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東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)

岩手県宮古市

宮古市 位置図

宮古市の基本的データ

  • 人口59,430人(H22国勢調査)
  • 浸水範囲内人口18,378人 *1
  • 死者420人 (H24年7月18日時点)*2
  • 行方不明者96人 (同上)*2
  • 家屋全壊+半壊4,675棟 (同上)*2
  • 浄土ヶ浜における津波遡上高=13.2m(地山の浸水痕) *3
  • 震度5弱(宮古市鍬ヶ崎) *4

(A) 宮古市 浄土ヶ浜と鍬ヶ崎地区 (2012年10月撮影)

浄土ヶ浜と津波碑

写真A-1 浄土ヶ浜と津波碑

昭和8年の三陸沖地震の津波記念碑(手前の大きい方)と昭和35年のチリ地震の津波記念碑

・三陸沖地震の津波碑

1933(昭和8)年3月3日

碑文

  • 一 大地震の後には津浪が来る
  • 一 大地震があったら高い所へ集れ
  • 一 津浪に追はれたら何處でも高い所へ
  • 一 遠くへ逃げれば津浪に追いつかれる
  • 常に逃げ場を用意しておけ
  • 一 家を建てるなら津浪の来ぬ安全
  • 地帯へ

・チリ地震の津波碑

1960(昭和35)年5月23日

  • 地震がなくとも潮汐が異常に退
    いたら津波が来るから早く高い
    所に避難せよ

写真2 浄土ヶ浜の海岸道路

写真A-2 浄土ヶ浜の海岸道路

浄土ヶ浜大橋より海岸道路を望む。

橋梁が流されている。

鍬ヶ崎地区の被災状況

写真A-3 鍬ヶ崎(くわがさき)地区の被災状況

浄土ヶ浜大橋より市街地(宮古市鍬ヶ崎地区)を望む。

津波は写真左側の宮古湾より浸入した。

鍬ヶ崎地区では54人が犠牲となった。(宮古市資料 H23/7/7)

鍬ヶ崎地区の被災状況

写真A-4 鍬ヶ崎地区の被災状況

遠景右側の橋梁は浄土ヶ浜大橋

鍬ヶ崎地区は宮古港に隣接する。

コメント 東北地方太平洋沖地震と津波の歴史

三陸沿岸は明治以降、被害が大きかった津波だけを数えても4回ある。1896年(明治29)の三陸地震津波、1933年(昭和8)の三陸沖地震、1960年(昭和35)のチリ地震津波、それに今回2011年(平成23)の東北地方太平洋沖地震である。明治以降という短い期間での発生頻度ではあるが、明治・大正・昭和・平成という4世代の間に4回(約40年に1回の割合)である。その中でも東北太平洋沖地震は日本で発生するとは考えられていなかったほど規模の大きな地震であり、明治以降に目立った津波被害がなかった地域にも巨大な津波が来襲した。

仙台平野周辺には古文書の研究や津波堆積物の調査によって過去に巨大な津波が発生していたらしいことが予想されていたが、これが現実に起こり得るものとして社会に受け入れられる前に東北地方太平洋沖地震が発生した。

津波はプレートの沈み込みに伴う地震によって発生するが、その歴史は新石器時代から現在の文明を築いた人の歴史よりも遥かに長い。現在というこの短い瞬間に東北地方太平洋沖地震を経験したのであるから、過去には今回の津波を越えるような巨大な津波が発生していたであろうことは容易に想像される。一方で、東北地方太平洋沖地震は日本がチリやスマトラと同じように巨大な地震と津波の発生する国であることを思い知らされた地震でもある。

このことは、過去に日本で起こったと想像される巨大な地震や津波は現在にも起こる可能性があり、世界で起こったことは日本でも起こる可能性があるということを意味するが、地震の地域的な特徴などのこれまでの知識は混沌としてくる。東北地方太平洋沖地震は、発生頻度は小さく通常は無視されるような地震や津波が現実に発生することを示し、地震学などの見直しを迫る地震となった。

(B) 宮古市田老地区 (2012年10月撮影)

