関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 東京 T-20
写真1
柳橋を中央区(南)側より台東区側(北)を望む
写真2
柳橋より神田川の上流方向を望む
写真3
柳橋より神田川の下流方向(隅田川との合流箇所)を望む
写真ほぼ中央の隅田川に架かる橋が両国橋で、これをまたぐ対岸の白いラインは高速6号向島線
写真4
復興記念碑(左)と柳橋の説明板など
写真5 復興記念碑
写真6 柳橋の説明モニュメント
説明内容は右の本文 柳橋の説明モニュメントを参照
撮影:2015/3
写真6は中央区教育委員会による柳橋の説明板です。この説明板の左側には復興記念碑があり、右側には石に金属板をはめ込んだ柳橋の説明モニュメントがあります。また、柳橋を渡った台東区側にも台東区教育委員会による柳橋の説明板があります。
写真7 中央区教育委員会による柳橋の説明板
柳橋
柳橋の下を流れる神田川は、三鷹市井之頭池を水源とし、都心部を流れて隅田川に注ぐ全長約25kmの都市河川です。
この位置に初めて橋が架かったのは、元禄十一年(1698)のことで、「川口出口之橋」あるいは近くに幕府の矢の倉があったことから「矢の倉橋」と呼ばれていました。
「柳橋」と由来については、
- (1) 矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になり、さらに柳橋となる。
- (2) 柳原堤の末にあったことに由来する。
- (3) 橋の袂に柳の木があったことに由来する。
このように諸説ありますが、真説は不明です。明治維新後、柳橋は新橋とともに花街として東京を代表するような場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まる所であったようです。
区では平成3年度に、優美な形をしたこの橋を後世に傳えるため、傷んだ親柱を復元し、欄干は花街に因んで「かんざし」を飾り、歩道には御影石を張って再生しました。また、夕暮れより照明の演出をして、神田川河口に架かる「柳橋」の存在感を持たせました。
柳橋の諸元
形 式 タイド・アーチ橋
橋 長 37.9m
遊行幅員 11.0m(車道6.0m 歩道2.5m×2)
建設年次 昭和4年12月(復興局施工)
春の夜や女見返る柳橋 子規
贅沢な人の涼みや柳橋 子規