が国での使用も当然考えられ、総天然色映画があっても不思議はない。

  高峰秀子のこと

 1929年(昭和4年)12月公開され大ヒットした松竹蒲田映画
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「母」に子役で初出演以来、45年以降の出演本数だけでも七十数本に上る。41年の「馬」(監督・山本嘉次郎、東宝東京)で、子馬を育てる農家の娘で主役を演じて子役から女優へ変身、49年の「銀座カンカン娘」(監督・島耕二、新東宝)で歌って踊る元気な娘役で若者のアイドルとなった。

 映画出演は「身過ぎ世過ぎのため」と考えていた彼女が変わったのは、木下の「二十四の瞳」(54年)出演後からと、自ら語っている。公開後、全国から寄せられた多くのファンレターの中に、「わたしも大石先生のような教師になりたい」と書かれていたことで、「腰掛け仕事じゃ駄目だ」と考えたという。その通り、以後彼女は素晴らしい演技力で数々の名作を残した。

      主な出演作品              
 ・ 浮雲(1955年・東宝、成瀬巳喜男)
 ・ 流れる(1956年・東宝、成瀬巳喜男)
 ・ あらくれ(1957年・東宝、成瀬巳喜男)
 ・ 喜びも悲しみも幾歳月(1957年・松竹、木下恵介)
 ・ 張込み(1958年・松竹、野村芳太郎)
 ・ 無法松の一生(1958年・東宝、稲垣浩)
 ・ 女が階段を上る時(1960年・東宝、成瀬巳喜男)
 ・ 笛吹川(1960年・松竹、木下恵介)
 ・ 娘・妻・母(1960年・東宝、成瀬巳喜男)
 ・ 永遠の人(1961年・松竹、木下恵介)
 ・ 妻として女として(1961年・東宝、成瀬巳喜男)
 ・ 名もなく貧しく美しく(1961年・東宝、松山善三)
 ・ 二人で歩いた幾春秋(1962年・松竹、木下恵介)
 ・ 放浪記(1962年・東宝、成瀬巳喜男)
 ・ 乱れる(1964年・東宝、成瀬巳喜男)
 ・ 華岡青洲の妻(1967年・大映、増村保造)
 ・ 恍惚の人(1973年・東宝、豊田四郎)
 ・ 衝動殺人 息子よ(1979年・松竹、木下恵介)

                

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