写真A-1 湾口防波堤
釜石湾口防波堤は中央開口部300mを大型船舶の航路とし、その両側に990mの北堤と670mの南堤をハの字型に配置し、両端部に50mの小型船舶用航路を設けた防波堤である。津波災害から港や市街を守ろうとする構造物であったが、津波によって多くのケーソンが水没した。
資料*6
2012年7月現在、復旧工事が進められている。
写真A-2 釜石湾奥の工場群
煙突は新日本製鐵㈱釜石製鉄所。津波により建物の一部が浸水したが、約1ヵ月後に鋼材生産を再開した。
資料*7
写真A-3 釜石市街地1
1896年6月15日(明治29年)三陸地震津波では旧釜石町釜石で人口5,687人のうち2,907人が死亡している。
資料*5の表361-3
写真A-4 釜石市街地2
写真A-5 釜石市街地3
歩道や空き地には雑草が生え、閑散としている。
写真A-5では道路の反対側には営業を再開している店があるが、上のグラフが示すように釜石市の人口は昭和39年を境に減少の一途を辿っている。使用されない建物と人通りの少ない閑散とした風景は今回の津波だけが原因とは思われない。津波の被害を受けた建物の撤去跡に新たな建物が再建されるとは限らない。
人口減少は釜石市に限ったことではない。被災地の復興は多くの人が集まりにぎやかな商店街とこれに隣接する住宅地のようなコンパクトな街並み欠かせないように思える。
写真B-1 室浜の旧住宅地
高台から旧住宅地を見下ろす。
前方の海は大槌湾。
前方、右端に杉の木越しにみえる建物が下水処理場である。雑草に覆われた建物の基礎しか残っていないが、前面には上下水道の完備した文化的な住宅が並んでいたという。
写真B-2 住宅地の上端にある公園
花崗岩製の支柱と円形のテーブルよりなる休憩所が破壊されている。
公園は高台にあるが津波はここを越えて溯上した。
資料*4によれば、漂流物から溯上高=17.8mというデータがある。
写真C-1 片岸町の海岸
仮の防潮堤として土嚢が積み上げられている。
写真C-2 仮の防潮堤(土嚢)の背後
写真C-3 片岸町の津浪記念碑
片岸海岸の津波遡上高=9.9m(斜面の木の漂流物)
国道45号線脇に建つ昭和8年の津浪記念碑、その向かって右側には明治29年の慰霊碑が並んでいる。
津浪記念碑の背面には昭和十年三月三日建設 鵜住居村長 古川徳次郎とある。当時の片岸は鵜住居村に属していた。
写真D-1 鵜住居中心部
国道45号線沿いで釜石方向を望む。前方の建物の左側近くにJR鵜住居駅があった。鵜住居町は釜石市で最大の被害かあった地区である。
明治三陸地震津波でも鵜住居村鵜住居では人口712名中174人が死亡している。
資料*5の表361-3
写真D-2 鵜住居駅前周辺
どこが駅で、どこが駅前かもわからないほどである。
写真D-3 同 上
鵜住居駅前付近より大槌町方向を望む。
写真D-4 解体される釜石東中学校
釜石東中学校に隣接して鵜住居小学校があったが、解体・撤去されたのかプール跡しか残っていない。
壊滅状態の地区でありながら、釜石東中学校と鵜住居小学校にいた児童・生徒計570人は全員避難し、一人の犠牲者も出なかった。この出来事は釜石の奇跡と呼ばれる。
資料*11
鵜住居小学校は津波浸水域になっていないエリアで耐震補強が終わったばかりの鉄筋コンクリート3階建てであった。当日は雪も降っていたこともあり、先生は児童を3階に誘導していたが、隣接する釜石東中学校の生徒が全力で駆けているのを見て3階から降りてその列に加わり避難した。
津波は校舎の屋上を越えた。軽自動車が校舎の3階に突き刺さっていた。
資料*8
写真D-5 同 上
釜石市の小学生1927人、中学生999人のうち、津波来襲時に学校管理下にあった児童・生徒は全員無事であった。一方、学校管理下になかった子供のうち、5人が犠牲になった。
釜石市では群馬大学片田敏孝教授により防災教育が行われている。防災教育が始まってから8年目にして東北地方太平洋沖地震に遭遇したが、その成果は極めて大きい。
片田教授は「避難の三原則」として、
を挙げている。
以上は資料*8
写真E-1 箱崎町の津波記念碑
碑文は片岸町の津波記念碑と同じものであり、背面には昭和十年三月三日建設 鵜住居村長 古川徳次郎とある。
当時の箱崎は鵜住居村に属していた。
写真E-2 箱崎町の状況
津波記念碑付近の高台から箱崎の海岸沿いの道路を望む。
写真の左方向が大槌湾で右方向に緩やかに傾斜した斜面が写真右側に向かって広がっている。