田老海岸堤防(防潮堤)

写真B-1 田老海岸堤防(防潮堤)

写真の左が市街地で右側が海


1934年(昭和9)より始まった防潮堤工事は戦争による中断を挟み、24年の歳月をかけて1958年(昭和33)に完成した。(全長1,350m、上幅3m、根幅最大25m、地上よりの高さ7.7m、海面よりの高さ10m)

その後、海側に防潮堤の増築工事が2度にわたって行われた。

資料*5より

防潮堤の頂部

写真B-2 防潮堤の頂部

右側の海岸から来襲した津波は防潮堤を越えた。遠景に見える白い建物はJFたろう(田老町農協)

この防潮堤の工事は借金による村費を投じて始まったが、2年目からは全面的に国と県が工費を負担する公共事業となった。田老村の強い防災意識と熱意によるものとされる。
資料*5より

田老海岸堤防(防潮堤)

写真B-3 崩壊した第二防潮堤

本堤(第一防潮堤)の完成後、第一防潮堤中央部付近から海側に向かって延びる第二防潮堤(1962~1966)と第三防潮堤(1973~1979)が建造され、総延長2.4kmの2重の防潮堤が完成した。

写真は第一防潮堤と第二防潮堤の接続部で、延長部の第二防潮堤は破壊されている。

遠景の白い建物はたろう観光ホテルで第一防潮堤と第二防潮堤の間にある。

たろう観光ホテルの被災状況

写真B-4 たろう観光ホテルの被災状況

1,2階は鉄骨が剥き出しになり、3階もかなり破壊されている。建物の外見上の変状(エアコン室外機の移動)から判断すれば、津波は少なくとも4階までは達したようである。

壁面の浸水痕から浸水高16.58m(資料*3)が得られている。

当ホテルは第一防潮堤と破壊された第二防潮堤に囲まれた箇所(第二防潮堤の内側)にあり、この地区で形をとどめている建物はこのホテルだけである。

防潮堤より望む市街地(1)

写真B-5 防潮堤より望む市街地(1)

防潮堤からまっすぐに高台に向かう道路。

道路正面奥の右側の白い建物が田老総合事務所(旧町役場)。

昭和の三陸沖地震以後、役場や学校などの公的な施設は高台に設けられた。

防潮堤より望む市街地(2)

写真B-6 防潮堤より望む市街地(2)

幹線道路は南北に延びる国道45号線(浜街道)。

右奥の白い建物はJFたろう(田老町農協)

明治の「海嘯死者碑」

写真B-7 明治の「海嘯死者碑」

1896年6月15日(明治29年)三陸地震津波の「海嘯死者碑」

1896年6月15日(明治29年)三陸地震津波の「海嘯死者碑」右側面の碑文

〔注〕 右列の…當地の次の文字は「最」の異字体 「子時」は23時~24時ごろのこと

田老村田老村の被害 309戸全が流出し、人口2,248人のうち死亡1.867人、重傷11人。資料*6

昭和の海嘯慰霊塔

写真B-8 昭和の海嘯慰霊塔

昭和の海嘯慰霊塔 刻字

1933年3月3日(昭和8年)三陸沖地震の慰霊塔 田老村田老の被害 362戸のうち358軒が流出し、人口1,798人のうち死亡763人。資料*6

平成の津波碑「海嘯物故者諸々霊」

写真B-9 平成の津波碑「海嘯物故者諸々霊」

2011年3月11日(平成23年)東日本太平洋沖地震の津波慰霊碑


常運寺には明治、昭和、平成の3基の津波碑が隣り合うような位置にあり、津波被害の歴史を物語っている。

なお、チリ地震津波の時の被害はない。当時は防潮堤が完成していたが、そもそも防潮堤に達するほどの津波(波高2.6m)ではなかった。

宮古市田老総合事務所(旧町役場)

写真B-10 宮古市田老総合事務所(旧町役場)

事務所に向かって一階の右側に「津波防災都市宣言」の文字が大きく掲げられている。

高台にある事務所は被災しなかった。

沿革

明治22年 田老村(合併)

