関東大震災その後

国家による統制の強化

当時はラジオがまだ無い時代でした。地震の混乱と正確な情報が得られない状況下において、地震発生の翌日ごろから社会主義者および朝鮮人が暴動を起こして放火しているという流言蜚語が非常な勢いで拡大しました。『この流言は浮説にとどまっていなかった。九月二日夜、警視庁保安局長は全国に「不逞鮮人取締」を打電し、翌三日には関係地域の郡市町村にこの「注意ノ件」の通達がおろされていた。』(神奈川県通史 昭和57年)警視庁や政府までが流言を信じたため、町々には自警団が組織され、朝鮮人や朝鮮人に誤られた日本人多数が殺害されました。その数は数千人とも言われています。警視庁はその流言がまったく根拠が無いことに気づくと、流言を流すものを検挙し、流言を煽るような新聞や雑誌の記事を検閲し、発禁処分などで取締りを強化しました。また、「大杉事件」や「亀戸事件」のように無政府主義者や労働運動活動家が国家権力によって意識的に殺害されるという事件も起きています。社会主義運動の監視の強化や検挙、報道の自由の制限、物価の上昇などの震災後の混乱は、国家統制の強化に繋がり、関東大地震は日本の進路に大きな影響を与えたかにみえます。*1

都市インフラの整備

関東大震災では帝都復興事業により大規模な復興事業が実施されました。焼失区域の約九割の区域で区画整理が行われ、昭和通り・第一京浜・大正通り・永代通り・晴海通りなどの幹線道路や墨田公園・錦糸公園・浜町公園などの多くの施設が整備されました*2。現在の首都東京が首都であり続けることができたのは関東大震災の復興によるものであるといわれるゆえんです。

地震研究方針の転換

関東大地震を経験し、地震学の基礎的な研究が欠けていたという反省が起こり、新たな研究方針を掲げて、1925(大正14)年11月に東京帝国大学に地震研究所が設立されました。それから間もない1年4か月後に北丹後地震が発生しました。北丹後地震では地震研究所や各大学により詳細な調査観測が実施されました。北丹後地震は現在の地震学につながる基礎的な成果が得られ地震であるとされています*3。

防災の日の制定

「防災の日」の9月1日は関東大地震が発生した日であり、また、立春から数えて210日目(台風が来襲する厄日とされる二百十日)にほぼ相当します。昭和34(1959)年の伊勢湾台風*4が契機となり、昭和36(1961)年に制定された災害対策基本法よって9月1日が「防災の日」として創設されました。

*1 吉村昭 関東大震災 文春文庫 1977

*1 姜徳相 関東大震災 中公新書 1975

*2 伊東孝著 東京再発見 岩波新書 1993

*3 藤井陽一郎 日本の地震学 紀伊国屋新書 1967

*4 伊勢湾台風 昭和34(1959)年9月26日~27日、死者4,697人、不明401人。

昭和34年9月26日、紀伊半島潮岬に上陸した台風15号は名古屋市西方を通過し、伊勢湾沿岸一帯に大きな被害を出したことから「伊勢湾台風」と名付けられました。暴風と高潮による被害は名古屋地方を中心として全国におよびました。