明治三陸地震津波で箱崎では、人口712人のうち174人が死亡している。
資料*5の表361-3
写真E-3 旧箱崎小学校
高台にあったが津波で被災した。
以下、資料*9より抜粋
3月11日の大地震につづく大津波で、ここ箱崎では、275戸ある家のうち230戸が流された。押し寄せた津波は廃校になった一部3階建ての旧箱崎小学校をも呑み、高台の住宅地まで迫った。鉄筋コンクリートの校舎はかろうじて残ったが、周辺の家々は猛り狂った波になぎ倒され、むし取られた。死者・行方不明者は70人を越えた。(漢数字に代えてをアラビア数字とした)
箱崎小学校は平成19年に鵜住居小学校と統合され、被災当時は校舎として使用されていない。
資料 *12
写真E-4 津波遡上上端付近から大槌湾方向を遠望する
左および下の写真は津波被災箇所上端付近から大槌湾方向を望む。
下のパノラマ写真右側の白い建物は旧箱崎小学校。
海は遠く、下に見える。
写真E-5 パノラマ写真 津波遡上上端付近から大槌湾方向を遠望する
写真F-1 唐丹町小白浜(こじらはま)の低地と高台の集落
写真左側が唐丹湾。
小白浜では明治29年の津波で人口629人中475名が死亡し、124戸中107戸が流失・3戸が全壊であった。
これにより一旦は高台への集団移動が行われたが、火災そのたの事情により低地にもどった。これが昭和8年の津波で160戸中105戸が被害を受け、7名が死亡した。
資料*5の表361-1、表361-3、資料*10
写真F-2 破壊された防潮堤
防潮堤の高さは12.5m。
防潮堤と道路を併用した構造で防潮堤の内部に市道が通っている。前方に破壊された防潮堤のブロックが見える。
小白浜漁港海岸における国道45号線の法面で、浸水高=17.344mが得られている。
資料*4
写真F-3 防潮堤の内部(市道)
昭和35年のチリ津波を契機として防潮堤が建設されたが、大津波にも対応できるよう、昭和54年~平成2年にかけて海岸保全施設整備事業として防潮堤の改良が行われた。(現地案内板による)
大津波にも対応できるとされた防潮堤であったが、今回の津波で被災した。
写真F-3 小白浜の盛巌寺
明治29年と昭和8年の津波碑がある。
今回の津波では高台にあるこの場所も浸水した。山門や鐘楼などが新しい材料で補修されている。
写真F-4 盛巌寺の津波碑1
昭和8年の津波碑
写真F-5 盛巌寺の津波碑2
明治29年の津波碑。
写真F-6 今回の津波到達位置を示す石柱
津波到達位置を示す石柱
石柱は和8年の津波碑の脇にある
(明治29年の津波の後、)工費には義捐金全部三千圓を當て山腹の畑を買収し、一戸平均50坪の地割をなし、道路に沿って商店街を造り約100戸を集團移動せしめた。然るに漁夫は濱が便利なので原地に止まり、又新に分家したり、他より移住した人が先ず濱に占住した。又高地の本宅はその儘にして濱の原宅地に家を建築するものもあり、漸次原地復歸の傾向が生じた。
然るに大正2年4月1日五葉山麓より發した野火は、遂に山麓高地に集團移動した聚落を併せ270戸を殆ど全燒させた。この災害は「津浪は何時來るかわからぬが山麓に居ては山火事が恐ろしい」と感ぜしめ、山腹には約10戸を殘して殆ど海岸低地にある納屋、製造場等の燒跡の原宅地に下りた。これが(昭和)8年の津浪に遭い160戸中105戸が被害を受ける事になった。
(昭和)8年9月集團移動地2か所の造成工事を始め11月に竣工した。(明治)29年の移動地域には主要道路が通らなかった事が、原地復歸を促した原因と見られたので、縣道を高地に移し、簡易水道も計畫中である。
資料 : 田中館秀三 山口彌一郎 三陸地方に於ける津浪に依る聚落移動 地理と経済1巻3号 302-311 1936
漢数字をアラビア数字に改め、送りカナを一部改めた。()内はわかりやすいように付け加えた。
写真F-7 唐丹小学校
道路両側は住宅の基礎だけが残っている。人の気配はない。
平成24年6月8日 記者会見 資料No.7 教育委員会総務学事課によると、現在の唐丹中学校の敷地に、小中学校併設の校舎が建設される予定のようである。
写真F-8 同 上
写真F-9 防潮堤と片岸川の水門
遠景に、防潮堤が破壊されている小白浜漁港が見える。
写真F-10 唐丹小学校周辺 全景
上の写真とほぼ同じ位置から見た唐丹小学校。