昭和19年 田老町

平成17年 宮古市田老

「津波防災の町宣言」の碑

写真B-11 「津波防災の町宣言」の碑

宮古市田老総合事務所敷地内にある。

「津波防災の町宣言」の碑文

コメント 防災と田老の防潮堤

田老は他の三陸沿岸の町村と同様に、明治三陸地震津波と昭和三陸沖地震による壊滅的な津波災害を経験した。昭和8年の津波からの復興を契機として当時の田老村は防潮堤を建造する道を自らの意思で選択した。

平成の津波(東日本大震災)を契機として、高所移転や防潮堤の嵩上げが各自治体で計画されている。現在の田老地区は宮古市の1つの地区であり、田老村のような時代とは異なり、復興や防災事業を田老地区だけで決めることはできない。市町村合併は強力な財政に支えられる反面、地区の行動を規制し、復興や防災対策などを遅らして画一的な方向に導く負の側面を持つ。
嵩上げした防潮堤が完成しても自ら誇りとする防潮堤から、与えられた防潮堤へと意識変化しないよう、計画、施工、維持管理に至るまで地域住民の関わりが必要であろう。

田老は津波太郎とも呼ばれ、津波によって壊滅的な被害を繰り返してきた歴史がある。防潮堤の築造に加え、津波防災都市宣言に象徴されるように総合的な防災対策を推進してきた地区であったが、宮古市の地区では最大の166名の死者を出す結果となった。

下の表に示すように今回の人口に対する死者行方不明者の比率は防潮堤がなかったころのそれと比べて極めて小さい。津波は防潮堤を越えたが、防潮堤が津波の遡上阻止に一定の効果をもたらし、その結果として死者行方不明者の減少と高台の総合事務所(旧町役場)などの安全が保たれたと考えられないだろうか。しかし、防潮堤を信頼して避難しなかった人々が犠牲になったことも事実である。明治と昭和の津波の波高を考えると、この防潮堤では安心できないことは明らかであるのに。(現地の目立つ位置に「三陸大津波ここまで」昭和8年と表示された看板がある)

なお、田老の防潮堤は万里の長城とも呼ばれたように、建設当時は大規模な構造物であったが、大型土木機械が用いられる現在においては特別大きな規模とは言えないまでになっている。



 地震名  発生年月日  波高(m)   田老村田老(田老地区)  死者行方不明者数
/人口
石碑記載
人数 
 備考
 人口 死者行方
不明者数
 明治三陸地震津波  1896年6月15日(明治29年)  14.6 #1  1,547 #1  1,299 #1  0.84  -  
 昭和三陸地震  1933年3月3日(昭和 8年)  10.1 #1  1,798 #1  763 #1  0.42  911  
東北地方太平洋沖地震 2011年3月11日(平成23年)  15.0 #2  3,544 #3  166 #3  0.05  154 乙部・田老・摂待 
表の作成には次の資料を参照した。

#1 新編 日本被害地震総覧 表361-1、表361-3

#2 東北地方太平洋沖地震津波合同調査グループ_ttjt_survey_07-Aug=2012_tidecorrected.xls  たろう観光ホテル4階のベランダの津波遡上高

#3 宮古市市役所

(C) 宮古市金浜地区 (2012年10月撮影)

防潮堤上から望む金浜地区

写真C-1 防潮堤上から望む金浜地区

写真手前の道路は国道45号線。

国道沿いの低地は広い範囲にわたって津波被害を受けたが、高台の集落は被害を免れている。

海岸線に沿って続く防潮堤

写真C-2 海岸線に沿って続く防潮堤

岩手県内の防潮堤の本格復旧の第一号として、金浜海岸防潮堤の着工式が平成24年3月8日に行われた。

10.4mまで全体を嵩上げする計画であるという。(宮古市ホームページによる)

