関東大震災の跡と痕を訪ねて

番号 : 小田原市 OD-01

小田原市根府川 --- 山津波と殃死者供養塔 ---

  • 対象:岩泉寺の殃死者供養塔および山津波発生地と流れ下った白糸川
  • 所在地:小田原市根府川187
  • 碑銘:殃死者供養塔
  • 形態:板状
  • 建立年月日:大正14年8月12日
  • 交通:JR東海道線「根府川」徒歩6分(行程400m弱)
JR東海道本線白糸川橋梁

写真1

JR東海道本線白糸川橋梁を真鶴道路の下の河床から上流方向を望む

白糸川橋梁は山津波によって破壊された 現在の橋は大正13年に造られた鋼ワーレントラス橋で橋長は199m かながわの橋100選に入っている

白糸川の川筋

写真2

山津波が流れ下った白糸川の川筋 上流方向を望む

山津波の源流地点の大洞

写真3

山津波の源流地点の大洞(おおぼら) 安山岩の崖が白く見る

山津波の源流地点付近

写真4

山津波の源流地付近より山津波の流下方向を望む

根府川の山津波と地すべり(自然災害履歴図)

図1

根府川の山津波と地すべり(自然災害履歴図)抜粋・編集

山津波の襲来状況

山津波の大惨状として第一に特筆すべきは片浦村(編集者注:現在の神奈川県小田原市の一部)根府川部落の埋没である。根府川駅の南、白糸川沿岸の日比野伝次郎方外六十三戸は、激震により全壊または半壊し住民は右往左往に逃げ惑う中、震後五分間、同部落の西一里半、箱根連峰の一つである聖岳の一部で、根府川山字日陰と称する山の一角が大崩壊を為し、白糸川の渓流を伝って大山津波となり、天日を覆うの土煙を捲起し、地軸を砕き山岳を裂くの大鳴動と共に根府川部落に来襲し、白糸川およびその沿岸の民家全部と、逃げ惑っていた住民の殆んど全部とを地下百尺に埋没し、同時に白糸川の根府川大鉄橋を、北岸の一部を残して海中に弾き飛ばしたが、この時白糸川河口の河中で遊泳中だった児童約二十名は、激震に驚き急いで帰宅する途中この山津波に合い、二三名の外他は全部行方不明になった。以上根府川部落の被害は、白糸川戸数百二十三戸、人口八百五十八のうち、埋没戸数六十四戸、死者四百六名を出し、このうち一家全滅十五戸にあがった・・・

(神奈川県下の大震災と警察より)

写真1はJR白糸川橋梁を真鶴道路(国道135号)の下の白糸川河床から上流方向を眺めています。写真2は中流部で、この白糸川の川筋の谷を山津波が駆け下りました。

山津波の源流地点(大洞(おおぼら)

源流地点は上記の資料(西坂勝人 1926)では「聖岳の一部で、根府川山字日陰と称する山の一角」となっていますが、いくつかの説があるようです。その後の研究によれば、地形、土の粒度分布の資料はともに大洞源流説に有利であり、小田原市史料(1966)の指す大洞の可能性が大きいとされています(小林芳正  1923年関東大地震による根府川山津波 1979)。

写真3は山津波の源流地点の大洞です。安山岩の崖が白く見えていますが、崩壊個所はこの周辺と思われます。

写真4は山津波の源流地近傍より白糸川方向下流を眺めています。この斜面の一部を巻き込んだ崩壊は、山津波となって手前の沢を下り、白糸川の沢に流れ込んで、写真左(下流)方向に駆け下ったと思われます。

図1は、「土地分類基本調査 小田原・熱海・御殿場 神奈川県 1985」の自然災害履歴図を抜粋・編集した図であり、根府川の山津波の他に根府川駅背後の地すべりなどが記載されています。




殃死者供養塔のある岩泉寺

写真5 殃死者供養塔のある岩泉寺

殃死者供養塔

写真6 殃死者供養塔

殃死者供養塔

写真7

殃死者供養塔 向かって石碑右下の文字

岩泉寺の供養塔

岩泉寺は白糸川の左岸斜面の中腹にあり、JR白糸川橋梁をやや斜め下にみる位置にあります。供養塔は中段の写真手前(石段を登り始め)左手にあります。

大震災殃死者供養塔には、横書きで「大震災」、縦書きで「殃死者供養塔」と大きく刻まれています。石碑正面に向かって右下に石碑建立の由来などが記されています。文字が小さくて見逃しがちですが、雨で石碑が濡れると、写真6のようにはっきりと確認できるようになります。

殃死者供養塔



釈迦堂と桜と雨

写真7 釈迦堂と桜と雨

釈迦尊像

写真8 釈迦尊像

撮影:2002/12及び2003/4

釈迦堂と釈迦如来像

山津波が駆け下った白糸川の右岸に釈迦堂があります。釈迦堂は半地下式で、地下の岩盤に浮き彫りの釈迦如来像が刻まれています。

この釈迦如来像のいわれや関東大震災との関連は、釈迦堂内の案内板に詳しく記されています。

白糸川の釈迦如来     (内田一正記)

  • 根府川の旧家広井家の古文書によると広井家二十二世広井長十郎重友の代に頻発地震多く特に寛永九年一月二十一日と正保四年九月十四日と慶安元年四月二十二日の地震は、死者、民家の倒壊多く津波も来襲する等で世相は不安に満ちて居り、長十郎重友は村内世相の安泰のため岩泉寺境内の岩盤に釈迦尊像を像立して世相の安泰を祈ったとあります。
  • お姿の右側に『寛文九申丙歳七月十二日、元喜道祐庵主』と刻まれて居ます。これは像立した長十郎重友の命日と戒名ですから、後日刻んで像立者の冥福を祈願したものと思われます。
  • その左に『普明暦二配歳仲秋月』と其の左に『広井宗左衛門敬』と刻まれて居ります。
  • 宗左衛門は長十郎重友後改め宗左衛門と、広井家の系図にありますので、二十二世広井長十郎重友、改め宗左衛門が、台座に刻まれて居る『大工権助策』『石匠寅佐代』によって明暦二年(一、六五六年)に像立したものと思われます。
  • 後に万治二年(一、六五九年)の大洪水で岩泉寺は現在の高台に引移ったがお釈迦様は岩盤に刻まれて居りますので引移す事ができないので現在の場所に残りました。
  • 大正十二年九月一日(一、九二三年)関東大地震が起こりまして関東一円は有史以来の大惨事となりました。お釈迦さまは上の鉄橋が落ち其の上に山津波の土砂で埋没してしまいました。
  • お釈迦さまは目の高さより上に拝むように刻まれて居たのですが、土砂に埋まったので現在の洞の中のお釈迦さまとなったのです。
  • お釈迦さまは長い歴史の移り変わりの中で言い伝えによれば、弘法大師の作とも言われ此の地方の信仰のより所としてまいりました。
  • 特にお釈迦さまを掘った人々が落ちた鉄橋と土砂の中から指一本損じないお姿を見て、如来の、あらたかさを驚嘆したとのことで、如来信者も多く、村内始め県西地方の人々の信仰厚く四月八日のお釈迦さまの誕生日には善男善女の参詣者多くにぎあいます。

その他の参考資料

神奈川県ホームページ かながわの橋100選>白糸川橋梁(小田原市)