作成:2016/6
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 藤沢市 FS-08
写真1 江ノ電鉄龍口寺前交差点
龍口明神社の鳥居が左側に見える 正面は龍口寺
江ノ島電鉄は明治35年(1902年)に開業し、ほぼ当時の路線で営業している
写真2
龍口明神社の跡地 鳥居や社殿はそのまま残っている
鳥居や玉垣には大正15年の刻字がある
写真3 階段上が社殿で、階段の手前右側に「至誠通神」碑がある
写真4 「至誠通神」碑
写真5 遷座先の龍口明神社
鳥居の先の正面には、由緒や遷座について記された記念碑があり、関東大震災の社殿全壊や昭和8年の改築についても記されている
ただし、「至誠通神」碑の建立は昭和3年
写真6
広い境内にある遷座先の龍口明神社社殿
撮影:2016/5
時代順には、
古墳時代後期からあった五頭龍大神を祀る社が奈良時代に龍口明神社と名付けられる→奈良時代あるいは鎌倉時代に刑場が併設される→この刑場で日蓮上人が処刑されそうになる→日蓮上人法難の霊場として龍口寺が建立される
であり、龍口寺の刑場跡の説明板には次のように記されています。
當地は鎌倉幕府時代の刑場跡である。幕府の公式記録である『吾妻鏡』には腰越、龍の口に於いて斬首との記載が多く見られる。
奈良時代の僧・泰澄、一説には鎌倉時代の僧・文覚が龍口明神に法味を供養したところ、国に背く悪人が出来した時は首を斬り社頭に掛けよ、との神託を受けた。これによって龍の口が処刑場になったと旧記にある。
文永8年(1271)9月13日子丑の刻(午前2時)、日蓮大聖人は『立正安国論』の諫言により、幕府に捕えられ、この刑場・敷皮石(首の座)にすえられた。
処刑の瞬間、時あたかも江の島の方より満月の如き光りものが飛び来りて、執行人共は眼がくらみ、この奇瑞の為、ついに大聖人の首を斬ることが出来なかった。
かくして此処は日蓮大聖人龍口法難の霊場であり、世の安寧の為に身命を賭けられた寂光土と称される所以である。
霊跡本山 寂光山 龍口寺
説明板は縦書き 漢数字をアラビア数字に変換
龍口明神社のホームページ(資料1)によれば、御由緒と遷宮について次のように記されています。なお、「至誠通神」碑は遷宮前の龍口明神社に残されています。
御由緒
欽明十三年(五五二年)、村人達は山となった五頭龍大神を祀るために龍口山の龍の口に当たるところに社を建て、子死方明神や白髭明神と言いました。これが龍口明神社の発祥と伝えられています。
養老七年(七ニ三年)三月より九月まで江の島岩窟中にて、泰澄大師が神行修行中夢枕に現れた神々を彫刻し、弁財天は江島明神へ、玉依姫命(長さ五寸(約15cm))と五頭龍大神(同一尺(約30cm))の御木像を白鬚明神へ納めたといわれています(これが御神体です)。この時、龍口明神社と名付けられたと伝えられています。
…… 以下省略 ……
遷宮
鎌倉時代には龍口山にほど近いところが刑場として使用された時期もあり、村人たちは祟りを恐れていたといいます。
また、昭和二十二年(一九四七年)には、龍口山が片瀬村(現藤沢市片瀬)に編入されて以降、境内地のみ津村の飛び地として扱われ、大正十ニ年 (一九ニ三年)には、関東大震災により全壊、昭和八年 (一九三三年)に龍口の在のままで改築しました。
太平洋戦争後のめざましい復興により、交通事情も悪くなり、神輿渡御も難しく、氏子の里へ昭和五三年(一九七八年)に村人達の総意により江の島を遠望し、龍の胴にあたる現在の地へと移転しました。
なお移転後の現在も、旧境内は鎌倉市津1番地として飛び地のまま残っており、社殿・鳥居なども、移転前の姿で残されています。
龍口明神社は鎌倉市腰越に遷宮されましたが、その跡地に、関東大震災の復興を記した「至誠通神」碑が残されています。
この碑の背面の碑文によれば、
等が記されています。
また、寄進者芳名の最初に復旧補助金神奈川県とあり、復旧に公金も投入されていることが分かります。
送り仮名は変体仮名が用いられています。解読のために、「変体仮名を調べる」http://www.book-seishindo.jp/kana/index.html を参照させていただいた。
なお、この石碑の刻字はくっきりとしており、ほとんど劣化していません。劣化が少ない珍しい石碑の1つです。
参考資料
資料1 龍口明神社ホームページ 御由緒
資料2 上西勇(2011)関東大震災 災禍を語り継ぐ石碑(いしぶみ),147p