関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 伊勢原市 IS-01
写真1
旧国道246号(大山街道)相模川に架かる相模原大橋から大山を遠望する
写真2 大山の集落
写真3
大山ケーブルカー「追分駅」より約500m下った付近の状況
バスの終点「大山ケーブル前」付近から鈴川の下流方向を眺めています。
写真4 鈴川の河床状況
撮影2003/2
相模平野の西方に目をやると、山頂が明瞭でどっしりとした山容の山が目に入ります。この山が、大山です。大山は信仰の山であり、古くから大山詣りが行われていました。江戸と大山を結ぶ参詣の道が大山街道で旧国道246号線です。
大山街道今昔物語 大山街道・R246地域間ネットワーク交流会パンフレットより
大山の山頂には、五穀豊穣、商売繁盛の神様として、広く庶民の信仰を集めた阿夫利神社があります。阿夫利神社の創設は紀元前の頃と伝えられ、源頼朝や北条政子、足利尊氏、小田原北条氏にも信仰されていました。江戸時代には、江戸からさほど遠くないところにあるため人々にも大山詣りとして広く信仰されました。最盛期には、年間20万人の人が阿夫利神社へ参拝したといわれています。
大山の南東側の谷(鈴川)沿いには、阿夫利神社の門前町である大山の集落があります。山の名も集落の名も大山です。
関東大地震では大山の山腹に多数の亀裂や崩壊が生じたため、渓流に多量の土砂が堆積していました。その後の豪雨により堆積していた土砂は土石流となってこの渓流(鈴川)を駆け下り、人家140戸を押し流しました。(井上公夫 関東大地震と土砂災害 1995)
資料 伊勢原町勢誌(伊勢原町役場 1963)より
九月一日の大地震で大山山腹の山肌には各所に無数の地割れができて、一度大雨が来れば、山崩れで大山町は一度に流失されそうな状況にあった。駐在巡査佐藤幾之助氏は町民に避難用意を警告するとともに、自らも万全の警戒をしていた。果たせるかな、九月十五日に大雨来襲、地割れ口は大水を飲み、同日夜に入ると各所に山崩れができ始め、大木、岩石が谷間に積まれて堰をなすようになった。同氏は深夜、単身、一本道を山に向かって偵察に行った。途中老幼婦女に避難を命じながら人家のある終点について見ると、今にも大きな山津波がきそうな状況であった。同氏はすぐに引き返し、避難の命令を大声で叫びながら、最後の避難者とともに下山してくるうち、九月十六日午前〇時二分、一種異様なそして凄惨な山鳴りとともに、山津波来襲、見る間に大山町の大半が流失してしまった。前表*のごとく戸数七〇、棟数七五は一瞬にして姿を消し町の大部分は川原のようになったにもかゝわらず惨死者一名をだしただけにとどまった。
同氏の責任感と勇敢にして機敏な行動は住民の深く感謝するところであり、かつ内務大臣より警察功労記章と特別賞金百五〇円をもって表彰されている。
* この資料にある表とは、旧伊勢原警察分署が震災の損害を各町村ごとにまとめたものであり、土石流によるものも流失として含まれています。
写真4は、大山ケーブルカー「追分駅」より約1.5km下った付近で上流方向に向かって渓流(鈴川)を見ています。この付近では、向かって左側に新しい参道(バス通り)が、右側に旧参道が通っており、両参道沿いには旅館、御土産屋、民家などが断続的に連なっています。この周辺の河床は、写真4のように、コンクリートや石垣で河床や川岸を固めるとともに河床勾配を緩やかにするために階段状の段差が設けられています。これらの砂防工事(流路工)は河道の侵食を防ぎ、流路を安定させようとするものです。
参考 大山山頂への交通など
小田急伊勢原駅から大山ケーブル駅行きバスで終点(大山ケーブル前)まで行きます。所要時間は約25分です。更に、お土産屋さんの並んだ階段のある参道を15分歩くとケーブルカー「追分駅」へ到着します。ケーブルカーの終点「下社」より徒歩8分のところに阿夫利神社の下社があり、下社から徒歩1時間30分で阿夫利神社のある標高1,252mの頂上に至ります。また、山頂を西の方向に回り込むと、運が良ければ丹沢の峰々を前景とした富士山が見えます。