(死ぬかと思ったジャンダルム)
1982年 8月
最近は、登りたいと思っていた山を一通り登ってしまったこともあって、今まで登る決心がつかなかった山や、一度登ったが天気に恵まれなかったので、もう一度登ってみようというような、いわゆる「心残りの山」を登ることが多くなった。
そして、一番最後まで残った山が西穂だった。西穂はかなり難しい岩尾根と聞いていたので、今まで登る決心がつかなかったのだ。
その西穂を「なんとしても登ってやろう」と思った。東稜では死ぬ思いをしたが、あの時の思いをすれば何処でも登れるだろうと思った。
恐いもの知らずの変な勇気と、開き直った気持ちが西穂山行を決心させた。そして、西穂を登ったら「もう山登りはやめよう」と思った。西穂高を最後の山と決めて、一人、上高地へ出かけて行った。
*
田代橋から西穂山荘を目指して登って行った。
ここは人も少なく、実に静かだった。ここが本当に上高地周辺の山だろうかと思えるほど、すれ違う人もほとんどいない。静まりかえった樹林帯の急登を、明日の「手ごわい岩稜」にそなえ、トレーニングのつもりで一歩一歩大地を踏みしめるように登って行った。
西穂山荘は他の山小屋にくらべるとかなりすいていた。やはり西穂へ登る人は少ないようだ。
翌朝、「憧れの西穂を登る」という嬉しさと緊張のせいか、早く目を覚ましてしまった。暗闇の中で空を眺めると、どんよりとした黒い雲が覆っていた。
しかし、その雲も夜明けとともに薄らぎ、雲の切れ間から青空が見えるようになってきた。今日一日はなんとか持ちそうだ。
小屋を出てしばらく行くと、軽装のハイカーがいるので驚いた。独標(どっぴょう)まではハイカーでも行けるらしいが、ブレザーを着たオジさんや、運動靴に半袖姿の若い女性達が多い中で、完全武装のこちらの方が異色のように思えて気がひけた。
独標からは針の山のような岩峰が幾つも見え、その奥に西穂高がひときわ高く聳え立って見えた。こんな岩山を見ると、嫌が上にも緊張感が高まって来る。
独標からは引き返す人がほとんどだった。ここからはエキスパートだけの世界かと思ったが、何とすぐ下の岩場に空身同然のハイカーがいたので驚いた(上の写真)。きっと「行けるところまで行ってみよう」ということなのだろう。
ガスが流れ出したが、風がないのが救いだ。
西穂高の山頂へ立った時、ガスの切れ間から青空が覗き、ジャンダルムが見えた。ここから見るジャンは北穂や奥穂から見るあの頭が丸い騎士のような岩塊ではなく、単なる岩塊にしか見えなかった。同じジャンダルムでありながら、見る角度によってこうも違うものかと驚いた。(拡大して見比べて下さい)
西穂山頂 |
西穂から見たジャンダルム |
奥穂側から見たジャンダルム |
またガスが濃くなった。
この辺のピークには、何々ピークとか、番号が付いていたが、視界が全く利かなくなってしまったので、どのピークに立っても同じような感じだった。
風はほとんどなく、間(あい)ノ岳あたりまでは緊張するような岩場もなく、むしろ物足りないぐらいだった。間ノ岳は標識はなく、大きな岩に「間ノ岳」と書いてあった。 |
天狗岩のテッペン |
天狗に見えますか?(徳本峠から) |
実際の縦走路(ジャンダルム側から) |
ここは下って来る人が一人もいなかった。時間が早いせいなのか、それとも逆コースは難しので下る人がいないのか分らないが、とにかくすれ違う人がいないので自分のペースで登ることが出来た。こんな岩場ですれ違うのは大変だ。
天狗岩を下って天狗のコルへ出ると、今度は登りになった。
しばらく登った時、霧の中からジャンダルムがボンヤリと見えた。丸い形をした山頂には2、3人の登山者の姿が見えた。西穂高あたりまでは何人かの登山者を見かけたが、その後はすっかり見かけなくなってしまい、単独行の私はカメラのシャッターを押してもらう人がいなくて困っていた。あの人達にシャッターを押してもらえるかも知れないと思った。
ジャンダルムは「左側、つまり飛騨側から登る」、と聞いていたので飛騨側から登ろうとしたが、どこを登ったらよいのか分からなかった。ジャンダルムは垂直の壁のような岩塊で、本当にこんな所が登れるのだろうかと思うほどの絶壁だった。しかも足元からは一気に1,000メートルも切り落ちている。谷底はガスって見えないが、まさに足がすくむような所だった。
