作成:2015/7

関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 藤沢市 FS-04

藤沢市遠藤 --- 笹久保稲荷社の復興記念碑と集落移転 ---

  • 対象:笹久保稲荷社の復興記念碑
  • 所在地:藤沢市遠藤
  • 碑銘:復興記念
  • 形態:板状
  • 建立年月日:昭和2年2月
  • 交通:小田急江ノ島線「湘南台」西出口よりバスで菖蒲沢下車徒歩5分(全行程約3.8km)
写真1 笹久保稲荷社全景

写真1

笹久保稲荷社全景 丘陵地の平坦な頂上付近に在る

写真2 社殿脇に建つ復興碑

写真2 社殿脇に建つ復興碑

写真3 復興記念碑 右側の白い立札は笹久保稲荷社の説明板

写真3

復興記念碑 右側の白い立札は笹久保稲荷社の説明板

写真4 題字に「復興記念」と刻まれている

写真4

題字に「復興記念」と刻まれている

写真5 笹窪谷(ささくぼやと)の状況で、下流方向を望む 湿地にはヨシが密生している

写真5

笹窪谷(ささくぼやと)の状況で、下流方向を望む 湿地にはヨシが密生している

遠景の建物は慶応大学の看護医療学部

写真6 かって集落があったと思われる笹久保谷への斜面下部 現在は竹薮が広がっている

写真6

かって集落があったと思われる笹久保谷への斜面 現在は竹薮が広がっている

竹は湿気を好む植物であり、丘陵地に浸透した雨水が斜面特に斜面末端部付近からじわじわと湧水している可能性があります。想像ですが、地下水位が高いことと震災で地変が生じたことは関係しているかも知れません。

撮影:2015/4,7

笹久保について

笹久保と笹窪谷

笹久保稲荷社は藤沢市遠藤の高台にありますが、笹久保の久保は窪とも表記され窪地を示す地名およびその場所の集落名を指すと思われ、移転前の神社名が引き継がれているようです。

笹久保稲荷社の南側の斜面を下ると、小出川の支流の源流域となる、北西に谷頭を持ち北西-南東に延びる沢筋(谷戸)があります。この沢筋は笹久保谷あるいは笹窪谷(ささくぼやと)と呼ばれ、谷底低地の規模は延長約1kmで、中~下流部で幅100m程度です。


藤沢の三大谷戸

< 藤沢市ホームページ ふじさわ探訪より >

谷戸とは、丘陵地の谷あいの低地のことです。河川の源流域になっている場合も多く、沼などの湿地やそこを開発した水田に豊かな生態系が保たれています。

本市周辺の地名では、谷と書いて「やと」と呼ばせる場合もあります。市内には代表的な谷戸として、川名清水谷戸、石川丸山谷戸、遠藤笹窪谷(谷戸)があり、「藤沢の三大谷戸」とされています。

笹久保稲荷社

< 案内板より >

笹久保稲荷社

以前の社地は、現在より笹久保谷に向かって下る道の途中にあった。関東大震災後、人家が原の方へ上がったので社を山へ置くのもどうかということから現在地に移した。

社殿のそばの石碑には大正12年9月1日の震災時の状況や復興再建の努力が語られている。

祭祀は2月の初午。

遠藤まちづくり推進協議会

(案内板は縦書き、漢数字をアラビア数字に変更)

復興記念碑

記念碑には次のような記述があります。

  • ・当町は全戸が倒壊した。
  • ・神助により、1人の死傷者も出なかった。
  • ・土地が陥没し亀裂が縦横に走り、住むのに適した土地ではなくなった。
  • ・助けあい協力努力し、新たにここを住処として復興の緒に就くことができた。
  • ・稲荷神祠を再建し、神恩を碑に刻み、今日あるのを忘れてはならない。

 ⇒ 碑文を見る


笹久保を含めた遠藤全体の被害は御岳神社の大震災記念碑にあり、「戸数228の内住宅の全壊173戸、半壊43戸、死者4名、負傷者31名を出す」と刻まれています。笹久保では全戸が倒壊したとあり、遠藤地区全体でも約75%が倒壊しました。

地形・地質と集落移転

笹久保稲荷社周辺は標高45m程度の平坦な台地状の地形を呈していますが、高座丘陵と呼ばれる丘陵地内にあります。高座丘陵は北の綾瀬市吉岡、南西の茅ヶ崎市香川および南東の藤沢市大庭を頂点とする南北に長い三角形状(南北9km、東西0.5~5km)を呈する範囲に分布しています。丘陵頂部には小起伏の平坦面が広がり、周辺のより新しい台地(相模原台地)よりも最高標高は高く相対的には侵食が進んでいます。

高座丘陵は、海老名付近から横浜市南部まで海が入り込んでいた下末吉海進期(最終間氷期約13~14万年前)に三角州や波食台に堆積した砂礫層の堆積物で形成されており、形成時期としては下末吉台地と同じで、その後に降下した火山灰である関東ローム層に被われています。

関東大震災以前の集落は、笹久保谷(笹窪谷)に向かって下る道の途中、および笹久保谷左岸の路に沿う位置にあったと思われ、現在も墓地が点在しています。谷筋方向の路には、「右厚木道左一の宮道 遠藤村」とある道標があり、集落を縦断する路であったようです。

高台から笹久保谷に下る斜面は一部には侵食された小支谷が認められるものの全体的には緩斜面であり、緩斜面の切盛りにより平坦な宅地を造成して集落が形成されていたようです。関東大震災では集落に陥没や亀裂が縦横に走るような状況が生じたため、不安定な斜面より安定した平坦な現在の土地へ移転しました。


藤沢市史ブックレット5の「関東大震災とふじさわ」によると、

震災を機に枇杷島・山崎・諸ノ木・笹久保など窪まった土地から高台の原に屋敷を移す家が多く、特に笹久保部落は谷沿いの12戸がすべて倒壊し、震災後に全部落が堀切山から十番山*1への高台に移転した(『遠藤の昔の生活』)

とあります。

*1 堀切山から十番山:頂上がかなり平坦な丘陵地であり、特に山と呼べるような高まりではありません。十番山(輪番山)は宝泉寺が所有していた山林を指し、宝泉寺が能登の総持寺の寺役を順番に交替して務める輪番住職であったことからこの名前で呼ばれていたようです(遠藤まちづくり推進協議会の案内板より)。古くは水の豊富な低地が生活の主な場であり、低地に対して頂上付近は山として認識されていたのでしょう。




その他の参考資料

・大いなる神奈川の地盤 その生い立ちと街づくり 地盤工学会 関東支部神奈川県グループ 2010

・藤沢地域の地質 地域地質研究報告 5万分の1図幅 地質調査所