雨飾山(あまかざりやま)    75座目

(1,963m、 長野県・新潟県)


雨に煙る雨飾山。

【登頂歴】
 A2016年10月15日 小谷温泉コース
 @1999年10月15日 小谷温泉コース


@小谷温泉コース・往復

1999年10月15日(金)

 相模原−相模湖IC−豊科IC−南小谷−雨飾山荘−登山口1010〜1140荒菅沢1150〜1400山頂1420〜1638登山口−雨飾山荘(泊)

 雨飾山は、戸隠山や妙高山などがある頸城(くびき)山塊の一番西側のはずれにある山で、山頂からは日本海が見えるという。

 深田久弥さんはこの雨飾山に恋い焦がれ、3回目にしてやっと山頂に立ったという。最初は糸魚川の方から登ったが道がなくて断念し、2回目は小谷温泉から登ったが、これまた道がなくて断念。3回目は案内人を雇って小谷村から道なき道をよじ登って、やっと山頂に立ったという。折しも紅葉の真っ盛りだったというから感激もひとしおだったに違いない。

 そんな深田さんの熱い思い入れが、この2,000メートルにも満たない山を日本百名山に選ばせたのだろう。

 現在は紅葉のメッカとして人気があり、昨年の10月10日の体育の日に登った人の話しによると、登山口の駐車場は夜明け前から満杯になり、登山道は登り口から山頂までアリの行列だったという。
 そんな話しを聞いて、私達は10月9日から始まる3連休をはずし、1週間後の金曜日に行くことにした。

 東京はここしばらく好天が続いていたが、昨日の午後から雨になった。何でも20日ぶりの雨だという。その雨は今朝になっても止まなかった。山へ行く時になって雨が降るなんて本当にツイていない。
 雨の中を、Sさんと朝の4時半にF駅前で待ち合わせて、中央高速の相模湖インターから豊科インターへと向かった。

 晴れていれば中央高速から、甲斐駒や八ケ岳などが見えるが、今日は雨に煙って見えない。梓川サービスエリアからも常念岳は見えなかった。
 今回は、信濃大町や白馬村も通るので、久しぶりに鹿島槍や白馬三山などが見えるだろうと期待していたが、それも叶わなかった。

 南小谷駅を過ぎ、トンネルを出た所から右手の林道へ入って行く。いよいよ紅葉が見られると期待したが、紅葉にはまだ早すぎた。
 20分も走ると、周りの山は広葉樹林の雑木林になり、色も2、3分程度に付いてきた。出かけてくる時は、「紅葉はもう遅いかも知れない」と思ったが、ここは来週あたりが見頃のようだ。

 今夜の宿である「雨飾山荘」の前で車を止め缶コーヒーを買った。この雨飾山荘は、「露天風呂つき山荘」というのが魅力で、1ケ月も前から予約をしておいた。予約さえしていなければ、わざわざ雨の中を出かけて来ることもなかったのだが……。
 駐車場へ向かう途中で、3、4台の車とすれ違った。雨が止まないので登るのを諦めた人達かも知れない。

 駐車場は4、50台ほども置けそうなスペースに、20台ほどが止まっていた。その中には自衛隊の車まであった。雨の金曜日なので、もっと少ないかと思ったが、さすがは紅葉で名高い日本百名山だ。
 雨は依然として止まず、雨具を着込んで10時10分に出発。

 駐車場の一番奥に休憩舎があった。そこにはトイレや自販機があり、6、7畳ほどの所にテーブルとイスが置いてあった。その休憩舎の裏が登山道になっており、もしここへ寄らなかったら、そのまま林道を行ってしまうところだった。

 周りの紅葉は、やっと3分から4分程度である。右手に大海川の河原を見ながら、しばらく木道を歩いて行く。木道は雨に濡れて滑りやすいので一歩一歩注意しながら歩いて行った。

 ほどなく左の尾根に取り付くようになった。登る時は気付かなかったが、ここに20メートルほどの立派な滝がある。

 いよいよここからが急登の始まりである。滝を右から巻くように急登を登って行く。この辺はブナの大木が多く、紅葉する木も少ないが、所々に真っ赤に色づいたナナカマドなどがあった。

 傘を差して、足元を見ながら急登にあえいでいる時、突然、目の前に真っ赤に色付いたカエデなどがあると、思わず感嘆の声を上げた。

 斜面がゆるくなると荒菅沢の下りになった。本来ならこの辺から布団菱の岩壁がそそり立って見えるらしいが、雨に煙って見えない。
 荒菅沢11時40分着。


(写真は荒菅沢から見た布団菱。下りに撮ったもの)

 ここで7、8人が休んでいた。てっきりこれから登る人達だろうと思ったが、下る人達ばかりだった。その中の一人に、「これから登るんですか! 道は滑って歩きにくいし、ここから往復4時間はかかるだろうから、暗くなちゃいますよ!」
 と、驚かれてしまった。それに、
「足元が滑るから、傘は差さないほうがいいですよ」
 との助言を頂き、さっそく傘をザックの中へ仕舞い込んだ。