縦走路は右側(つまり信州側)にジャンを巻くようにしっかりと付いていた。しかし、「飛騨側から登る」と聞いていたので必死で登れそうな所を探したが見つからず、諦めかけて縦走路を少し進んで左へ回り込んだ時、登りルートらしいものがあった。しっかりとした山靴の跡があった。だが、そこもすごい絶壁だった。まるで高層ビルの側壁をよじ登るような感じである。もし、足でも滑らせたらひとたまりもないだろうと思った。ただ登る距離は短く、10メートルか20メートルぐらいだろうと思った。
登るべきか、止めるべきかしばらく迷ったが、せっかくここまで来たのだからと意を決して登ることにした。
岩にへばり付くようにして登って行った。登りながら「ここは、もう絶対に下れない」と思った。岩場にはハーケンが何本か打ち込まれていた。ここは、どうもクライマーがザイルを使って登るルートのようだった。一般ルートにしては難し過ぎると思った。岩にへばり付きながら、もう生きて帰れないかも知れないと思った。
やっとの思いで山頂へ立った。しかし、生きた心地がしなかった。(どうもジャンダルムの登りルートを間違えたらしい。縦走路をもっと進んでから登るべきだったようである→近年はもっと手前の飛騨側にペンキで表示され、クサリもある )
顔面そう白だった。身体中の血液が一滴も無くなってしまったのではかいかと思った。下りのことを考えると、もう生きては帰れないかも知れないと思った。
誰もいないジャンダルムのテッペンで、しばらく呼吸を整えながら登山者が来るのを待った。もちろん下りのルートを教えてもらうためである。
しかし誰も来ない。仕方がない。何とか下るしかない。自動シャッターで写真を一枚撮ってから、下りルートを捜し出した。
下りルートはすぐに見つかった。何のことはない。奥穂側にしっかりした道が付いていた。踏み跡を見た時は本当に助かったと思った。これで生きて帰れると思った。
しかし良く考えてみれば、私が登って来る途中、ここにいた先客とすれ違わなかった。ということは、彼らは反対側へ下ったということに、もっと早く気づくべきだった。
ジャンダルムは、西穂から縦走して行った場合、一旦、右側からトラバースして稜線へ出てから、左側(飛騨側)、つまり奥穂へ行く道と反対側から登るべきだった。私が聞いていた通り、確かに飛騨側であるが、私は取っ付きからいきなり飛騨側を登ろうとしたことがいけなかったようだ。
(私が登ったのは直登コースのようです。下ったコースは現在は×印で使用されていません。詳しくは「槍〜北穂〜奥穂〜ジャンダルム縦走」をご覧下さい。→こちら)
ここを過ぎると、馬ノ背だかナイフリッジだか良く知らないが、とにかく凄くイヤラシイ所があった。ここは多分ナイフリッジというのだろう。名の通り、薄い鋸歯のようなギザギザした痩せた岩尾根で、ちょっといやらしい所だった。しかし、たった今登って来たジャンダルムに比べれば、斜面も5、60度で、足場もしっかりしている。
いずれにしてもナイフの刃を渡るようなもので、両サイドは上高地と飛騨側に一気に切れ落ちていた。今日は風が無いので助かったが、ここは雪が付いたり風雨が強い日にはザイルがなければ登れないかも知れないと思った。
奥穂高はもう目の前にあった。奥穂高へ向かって登って行き、分岐へ辿り着いた時、やっと胸を撫で降ろす思いだった。もうここからは危険な所はないはずだ。
奥穂の山頂へ立つと、今登って来たばかりの西穂高の岩峰が並び立って見えた。悔しいほどガスが切れ、コノヤロー!と怒鳴りたいほどだったが、まあ、これも仕方がない。 |
西穂は難しいとは聞いていたが、やはり手恐い岩稜だった。北穂の東稜と比べると、東稜の時は登る道が分からずに不安と焦りで気分的に追い込まれてしまったが、ここは覚悟ができていたことと、最後まで焦らず冷静に行動できたことが大きな違いだと思った。(ジャンの登り口を間違えたのは軽率だったと反省)。
岩場の危険度はこの西穂の方がはるかに高い。高度だけみても東稜よりはるかに高く、足がすくむような所が多かった。もっとも、私はジャンダルムの登りルートを間違えてしまったので、正しいルートを行けばそんなにビビらずに済んだのかも知れない。
初めて剣岳へ登った時も、もう下りたくないと思ったが、ここも奥穂側からは絶対に下りたくないと思った。
奥穂の山頂から上高地や涸沢を見下ろしながら、「次はいつ来られるか分からないから見納めだな」、と思った。何度も立ったこの奥穂ともおさらばだと思うと、親しい友と別れるような淋しさがあった。
ザイデングラードを下り、涸沢(からさわ)のテント場を下った所で振り向いた。そこには見慣れた穂高の岩峰が並び立っていた。写真を一枚撮ってから、「穂高よさらば」と穂高に別れを告げ、一気に横尾まで駆け下りた。 (昭和57年8月)