作成:2009/10
関東大震災の跡と痕を訪ねて
番号 : 東京 T-32
写真1 円明院 山門
写真2 大震災横死者吊魂碑
案内板より
練馬区登録有形文化財
関東大震災犠牲者慰霊碑
大正十二年(1923)に関東大震災が起こり、練馬駅北口付近にあった上毛モスリン株式会社練馬工場のレンガの建物は壊れました。この時に殉職した女性八名、男性一名の従業員の菩提を弔うために、上毛モスリン株式会社練馬工場従業員一同によって、大正十三年に建立されました。
正面に「大震災横死者吊魂(ちょうこん)碑」、背面に震災による工場倒壊の事実と犠牲者の氏名が刻まれ、関東大震災の被災状況を伝えています。
平成十九年(2007)三月
練馬区教育委員会
モスリンとは、薄地の毛織物で、綿製のものは綿モスリンという(広辞苑)とあり、上毛モスリン株式会社練馬工場は紡績や織物の工場でした。
フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)の「鐘淵紡績練馬工場」の項によれば、上毛モスリンの工場跡地は次のような経緯を経て現在は練馬文化センターやロータリーとして利用されています。
・1919年(大正8年)10月10日-練馬駅北口で、大日本紡績練馬工場が操業開始。
・1922年(大正11年)-上毛モスリン練馬工場に名称変更。
・1923年(大正12年)9月1日に関東大震災により被災。翌年、工場従業員一同によりこの吊魂碑が建立される。
その後、上毛モスリン⇒東洋モスリン練馬工場(買収)⇒東洋紡績工業練馬工場(商号変更)⇒鐘淵紡績練馬工場(名称変更)⇒鐘淵工業練馬工場(合併)⇒鐘淵紡績練馬工場(商号変更)と変遷して1970年(昭和45年)に工場の閉鎖に至りました。
1977年に工場跡地を練馬区が買収して現在に至っています。
工場や宿舎の倒壊あるいは焼失による死者数としては、横浜市保土ヶ谷区の富士瓦斯紡績454名、神奈川県川崎市の富士瓦斯紡績154名、神奈川県平塚市の相模紡績144名などがあります。
当時の紡績や織物は基幹産業であり、多くの死者を出した工場は数千人が働くような大工場でした。これらの工場はレンガ造または鉄筋コンクリート造の耐火建築であり、特に、紡績工場は発火しやすい綿屑が飛散する環境であったためにレンガ造が一般的でした。火災による死亡者がでたのは富士瓦斯紡績小山工場だけで、その他は建物の崩壊が主たる原因でした。