東北地方太平洋沖地震による津波の遡上高や浸水高は多くの大学や研究機関などによって測定され、5,000点を越えるデータが「東北地方太平洋沖地震津波合同調査グループ」の名前で公表されている。このように多量のデータが得られたことはもちろん初めてのことであり、貴重なデータとなっている。
下の図は「東北地方太平洋沖地震津波合同調査グループ」のデータを用いて、岩手県の宮古市の宮古湾から陸前高田市の広田湾(宮城県気仙沼市を含む)に至る区間の津波の高さ(遡上高・浸水高)を示したものであり、湾ごとに色分けしている。
この図によれば、遡上高と浸水高の高低が混在しており、必ずしも遡上高が浸水高よりも高いことを示していない。本来、遡上高の方が高いはずであるが、正確を期すために不明瞭な遡上高より明瞭な浸水高が計測対象個所に選ばれたためであろうか。あるいは、遡上高と浸水高の違いよりも場所による違いに方が大きいのであろうか。いずれにしても、津波の高さは遡上高や浸水高という用語#1の意味にとらわれず、「明瞭な津波の痕跡」から得られていると解釈でき、同じ湾沿岸でも少なくとも±5m程度の違いがあり、高いところと低いところでは10m程度の差がある。このように津波の高さは場所(地形)によって大きく異なるのが実態であり、防災地図に示されている浸水高0.5~1mといった数値はある条件での相対的平均的な仮の数値であって、目安となる数値に相当することがわかる。住宅が浸水域の外側にあっても浸水しないという保証はないし、2階に避難すれば安全であるという保証もない。この津波のデータは浸水域外であっても、時には住宅の屋根を越えるような津波が来襲する可能性を示している。普通なら安全と思われる場所であっても、少しでも危険や不安を感じたら、早めの避難が望ましい。少なくとも、避難準備をし、津波情報に注意しながら海岸方向の状況を監視してほしい。
なお、山田湾、釜石湾、大船渡湾などの沿岸では津波の高さが相対的に小さい傾向が認められる。山田湾は湾口が狭い湾であり、釜石湾と大船渡湾は湾口防波堤がある湾であることが関係しているのかも知れない。
#1 津波の高さ
津波の高さを表す用語には波高、浸水高、遡上高がある。
波高は湾内や沖合の津波の高さであり、通常は検潮所や沖合の波高計で計測されるが、津波が防潮堤・岸壁・水門などを越えていない場合はこれらに残された津波の痕跡(浸水痕、漂流物)からも求められる。
浸水高は陸上での津波の高さであり、 遡上高とは最も高い場所まで到達した高さである。
1つの地震によって発生した津波は広範囲・長時間にわたって襲来する。また、異なる津波の高さを比較したい場合もある。時間・空間の異なる津波の高さを同一に比較できるように、津波の高さは東京湾平均海面(TP)を基準としして潮位補正が実施されるのが普通である。
なお、地盤を基準にした浸水高を浸水深というが、その場に立った時の足元からの津波の高さであり、実感のこもった用語である。
参考資料
*1 浸水範囲内人口 「総務省統計局 統計調査部地理情報室
*2 東北地方太平洋沖地震に係る人的被害・建物被害状況一覧 岩手県総務部総合防災室 平成24年7月18日 17:00時点
*3 「平成23 年(2011 年)東北地方太平洋沖地震」により各地で観測された震度等について(第3報) 気象庁 平成23年6月23日
*4 東北太平洋沖地震津波合同調査グループ ttjt_survey_07_Aug_2012_tidecorrected.xls
*5 宇佐美龍夫 新編 日本被害地震総覧 東京大学出版会 1996
*6 国土交通省東北地方整備局釜石港湾事務所 釜石防波堤 ttp://www.pa.thr.mlit.go.jp/kamaishi/port/km04.html
*7 YOMIURI ONLINE 津波被害の新日鉄・釜石製鉄所、鋼材生産を再開 http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20110413-OYT1T00802.htm
*8 人が死なない防災 片田敏孝 集英社新書 2012
*9 津波の街に生きる ルポタージュ3.11大津波 釜石の悲劇と挑戦 本の泉社 2011
*10 田中館秀三 山口彌一郎 三陸地方に於ける津浪に依る聚落移動 地理と経済1巻3号 302-311 1936
*11 再び、立ち上がる! 河北新報社、東日本大震災の記録 河北新報社編集局 2012
*12 釜石市HP 鵜住居小学校 http://www.city.kamaishi.iwate.jp/index.cfm/10,3692,32,167,html