 荒菅沢11時50分発。
 ここからはSさんに先に行ってもうことにした。足の遅い私と一緒では申し訳ない。私にかまわず先に登って車の中で休んでいるように伝え、車のキーを渡しておいた。
 荒菅沢を石伝いに渡ったが、ここは雨で増水すると渡れないかも知れないと思った。

 再び急登になった。途中で自衛隊員7、8人が下ってきた。先頭にいた上官らしい人が、「どうぞ!」と言って道を空けてくれた。
 自衛隊はいくら訓練とはいえ、山の好きな隊員はいいだろうが、山が好きでない隊員は大変だろうなあ、と思った。

 しばらく登ると周りの樹木も背丈がグンと低くなり、尾根へ出た。紅葉もちょうど見頃だった。
 岩場を越えると、正面にぼんやりと山頂らしいピークが見えた。ちょうど下ってきたご夫婦がいたので、「あれが山頂ですか?」と聞くと、旦那から「あの裏の裏ですよ……」と言われてしまった。山頂はまだまだ遠いようだ。

 ガスが一層濃くなった。雨は依然止まないが、風がないだけ助かっている。
 山頂だと思ったピークは、名前のない1894メートルのピークだったようだ。そこから左に方向を変えて行くと、クマザサが生えたなだらかな台地のような所へ出た。

 腹がペコペコだった。今日の弁当はオイナリさんなので、5分もあれば食べられるが、雨の山頂でSさんが待っているかも知れないと思い、山頂まで我慢することにした。
 しばらく行くと、また急登になった。周りが濃いガスに覆われているため、山容は分からない。

 途中まで行くと、上部で立ち止まっている人の姿が見えた。山頂で休んでいるのか、ただ立ち止まっただけなのか分からないが、単独だったので、「Sさんかも知れない」と思った。

 私が南峰と北峰の鞍部へ辿り着いた時、Sさんと会った。やはり、先程の人はSさんだった。こんな時間に山頂付近にいるのは我々だけだろう。

 まずはSさんに遅れてしまったことを詫びた。そして、先に下るように伝え、右手の南峰の祠北峰の石仏に手を合わせ、2、30メートルほど先にあった北峰南峰へ向かった。


南峰

南峰から見た北峰(山頂)

 4体の石仏と祠、三角点、そして標識が立った北峰南峰へ、14時ジャストに到着。
 しかし、何と寒々とした所だろう。風が強く、傘をさしながら弁当を食べたが、傘が壊れてしまった。その強い風のせいで時々、ガスの切れ間から糸魚川方面の雨飾温泉が見えた。急いで写真を撮った。

 14時20分下山。
 下りは写真を撮りながら下った。登る時よりも風が出てきたせいか、ガスの切れ間から展望が利くようになった。雨飾山の全景を撮りたいと思って振り返りながら何枚もシャッターを押したが、ボンヤリとしか見えなかった。

 さらに下って来ると、登る時には見えなかった周りの紅葉が見えて来た。対岸にある山も同じように紅葉している。まだ5分程度なのが残念だが、この辺一帯は紅葉する広葉樹林が多いようだ。もし、あと一週間遅かったら、さぞかし見事だろうと思った。


この辺は山全体が広葉樹林のようだ。

登山道は紅葉のトンネル

 荒菅沢を過ぎ、ブナの大木が繁った中を一人で歩くのは薄気味悪かった。雨模様で、しかも16時近くなると、もう日没を過ぎたように薄暗かった。
 時々、沢の方で物音がすると「クマが出たか」、とびくついた。この辺にクマがいるがどうかは知らないが、クマと遭遇してからでは遅いので、歌を歌ったり、息が切れるとオーとかウーとか大声を出した。

 一人で山を歩くのは慣れているが、薄暗い雨の中を歩くのは心細かった。もし、ここでゲガでもして動けなくなったら大変なことになると思い、一歩一歩慎重に下った。
 やっと尾根から河原に降りた時、本当にホッとした。無事に下山したことを、こんなに喜んだことが過去にあっただろうか。

 木道を歩いていると、前をトボトボと歩いているオジさんがいた。そのオジさんも、「沢の方でゴソゴソしていたのでクマかと思い、歌を歌いながら下って来た」と言った。
 駐車場着、16時38分。

 この日は村営の雨飾山荘へ泊まったが、雨は翌日になっても止まなかった。せめて雨飾山の全貌が見えるという湯峠から、写真を一枚撮りたいと思って途中まで行ったが、諦めて引き返してきた。

 この山は、もう一度同じ紅葉の頃に登らねばならないと思った。雨で視界が悪く、どこをどう歩いたのか分からなかったこともあるが、やはりここは紅葉狩りとしてもう一度訪れたい所である。

 雨飾山そのものは驚くほどの紅葉ではないが、雨飾山を取り巻く周りの山々が落葉樹林で、しかも、紅葉する広葉樹林というのがいい。
 ここが見頃になったら、まさに紅葉のうねりの中にポッンといる感じで、実に壮観ですばらしいだろうと思った。全国に紅葉の名所は数々あるが、ここはきっと数本の指に入るに違いない。

 今度は、よく晴れた日に、のんびりと紅葉狩りでも楽しみながら登ってみたいものである。
        (平成11年)