津波被害上端部付近より海岸方向を望む

写真C-3 津波被害上端部付近より海岸方向を望む

防潮堤の背後に宮古湾が見える。写真の左方向が湾口で遠景の山並みは北北東方向に延びる重茂半島。

国道沿いのチリ地震津波碑

写真C-4 国道沿いのチリ地震津波碑

チリ地震津波碑 表 碑文

チリ沖で発生した地震による津波は翌日24日の午前2時20分ごろから日本各地に押し寄せた。

碑文によると死亡1名、流出36戸、全壊67戸とある。

コメント 津波はいつも同じではない

チリ地震での津波は宮古湾奥にあるここ金浜で波高が5.5mと高くなった。一方、津波太郎といわれる田老地区では防潮堤に達するほどの高さにもならなかった。津波の周期と湾の形状が関係しているといわれる。

震源域の破壊速度や波源域の位置(伝搬方向)、および湾の大きさや形状などに加え、波の性質である屈折・反射など多くの条件によって襲来する津波の状況は異なる。さらに、津波が遡上する過程で陸上の地形が大きくかかわってくる。今回の津波においては津波遡上高や津波浸水高のデータが広範囲にわたって多量に取得されているが、これらのデータをみると同じ地区であっても大きな違いが認められる。一方、松島湾沿岸のようにある範囲にわたって津波の波高が小さく勢いが弱いと思われる地域が生じているが、いつもそのような傾向があるのかどうか疑問である。今後の研究で松島湾は津波のエネルギーが減衰しやすいことが明らかになるかもしれないが、東北地方太平洋沖地震でも無事だったからという記憶が次の災害を大きくしないかと心配される。。

関東地方では日本史上最大の災害をもたらした関東地震*が1923年(大正12年)に発生している。この大正関東地震の前の関東地震は1703年の元禄地震であったことが分かっているが、それより前の関東地震は特定されていない。被災地である南関東は鎌倉幕府が置かれていた地であるのに古文書にこれだという地震や津波の記載が見当たらないのは不思議でもある。特定されない理由としては、揺れも津波も突出したような大きな地震ではなかったのかも知れないし、あるいは有力な歴史資料が発見されていないのかも知れない。理科年表(国立天文台編)によると、日本書紀に地震と記載されている西暦416年の地震が日本の歴史に登場する最初の地震として挙げられているが、古文書の質と量が充実してくるのは江戸時代になってからだといわれている。

一方、房総半島での海岸段丘の研究によれば、関東地震の痕跡が河岸段丘として6,800年前(縄文海進時の最高位旧汀線の離水時期)まで辿れるといい、関東地震は数千年にわたって繰り返されてきたことが地形に残されている。地形に刻み残された客観的な地震の痕と紙などに残された具体的な歴史資料とでは時間的スケールや質に大きな違いがあるが、両者は補完的な関係にある。歴史資料にないからと言って被害がなかったことを意味するものではない。数千年に及ぶ関東地震の歴史においては、巨大な津波を伴った地震もあったかも知れない。

大正関東地震(関東大震災)では火災による被害があまりにも大きいために津波の被害がその陰に隠れている。次の関東地震に向かい将来の人々に津波への警戒意識は伝わるであろうか。

*関東地震 ヒィリピン海プレートが日本列島へ沈み込むことによって発生する地震のうち、相模湾トラフ沿いで歴史的に繰り返して発生している地震を総称して関東地震と呼ぶ。個々の関東地震に対しては1923年の関東地震(マグニチュード7.9)を大正関東地震、1703年の元禄地震(マグニチュード8.2)を元禄関東地震と呼んで区別している。

参考資料

*1 浸水範囲内人口 「総務省統計局 統計調査部地理情報室

*2 東北地方太平洋沖地震に係る人的被害・建物被害状況一覧 岩手県総務部総合防災室 平成24年7月18日 17:00時点

*3 東北太平洋沖地震津波合同調査グループ ttjt_survey_07_Aug_2012_tidecorrected.xls

*4 「平成23 年(2011 年)東北地方太平洋沖地震」により各地で観測された震度等について(第3報) 気象庁 平成23年6月23日

*5 山下文男 三陸海岸・田老町における「津波防災宣言の町宣言」と大防潮堤の略史 歴史地震第19号(2003) 165-171頁

*6 宇佐美龍夫 新編 日本被害地震総覧 東京大学出版会 1996